西尾幹二氏 ブログ・雑誌等

西尾幹二氏のブログより
http://www.nishiokanji.jp/blog/?m=20100423
THEMIS 2月号の次の記事をご紹介しておきます。
雅子妃が父の小和田恒氏を尊敬し、完全にその精神的影響下にあるという関係者の言葉を紹介したあとで、
≪そんな状況におかれた皇太子ご夫妻と小和田家の内情に目をつけたのが、
中国共産党を中心とする対日工作部隊である。
前述したように中国政府は、「日中国交正常化40周年‘12年」に向けて
皇太子ご夫妻の訪中を水面下で働きかけているのだ。
亡くなった中川昭一氏が生前、こんなことをいっていた。
モスクワ時代、小和田家のアパートにはレーニンの写真が飾られていたという。
中国政府がこの情報をどう使うか考えると怖い・・・」
裏情報にも長けていた中川氏の予測が、杞憂に終わればいいのだが。≫

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週刊新潮2012年2月23日号
「雅子妃」をスポイルした「小和田恒」国際司法裁判所判事
雅子妃が療養を始められてすでに8年が過ぎた。なぜ、このような事態が続いているのか。
その謎を解く1つのカギは、父親の小和田恒氏(79)にあるという。
評論家の西尾幹二氏(76)は、小和田氏を「皇室とは余りにそりが合わない人格」と分析するのだ。(中略)
小和田氏が、日本は過去の自分の行動のゆえに国際社会の中で
「ハンディギャップ国家」だと言い立てていることはよく知られている。
中韓両国に永久に謝罪しつづけなければならない国という意味であろう。
1985年11月8日の衆議院外務委員会で土井たか子氏の質問に答えて、
小和田氏は東京裁判においてわが国は中国に対する侵略戦争を行った、これが「平和に対する罪」である、
サンフランシスコ平和条約第十一条において日本は「裁判を受諾する」と言っている以上、
「裁判の内容をそういうものとして受けとめる、
承認するということでございます」と答弁しているが、これは百パーセント解釈の間違いである。
平和条約第十一条は巣鴨に拘禁されている戦犯を赦免、減刑、仮出獄させる権限は講話が成立した以後、
日本国にのみあることを明示している内容でしかない。(中略)
要するに小和田氏はその師・横田喜三郎氏と同様に、
何が何でもあの戦争で日本を一方的に、永久に、悪者にしたい歴史観の持ち主なのだ。

傲慢で権威主義者
1990年に湾岸戦争が起こり、翌年、小和田氏は外務事務次官になった。
審議官時代から、氏は自衛隊の派遣に反対の立場をとっていた。
彼の非武装平和主義は湾岸戦争で破産したはずだった。
櫻井よしこ氏から対談で、日本人は人も出さない、
汗もかかないという国際世論からの批判があるが、と問い詰められても彼は何も答えられない。
ドイツがNATO地域外に派兵できるように基本法を改正する件に触れて、
「日本の場合は、まだそういう状況まではきていない」と彼はしきりに客観情勢を語ることで弁解する。
だが、「そういう状況」をつくらないできたのは小和田氏たちではなかったか。
櫻井氏に追い詰められ、「日本という非常に調和的な社会の中で、できるだけ事を荒だてないで処理したい」と
思わず三流官僚のホンネを口に出して、私は笑った。(中略)
用心深く周囲を見渡して生き、世渡りだけを考える。
ドイツ語にStreber(立身出世主義者、がっつき屋)という蔑視語があるが、
小和田氏のことを考えると私はいつもこの言葉を思い出す。
自分の国を悪者にしてこうべを垂れて平和とか言っている方が、胸を張り外国と戦って生きるより楽なのである。
そういう人は本質的に謙虚ではなく、身近な人に対しては傲慢で、国内的にはとかく権威主義者である。
運が悪いことに、皇室とは余りにもそれが合わない人格だ。なぜなら皇室は「無私」の象徴であるからだ。
天皇皇后両陛下が現に国民の前でお示し下さっているたたずまいは、
清潔、慎ましさ、控え目、ありのまま、飾りのなさ、正直、作為のなさ、
無理をしないこと、利口ぶらないこと――等々の日本人が最も好む美徳の数々、
あえて一語でいえば「清明心」ということであろう。
1937年に出た『國體の本義』では「明き浄き直き心」ということばで表現された。
皇后陛下のご実家の正田家は、自家とのへだたりを良く理解し、皇室に対し身を慎み、
美智子様のご父君は実業世界の禍いが皇室に及んではいけないと身を退き、
ご両親もご兄弟も私的に交わることをできるだけ抑制した。
一方、小和田恒氏はさっそく国際司法裁判所の判事になった。私はそのとき雑誌で違和感を表明した。
小和田氏は領土問題などの国際紛争のトラブルが皇室に及ぶことを恐れないのだろうか。
雅子妃の妹さんたちがまるで皇族の一員のような顔で振舞い、妃殿下が皇族としての必要な席には欠席なさるのに、
妹たち一家と頻繁に会っているさまは外交官小和田氏の人格と無関係だといえるだろうか。

確信犯的無信心の徒
雅子妃は2003年9月以来、宮中祭祀にほとんど出席されていない。
ご父君は娘に注意しないのだろうか、これが巷の声である。
娘が皇室に入ったのは、ある意味で、「修道女」になるようなことである。覚悟していたはずだ。
個人の問題ではなく国家の問題である。勤労奉仕団に一寸した挨拶もなさらない。
スキーやスケートなどの遊びは決して休まず、その直前に必ず小さな公務をこなしてみせるので、
パフォーマンスは見抜かれている。皇后になれば病気は治り、評価も変わる。
今の失態を人はすぐ忘れると、ある人が書いていた。あるいはそうかもしれない。
私もかつてそう言ったことがある。しかしそれは妃殿下にウラオモテがあり、
畏れ多くも天皇のご崩御を待っているということであろう。
天皇皇后に会いたくないとは、今までに前例のない皇太子妃であり、
日本国民は代が替わってもこのことは決して忘れはしない。
皇太子殿下は温順で、幼少の頃からご両親にも周囲にも素直だったといわれる。
私が恐れているのは皇室がなくなるのではないかという危機感である。
小和田氏は代替わりした皇室に対し外戚として何をするか分からない。
昔、天皇の顔を正面から見ると目が潰れると言っていた時代がある。
今はそんなことを言う人はいないが、皇室に対する畏れと信心の基本はここにある。
小和田氏にはどう見てもそういう信仰心はない。
彼の師・横田喜三郎氏には皇室否定論の書『天皇制』(1949年)があるが、
横田氏にせよ小和田氏にせよ、左翼がかった法律家は日本の神道の神々に対しては確信犯的な無信心の徒である。
日本の民のために無私の祈りを捧げる「祭祀王」としての天皇が、天皇たりうる所以である。
祭祀を離れた天皇はもはや天皇ではない。一説では、皇太子ご夫妻が唱えていた新しい時代の「公務」
――天皇陛下から何かと問われ答えなかった――は、国連に関係する仕事であるらしい。
何か勘違いなさっている。私が恐れるのは雅子妃が皇太子殿下に天皇としてあるまじき考えを持たせ、
行動するように誘いはしないかという点である。まさか皇室廃止宣言をするような露骨なことはできまいが、
皇室から宗教的意味合いを排除してしまうような方向へ持っていくことは不可能ではない。
「祭祀王」ではない天皇は、もう天皇ではなくただの「王」にすぎないが、
権力のない今の天皇は王ですらなくなってしまうだろう。
ただの日本国国連特別代表などということになれば、日本人の心の中からは消えてなくなる。
女性宮家の問題がここに深く関わっている。
1月24日発信の竹田恒泰氏のツィッターに、旧皇族の一部の協議が23日に行われ、
いざとなったら男系を守るために一族から皇族復帰者を用意する必要があると意見が一致した由である。
重大ニュースである。
私は小泉内閣の皇室典範改正の有識者会議を憂慮して、
2005年12月3日朝日新聞に次のように書いたが、これを今改めて提出して本編を閉じる。
「もし愛子内親王とその子孫が皇位を継承するなら、血筋が女系でたどる原則になるため、
天皇家の系図の中心を占めるのは小和田家になる。
これは困るといって男系でたどる原則を適用すれば、
一般民間人の〇〇家、△△家が天皇家本家の位置を占めることになる。
どちらにしても男系で作られてきた皇統の系譜図は行き詰って、天皇の制度はここで終止符を打たれる。
今から30~50年後にこうなったとき、『万世一系の天皇』を希求する声は今より一段と激しく高まり、
保守伝統派の中から、旧宮家の末裔の一人を擁立して『男系の正統の天皇』を
新たに別個打ちたてようという声が湧き起こってくるだろう。
他方、左派は混乱に乗じて天皇の制度の廃止を一気に推し進める。
今の天皇家は左右から挟撃される。南北動乱ほどではないにせよ、歴史は必ず復讐するものだ。
有識者会議に必要なのは政治歴史的想像力であり、この悪夢を防ぐ布石を打つ知恵だったはずだ」

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歴史通2012年5月号
「雅子妃問題」の核心-西尾幹二
皇太子殿下がマイホームパパを演じれば国民が喜ぶと一方的思い込んでおられるご様子。
例えば愛子さまとぴょんぴょん兎跳びする姿や指でVサインをこしらえてTVに映させたりなさったが
微笑ましくもないしユーモラスでもない。「空気が読めない」の典型。
国民は今、むしろ妻子に対して毅然とした振舞いを求める時代に入っていることがまったく読めていない。
愛子さまのご入学時における皇太子殿下の「一般の子供と同じように育てたい」ご発言あった。
愛子さまが一般の子供と同じであるなら、ディズニーランドに行ったときに長蛇の列に並ばなければ。
なぜそれをしないですむのかを教え、その代償に、周りに迷惑をかけないこと、
他の子供と同じに振る舞い、決して偉ぶらないことを教えるべきではなかったか。
スケート施設貸切も、愛子さまも一般の子も一緒では人垣ができる等、互い練習の妨げとなるため合理的ではある。
だが、「貸切レッスン」ができるのは東宮家のお姫さまならではの特権。
「普通の子ども」はどう逆立ちしても真似できない。テレビは何でも映し出す。
国民は黙ってすべてを見ているのである。

皇室ジャーナリストの神田秀一氏
皇太子殿下の会見に「雅子妃をほめる内容が多いのは雅子さまが
今回の会見録を読むことを意識しているためでしょう。」(「週間朝日」3/7号)。
神田氏はこれは妃殿下を「一生お守りする」といった殿下の責任感からだと書いているが、
責任感ならもっと余裕があり、おおらかに語るはずだ。
心理的にこわばりがあり、どう見ても妻を恐れている言葉である。
「裸の王様」という言葉があるが、ご自分ではまったく気がついていないものの
外交官のライフスタイルを失ったというぼやきが思うに唯一の生きがいとなり、夫への恨みや脅迫となり、
与えられた花園の中を好き勝手に踏み歩く権利意識になっているものと思われる。
医師はライフワークにつながる活躍をしなさいと勧めているが
学歴も高く才能もあるといわれて久しいのにほとんど目ぼしい活躍もなく
子供の付き添い登校にひどくこだわって顰蹙を買ったのも理由は非常にはっきりしている。
「生活」のないところに、どんなライフワークも生まれようがないからである。

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皇太子さまへの御忠言 2008年9月 WAC
あとがきより

