安倍首相 皇太子 両陛下

天皇在位30年式典の裏で安倍首相が皇太子取り込みを画策! 力ずくの圧力でも天皇・皇后を封じ込められず…
2019.02.24 03:03
政府主催の明仁天皇の在位30年式典がきょう、東京の国立劇場で開かれている。
だが、その一方で、安倍首相が奇妙な行動に出た。
22日の午後、元赤坂の東宮御所を訪れ、約30分間、皇太子と面会したのだ。
総理大臣が天皇に国内外の情勢を報告することは「内奏」と呼ばれ、年に数回ほど行われているが、
現役の首相が皇太子と一対一で面会をするのは異例のことで、
政府は内容を明らかにしておらず、菅義偉官房長官も定例記者会見でノーコメントを貫いた。

マスコミ各社は〈5月1日に新天皇に即位されることを踏まえた対応とみられる〉(毎日新聞)、
〈皇位継承の流れを報告したとみられる〉(産経)などと伝えているが、
実際、安倍首相の面会の目的が「代替わり」に関する説明だけだったはずがない。
そこで話された内容は不明だが、少なくとも安倍首相にとっては、
直々に皇太子と会って話すという行為自体に価値があったのだろう。宮内庁担当記者がこう解説する。

「周辺では元号関連の調整をしたのではないかとも見られているが、それだけなら側近間で終わるはず。
わざわざ、皇太子と面会したのは、直接会うことで“取り込み”を図ったのではないでしょうか。
周知の通り、安倍政権と今の天皇皇后両陛下の関係は良くない。
安倍首相から見れば、皇太子の新天皇即位は皇室との関係を修復するまたとないタイミングですから」

本サイトでも何度も指摘しているように、天皇と安倍首相の関係は非常に悪い。
明仁天皇と美智子皇后は、安倍首相が推し進める改憲や歴史修正主義、
“沖縄いじめ”に対して不快感を抱き、釘を刺しているとしか思えないメッセージを発してきた。
一方、安倍政権は天皇の口をふさごうと、陰に陽にプレッシャーを与えてきた。

対立のはじまりは、2013年4月28日に政府主催で初めて「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」だった。
安倍首相は天皇と皇后を出席させたが、このときも天皇・皇后は事前段階から
周辺に拒絶感を吐露していたといわれている。
実際、2016年12月24日付の毎日新聞朝刊記事によれば、
〈陛下は、式典への出席を求める政府側の事前説明に対し、
「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と指摘されていた〉という。

そして2013年末、明仁天皇が誕生日に際した会見のなかで踏み込んだ“護憲発言”を行うと、
翌2014年の「正論」(産経新聞社)5月号に
「憲法巡る両陛下のご発言公表への違和感」と題した文書が掲載された。
執筆したのは、安倍首相のブレーンのひとりと言われる八木秀次・麗澤大学教授。
〈両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への
懸念の表明のように国民に受け止められかねない〉〈宮内庁のマネジメントはどうなっているのか〉と
明仁天皇の“護憲発言”を批判するもので、すなわち「改憲の邪魔をするな」という
安倍側からの圧力に他ならなかった。

また、「生前退位」に関しても、明仁天皇は少なくとも2015年の秋には
宮内庁を通じて官邸に伝えていたとされる。主な窓口は当時の風岡典之宮内庁長官と杉田和博官房副長官。
だが、官邸は難色を示した。翌年に控えていた参院選と改憲スケジュールへの影響、
そして天皇の地位や権威が揺らぐのではないかとの懸念から、「生前退位」問題を棚上げにしてきたのだ。

その結果、天皇側が出さざるをえなかったのが、2016年7月のNHKによる「生前退位の意向」のスクープと、
その後の明仁天皇による「おことば」だったわけだが、これに官邸は激怒し風岡長官を事実上更迭。
次長の山本信一郎氏を長官に繰り上げ、後任次長には
警察官僚出身で内閣危機管理監だった西村泰彦氏を充てるという“報復人事”を行なっている。

皇太子は秋篠宮が問題提起した「大嘗祭への国費拠出批判」にコメント拒否
その後も、「生前退位」をめぐる有識者会議では、
安倍首相が送り込んだ日本会議系のメンバーが明仁天皇を公然と批判するなど、
政権と天皇・皇后との溝はどんどん深まっていった。
事実、昨年10月23日に行われた「明治150年」を記念する式典に、天皇・皇后の姿はなかった。
この明治日本=大日本帝国を礼賛する政府主催式典は安倍首相の肝いり。
前述の西村泰彦次長は「政府からお声がけがなかった」としているが、
実際には、欠席には天皇と皇后の強い意向が背景にあったという見方が強い。