ご成婚時に雅子さんが殿下のお言葉として挙げられたあの有名な「一生全力で雅子さんをお守りします」
皇太子殿下はいわば言質を取られた形ですが、「お守りする」という言葉をお使いになったことは
恐らく間違いなく、そこに当時批判がありました。たしか櫻井よし子氏が、殿下は国民を守る立場であって
なにか勘違いをしておられる、と指摘したと記憶しております。私も成程そうだと思いましたが、
そのときはそれ以上深く考えませんでした。
ですが今思うに殿下は何から雅子さんを守ろうとしていたのでしょうか。うっかりその点を見落としていました。
国民から妃殿下を守ろうというのでしょうか。あるいは宮中の仕来りや伝統行事から守ろうというのでしょうか。
宮中の仕来りや伝統行事を大切にして欲しいと思っている国民は多いので、
そういう国民から守ろうとしたのでしょうか。
それとも逆に、皇室を否定する動機を持つ特定の国民から守ろうという意味でしょうか。
いずれにしてもご自分と何かを対立関係に置いておられるので「守る」という言葉が使われたのです。
その何かが伝統であったり、国民であったりすると、むしろそれらは櫻井氏が言うとおり、
殿下が守らねばならない相手のはずです。
戦後日本の教育は殿下に、殿下の位置について間違った認識を与えてきたのではないでしょうか。
殿下はご自身が無疑問に高い位置にあられることを教えられず、お気の毒に一般民衆と同じように、
早くから国内の「敵」の存在を意識してお育ちになったのではないでしょうか。
さもなければ「守る」という言葉は出てきません。
天皇や皇太子は国内に「敵」のいないお立場です。
それなのに伝統保守とか革新左翼といった国内の対立軸が
やはり頭の中におありなのではないかと思われてなりません。
天皇や皇太子は自らが伝統なのであり、国家なのです。
そのあたりがお若い頃から意識的にきちんとご教育されていないという戦後の皇室制度の欠陥が、
今回の問題の発端だということに気がつきました。
雅子妃の「人格否定」発言が出るよりもはるか前に、ご成婚前に、問題は発生しているのです。
昭和天皇の帝王教育を十とすると、今上陛下のそれは五、そして皇太子殿下に至っては一もなかった、
とある皇室関係者から聞きました。帝王としてのご自覚をお育てする養育のことです。
御一人者に「敵」はなく、国民を守る立場であらせられ、国民からご自身を守るとか、
宮中の仕来りや伝統行事からご家族を守るとか、そんなことは本来あってはならないということを
知っていただくご教育のことです。

皇太子殿下は妃殿下にコントロールされているのではないかという疑念が私には最初からずっとあります。
コントロールする側の背後にもしも何らかの外からの力が働いていたらどうなるでしょうか。
妃殿下と外務省に緊密な結びつきがあることは私には不気味です。外務省は特殊な官庁で、
国益よりも相手国の利益を先に考えるという不可解な本能で行動する日本人の集団です。
妃殿下は元外務官僚であったとはいえ短期間の勤務にすぎませんが、父親の外交官小和田恆氏が介在し、
天皇の外戚として、やがて権力を揮い、特定の外国の皇室への影響力の行使に力を尽くすというような
事態の到来は当然考えられます。私が恐れる特定の外国とは中国と韓国です。
小和田氏の著作『外交とは何か』や『国際関係論』や『参画から創造へ』等から導き出される
一つの必然の帰結です。
『週刊朝日』8月1日号(2008年)の「聖教新聞1面で報じられたブラジル訪問皇太子と同席した
創価学会の“御曹司”」は、衝撃的な内容の記事でした。ブラジルで創価学会やその青年部が関係した
大きな式典、組体操や鼓笛演奏の行われた会場の壇上に、皇太子殿下と池田大作氏の長男の
池田博正創価学会副会長とが並んで立ったという、それだけの記事ですが、宮内庁は青天の霹靂だったそうです。
外務省関与は書かれていないものの、関与がなかったとは考えられません。


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西尾幹二氏 御忠言シリーズ
皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます
皇太子への御忠言第2弾!
これが最後の皇太子さまへの御忠言
もう一度だけ皇太子さまへの御忠言

小川東洲

「私のなかの歴史 命の証を尋ね求めて(14)」 書家 小川東洲さん

ショコラとおイネ
一昨年の夏のある日、軽井沢にある小和田恒さんの別荘へ向かう途中でのことでした。
雅子様もかわいがっていた小和田家の愛犬、ヨークシャーテリアのショコラは、もはや失明し、
はったままでしたが、ご夫婦は何度も運転の手を休めては介抱にこれ努めているのです。
見るに見かねた私が、「これでは(オランダに)持ち帰れますか」と声を掛けますと、
「いいえ、連れて帰るのです」と、小和田さんはなんともかよわい声で話すのです。
実はショコラを「持ち帰る」と話したのはそれなりに理由があってのことでした。
このときの老ショコラが首の出るトウで編んだ手提げかごに入っていたからで、
私どもには「持ち帰る」がこのときに合った言葉に思えたのです。
(略)


財団法人 美術文化振興協会
http://www.finearts.or.jp/riji.html
理事 小和田 恆 財団名誉会長 国際司法裁判所判事
   小川 東洲 財団常務理事 書家


小川東洲氏
愛子さまの書道について
「これはすごい!」とうなるような完成された書を4歳で書く と発言
「私がハーバードの客員教授になれたのは小和田氏のおかげ」とも
ハーバードでも雅子さまの師
雅子さま結婚前、小和田一家とともに北海道旅行へ


数学者の広中平祐氏が主催する、「数理の翼」セミナー
このセミナー第4回に小川東洲氏も参加
このセミナー第1回目の開催場所:栃木県那須の創価学会栃木研修道場
広中平祐氏とは…
著書
「子供の教育と親のかかわり」 著者名:広中平祐/著 広中和歌子/著 出版社名:聖教新聞社
「創造的に生きる」 著者名: 広中平祐/著出版社名:聖教新聞社

小川 
私があちらへ行った年のご入学でしたが、雅子様は一年の時から優秀で卒業時には
学生最高のマグナ・クム・ラウデ賞を受けておられます。


※同じく雅子妃を擁護する新興宗教ワールドメイトの深見東州氏と混同されがちだが別人である

佐々淳行氏

歴史通2011年5月号
【緊急特集】天変地異―国難来たる!
佐々淳行 天皇―最高の危機管理機構
皇室行事は宗教的行事としてきわめて重要な公務であり義務。
被災民激励のための行幸も国母陛下の公務。皇后は国母でなければいけない。
国民は、沈黙しているが現状では秋篠宮文仁親王妃紀子殿下は
その重責に耐えられる女性皇族とみなしているのではなかろうか
可及的速やかな法改正を行なって『立太子礼』を行なって弟宮秋篠宮文仁親王を『摂政宮』とし、
秋篠宮妃紀子殿下を『摂政妃』とし悠仁親王には当代最高の傅役をつけ、
幼いうちから「帝王学」をお教えして男系の将来の天皇を傅育しなければならない。
両陛下のご静養と共に皇太子妃殿下の病気療養を本格化し、
その早期治療を祈り、女性皇族として徹底した傅育をすることが大切。
老躯病体ながら懸命にご公務される両陛下のお姿を見ているといたたまれない。
生涯に二度も大喪の礼を見たくはない。両陛下に休養して長生きしていただきたい。
国家危機管理の機関でもある天皇制を護持することは、日米安保堅持と共に、日本民族生存のために
不可欠な国体ではないだろうか。皇位継承の問題は内閣総理大臣がその政治生命を賭けて決断すべき義務である。
必要があれば摂政制を採用するのかしないのか「国民投票法」を改正して
国民投票に附しても可及的速やかになすべき一大政治課題。
菅直人総理、果たしてその覚悟 ありや?


NEWSポストセブン
両陛下にお元気でいて頂きたい佐々淳行氏「秋篠宮を摂政に」
2011.12.01 07:00
天皇陛下のご退院で国民の間には、安堵の念が広がった。
しかし、ご入院が18日間の長期にわたるなか、皇室のあり方をめぐる議論も、
これまでとは異なる展開を示し始めている。
本誌11月25日号では摂政設置についての議論を取り上げたが、さらに一歩踏み込み、
「秋篠宮を摂政に」と問題提起する人がいる。元内閣総理大臣官房・内閣安全保障室長で、
昭和天皇の大喪の礼の警備担当実行委員も務めた佐々淳行氏がいう。
「両陛下には十分休養をとられ、いつまでもお元気でいて頂きたい。そのためには摂政宮の設置が急務です。
しかし、皇太子殿下は今、雅子妃のご病気のことで目一杯になられている。
大震災に際しても、ご高齢で病気でも苦しまれている両陛下が被災地へのお見舞いに何度も行かれているのに、
皇太子殿下、そして雅子妃のお見舞いの回数は少なかった。
まず雅子妃に本格的に療養して頂き、皇太子殿下も雅子妃の治療に専念されてはどうか。
摂政を秋篠宮殿下にお任せし、雅子妃が回復されてから、再びご公務に戻られればいいでしょう」
摂政とは、日本の歴史においては、天皇の勅命を受け、天皇に代わって政務を執る職をさす。
現在その資格者については皇室典範で定められており、順位は【1】皇太子、皇太孫、
【2】親王および王、【3】皇后、【4】皇太后、【6】太皇太后、【7】内親王および女王、と決まっている。
皇室典範の第18条で「摂政又は摂政となる順位にあたる者に、精神若しくは身体の重患があり、
又は重大な事故があるとき」は、皇室会議の議によって
「摂政又は摂政となる順序を変えることができる」とも規定されているが、
現状では秋篠宮が摂政に就任することはできない。
そこで佐々氏は、秋篠宮が摂政に就任できるように皇室典範を改正すべきだとも主張する。
「そして弟君の秋篠宮文仁親王を『摂政宮』とし、秋篠宮妃紀子殿下を『摂政宮妃』とする。
悠仁親王には当代最高の傅役(かしずきやく)をつけ、幼いうちから帝王学をお教えすべきです。
男系の将来の天皇を傅育(ふいく)しなければなりません」
天皇家で唯一の男系男子の孫として、将来の皇位継承が確実な悠仁親王には、
早いうちから帝王学をお教えする必要がある。そのためにも秋篠宮殿下が摂政宮となり、
紀子妃殿下も摂政宮妃として皇后学を学んでおくべきというのである。
佐々氏はこの持論を講演でも話し、雑誌にも寄稿している。
佐々氏が秋篠宮摂政論を考えるようになったのは、
1975年に起きた「ひめゆりの塔事件」での経験が原点だという。
当時まだ皇太子夫妻だった天皇陛下と美智子皇后が、沖縄海洋博開会式に際し、
昭和天皇のご名代として皇族として戦後初めて沖縄を行啓された時のこと。
ひめゆりの塔を訪れた際に、過激派が火炎ビンを投げつけた。
この時、警備責任者を務めていたのが佐々氏だったのである。
「爆発した火炎ビンの炎は数メートルのところまで近づきましたが、その時の両殿下のお振る舞いは忘れられません。
事件の現場にはひめゆりの生き残りの女性もいたのですが、陛下は警備の者を振り払ってその女性の元に戻り、
『ご無事でしたか?』と心配して声をおかけになったんです。
また妃殿下もご立派で、何事もなかったかのような表情で行事を続けられた。
現在の状況では、こうした両陛下のお気持ちを継ぎ、国民の支えとなれるのは秋篠宮殿下です。
そして国母たる皇后の任に耐えるのは紀子様ではないでしょうか」(佐々氏)
※週刊ポスト2011年12月9日号
http://www.news-postseven.com/archives/20111201_72862.html


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「国家の実力」
「今は天皇の権威が低下しているでしょう。
これでは非常時に天皇を担ごうと思ってもできません。
そうなってしまった原因は、残念ながら雅子妃殿下にあるというのが多くの人の見方だと思います」
「皇室がマイホームになられては困るのです。
皇太子が平成16年の欧州歴訪前の記者会見で
『雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった』という発言をされましたが、あれが決定的にまずかった」
「厳しい言い方ですが、甘やかしているんですね。」

「秋篠宮殿下が天皇陛下の摂政になり、紀子様を摂政妃とするのです。」
「不適応症で調子のいい時だけご公務されるというのでは国母陛下は勤まらないでしょうからね。
まあ、そんなことを書いたら、さっそく脅迫状がきたというわけです」

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「菊の御紋章と火炎ビン」文庫版 あとがき
「天皇制についても、女帝を認めるのか否か。
また、皇位継承順位についても、考えたくもないことだが、万が一にも、今上天皇崩御の際、ご体調不安定な皇后、
そして次の次の代に女帝の可否が必ず問題となる現行の継承順位でいいのか、
それとも大正=昭和の交代期に行われたような摂政制を援用するのかが、
遠からず大きな「国体」にかかわる選択となる。」

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2018.10.10 15:50
佐々淳行氏死去 初代内閣安全保障室長
産経新聞の正論メンバーで初代内閣安全保障室長を務めるなど危機管理、
安全保障のパイオニアとして知られる佐々淳行(さっさ・あつゆき)氏が10日、老衰のため死去した。
87歳だった。通夜は15日午後6時、葬儀・告別式は16日午前11時半、
東京都港区南青山2の26の38、梅窓院で。喪主は妻、幸子(さちこ)さん。
昭和5年、東京都出身。東京大学法学部卒業後、29年に国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁。
警備や公安畑を歩み、44年の東大安田講堂事件、47年のあさま山荘事件など戦後史に残る重大事件で対処に関わった。
香港領事、三重県警本部長などを経て旧・防衛庁へ出向。防衛施設庁長官などを歴任した。
61年には内閣総理大臣官房・内閣安全保障室長に就任。平成元年の昭和天皇大喪の礼の警備を最後に退官した。
現役の防衛庁幹部当時に出版しベストセラーとなった「危機管理のノウハウ」(PHP)などの著作を通じ、
日本社会に「危機管理」という概念を定着させ、公職退任後も新聞やテレビなど多方面で活躍。
テロや災害から国民の生命・財産を守り損害を減らす備えの重要性を訴え続けた。
国益を重視する現実的な政策提言は歴代政権にも影響を与え、
平成13年の米中枢同時テロでは米国の対テロ活動を後方支援するため、
自衛隊のイラク派遣を進言。小泉純一郎政権によって実現された。
正論メンバーとしても長く正鵠(せいこく)を射る持論を展開、19年には第22回「正論大賞」を受賞した。
http://www.sankei.com/life/news/181010/lif1810100019-n1.html

皇太子夫妻23回目の結婚記念日

2016.6.9 06:00更新
【皇室ウイークリー】
(番外編)皇太子ご夫妻ご成婚記念日〈雅子さまのお写真で振り返る〉

皇太子ご夫妻は9日、23回目の結婚記念日を迎えられた。
これを機に、ご成婚当時のお写真を交えてその経過を振り返る。
平成5年1月19日、宮内庁の藤森昭一長官(当時)は午前10時半過ぎから、
宮内庁3階の講堂で記者会見を行い、皇太子ご夫妻のご結婚が決まったことについて正式に発表した。
この際にお妃(きさき)の選考経過についても初めて公表した。
藤森長官の説明によると、ご夫妻が初めて出会われたのは、昭和61年10月18日に、
今の東宮御所で行われたスペインのエレナ王女歓迎のレセプションの席だった。
その後、皇太子さまは62年以降、日英協会のパーティーや東宮仮御所、
高円宮邸などで4回ほど雅子さまと会い、親しく会話を楽しまれたという。
だが、63年の春、雅子さまの父、小和田恒氏がOECD(経済協力開発機構)大使としてパリへ赴任。
外務省に入省した雅子さま自身も外交官として同年7月から平成2年6月まで、
英国に研修留学したこともあり、ご夫妻のご交際は遠のいた。
宮内庁からの内々のご交際の打診に対しては、小和田家から辞退の意向が伝えられた。
また、雅子さまの母方の祖父、江頭豊氏が水俣病訴訟が継続中のチッソの要職にあったことなどから、
宮内庁も雅子さまを皇太子さまのお妃候補として考えることには慎重を期さざるを得ず、ご交際は中断されたという。
引き続き、宮内庁のお妃選考作業は継続されたが、
宮内庁主導によるお妃候補に、皇太子さまが納得されることはなかった。
その後、祖父は水俣病の発生には無関係で、刑法上の責任がないことが判明。
平成4年春、報道自粛の申し合わせが締結され、皇太子さま自身の強いご意向を受けて、
宮内庁側は5月初旬、外務省関係者を介して「お妃候補としたい」と小和田家に申し入れた。
ご夫妻のご再会の場は8月16日、外務省関係者の自宅だった。
次いで10月3日にも、宮内庁新浜鴨場(千葉県市川市)で会われたが、
10月中旬になって、小和田家側からは「雅子の気持ちが決まらない」という趣旨の返事が宮内庁に伝えられた。
その後も皇太子さまは直接、雅子さまに率直な気持ちを話された。
11月28日、東宮仮御所で雅子さまと十分なお話し合いが行われた。
12月12日には再び、雅子さまが仮御所をご訪問。
ここで雅子さまは正式にプロポーズを受けることを直接、皇太子さまに伝えられたという。
クリスマスの12月25日、雅子さまは仮御所で、天皇、皇后両陛下、皇太子さまと楽しく時間を過ごされた。
藤森長官は、お妃候補について「広い範囲を対象に本人の健康や人格、
親族にも支障がないことを基準に行った」とした上で、
「皇太子さまのお気持ちを何よりも重視し、両陛下に逐次、ご報告しながら進めた」と説明。
この選考の過程で、天皇陛下は「皇太子の意思に基づいて」、
また皇后さまは「皇太子に全てをおまかせします」とのご意向だったことを明らかにし、
お妃の選考に関して「両陛下は関与を一切、控えられた」とした。
また、一時報道機関のお妃報道が過熱したことや報道自粛申し合わせについて触れ、
「申し合わせがなければ、お二人が会うのも困難だった。
申し合わせがあったことが、今回の慶事につながった」と総括した。
宮内庁によると、雅子さまは小和田家の長女として昭和38年12月9日に誕生された。
60年、米ハーバード大学経済学部をご卒業。62年に東京大学を中退し、外務省に入省された。
63年~平成2年、英オックスフォード大学ベーリオールコレッジに留学し、
5年1月19日、皇室会議でご成婚が正式に内定した。
その後、外務省ご退職。4月12日には一般の結納にあたる納采の儀を経て、
6月9日に結婚の儀と祝賀パレードに臨まれた。
雅子さまが身の回りの物などにつける「お印(しるし)」には、
夏に赤い花を咲かせるバラ科バラ属の落葉低木「ハマナス」を、ご夫妻で選ばれたという。
http://www.sankei.com/premium/news/160609/prm1606090003-n1.html


会見でのお言葉は今もーー
雅子さま、皇太子さまとのご婚約から24年目を迎えられて
2016年06月08日(水) 11時00分
〈週刊女性2016年6月21日号〉
6月9日、皇太子妃雅子さまが皇太子さまのもとに嫁いでから24年目に入るが、
どのような感慨をお持ちになるのだろうか─。
「ご夫妻の婚約決定の記者会見で、“雅子さんのことは、僕が一生、全力でお守りしますから”という
皇太子さまのお言葉が明かされましたが、そのとおり、雅子さまの長期療養を見守ってこられました」
そう話すのは、皇室を長年取材するジャーナリストで、文化学園大学客員教授の渡辺みどりさん。
ご成婚から9年目の'01年12月に、長女の愛子さま(14)が誕生されたころから、
ご体調が徐々に悪化し、2年後には「長期静養」に入られた雅子さま。
お出ましの数は激減し、'04年7月には「適応障害」という病名が発表され、
結婚されてから療養期間のほうが長くなっている状況だ。
渡辺さんが続ける。
「ご婚約会見で雅子さまは、皇太子さまの魅力として、『思いやり』、『忍耐』、『根気』を挙げられました。
そんなご性格がそなわった皇太子さまによるサポートのおかげで、
最近の雅子さまは回復傾向で、お出ましも増えているのだと思います」
ここ3年ほどは雅子さまが公の場にお姿を現す機会も増え、苦手とされる活動もこなされてきた。
「雅子さまは不特定多数の人がいる場や宮中行事が苦手とされていますが、
一昨年には11年ぶりに国賓を迎える宮中晩餐会に参加されました。
昨年は12年ぶりの園遊会に、この4月には7年ぶりに宮中祭祀に参列されるなど、
活動の幅は広がっていると思います」(宮内庁担当記者)
例年はお出ましが多くない年明けだが、今年は都内で開かれた式典2件にご出席。
3月から4月にかけては、学習院女子中等科3年の愛子さまをお連れして、
映画の試写会、美術館、昭和記念公園を訪問し、元気な姿を見せられた。
「愛子さまのご成長による“親離れ”も、雅子さまの快方にいい影響を与えているのではないでしょうか。
小学校時代と中学に進学されてからも、愛子さまには登校問題が起きましたが、最近では学校生活にも慣れ、
皇族としてのお出ましにも同行されるようになりました。
6月7日は、都内で開かれている『世界遺産 ポンペイの壁画展』も、お3方でご鑑賞の予定でした」(東宮職関係者)
http://www.jprime.jp/tv_net/imperial_household/27988


女性セブン2016年7月7日号
6月9日、ご夫妻は23回目の結婚記念日を迎えられた。
当日は東宮御所に天皇皇后両陛下や他の皇族方をお迎えし、お祝いの夕食会が催された。
「ご夫妻は、愛子さまと親子3人で小さな音楽会を披露なさったそうです。
両陛下をお招きするわけですから、失礼がないようご夫妻も大変緊張なさいます。
雅子さまにかかるプレッシャーもかなりのものだったわけですが、
その直後の2つの公務ではお疲れの様子を一切見せられず、
しっかりとお務めを果たされました」(前出・東宮職関係者)
雅子さまのお姿からは、「適応障害」から順調にご快復の一途をたどられていることが伝わってくるが、
その陰で、事実、大きな前進が裏付けられていた。宮内庁関係者がそっと耳打ちする。
「両陛下、両殿下のお出ましのご予定などを記した文書が、東宮大夫の定例会見の際に
宮内庁担当記者に配布されます。最近になって、ご夫妻でお出ましになる予定のものには
『(両)殿下』と記載されるようになったのです」
療養中の雅子さまは体調が不安定なこともあって、当日のご様子をみて出欠を最終判断されてきた。
また、事前にお出ましを発表することが、過度な重圧につながるともいわれてきた。
「そのため、これまで文書には『皇太子殿下』とだけ書かれ、
あくまで雅子さまは“当日、急きょご出席が叶った”という形式が取られてきました。
それが事前に記載されるようになったわけです。
表情やご様子から感じとれるだけのものだった雅子さまのご快復傾向が、
文書として裏打ちされたのです」(宮内庁関係者)




皇太子殿下、ご退位なさいませ

新潮45 2013年3月号
皇太子殿下、ご退位なさいませ 山折哲雄

… 率直に申しあげることにしよう。皇太子さまと雅子さまは愛子さまとともに、
いわば第二の人生を選ばれてもいい時期に際会しているのではないだろうか。
皇太子さまによる「退位宣言」である。象徴家族としての重荷から解放され、
新たな近代家族への道を選択して歩まれる「第二の人生宣言」といってもいい。
その人生の道はおそらく芸術と文化の広々とした森に開かれているにちがいない。
敗戦直後の昭和天皇による「人間宣言」、平成時代に入ってご自分の葬儀にふれられた
現天皇の第二の「人間宣言」、そしてもしも皇太子さまが退位のご決意を表明されれば、
それは第三の「人間宣言」として国民のこころにひびき、暖かな共感の波をよびおこすのではないだろうか。

… いま、皇太子さまの「退位宣言」ということをいったけれども、これは具体的には弟君、
秋篠宮殿下への「譲位宣言」を意味するだろう。
それがはたして、国民のあいだに、どのような反響を呼びおこすか、いまの私にははかりがたい。
けれども、皇太子さまのご発言と雅子妃の病状がひろく伝えられているなかで、
弟君が控え目ながらそのつど意見をのべられ、
貴重な助言をお二人に与えておられたことがつよく印象にのこっている。
人間としての思いやりと逡巡の複雑なお気持があったと推察されるが、それでもそれをあえて口にされた
秋篠宮殿下には、兄君の窮地を助けようとする態度がにじみでていたように思う。
お子さま方にたいする教育方針にも自立的な生き方がうかがわれ、好感を寄せる人々も多いのではないだろうか。
兄君は文系の歴史、弟君は理系の生物と、分野を異にする学問に精進してこられたことも好ましい光景であった。
その秋篠宮のご発言と立居振舞いが、皇室における象徴家族と近代家族という二重の性格を均衡させる安定的な地点に、
より近くお立ちになっているように私の目には映っているのである。
皇太子による寛大な「退位宣言」が、その「譲位」へのご意見とともに秋篠宮に自然な形で
受け継がれていくことを願わずにはいられないのである。
譲位とは、もともとは在位中の天皇がその「位」を譲ることを意味していた。
すでに「日本書紀」にいくつかの事例がでてくるが、
その譲位時の法的な次第は嵯峨天皇以後の事例にもとづいて「貞観儀式」で定められている。
それが明治の「皇室典範」で改められて終身天皇制となり、廃止されてしまったのだという。
譲位は、平和裡に王権の継受をおこなう制度だったといってもいいのであるが、ここに登場する嵯峨天皇は、
さきにもふれたように今上天皇が皇太子時代に言及された「写経の精神」をまさに体現するタイプの天皇だった。
ありうべき理想の象徴天皇のモデルであった。

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皇太子殿下、ご退位なさいませ

新潮45 2013年3月号
(2013/02/18発売)
皇太子殿下、ご退位なさいませ/山折哲雄
皇室の未来のために敢えて申し上げる。「皇太子さまは、
第二の人生を選ばれてもいい時期ではないだろうか」。