「安倍首相も当初は、陛下の周辺に様々なルートを使って働きかけてたいたようですが、
最近は懐柔するのを完全に諦め、自由な発言を封じるような動きばかりしていた。
毎日新聞のベテラン記者に月刊誌で暴露されていましたが、
オフレコの席で天皇を批判するような言動をしていたという話もありました」(前出・宮内庁担当記者)

そんな安倍首相がある時期から期待をかけ、しきりにアプローチしていたのが、皇太子だったという。
今度はベテラン皇室ジャーナリストがこう分析する。

「皇太子殿下は波風を立てるのが嫌いな性格ですし、雅子妃は小和田恆元外務省事務次官の娘で、
本人もエリート外交官で、政治的には安倍首相の考えに近い可能性がある。
しかも、皇太子夫妻は天皇皇后両陛下と距離をとっていますから、
安倍首相としては、皇太子夫妻なら取り入れると考えても不思議はない。
2016年に外務省出身の小野田展丈氏を東宮大夫にしたのもその一環といわれていますし、
ほかにも、別の外務省ルートを使って雅子妃にアプローチをしているという話もあります」

もしかしたら、安倍首相のそうした目論見はすでに成功しつつあるのかもしれない。
今月21日には、23日の皇太子の誕生日に際した記者会見が東宮御所で行われたが、
そこで記者から「大嘗祭のあり方」について質問を受けた皇太子は、
「今回政府が決定をした内容について、私がこの場で何か述べることは控えたいと思います」
とコメントを避けた。昨年、秋篠宮が「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか
「身の丈にあった儀式にすればよいと思う」と踏み込んだ発言を行ったのとは対照的だ。
皇室ジャーナリストがさらに続ける。
「秋篠宮殿下の発言は天皇陛下の意向を代弁したものでした。
皇太子殿下が立場上、明言できないのはわかりますが、婉曲的な表現さえなかったというのは、
安倍政権のアプローチが効いているのかもしれません。
いずれにしても、官邸は今後も、皇太子殿下への働きかけを強めていくでしょう。
とくに雅子妃に狙いを定めてくる可能性が高い。
もともと、雅子妃は結婚の際『皇室外交をしていただく』と説得されたといわれます。
これから官邸が、そうした雅子妃の自己実現を材料にして、皇太子殿下をコントロールしようとするかもしれない。
一方で、秋篠宮殿下は陛下の意志を継承しようとする。
安倍政権がご兄弟の対立をつくりだす構図になるかもしれません」(前出・ベテラン皇室ジャーナリスト)
いずれにしても、安倍首相は、平和主義や護憲の立場を示す明仁天皇の在位が終わり、
新たな天皇を即位させるときに一気に動いてくるだろう。引き続き注視する必要がある。
(編集部)
最終更新:2019.02.24 03:11
https://lite-ra.com/2019/02/post-4566.html

「平成」経緯の記録、公開は2044年 内閣府、手続きなく延期

「平成」経緯の記録、公開は2044年 内閣府、手続きなく延期
毎日新聞2019年1月21日 06時00分(最終更新 1月21日 08時09分)

1989年1月に元号を「平成」に改めた経緯の記録を、政府から国立公文書館へ移管する時期が、
公文書管理法で定める「1~30年」を大幅に上回り、
約55年後の2044年3月末となっていることが毎日新聞の情報公開請求で明らかになった。
同法は「作成、取得」から1~30年後の移管か、理由と期間を首相に報告して延長手続きを取ることを求める。
だが文書を保存する内閣府総務課は「元号事務が13年に当課に移った際、
移管資料を新たに取得した」とし、14年4月1日が起算日だと説明した。【野口武則】

公文書館に移管された文書は原則公開される。移管前は開示請求などを受け、政府機関が個別に判断する。
毎日新聞は、「平成」の選定過程に関する文書を開示請求。内閣府は官房長名の文書で「不開示」と回答した。
理由として「将来の元号考案者に不必要な予断を与え、元号選定事務の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ」や、
「個人を識別でき、考案者がどのような案を考案したかなどが詮索され」ることなどをあげた。
文書には「平成」の考案者が記されているとみられるが、
この見解が変わらない限り、公開は公文書館への移管後の44年以降となる。