憂愁深まる表情
いま、皇室のあり方が揺れている。宮内庁の公式発表にふれるだけでも、
天皇・皇后両陛下と皇太子・皇太子妃のあいだに、
思いもかけない行き違いや意思の疎通を欠く事態が進行しているようにもみえる。
マスメディアの報道も、かならずしも根拠の明らかでないような推測や憶測、そして論評を加えるようになっている。
そのためであろう、国民のあいだにしだいに疑心暗鬼のさざ波がたちはじめている。
とりわけ遠くから拝見していて心が痛むのは、天皇・皇后両陛下のいつに変わらぬ温容と、
それにたいして憂愁の度を深める皇太子・皇太子妃の沈んだ表情の、以前にはみられなかった非対称の印象である。
その落差は埋めることができるのだろうか。修復は可能なのだろうか、という懸念である。
そんな不安な思いにとらわれるようになっていた矢先のことだった。
昨年の暮になって、皇太子妃雅子さま(49)の病状が大きく報道され、
医師たちによって「適応障害」と診断された皇太子妃の長期療養が昨年12月で10年目に入った
ということが伝えられたのである。加えてその記事には、
明けて今年6月には皇太子さまとのご成婚20年を迎えるけれども、
そのほぼ半分を療養に費やしたことになる、
雅子さまの病状と治療は、今ほんとうのところどうなっているのか、と書かれていた。
はたして日本の象徴天皇制に、何らかの異変が生じているのだろうか。
もしそうであるとしたら、そろそろ何らかの修復の手を打つべきときが迫っているのではないか、
そう考える人々がしだいに増えてきているように私には思われる。
 (略)

小泉内閣のときだったと思う。皇位の継承をめぐって、
女性天皇や女系天皇は是か非か、という社会の議論に押されるような形で、
「皇室典範に関する有識者会議」が設けられた。
10名の学識者が集まって毎月のように検討がおこなわれることになったが、
たまたまそのヒアリングの席に招かれ、意見をのべる機会を与えられた。
平成17年6月8日のことだったが、もう7年以上も前のことになる。まず、そのことから語ってみよう。
長いあいだ私は宗教学や思想史を専門分野として研究をつづけてきたが、
とりわけ象徴天皇制の問題については格別の関心を抱いていたので、
ヒアリングの席ではそのような観点から意見をのべさせていただくことにした。
世界にはさまざまな統治のスタイルがみられるが、そのなかでわが国の象徴天皇制という統治形式は、
抜群の安定性を示してきた点できわ立っている。
それはいったい何に由来するのか、というところから話をはじめたことを覚えている。

さて、日本の歴史をふり返ると、長期にわたる平和の時代が二度もあったということに気づく。
一度目は平安時代の350年、二度目が江戸時代の250年である。これは驚くべきことではないか。
こんな例はヨーロッパでも中国やインドでももちろんみられない。
なぜ、それほどに安定した時代を実現することができたのか。
もちろんそこには政治・経済的な要因をはじめ、軍事や外交、そして地政学的な問題など
いろいろな要因が考えられるわけであるが、そのなかでもっとも重要な役割をはたしたのが、
じつは象徴天皇制がもっている独自の機能だったのではないか。
その統治のスタイルは第二次世界大戦後にはじめてつくられたのではない、その原形はすでに平安時代、
10世紀の段階にでき上がっていたのではないかというのが私の考えだった。
第一にいいたいのは、その統治の特徴が、宗教的権威と政治権力の二元的なシステムによって
柔軟につくりあげられてきたという点にある。
具体的にいうと、すでに10世紀の摂関政治の段階で、宗教的な権威すなわち象徴としての天皇の役割と
政治的な権力のあいだの相互関係ができ上がっていた。相互牽制の関係といってもいいだろう。
互いに互いの独走を封じるシステム、である。
それが「国家」と「宗教」のあいだに調和をもたらす上で大きく貢献したのではないか。
平和の均衡状態を生みだす重要な背景だったのではないかと思う。
第二の問題が、皇位継承の場面で二つの原理が有効にはたらいたという点である。
一つが血縁原理、二つ目がカリスマ原理である。
ご承知のように天皇が崩御すると、ただちに次代の天皇への践祚と即位の儀礼がおこなわれるわけであるが、
それを象徴するのが即時的におこなわれる三種の神器の承継という手続きだった。
これをヨーロッパの王権論ではアクセッション(accession)という。それにたいして、多少の時日をおいて、
王位(皇位)が即時的に継承されたことを内外に宣言する即位の礼がおこなわれる。いわば皇位の継承を社会化、
国際化するための儀礼であり、これを欧米ではサクセッション(succession)と呼んでいる。
「天皇霊」というカリスマ
ところがわが国では西欧諸国の場合とは異なって、このアクセッションにあたる践祚と
サクセッションにあたる即位の礼のほかに、さらに第三の重要な儀礼として「大嘗祭」が、
天武・持統天皇のころから欠かすことのできない「祭り」としておこなわれてきた。
これはさきの血縁原理とは別に、「天皇霊」という霊威(カリスマ)の継承という考え方にもとづいて
成立したと考えられる。「血縁原理」にたいする「カリスマ原理」といっていいだろう。
私は日本列島において象徴天皇制が永続的な安定性を保つことができたのは、右の二つの原理というか観念が
相互補完的に有効にはたらいたからではないかと考えてきた。さきにのべた平安時代350年、江戸時代250年の
長期にわたる平和の実現も、じつはそれとけっして無関係ではなかったはずだと思っているのである。
ところが、この大嘗祭の問題が旧皇室典範ではその第11条で
「即位の礼及び大嘗祭は京都においてこれを行う」と規定されていた。
だから大正4年の大正天皇の即位、そして昭和3年における昭和天皇の即位も、この規定によっておこなわれ、
即位の礼と大嘗祭を一括して「御大典」と称していたのである。
やがて、敗戦を迎える。昭和22年になって新憲法が施行されたとき、右の大嘗祭規定が新しい皇室典範では削除され、
「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」と変更されることになった。
以後、大嘗祭は皇室の私事、私ごとの儀礼というように位置づけられ、その歴史的な意義が忘れられていった。
私は象徴天皇制の歴史を考える場合、血縁原理とカリスマ原理の二つの要因を前提にしなければならない、とさきにいった。
その二つの原理には、たとえそこにフィクショナルな物語が含まれているとしても、「象徴」ということを考える場合には、
それがいぜんとして王権を支える重要な理念的な柱になっているからだ。
とりわけ「皇室典範」の改正とか、皇位継承をめぐる男系、女系の問題を議するときは
避けて通れない問題ではないか、と考えていたのである。

さきの平成17年におこなわれた「皇室典範に関する有識者会議」のヒアリングに応じたときも、
そのような話から私の意見をのべたのだった。その直後のことだったと思うけれども、
たまたま朝日新聞の社会部で長いあいだ皇室担当の記者をされていた岩井克己さんの取材をうけることになった。
私の意見に関心をもたれていたからではないかと思う。
その岩井さんが、その翌年になってからだったと思うが、
「天皇家の宿題」という示唆に富む本を朝日新書の一冊として出版され、
それを読んで私は大いに啓発された。皇室問題を検証するのは、
まさに「総合社会科学だな」と書かれていたのも面白く、心にひびいた。
現在の天皇・皇后両陛下が大規模災害の直後の被災地を見舞うようになったのは平成になってから、
という指摘にもハッとしたのである。
平成3(1991)年7月、雲仙普賢岳の火砕流被災地への訪問を皮切りに、
平成5年の北海道南西沖地震で津波の被害をうけた奥尻島、
平成7年の阪神淡路大震災の被災地、そして今回の3.11の大災害で東北の被災地へと、
その慰問と励ましの旅は国民のそば近く身を寄せ、
犠牲者のために祈りを捧げるというスタイルを貫かれていた。沖縄への慰霊の旅もその一環だったと考えられるだろう。
とりわけ私が岩井氏の本によって教えられ、胸を衝かれる思いをしたのがつぎのようなエピソードである。
現天皇がまだ皇太子時代、報道機関から天皇の理想のあり方を問われたときのことだ。
「伝統的に政治を動かす立場にない」として、平安時代の嵯峨天皇以来の「写経の精神」を挙げられたという。
自らの身近な先祖である明治、大正、昭和の近代の天皇、つまり帝国憲法下の天皇は、
いまや戦後の象徴天皇制のモデルにはなりえない。
むしろ天皇家が衰微していた遠い過去の時代の天皇に「象徴」としての理想像を求め、
人々にじかに精神的な慰めや励ましを与える存在であろうとする。
そのような現天皇の静かな決意が、そこにはあらわれていたのではないかと、氏は書いていた。

それにふれて、思い出すことがある。
世界的なイベントのサッカー・ワールドカップが、日本と韓国の共同開催でおこなわれていたときのことだ。
両国の市民レベルの交流が活発になっていたが、ちょうどそのころ宮内庁で記者会見がおこなわれ、
天皇陛下のつぎのような発言が大きく報道された。
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、
続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております」
武寧王および聖明王との縁に言及されているのであるが、
仏教の日本への伝来について語っておられることにも注目しなければならない。
そこには、さきにも紹介した嵯峨天皇以来の「写経の精神」を象徴天皇として
大切にされるお気持ちがにじみ出ているように思われるからである。
私もかねて、「象徴」天皇の原像はさきにもふれたように平安時代にさかのぼり、
それが敗戦を契機に新憲法のもと戦後の象徴天皇制へと引きつがれたとみていたので、
さきの岩井氏の見解には共感するところが多かったのである。
宮中祭祀への現天皇の精励ぶりも、そのようなお考えからきているのではないだろうか。
ところが一方、皇室の内部および周辺では、知られているように微妙な変化が進行しているようだ。
天皇家の世継ぎをめぐる「皇室典範」改正の論議がはじめられた直後のことだった。
平成18年2月には秋篠宮妃のご懐妊がわかり、9月になって悠仁親王が誕生され、
それを機に男系・女系をめぐる論議がストップしてしまった。
しばらく時をおいて、こんどは女性宮家創設の議論がおこり、
いぜんとして皇位継承の問題が緊急に課題になっていることが世間にひろく知られるようになった。
世継ぎを男系にするか女系にするかの論議も、ふたたびむしかえされることになった。
そしてその背景に、長いあいだの懸案であった皇太子妃雅子さまのご病状問題が尾を引いていたことはいうまでもない。

今上陛下のご決意
その発端は知られているように、平成16(2004)年の皇太子による
「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」という発言にあった。
さらに雅子さまの「適応障害」とその治療という問題があらたに浮上してくる。
治療を担当する「東宮職医師団」がつくられ、
そのつど宮内庁から「病状」にかんする報告がおこなわれるようになった。
だが、思わしい治療効果がなかなかあらわれないまま事態は推移し、
ついにその長期治療が昨年12月で10年目に入ったことが
公式に発表されたのだった。 その間、皇太子妃による宮中の儀式や祭祀への不参加が取り沙汰され、
公務である地方訪問の休止などで世間やメディアによるきびしい批判の目にさらされるようになっていく。
かてて加えて昨年の4月には、宮内庁の羽毛田長官(当時)が定例の会見をおこない、
天皇・皇后両陛下のご意向として崩御後の葬儀はこれまでの土葬形式をやめて火葬にしたい、
とのお気持ちが公に伝えられることになった。
そのことを知ったとき、私は事態が大きく動きはじめているという予感が胸のうちにふくらんでくるのを覚えた。
もしもそういうことになれば、それは明治天皇以降の天皇葬儀にかんする伝統を大きく塗り変えることにつながり、
ひいては1000年におよぶ王権継受の理念に再定義を迫るような革新的な意味をもつようになるかもしれない、
少々大げさなもの言いにはなったけれども、そう思ったのである。
天皇がそのようなご決意をかためられた背景には、もちろんいつまでも国民に寄りそい、
国民とともに歩きつづけようとする象徴天皇としてのお気持があってのことと推察する。
明治天皇や大正天皇、昭和天皇のなきがらが巨大な山陵に土葬形式で葬られてきたことを思うとき、
そのお考えが戦後における象徴天皇の第二の「人間宣言」のようにさえ映るのである。
明治の「墓埋法」の制定によって国民の多くは、
この世から旅立つときは火葬による方法を選ぶようになり、それが今日当り前の慣習になっている。
人生の最期をしめくくるにあたってそのようなご決意を公にされたのはよほどのことがあったからであると思うのである。
昨年、心臓のバイパス手術を受けられたことも、皇位継承の問題をも含めて、今後に考えておくべき課題がどこにあるか、
その思案を深められる機縁になったのではないだろうか。
ちょうどそのような問題についてあれこれ考えているときだった。昨年の11月になって、「週刊朝日」の編集部から
さきの岩井克己氏と「天皇家の危機」について話し合ってみないかという誘いの声がかかったのである。対談の内容は
多岐にわたったが、談たまたま、私自身思いもかけず、皇太子さまは思い切って「退位宣言」をされたらどうだろうかと
発言してしまった(平成24年11月23日号)。あらかじめ意をかためていたわけではなかったのだが、
ごく自然に口をついて出てしまったのである。
私はかねて、日本のこれからの天皇制のあり方を考える場合、すくなくとも二つの大きな問題があるだろうと思ってきた。
一つが、戦後民主主義と(象徴)天皇制の関係をめぐる問題であり、もう一つが、皇室における「象徴家族」の性格と
民主主義的な「近代家族」の性格にかかわる問題である。
前者の方からいうと、戦後まもない時期において戦後民主主義と天皇制の両者は、
多くの国民の心情レベルでは互いに矛盾し対立するものと意識されていたように思う。
ところが70年近い時間が経過した今日、その両者がしだいに調和する関係を
とりもどしているようにみえる。世論調査の結果をみても、
とくに若い世代を含めて象徴天皇制を支持する層が増えていることも見逃せない。
換言すれば、戦後民主主義と象徴天皇制の両者がある均衡点を探りあてようとしている、といってもいいだろう。
そしてその均衡点をどのようにして慎重かつ冷静に維持していったらいいのか、
そのための知恵と工夫がいま求められているのではないか。
第二に、後者の「象徴家族」と「近代家族」の問題はどうだろうか。
この両者の関係が、伝統と革新という言葉をあてはめて考えればわかるように、
いってみれば天皇家2000年の歴史にもかかわる難しい課題を抱えている。
「天皇」という存在それ自体がその二重性を背負いつづけてきたといってもいいだろう。
そのような観点に立つとき、この平成の時代における天皇・皇后両陛下は、一見矛盾し対立するようにみえる
象徴家族と近代家族のあいだに調和の関係を築き、みごとな均衡点を見出されてきたように思う。
ところがそれにたいし、皇太子・同妃殿下のご家庭においては、その両者の調和の関係に揺れが生じ、
したがって均衡点も定まらないような状況が、さきにものべた通り、ときにきわ立つようになっている。
そこに「天皇家の危機」が静かにしのび寄っているのではないか。
宮内庁の発表、メディアの報道がその懸念をひろめ、国民の関心を呼ぶようになっている。
いま天皇家2000年の歴史ということをいったけれども、
すでに平安時代、宮中の正月行事は天皇を中心に神道と仏教が並立する形でおこなわれていたことを思いおこそう。
まず元日からの一週間は神職によって執行される「前七日の節会」
そのあとの第二週が仏教僧によっておこなわれる「後七日の御修法」である。
神仏共存のシステムにもとづく宮中祭祀の、いわば原型であった。
それが明治の変革によって、神仏分離令が発せられて神道一色による宮中祭祀へと再編成されることになった。
それに呼応するように明治国家の骨格がさまざまな形で「近代」の洗礼をうけることになるのであるが、
しかし天皇家における「象徴家族」としての性格は、その政治的変革をのりこえて受けつがれてきたのだといっていい。
王権の正統性は宮中祭祀にもとづく「象徴儀礼」によって保証されていたのである。
それが敗戦をへて、戦後の象徴天皇制へと、今日の目からみればスムーズに移行していったとみえるのである。
いま皇室はようやく、成熟の時を迎え、その峠を越えようとしているのかもしれない。
平安時代の天皇・皇后は、その峠を慎重に足元をかためながらのぼってこられた。
お二人の辛苦みちた道のりが、現在の天皇・皇后の温容と親和の表情をつくりあげているのだろう。
象徴家族と近代国家のあいだに、国民のこころにとどく安定した均衡点を見出された結果であるとみることもできる。
その均衡点が、皇太子・皇太子妃の場合、もしかすると近代家族の側にぶれはじめているのではないだろうか。
さきにのべたせっかくの成熟の峠が、むしろ皇室における軋を演出しているとすれば、
それはわれわれの豊な社会が同じ成熟のときを迎え、
「近代」そのもののあり方を問い直す時期に入っていることと関係があるかもしれない。
もしも皇室に危機がしのび寄っているとすれば、
日本の社会が成熟の峠をいまだ十分にのりこえることができないでいるためなのだろう。
雅子妃の憂愁をおびた表情と、ときに示される孤独な影のなかに、
私はそのような時代の変化に適応できないでいるお二人の、内省する思いをかいまみることができるような気がする。
そして宮内庁やメディアによって伝えられるような、雅子妃の宮中祭祀への不参加報道が、
かえって適応障害の「病状」をそのまま停滞させることにつながっているのではないかとも思う。
同時にそれが、皇太子における「近代家族」への傾斜を深めるとともに、
「象徴家族」としてのあり方へのわれわれの不安と違和感を増幅させている、
その悪循環の輪がひろがりはじめているのではないだろうか。
しかし、今思い返せば鮮やかに蘇る光景があったことに気づく。
20年前のご成婚のとき、皇太子さまが雅子さまにむかって
「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」といわれた、あのまことに率直でさわやかな言葉、である。
そこには、いついかなることがあっても一個の人間としての愛をつらぬくという決意がこめられていたと思う。
いってみれば、結婚するにあたっての、皇太子における「人間宣言」であった。
たんに皇位を継ぐのではない、自立した人間として皇太子の地位を選びとる、という姿勢さえ
そこにはにじみでていたように思う。
そのご決意は平成16年、失意のなかにある雅子さまをかばう形で、
「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」という発言につながったのであろう。
それはたしかに、天皇・皇后をはじめ多くの国民を驚かす発言ではあったが、
皇太子の身になってみれば、ご結婚いらい一貫している態度であり、立場でもあった。
近代国家を維持しつづけようとする一途な思い、といってもいいだろう。
しかし現在、そのような皇太子ご一家のあり方にたいして、
国民もメディアもかならずしも暖かい眼差しをむけているわけではない。
それがいい過ぎであるというなら、多少の不安とやや過剰な期待の目をむけているといいかえてもいい。
そしてその眼差しがいつか、冷たい非寛容な視線へと転じていくかもしれないのである。

第三の「人間宣言」として
率直に申しあげることにしよう。皇太子さまと雅子さまは愛子さまとともに、
いわば第二の人生を選ばれてもいい時期に際会しているのではないだろうか。
皇太子さまによる「退位宣言」である。象徴家族としての重荷から解放され、
新たな近代家族への道を選択して歩まれる「第二の人生宣言」といってもいい。
その人生の道はおそらく芸術と文化の広々とした森に開かれているにちがいない。
敗戦直後の昭和天皇による「人間宣言」、平成時代に入ってご自分の葬儀にふれられた現天皇の第二の「人間宣言」、
そしてもしも皇太子さまが退位のご決意を表明されれば、それは第三の「人間宣言」として国民のこころにひびき、
暖かな共感の波をよびおこすのではないだろうか。
そして、そのように選びとられた第二の人生の生活の場として、
1000年の都であった京都の地ほどふさわしいところはないのではないかと
私は思う。天皇家のまさに父祖の地であった京都は、
御所の森を中心に数々の寺社をその奥深いふところに抱え、緑したたる
なだらかな山々に囲まれた美しい都であった。その地に居を移すだけで、
雅子さまの病状もゆっくりと回復にむかうであろう。
豊かな自然の環境に包まれ、自然な歩みのなかで快癒の実りを手にされるはずである。

いま、皇太子さまの「退位宣言」ということをいったけれども、
これは具体的には弟君、秋篠宮殿下への「譲位宣言」を意味するだろう。
それがはたして、国民のあいだに、どのような反響を呼びおこすか、いまの私にははかりがたい。
けれども、皇太子さまのご発言と雅子妃の病状がひろく伝えられているなかで、
弟君が控え目ながらそのつど意見をのべられ、貴重な助言をお二人に与えておられたことがつよく印象にのこっている。
人間としての思いやりと逡巡の複雑なお気持があったと推察されるが、
それでもそれをあえて口にされた秋篠宮殿下には、兄君の窮地を助けようとする態度がにじみでていたように思う。
お子さま方にたいする教育方針にも自立的な生き方がうかがわれ、
好感を寄せる人々も多いのではないだろうか。
兄君は文系の歴史、弟君は理系の生物と、分野を異にする学問に精進してこられたことも好ましい光景であった。
その秋篠宮のご発言と立居振舞いが、皇室における象徴家族と近代家族という二重の性格を均衡させる安定的な地点に、
より近くお立ちになっているように私の目には映っているのである。皇太子による寛大な「退位宣言」が、
その「譲位」へのご意見とともに秋篠宮に自然な形で受け継がれていくことを願わずにはいられないのである。
譲位とは、もともとは在位中の天皇がその「位」を譲ることを意味していた。
すでに「日本書紀」にいくつかの事例がでてくるが、
その譲位時の法的な次第は嵯峨天皇以後の事例にもとづいて「貞観儀式」で定められている。
それが明治の「皇室典範」で改められて終身天皇制となり、廃止されてしまったのだという。
譲位は、平和裡に王権の継受をおこなう制度だったといってもいいのであるが、
ここに登場する嵯峨天皇は、さきにもふれたように
今上天皇が皇太子時代に言及された「写経の精神」をまさに体現するタイプの天皇だった。
ありうべき理想の象徴天皇のモデルであった。
重ねて、つけ加えておこう。今上陛下は、即位時の朝日新聞社の問い合わせにたいし、
愛読書として宮崎市定の「雍正帝」をあげられていた。
雍正帝は康煕帝の息子で、父親以上に精励し、中国皇帝史でも父とともに屈指の名君とされてきた。
その妃は、康煕帝の選んだ貧家の出身だった
という(福田和也『美智子皇后と雅子妃』文春新書、平成17年、78頁)。
さきに紹介した「百済」との縁についてのご発言とともに、
今上陛下の幅広い国際感覚を示す、まことにさわやかなエピソードといっていいのではないだろうか。
ここであらためて、世紀の「退位宣言」として世界の耳目をあつめた英国のウィンザー公の例を思いおこす。
公は、みずから望む結婚の意志をつらぬき、王位と祖国を捨ててフランスに移り住んだ決断の皇太子であった。
公はフランスが国境をこえる芸術と文化の都であることを、誰よりもよく知っていたのかもしれない。
かつてわが国の歴史においても、その危機の転換点に、聖徳太子というさっそうとした皇太子が立っていた。
太子は旧態依然とした氏族社会のしがらみを打ち破って、十七条憲法を制定した人物として知られる。
その「憲法」の第一条には「和をもって貴しと為す」の言葉が出てくるが、
それは旧来の慣習や観念をのりこえ、新しい秩序をつくるための理念として主張されたものだったと、私は思っている。
聖徳太子は、あるいは未完の天皇だったかもしれない。しかしながら、
その一個の人間として積み重ねた「徳」が、まさに「聖」なる価値を担う象徴として後世への輝かしい導きの道標になったのである。

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皇室の苦悩、社会の危機 山折哲雄さんに聞く
2013年03月25日
宗教学者の山折哲雄さん(81)が月刊誌「新潮45」3月号に寄稿した「皇太子退位論」が反響を呼んでいる。
皇位継承順位第1位の地位を変更するという提言だけに、
「今の皇室典範では無理」「デリケートな問題だが議論はするべきだ」と雑誌などで賛否両論が噴出している。
寄稿は「皇太子殿下、ご退位なさいませ」と題された。皇太子妃雅子さまの長期療養が10年目に入り、
国民から求められる皇室の公的な家族像である「象徴家族」の役割が、皇太子ご一家の重荷になっていると指摘。
国民やメディアが「多少の不安とやや過剰な期待の目」をご一家に向けており、「その眼差(まなざ)しがいつか、
冷たい非寛容な視線へと転じていくかもしれない」と書いた。
一方で、戦後はぐくまれた私的な家族像を「近代家族」と規定。「皇太子さまと雅子さまは愛子さまとともに、
いわば第二の人生を選ばれてもいい時期に際会しているのではないだろうか」と、皇太子さまが「近代家族」を選び
「退位」を宣言することを提言。「弟君、秋篠宮殿下への『譲位宣言』を意味するだろう」と論を展開した。
山折さんは、この件でメディアには口を閉ざしてきたが「総合的な社会・人文科学論として検討を進めるべきだ」
として、朝日新聞記者の取材に応じた。
■権威と政治の均衡崩れる