こうした運用に関し、内閣府公文書管理委員会の委員長代理を務めたこともある三宅弘弁護士は
「明らかに脱法的だ」と指摘。「『作成』は行政官が自分の権限で作ったもの。
『取得』は第三者から新たに得たものを指す。
政府内でたらい回しすれば公文書館への移管が遅れ、法の趣旨に反する」と述べた。

総務課の担当者は毎日新聞の取材に「元号事務が内閣官房副長官補室(89年当時は内閣官房内政審議室)から
内閣府総務課に移り、文書を新たに取得した」と説明した。
一方、内閣府公文書管理課は取材に文書で回答。総務課の手続きは「承知していない」としつつ、
「行政機関内の所管課変更をもって保存期間を設定し直すことは、原則、想定されない」とした。

公文書管理法は09年6月に成立し11年4月施行。「歴史的資料」として重要な公文書を公文書館に移管する。
役所側が公開制限を求める意見も付けられるが、その是非は公文書館長が判断する。
89年1月作成の文書は、本来は19年に移管対象となる。

「大正」「昭和」への改元の経緯は、公文書館が詳細な記録を保管し、
91年度から01年度までに順次公開されている。

NPO法人「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子理事長の話 
「公文書の管理に関するガイドライン」では、組織改編に伴う文書の移管は「取得」ではなく、
「引き継ぎ」に該当するとしている。当初の所管課の保存期間で引き継がなければおかしい。
こういう処置を容認すれば、保存期間が必要以上に延びてしまう。

公文書管理法のポイント
・文書を作成、取得した時は「保存期間」を設定。重要な文書は「1~30年間」
・保存期間満了時、歴史資料として重要な文書は国立公文書館に移管。廃棄の場合は首相の同意を得る
・職務で必要なら保存期間を延長。首相に期間と理由を報告
・公文書館に移管後の文書は、個人情報や国の安全に関する情報などを除き原則として公開
(施行令、ガイドラインの内容も含む)
https://mainichi.jp/articles/20190121/k00/00m/010/009000c


「平成」への改元文書 保存起算日を遅らせいまだ非公開
2019年1月21日 20時17分
平成の代替わりの際の手続きなどを記した行政文書について、
内閣府が、文書保存の起算日を元号が改められた当時ではなく、
内閣官房から内閣府に所管が移ったあとの2014年としていることが分かり、
菅官房長官は経緯を確認するよう事務方に指示しました。
元号を「昭和」から「平成」に改めた際の手続きなどを記した行政文書について、
元号を所管する内閣府総務課が、文書を保存する起算日を元号が改められた当時ではなく、
2014年として保存していることが分かりました。
行政文書は保存期間が原則として「1年から30年」と定められていて、
元号が改められた当時を起算日としていれば、
この文書はことしから国立公文書館に移管して、公開される可能性がありました。
担当者は、起算日を2014年とした理由について「元号に関する行政事務の所管が内閣官房から内閣府に移り、
分散していた文書をファイルとしてまとめた時点を起算日としたもので、問題はない」と説明しています。
これについて菅官房長官は記者会見で
「個別の文書や行政ファイルを作成した時点の状況をよく確認するように事務方に指示した」と述べ、
起算日を2014年とした経緯などを確認するよう指示したことを明らかにしました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190121/k10011785771000.html

「外国に誇れる文化の最たるものが皇室です」と書いたプリントを校長が無断回収・廃棄

生徒に配布のプリント、校長ら無断で回収・廃棄 千葉の特別支援学校
2019.2.8 09:36
千葉県立湖北特別支援学校(同県我孫子市)で、校長や教頭らが生徒の下校後、
授業で配布したプリントを無断で生徒の個人用ファイルから抜き取り、
廃棄していたことが同校関係者への取材で8日、分かった。
プリントは道徳の授業を担当した教員が皇室について考えてもらうために作成し昨年1月に配布したものだったが、
学校側は「『外国に誇れる文化の最たるものが皇室』と記述するなど
教員の主観が強く出ており、問題」などとして同年3月に回収していた。
廃棄された事実は生徒や保護者には知らされず、プリントを配布した教員はその後、道徳の担当を外された。
関係者によると、無断で廃棄されたのは昨年1月の高等部流通サービス科の授業で配布された
「皇室について知ろう」と題したプリント。
担当教員は「国を愛する心」というテーマ設定で年間の授業計画案を提出し、
稟議で校長らの了承を得た上で授業を行っていた。
だが、授業後の同年3月に当時の教頭が「教員の主観が強く入っている」とプリントの内容を問題視。
校長を含む管理職の教員で話し合い、配布済みのプリントを回収することを決めた。
話し合いの直後に、生徒の下校後、校長らが教室にある生徒の個人用ファイルからプリントを回収して処分したという。
ファイルは生徒の学習状況などを確認できるよう、常に教室に置いておく決まりになっていた。
生徒の1人は産経新聞の取材に「確かにいつの間にかプリントがなくなっていたが、
先生から説明などもなく何でだろうと思っていた」と話している。
同校の西村昭男校長は取材に対し、回収の事実を認めた上で、
「プリントには『外国に誇れる文化の最たるものが皇室です』といった記述があり、
教員の主観が強く出ていて問題だと思った。回収は管理職で話し合って決めたことであり、
(後で)生徒や保護者から説明を求められれば対応するつもりだった」と語った。
https://www.sankei.com/life/news/190208/lif1902080016-n1.html