 ――なぜ寄稿したのですか。
「宗教学研究の立場で長く天皇の意義を考え、2005年に『皇室典範に関する有識者会議』で、
女性天皇や女系天皇を認める意見を述べた。昨年10月に、政府が皇室典範見直しに向けた論点整理を発表したが、
議論は前進していない」

「私の中で危機感と憂いが深まったのか、昨年11月23日号『週刊朝日』の対談で皇位継承について短く発言した。
それを読んだ『新潮45』編集部から執筆を強く勧められました」

 ――皇太子ご一家を取り巻く状況をどう見ますか。
「雅子さまの療養には心を痛めます。私が『退位』にふれたのも、皇太子さまのお気持ちを察してです」

「平成になっての皇室批判や皇太子さまの『人格否定発言』(04年)への反応をみると、寄稿でふれたように、
国民もメディアも皇室に必ずしも温かいまなざしを向けていない。こちらの方が深刻です」

 ――というのは?
「皇室への国民の視線が冷たく非寛容になるのに歩調を合わせ、社会も冷たく非寛容になったようです。
皇太子ご一家に象徴される皇室の苦悩が、先を見通せない私たちの不安に重なります。
東日本大震災や原発事故、朝鮮半島、東シナ海情勢など、どうも平和な時代が危うくなっている。
そんな時代の雰囲気が、天皇家の危機と根っこでつながっている気がします」

 ――なぜでしょう。
「日本の歴史を振り返ると不思議なことに、平和な時代には、天皇の宗教的権威と現実の政治的権力との
均衡がとれてきた。江戸の250年しかり、戦後の68年間もそうです」

「政治学者の佐々木毅さんと01年に読売新聞紙上で書簡をかわした時にも、私は宗教的権威と政治的権力の
均衡論を説いた。それを受け佐々木さんは、多神教的な価値観の『すみ分け』を再生産する社会的装置の
維持が秩序を保ち、『天下停滞』が目に余ると、強いリーダーへの渇望が生まれると指摘しました」

 ――いま、強権的な指導者を求めるのは、均衡が崩れたからですか。
「だからこそ、象徴天皇制の下で宗教的権威と政治的権力の均衡を図るべきです。宗教、政治の両面から
天皇を専制君主にして、破局を招いた戦前の教訓を忘れてはならない」

 ――どうすればよいと。
「社会を安定させてきた象徴天皇制について、一人ひとりが、皇室典範の見直しを視野に入れた法律論をはじめ、
歴史、文化、宗教から総合的に考えること。寄稿したのは、議論を少しでも進めたかったからです」
(聞き手=編集委員・森本俊司)

やまおり・てつお 1931年米国生まれ。東北大助教授、国際日本文化研究センター所長などを歴任。
著書に『天皇の宮中祭祀(さいし)と日本人』『近代日本人の宗教意識』など。



「退位」を求める声まで出た皇太子さま53歳の「哀しき誕生日」
(週刊朝日 2013年03月08日号配信掲載) 2013年2月27日(水)配信
2月23日、皇太子さまが53歳の誕生日を迎えた。
いまの天皇陛下が、平成の御世を継いだ55歳という年齢に近づきつつある。
そうしたなか、誕生日に公表された写真と動画に、ひとりぼっちの皇太子さまが写っていたことが
関係者に波紋を広げている。
皇太子さまの53歳の誕生日に向けて発表された写真を目にした人は、誰もが驚きを隠せなかっただろう。
昨年までは家族団らんの写真と動画だったのに、今年は皇太子さまが一人でポーズをとる写真と、
東宮御所で書類などを前に、やはり一人で机に向かう動画だったからだ。
「マイホームパパ」の皇太子さまに、何か心境の変化があったのか。ある宮内庁幹部はこう話す。
「写真を見た瞬間は、ぎょっとしますよね。私も一瞬、家庭のことばかり優先すると非難の声もあがっているので、
あえて一人にしたのかとも思いました。皇太子さまは、他人の評価を気にする方ですからね」
そもそも、今年は例年にない混乱と困惑の中で迎えた誕生日だった。
「皇太子殿下、ご退位なさいませ」
こんな衝撃的な見出しが躍る月刊誌「新潮45」が発売されたのは、誕生日の5日前のことだ。
提言の主は宗教学者の山折哲雄氏。山折氏は、国民と皇室の信頼関係が揺らぎつつあるとして、
「皇太子さまと雅子さまは愛子さまとともに、いわば第二の人生を選ばれてもいい時期に
際会しているのではないだろうか」と指摘した。同氏は本誌昨年11月23日号の対談でも、
「皇太子さんは第二の人生を模索されてもいいんじゃないかと思うんです」「退位宣言ですよ」と語っている。
1月の東宮大夫会見では、皇室担当の記者から、皇太子さまの公務の日程がガラガラだという質問も出た。
「壮年皇太子の公務日程が空欄ばかりだ。同じ時期、両陛下の予定は(用紙が)3、4枚になっている」
ある記者はこう指摘し、「紙がもったいない」とまで言い放った。
皇太子ご夫妻に公務への積極性が見られないという指摘は、これまでにもあった。
そのたびに、東宮職の幹部たちは、こんな釈明をしてきたものだ。
「皇太子ご夫妻は、(両陛下より)出しゃばりすぎてはいけないと遠慮しておられるのです」
そうした意識が、震災関連の行動にも表れているのだろうか。12年以降の天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻、
秋篠宮ご夫妻の動向をみると、皇太子ご夫妻が震災に関連して行動したのは3件だけ。
昨年2月に心臓のバイパス手術を受けた天皇陛下と献身的に看病した美智子さまは11件、
秋篠宮ご夫妻は15件で、圧倒的に少ない。
今年の誕生日に先立って行われた会見で、皇太子さまは真っ先に東日本大震災のことをあげて、
2月初旬に宮城県石巻市の伝統芸能である神楽を雅子さまと鑑賞したことを説明した。
〈雅子と共に被災地の復興に永く心を寄せていきたいと思っております〉
とも話したが、この表を見ると、“本気度”に疑問符をつけたくなってしまう。ある宮家関係者はこう話す。
「両陛下や両殿下に限らずとも、『被災地はその後、どうなっているのか』と気にかける人間であれば、
自ら関係者に話を聞いたり、被災地や関連する場に積極的に足を運んだりするのはごく自然な行動でしょう」
別の宮内庁幹部も言う。
「両陛下は言葉が独り歩きしないように、行動を伴うようにと常に気をつけておられる。一人ひとりと直に会い、
言葉を交わそうという意識が、公務などの多さにつながっているのです。
それは、秋篠宮ご夫妻も同じではないでしょうか」
一方、皇太子ご夫妻の動静からは、そうした意識は読み取れない。宮内庁関係者はこう批判する。
「何より問題なのは、皇太子さまの言葉に行動が伴わないことです」
最近も、皇太子さまと雅子さまがそろって出かけるのは、愛子さまの学校行事や、
愛子さまが所属するバスケットボール部の交流試合など、ほぼ家庭の行事に限られている。
もちろん、これには雅子さまが長期療養中という事情も影響しているだろう。だが、前出の宮内庁関係者は、
現場での活動より、室内での勉強を好むというご夫妻の性格が、
現場訪問の少なさにつながっているのではないかという。
皇太子さまは昨年1月、学習院女子大で「水災害とその歴史」と題した特別講義を行い、
貞観地震など日本の歴史的な水災害を引用しつつ、東日本大震災を分析した。
今年の誕生日会見でも、自身が名誉総裁を務める国連の「水と衛生に関する諮問委員会」に言及し、
水の研究という観点から、東日本大震災を見ていくと話している。
3月6日には、ニューヨークの国連本部で開かれる「水と災害に関する特別会合」で、
日本の災害の歴史について講演する予定だ。
「雅子さまも歴代天皇の祭祀にはほとんど出ませんが、事前に事跡を学ぶご進講には出ることもある。
皇太子ご夫妻は、室内の勉強がお好きなタイプなのです」(前出の関係者)
誕生日会見で、皇太子さまは昨年春ごろから月に1回程度、秋篠宮さまと天皇陛下のもとを訪れ、
象徴天皇としての体験や考えを聞いているとも明かした。
「大変有意義なひととき」で「本当に参考になる」と感想を述べたが、「勉強」だけに終わらず、
実際の行動につながるだろうか。
ちなみに、冒頭の写真の真相は、
「撮影日は17日ですが、この日は愛子さまがインフルエンザにかかり、
雅子さまも看病で風邪を患っていたんです」(前出の宮内庁幹部)
とのことだった。誕生日の写真が、皇太子さまの決意の表れというのは、うがちすぎだったかもしれない。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20130227-01/1.htm

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皇太子さまに「ご退位」勧める論文が大波紋 「第2の人生を選ばれてもいい時期」
J-CASTニュース 2月28日(木)18時28分配信
宗教学者で、国際日本文化研究センター元所長の山折哲雄氏が、
月刊誌「新潮45」3月号に「皇太子殿下、ご退位なさいませ」という刺激的な題名の文章を寄せた。
皇太子妃雅子さまの病気療養が10年目を迎え、「第2の人生」を選ばれてもいい時期なのではないか、
と投げかけている。
思い切った提言に対して、「自分の意志でやめられるはずがない」
「このまま雅子さまが皇太子妃としての役目を果たせないのなら、ご退位もやむを得ないのでは」と、
議論が巻き起こっている。
■結婚のために王位を捨てた英ウィンザー公を例示
「いま、皇室のあり方が揺れている」
山折氏の論文は、こんな1文から始まる。「心が痛む」のが、
「憂愁の度を深める皇太子・皇太子妃の沈んだ表情」というのだ。
皇太子妃雅子さまが「適応障害」と発表され、治療に入ってから10年目。2013年6月にはご成婚20年目となるが、
その約半分の時間を療養に当てていることになる。これを踏まえて山折氏は、皇太子ご一家のあり方に対して
国民やメディアが「かならずしも暖かい眼差しをむけているわけではない」と指摘、
「冷たい非寛容な視線へと転じていくかもしれない」と危惧する。そこで皇太子さまはご一家で
「いわば第2の人生を選ばれてもいい時期」にきているのではないか」とし、
これを「皇太子さまによる『退位宣言』」と表現。大胆な案を提示したのだ。
過去にも、「週刊朝日」2012年11月23日号で同様の発言をしていた。朝日新聞元編集委員の岩井克己氏との対談で、
皇太子さまの「退位宣言」に言及。「結婚のために王位と祖国を捨ててフランスに移り住んだ
英国のウィンザー公という例があります」と補足している。
皇室典範第3条は、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、
皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる」と定められている。
だが皇太子さまはこれに該当せず、ほかに皇太子さまが地位を退くための法的な根拠は見当たらない。
「一方的にやめる」というわけにはいかないようだ。
それでも山折氏は、皇太子さまが秋篠宮さまに「譲位」され、ご自身は天皇家ゆかりの地である京都を
「第2の人生の場」にされてはどうかと「進言」する。これで雅子さまの病状も回復に向かうだろうというのだ。
同氏は「週刊現代」(3月9日号)の取材に「私があの論文(編注:「新潮45」に掲載された文章)を
一番届けたいのは、皇太子さまです」と語っている。

雅子さまの回復「長い目で温かく見守っていただければ」
「山折論文」はインターネット上でも反響があった。ツイッターの反応を見ると、
「これしか、皇太子ご一家を幸福にする手段はないのではないか」「議論されて良い問題」
と理解を示す声が一定数見られた。
メディア上でも賛否が分かれた。「週刊文春」3月7日号には皇太子さまの30年来の旧友が登場し
「天皇陛下でさえ定年がないのに、皇太子殿下が『やめた、降りた』って言えますか」と怒りの様子で語ったという。
論文では皇太子ご一家が、日本の象徴としての天皇家という「公」の部分よりも、
プライベートな家族としての「私」を重視されているようだとしているが、
この旧友は「健全な生活があってこそのご公務」と反論している。
「女性セブン」3月14日号も大きく取り上げた。複数の識者からコメントが寄せられているが、
高崎経済大学の八木秀次教授は「秋篠宮さまに皇位継承権を譲る」という点に賛成する。
「皇太子さまは、ご自分の家族に精神的な重きを置かれているようで、本来、皇太子として果たされるべき
役割ができていないように感じるから」という。長期療養が続く雅子さまが、
このまま皇太子妃の役割を果たせなければ「皇太子さまのご退位もやむを得ないかもしれない」としながらも、
「現実的には難しい」と答えたのは、元共同通信記者の橋本明氏だ。
皇太子さまは53歳の誕生日に先立つ2013年2月22日の会見で、
雅子さまが療養10年目を迎えたことについての思いを聞かれ、「快方に向かっている」としながらも
「さらに療養が必要です。雅子の回復を長い目で温かく見守っていただければ」と話された。
一方、治療が長期化していることで、いわゆる「セカンドオピニオン」を聞くというお考えがないかとの質問には、
「東宮職医師団が大変よくやっていただいていますし…今のところセカンドオピニオンという考え方は
特にございません」と述べられたという。
http://news.livedoor.com/article/detail/7455477/


元木昌彦の深読み週刊誌
「皇太子退位で第二の人生」可能なのか?皇室典範は継承順位変更に厳しい条件
2013/2/28 16:29
「率直に申しあげることにしよう。皇太子さまと雅子さまは愛子さまとともに、
いわば第二の人生を選ばれてもいい時期に際会しているのではないだろうか。
皇太子さまによる『退位宣言』である。象徴家族としての重荷から解放され、
新たな近代家族への道を選択して歩まれる『第二の人間宣言』といってもいい。
その人生の道はおそらく芸術と文化の広々とした森に開かれているにちがいない。
敗戦直後の昭和天皇による『人間宣言』、平成時代に入ってご自分の葬儀にふれられた
現天皇の第二の『人間宣言』、そしてもしも皇太子さまが退位のご決意を表明されれば、
それは第三の『人間宣言』として国民のこころにひびき、暖かな共感の波をよびおこすのではないだろうか。
そして、そのように選びとられた第二の人生の生活の場として、一○○○年の都であった京都の地ほど
ふさわしいところはないのではないかと私は思う。天皇家のまさに父祖の地であった京都は、
御所の森を中心に数々の寺社をその奥深いふところに抱え、緑したたるなだらかな山々に囲まれた美しい都であった。
その地に居を移すだけで、雅子さまの病状もゆっくりと回復にむかうであろう。豊かな自然の環境に包まれ、
自然な歩みのなかで快癒の実りを手にされるはずである。
いま、皇天子さまの『退位宣言』ということをいったけれども、
これは具体的には弟君、秋篠宮殿下への『譲位宣言』を意味するだろう。
それがはたして、国民のあいだに、どのような反響を呼びおこすか、いまの私にははかりがたい」
これは『新潮45』3月号に掲載された宗教学者・山折哲雄の「皇太子殿下、ご退位なさいませ」からの引用である。
この一文が各方面で議論を呼んでいるようだ。『週刊現代』はその現実味はあるのかと取材している。
今上天皇のご学友で共同通信記者の橋本明は「荒療治ではありますが、現実的な処方かもしれません」と賛意を表している。
英国ウィンザー公は王位と祖国捨てて愛する女性を選択
当然ながら反対意見もあるが、皇太子が譲位することは可能なのか。皇室典範では
「精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故がある」(3条)場合のみ
継承順位の変更を認めると定められている。『皇室手帖』山下晋司編集長は難しいと見る。
「男系男子による継承を運営していく上で、最も重要な規定といっていいですからね。
それでも皇室典範を改正するとしましょう。国会での審議になりますが、
猛烈な逆風を浴びることを覚悟してやり通す政治家がいるとは思えません。昨年(2012年)、
女性宮家創設に関して政府が意見を公募したところ26万件超の意見が寄せられましたが、その多くが反対意見でした」
『週刊文春』では皇太子の旧友がこの文への怒りを露わにしている。
「もしも皇太子さまがやめたいと言ってやめられるくらいなら、とっくにやめていると思います。
それほど皇太子というのは重い立場なのです。(中略)殿下が『私』に傾きすぎるという批判もありますが、
自分の仕事をまっとうするなら、まず家族をしっかり守らないといけない。
健全な生活があってこそのご公務なのです。どうしてその辺りを分かってさしあげないのでしょうか」
週刊文春は公然と退位論が飛び出すような国内の空気を一掃するためにも、
ご夫妻でのオランダ訪問を実現してほしいと結んでいる。
私見だが、かつて自ら望む結婚の意志を貫き、王位と祖国を捨ててフランスに移り住んだ英国の
ウィンザー公のような生き方があってもいいのではないだろうか。
自分が愛した女性のために皇位継承権を捨てるならば、私を含めた多くの国民は納得し、祝福するのではないだろうか。
どちらにしても一番悩んでいるのは皇太子本人である。今はそっとしておいてあげようではないか。
http://www.j-cast.com/tv/2013/02/28167484.html?p=1


皇太子さまへのご退位提言に「一刻も早い方が」と賛同する人も
2013.03.01 07:00
女性セブン2013年3月14日号
宗教学者の山折哲雄氏が『新潮45』3月号に寄稿した
『皇太子殿下、ご退位なさいませ』という論文が波紋を読んでいる。
山折氏は、小泉純一郎元首相(71才)時代に設けられた
「皇室典範に関する有識者会議」のヒアリングで、実際に意見を述べたこともある人物。
その山折氏が皇太子さまにご退位をすすめ、さらに弟の秋篠宮さまに「譲位」してはどうかとも綴っているのだ。
山折氏と同じく「皇室典範に関する有識者会議」でヒアリングを受けた
高崎経済大学・八木秀次教授は、この意見に賛同する。
「山折氏が言われている“退位”とは皇族の身分を離れるというより、
“秋篠宮さまに皇位継承権を譲られてはどうか”というものだと思います。これには私も賛成です。
なぜなら皇太子さまは、ご自分の家族に精神的な重きを置かれているようで、
本来、皇太子として果たされるべき役割ができていないように感じるからです」
八木教授は、雅子さまが宮中祭祀に対して消極的だといわれていることも、賛同の理由として挙げている。
宮中祭祀とは両陛下が最も重要なお務めと位置づける“国家や国民の安寧”をお祈りする儀式のこと。
キャリアウーマンで合理主義的な考えが強いとされる雅子さまは、宮中祭祀の意義深さが理解できず
苦しまれているという報道がかつて出たこともあった。
「皇族は特別な身分が与えられているわけで、そこから宮中祭祀のような特別な職務が発生するわけです。
それが将来、皇后となられるかたが宮中祭祀に対して違和感を持たれているのでは、いかがなものかと思います。
雅子さまが、個の部分を大切にされるのは構いませんが、公的な存在として、
そういった職務を果たされないのであれば、皇室を去るしかないわけです。
これは決して無理な注文だとは思わないのですが」(八木教授)
そして皇位を譲るなら一刻も早いほうがよいと八木教授は続ける。
「両陛下はご高齢ですし、皇位継承こそが、おふたりを悩ませている問題でもあります。
少しでも早く秋篠宮さまに譲られれば、陛下を間近でご覧になり、将来の天皇としての自覚を養うことができます。
秋篠宮さまならば、陛下の精神的・肉体的サポートが充分におできになるのではないでしょうか。
そして次の天皇となられる悠仁さまにも幼いころから、帝王学を学ばせることができますから
大きなメリットとなります」
では、その場合、皇太子さまはどうしたらいいのか。
「皇太子さまにも一宮家として皇室に留まっていただき、秋篠宮さまを支えていただくのが、
いちばんいい形だと思います」(八木教授)
http://www.news-postseven.com/archives/20130301_174196.html


選択2013年4月号
「本に遇う」河谷史夫
「言わねばならぬこと」
「皇太子殿下、ご退位なさいませ」とあったのに打たれた。何に打たれたかというと、そのタイトルである。
簡にして要を得た一文がすべてを語りつくして余剰がない。
山折の挙げる論点はともかく、畢竟いまの皇太子は皇太子であることを辞めたほうがいいとの進言で、
異議はない。誰しも腹の中では思っていたことだ。裸の王様に向かって「王様は裸だ」と叫んだわけである。
新聞に皇太子の誕生日会に皇太子妃は欠席したとあった。こんなことは頻々らしい。
医師団による「適応障害」の治療は十年を数える。心の病は厄介である。
皇太子は単独行が珍しくなく、一方で弟の秋篠宮夫妻の活動が伝えられる。
「君を守ります」と約束して妻を迎えた経緯もある。
皇太子はもう、公務よりも細君の治療専一を選ぶべきではないかと思う人は多い。
それを山折は一言で言い切ったのである。身も蓋もないと言えばそれまでだ。
「辞めたくとも辞められないのです」と、退位規定のない天皇に似て不自由なのだと庇うのがいるが、
先代が」人間宣言」して久しい。必要に応じて人間的な前例を作ればいい。
そも身も蓋もないことを言うしかないことがある。
山折も言わねばならないことを言ったに過ぎない。
あえて言うときは、情緒に引きずられることなく、非人情でなければならない。


週刊新潮2013年3月28日号
「皇太子さま」ご退位論が不愉快だった「雅子さま」と「小和田家」
さる14日に行われた風岡典之・宮内庁長官の定例記者会見では、以下のような場面がみられた。
「長官は冒頭で“皇后さまに比べて雅子さまのご公務が極端に少ない”と報じた女性誌に言及したのです」
とは、宮内庁担当記者。
「記事にある、“ご夫妻で地方行幸啓に出席されて形は、おもに現在の両陛下が築かれたもので、
昭和天皇のお出ましに香淳皇后がお供していたことはあまりない”との記述について、
長官は『晩年はともかく、昭和の時代においても両陛下がご一緒に公務をなさるのは通常の形でした』と
苦言を呈したわけです」
それを受け、案の定というべきか、「記者からは『“昭和時代も両陛下ご一緒がご公務の通例”ということは、
現在の皇太子ご夫妻は通常の形ではないという意味ですか』と切り返しがありました。
長官が何ら動じずに、『晩年は香淳皇后もご一緒ではなかった』と断った上で
『ご体調の状況で、さまざまな違いが出てきます』と、かわしたのです。
が、別の担当記者は、こう指摘するのだ。
「ご高齢による香淳皇后のご不調と、雅子さまのご病気を同列に論じられないのは言うまでもなく、
かえって皇太子ご夫妻のイレギュラーなお振る舞いが印象付けられてしまいましたね」
1月中旬に、皇太子さまのご公務の少なさが東宮大夫の定例会見で取り沙汰されたことは、本誌でも報じた。
ことほどさように、ご夫妻は現在、逆風下におかれているのだ。