退位日決めた議事録、宮内庁「不存在」 異論隠す狙いか

退位日決めた議事録、宮内庁「不存在」 異論隠す狙いか
二階堂友紀
2018年12月12日19時13分
天皇陛下の退位日を決めるために開いた昨年12月の皇室会議について、
朝日新聞が議事録を情報公開請求したところ、
宮内庁は「不存在」と回答し、公表済みの議事概要を開示した。
同時に請求した1989年と93年の皇室会議の議事録は存在し、同庁は詳細に開示した。
憲政史上初の退位をめぐる意思決定の重要過程が検証できない恐れがあり、公文書のあり方が問われる。

昨年12月1日の皇室会議には三権の長や皇族らが出席。
議長の安倍晋三首相が、退位日にあたる退位特例法の施行日について
「2019年4月30日」を求める意見案を示し、その通り決定した、と議事概要(A4判5枚)に記している。
当時の記者会見で菅義偉官房長官は「国民がこぞってお祝いすべき日に関するもので、
どなたがどのような発言をされたかを明らかにすることは必ずしも好ましくない」とした。
朝日新聞の取材では、立憲民主党出身の赤松広隆・衆院副議長が会議で
「18年12月31日退位」を求めたことが判明しているが、議事概要には記載がない。
議事録を「不存在」としたのは、異論が出たことを表面化させない狙いからだとみられる。
一方、秋篠宮ご夫妻の結婚が議題となった89年9月、
皇太子ご夫妻の結婚が議題だった93年1月の皇室会議は議事録が存在し、いずれもA3判8枚が開示された。
93年の会議では、当時の藤森昭一・宮内庁長官の説明として、
雅子さまの実家である小和田家が交際の打診をいったん辞退したとの記述のほか、
チッソ社長を務めた雅子さまの祖父が水俣病の発生に関与していなかったか慎重に検討した経緯が残っていた。
平成の30年で開かれた3回の皇室会議で、議事録を「不存在」としたのは昨年12月分だけ。
公文書管理法は、行政の意思決定過程が検証できるよう文書の作成を求めており、同法の趣旨に反する可能性がある。
同庁は会議を録音した音声データは、3回のいずれも「不存在」としている。(二階堂友紀)
https://www.asahi.com/articles/ASLDD3TF9LDDUTFK00B.html

仁徳天皇陵で初の内部公開

【萌える日本史講座】仁徳天皇陵で初の内部公開 地面はふかふかだった
2018.12.17 16:00
国内最大の前方後円墳、堺市堺区の仁徳天皇陵=大山(だいせん)古墳、
墳丘長486メートル=で、宮内庁と堺市による共同発掘が行われた。
同庁が外部機関と調査するのは初めてで、墳丘を囲む堤(つつみ)から円筒埴輪(はにわ)や石敷きが出土。
埴輪の型式から築造時期が5世紀前半~中頃の可能性が高まった。
発掘現場が報道関係者に公開されたのも初めてだった。立ち入りは墳丘本体ではなく堤の一部とはいえ、
これまでベールに包まれた天皇陵の内部をうかがい知ることができた。(小畑三秋)