無邪気な娘と大喜びの父
現行の皇室典範には、〈皇嗣(皇位継承第1位の者)に、精神若しくは身体の不治の重患があり、
又は重大な事故があるとき〉に限って、皇位継承の順位を変えられるとある(第3条)。
したがって論文にいうところの「ご退位」は、現実的にはきわめて難しいわけだが、
それでも、こうした議論が生まれてしまう状況に、皇太子さまがお悩みを深めていることは想像に難くない。
また、雅子妃も、「そもそも、地位を退くという話題が出ること自体、
決して快く思し召しではありません」(宮内庁関係者)
が、それは皇太子妃としての務めがままならないご自身を嘆かれてではなく、全く別の理由からだという。
先の関係者が続ける。
「妃殿下は以前から、先々に迎えられる“お立場”について、強いこだわりをお持ちです。
ご公務の日程はいまだご体調との兼ね合いで決まる状態が続いていますが、将来の皇后さまになられる
ということには、大いに意欲を見せられているのです。ご家族を含めた周辺の中には、
『今を耐えれば、次代には--』といったお声掛けで励ましている人もいるといいます」
そのお立場も、皇太子さまあってのもの。
「一方で妃殿下は、愛子さまについては、皇室という空間から解き放ち、幸せになってほしいという思い
を強くお持ちです。女性宮家の議論がどうなるにせよ、「ご本人の意思を尊重したうえで」との条項
は残されるでしょうから、その際には間違いなく愛子さまを民間に送り出すとみられます」(同)
ご自身が苦しまれた「特別な環境」には、間違っても残したくないというのだ。
振り返れば2009年、今上天皇のご学友でジャーナリストの橋本明氏が、著書で「廃太子」論を展開したことがあった。
むろん、当時も議論を呼んだものの、今回の山折論文とは似て非なるものだという。
「皇太子殿下はきちんとご公務を全うされており、私は、問題はもっぱら妃殿下にあると考えています。
仮にこのまま皇后になられたら大変なことになると危惧し、ならばいっそ「廃太子」をと、
あえて持論を申し上げました。妃殿下がいらっしゃらなければ、思慮深く行動力のある殿下が、
皇后不在のまま天皇になるのがよろしいかと思います」(橋本氏)
とはいえ、それもまた現実的ではなく、「一時期、ご夫妻の“離縁”の可能性を論じた報道がありましたが、
妃殿下の皇籍離脱など、現状ではありえない話です。ご成婚の際に『一生全力でお守りする』と明言された
殿下は、その後の人格否定発言も然り、必死で妃殿下を庇われるお姿を貫かれております。
ご夫婦の絆は、報じられている以上に、はるかに強固なのです」(東宮関係者)
であれば雅子妃は、なおのこと一連の議論を煩わしく思われているに相違ない。
そうした感情は、陰に陽にバックアップを続ける人々にも通じるという。
ご成婚後、小和田家による雅子妃への度を越えたコミットメントが指摘されてきたのは、ご存知の通りだ。
評論家の西尾幹二氏が言う。「ご夫妻の抱えられる問題には、雅子妃のご病気とともに、
小和田家の思惑が大きく関係していると見るべきです。
実父の外交官、小和田恒氏は、伝統的な日本文化を理解しているとは言い難い人物です」
雅子妃も同様で、「ご夫妻が初めて出会われたのは86年10月、来日したスペイン王女のレセプションの場でしたが、
帰宅した小和田雅子さんは母方の祖母に『パーティーで浩宮さまという方にお会いしたけれど、偉い方なの?」
と尋ね、祖母に『将来の天皇になられる方よ』と教えられたという逸話があります」(皇室ウオッチャー)
帰国子女という事情を差し引いても、一般的な日本人とはかけ離れた感覚をお持ちなのはお分かりだろう。
一方、父君についてはこんな秘話が―。ある外務省OBが明かす。
「80年代、雅子さまがお妃候補に薦されてメディアにお名前が出始めた頃のことです。
ある日、小和田恒さんは皇室に幅広い人脈を持つ外交関係者を交え、会食する機会がありました」
席上、タイムリーな「娘の行く末」が話題にのぼったという。
「小和田さんはその関係者から、『本当のところ、お嬢さんはどうなんですか』と水を向けられ、
『私どもはさっぱり分かりません。まさか宮内庁に問い合わせるわけにもいかず、どうすればいいのか』
と困惑の体でした。それでも、『皇室に嫁ぐとなれば、こんな光栄なことはありません。ぜひお願いします』
と大喜びだったので、この関係者は魚心あれば水心とばかり、さっそくその日から縁談をまとめるべく、
人脈をたどって手配を始めたのです」(同)
現在、お二人のロマンスについては、皇太子さまが初志を貫かれ、お心を決めかねている妃殿下ならびに
小和田家側がその熱意に折れた、というストーリーが“定説”としてまかり通っている。
が、実際には最初から小和田家は大乗り気だったというのである。
この時点で「未来の皇后」という、本来はきわめて重いはずの地位も、もちろん見据えていたことだろう。
こうした経緯を遡れば、「ご退位」云々などと聞かされ、一家もまた穏やかでいられるはずはない。
再び西尾氏が警鐘を鳴らす。
「小和田氏は、近代的かつ欧米的な個人の自由の概念を皇室に持ち込もうとしているのは間違いなく、
無垢な皇太子殿下にとってはきわめて刺激の強い新鮮な概念でしょう。
そのため、すでに小和田家に取り込まれてしまっていると推定されます」
皇室評論家で文化学園大学客員教授の渡辺みどり氏が言う。
「昭和、平成と続いてきた両陛下揃っての姿を、次代にも求めるのが国民の心情です。
それが叶えられそうにない状況が続いているがゆえに、殿下にも批判が向けられてしまうのです」
はたしてご夫妻は、自ら解決の糸口を見つけることができるだろうか。


朝日新聞2013年4月9日夕刊 文芸/批評
論議よぶ「皇太子退位論」 山折提言に批判・反響
宗教学者・山折哲雄が月刊誌に発表した「皇太子退位論」が議論を呼んでいる。
強い批判が上がっている一方、象徴天皇制の本質にかかわる問題提起だと受けとめる声もある。
違法行為/譲位も可能/国民次第
山折が皇太子さまに「退位」を勧める提言を公表したのは今年2月だった。
メディアと世論の一部に皇太子ご一家への冷たい視線があり、このままでは皇室と国民の関係に危機が訪れ、
ご一家のためにもならないかもしれないと懸念。
「皇太子さまと雅子さまは愛子さまとともに、いわば第二の人生を選ばれてもいい時期に
際会しているのではないだろうか」と、皇太子さまに「退位宣言」を勧める内容だった。
論壇ではこれに対し、保守系メディアを中心に批判や反響が相次いでいる。
たとえば週刊文春は、「ご友人が怒りの猛反論『やめられるなら、とっくにやめている!』」
とする記事を載せた(3月7日号)。「皇太子の旧友」を主語にする形での強烈な批判だった。
今回の論点の一つは、提言の実現可能性だ。
作家の竹田恒泰は、皇位継承順位の変更を皇室典範がどう定めているかを検討。
「精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故がある」ことが条件とされる
ことに照らし、皇太子さまの場合は「変更することはできない」と結論した。
そのうえで、仮に万一「職務放棄」がなされればそれは「違法」であり、
「殿下にそれを進言することは、違法行為を推奨するに等しい」とした(新潮45・4月号)
異なる可能性を示唆したのは週刊現代3月9日号の記事だった。
「(雅子)妃殿下の病気を『重大な事故』と認めさせ、
譲位することはできるかもしれない」とする「宮内庁関係者」の見方を紹介した。
違う角度から論じたのは経済学者の佐伯啓思だ。
皇室典範は実は「通常の法律と同様に、国会の議決によって改正できる」ものであり、
「『皇室の判断によって継承順位を変更できる』というように(皇室典範の)法改正をすれば、
『ご退位』はいくらでも可能となる」。天皇制をどう運用するかは
「すべて国民次第ということになっている」のが戦後の憲法体制なのだ――。
佐伯はそう記して、山折提言を「非現実的」とする見方と一線を画した(新潮45・4月号)
公と私という区分に照らして天皇や皇太子に「私」はあるのかという問題も、
今回論点になった。たとえば竹田は前出の寄稿で、「古来、日本では『天皇に私なし』と言われてきた。
同じ論理で皇族にも『私』はない」と論じた。
他方、佐伯は戦後の憲法体制の中に、国民によって正当化されたものだからこそ皇室が「公的」なものになっている、
という構図を読み取った(前出記事)。
そこでは、もし国民が皇室を「私的家族」だとみなし、「皇室のことは皇室が決めればいいじゃん」と言い出せば、
皇室の「公的」な性格は骨抜きになってしまうのだ――と。
ここにある矛盾は「戦後民主主義と天皇制の間の亀裂」を表すものではないだろうか。
佐伯はそう説いて、山折提言を「戦後の天皇制についてのっぴきならない論点を明るみにだしたもの」と評した。
(塩倉裕)

山折哲雄の「退位提言」
「皇太子殿下、ご退位なさいませ」と題し、新潮45・3月号に寄稿された。
提言が事実上、「弟君、秋篠宮殿下への『譲位宣言』を意味する」ものになるとの認識も記した。
皇室には「近代家族」と「象徴家族」の両側面があると指摘。
自由な個人が営む民主的な前者と、国民から求められる公的な家族像としての後者の均衡がカギになるが、
皇太子ご夫妻の場合には両者のバランスが「近代家族の側にぶれはじめているのではないだろうか」と記した。

皇室の風(連載57)岩井克己
山折哲雄の皇太子退位論
山折哲雄(宗教学者)の論文「皇太子殿下、ご退位なさいませ」(『新潮45』三月号)が波紋を広げている。
筆者との対談(『週刊朝日』二〇一二年十一月二十三日号)での提言を同誌編集部の求めで詳述した。
「よくぞ言った」との賞賛や、「不敬」との反発が巻き起こり、同誌同号は完売・増刷の売れ行きだったという。
昨秋の京都での対談は、歴史・伝統談義から天皇葬儀などの皇室儀礼など幅広く五時間以上に及び、
『週刊朝日』に収録できたのは一部にすぎない。問題の山折発言も、文脈をはしょって詰め込まれた。
対談の相方として言っておかねばならないと思うのは、山折の真意は、
「皇太子夫妻を救いたい」との同情だったということである。
ただ、そんな山折があえて「退位」を勧めたところに、事態の深刻さを思う。

対談の文脈を改めて紹介し読者の理解を求めたい。
山折論文は筆者(岩井)との対談(週刊朝日2012.11.23日号)での提言を新潮45編集部の求めで詳述したもの。
対談は5時間以上に及び、「週刊朝日」に収録できたのは一部にすぎない。
対談の相方として言っておかねばならないと思うのは、
山折の真意は、「皇太子夫妻を救いたい」との同情だったということである。
ただ、そんな山折があえて「退位」を勧めたところに、事態の深刻さを思う。
対談の文脈を改めて紹介し読者の理解を求めたい。
(以下抜粋)
山折:戦後の象徴天皇制において皇室の家族のあり方が難しくなってきた。
宮中儀礼と一体化した「象徴家族」としてのあり方。
それと民主主義の価値観に基づく「近代家族」というあり方とが矛盾し始めている。
岩井:将来の皇室のあるべき姿は今後どう変化していくのか。
皇太子夫妻の時代には象徴家族、カリスマというものも薄れていくのではないか。
山折:放っておくと、皇室もイギリス王室の世界にだんだん近づいていく。
プライベートな世界、スキャンダルの暴露が王室の存続を脅かしていくという。
象徴家族というものは対外的にも対内的にも国の窓の役割なのだから、
最小限の祭祀はやっていかなければならない。近代家族の側面はあまり表に出さない配慮も必要だと思う。
岩井:メディアは、皇室といえども人間として様々に伝えるのが役割。天皇・皇后も長い道のりを経て
一つの成熟の姿に辿り着いたように見える。
人間だから、初めは象徴の役割と近代的な個我との間の葛藤や、色んな逸脱とか悩みとかもある。
そんな模索の歩みも国民に伝わるべきではないか。
同じ時代をともに生きたというものが大切では。
雅子妃の場合、象徴家族というエリアに対する適応困難が深刻ですよね。
象徴家族の役割は雅子妃のためにもうやめたら、欧州王室並みにニースで遊ぶなど自由に生きるべきだとか、
そんなことは絶対に許せないと怒る人も。
英国に比べれば日本のメディアは大人しい。
しかし無条件に敬愛せよというわけにはいかない。真実を覆い隠すことはできない。
山折:しかし今の雅子妃の状況、皇太子の状況はあまりにも可哀想。
私はふたりをやはり救いたいな。皇室を救う以前の問題だな。
岩井:救うというのは、皇室の有りようを変えるのか、環境を変えるのか。
雅子妃は明らかに祭祀・儀式を避けている。
象徴家族の部分は皇太子だけなさればいいと言う人もいますが、奥さんが意義を感じていないとなると深刻です。
山折:確かに深刻だが、みだりに離婚なんてしてほしくないと思う。
責任を負うと宣言された訳ですから、結婚のときにね。
岩井:皇太子夫妻は孤独で、様々な人間と関わりを求めているように見えない。
被災地に心を寄せると言うけれど、足を運んだり色々な人を呼んで話を聞いたりする様子もない。
象徴家族の枠割を果たせないことでメディアが批判すると、
「治らないのはメディアのせい」と言わんばかりの主治医の文書が出る。
家族のことで精いっぱいなのかなと。
山折:極端な言い方になるかもしれないが、皇太子は第二の人生を歩んでもいいのじゃないかな。
岩井:第二とは?
山折:退位ですよ。ウィンザー公という例もある。楽隠居しちゃえばいい。
即位してないから辞退ですかね。あとは弟にさっと譲る。
秋篠宮いいじゃないですか。 日本国のイメージも変わりますよ。皇太子と雅子妃の人気も高まりますね。
岩井:そこまでいかなくても、天皇・皇后が春秋に京都に滞在するとか、公務も皇太子、秋篠宮に振り分け、
京都で皇太子、東京で秋篠宮がやるとか。柔軟に構えてもいいかもしれませんね。(敬称略)
http://www.sentaku.co.jp/series/post-2834.php


やめられるなら、とっくにやめている!