■まるで森の中
「土はふかふかしている」
堤に足を踏み入れたときの第一印象だ。報道関係者への現地公開が行われたのは11月22日。
約50人が、前方部側の鳥居が設けられた「拝所」の脇を歩いて、発掘現場へ向かった。
堤は幅が30メートルほどだが、マツやカシ、クスなどが生い茂り、森の中に入ったようだった。
堤には、宮内庁職員が古墳内を見回るための幅2メートルほどの巡回路が延びていた。
この部分は下草もなく歩きやすいが、巡回路から外れた部分は枯れ葉などによる腐植土が堆積。
ふかふかした感触は、このためだった。
発掘は、墳丘を囲む2重の堤のうち内側の「第1堤」に3カ所の調査区
(幅2メートル、長さ30メートル)を設けて10月下旬から実施された。
「腐植土の下にはヘドロのような浚渫(しゅんせつ)土があり、
そのすぐ下から築造当初の石敷きが検出されました」
調査をした宮内庁の徳田誠志(まさし)陵墓調査官が説明した。
江戸時代、周濠(しゅうごう)の水は農業用水として使われ、
当時の人たちが浚渫のため周濠の水を抜いて掘り出したヘドロを堤に積み上げたものという。
浚渫土からは、江戸時代ごろの陶磁器や瓦などの破片が見つかった。
腐植土は、明治以降に100年以上かけて堆積したものだった。

■枝の隙間から後円部
地表から20~40センチ掘り下げると、約1600年前の古墳築造時の石敷きがほぼ当時の状態で残っていた。
後世に掘り返された跡もなかったという。
「古墳築造後の長い歴史のなかで、後世の人が触った感じはなかった」と徳田さん。
地元では「仁徳さん」として親しまれ、敬われてきただけに、建物を建てたり畑を耕したりすることもなく、
大切に維持されてきたことが発掘調査でも浮かび上がった。
堤は全体に木々が生い茂っていたが、前方部側の拝所一帯だけは木もなく、墳丘がよく見渡せた。
幅約300メートルの前方部が東西方向に一直線に延び、水をたたえた周濠に浮かぶ姿は、
「巨艦」を思わせる人工的な構造物そのものだった。
墳丘をはっきり見ることができたのは、拝所付近からの前方部だけ。
後円部を見ようと堤を少し移動すると、木の枝や葉に遮られ、
わずかな隙間から後円部の湾曲した姿が分かる程度だった。

■埴輪生産へ大量動員
発掘調査では、円筒埴輪の基底部が接するように据えられた状態で残っていた。
直径は35センチ程度で、上部は割れて失われていたが、本来は高さ1メートル近くあったともみられる。
堤の長さは約2・5キロあり、7千本以上が並んでいた計算になる。
円筒埴輪の一部には、基底部を意図的に割ったものもあった。
築造時、埴輪を立て並べる際に高さをそろえるため、地下に埋める部分を打ち割って調整したという。
調査担当者は「築造時に古墳に運び込んでみると、円筒埴輪の高さがまちまちだった。
そこで、円筒埴輪の列がきれいに見えるように現地で調整したんでしょう」と話す。
また、表面が白っぽい円筒埴輪の隣に茶色い埴輪も立てられていた。
埴輪の表面の色は焼く温度によって変わるため、複数の工房で作られたことが分かった。
巨大古墳築造のため、急ピッチで作業が進められた様子が埴輪からうかがえた。

■古墳の崩壊どう防ぐ
空中写真では優美で堂々とした姿を見せる仁徳天皇陵だが、大正時代の測量図の等高線を見ると、
墳丘全体が大きく崩れていることが分かる。宮内庁の平成7~10年に行われた墳丘の測量調査でも、
至るところが大きく崩れていることが判明。
墳丘縁辺部も、周濠の水によって浸食が進んでいることが明らかになった。
今回の発掘は、墳丘や堤の崩壊を食い止めるため、保全措置を検討する基礎データを得るのが目的だった。
そのなかで、地表からわずか20センチ下に築造当初の遺構があることを確認したことに、
大きな意義があったという。
徳田さんは「保全工事をする際に作業用車両が入る場合、
その重みで遺構が壊れないよう地面に土嚢(どのう)を置いてその上に鉄板を敷くなど、
さまざまな保護措置が必要になる」と指摘。今後も堤全体の状況を把握するために数年かけて調査を行う予定だ。
全国的に注目を集めた発掘調査だったが、一般を対象にした現地説明会は行われなかった。
「皇室の祖先をおまつりする陵墓であり、尊厳と静謐(せいひつ)を保つため」(宮内庁)というのが理由だ。
仁徳天皇陵では毎年、仁徳天皇の命日に当たる2月8日に
「正辰祭(しょうしんさい)」が行われており、今も祈りの場であり続ける。
「仁徳陵をきちんとお守りするのが私たちの役目」と徳田さん。
末永く古墳の姿を保つためにも詳細な調査と有効な保全策が望まれる。
https://www.sankei.com/premium/news/181217/prm1812170002-n1.html