高円宮殿下十年式年祭

高円宮さまの十年式年祭営まれる
2012.11.21 11:19
高円宮さまが亡くなられてから10年の命日を迎えた21日、
東京都港区の赤坂御用地内にある高円宮邸で午前中に十年式年祭「霊舎祭の儀」が営まれ、
宮家当主の高円宮妃久子さまのご一家や皇太子さま、秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族13方が臨まれた。
元皇族と親族も参列した。
7月に心臓手術を受けて8月末に退院し、リハビリを続けている高円宮さまの父の三笠宮さまも、
妻の百合子さまといっしょに、つえをつきながら宮邸に入られた。
天皇、皇后両陛下はしきたりに従って参列せず、使いの侍従を送られた。
三笠宮ご夫妻の三男・高円宮さまは平成14年11月21日、
都内で屋内スポーツのスカッシュをしていたところ突然倒れ、心室細動のため47歳で亡くなられた。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121121/imp12112111210002-n1.htm

高円宮さまの十年式年祭行われる 雅子さまも参列
テレビ朝日系(ANN) 11月21日(水)19時51分配信
三笠宮さま(96)の三男・高円宮さまの十年式年祭が行われました。
高円宮さまがスカッシュの練習中に倒れ、47歳の若さで亡くなられてから10年がたち、
東京・元赤坂の高円宮邸で「霊舎祭の儀」が開かれました。7月に心臓の手術を受けた三笠宮さまも参列し、
車から降りて杖をつきながらしっかりした
足取りで宮邸に入られました。21日午後には、文京区の豊島岡墓地で「墓所祭の儀」が営まれました。
式には雅子さまも参列し、午前の儀式に引き続き、
妻の久子さまや長女・承子さまらご家族が静かに高円宮さまをしのばれました。
最終更新:11月21日(水)19時51分
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20121121-00000037-ann-soci

両陛下、高円宮さまの墓をご参拝
2012.11.28 12:45
天皇、皇后両陛下は28日午前、東京都文京区の豊島岡墓地を訪問し、高円宮さまの墓を参拝された。
今月21日には、平成14年に47歳で亡くなられた高円宮さまの十年式年祭が墓地などで営まれたが、
両陛下はしきたりにより出席しなかったため、日を改めて参拝されることになった。両陛下は玉串を
ささげられた後、宮家当主の高円宮妃久子さまと次女の典子さまに声をかけられた。
高円宮さまは三笠宮ご夫妻の三男で、陛下のいとこにあたられる。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121128/imp12112812490002-n1.htm

高円宮さまがキューピッド

サンデー毎日1993年1月24日号
愛を〝予言〟し、初めての出会いをセット
皇太子さまと小和田雅子さんを結びつけた〝キューピッド〟は、
実は高円宮憲仁殿下だった―と明かす皇室関係者は少なくない。
高円宮さまは三笠宮崇仁さまの三男で、現在、国際交流基金に勤務する〝サラリーマン皇族〟。
(略)
キューピッド説の根拠は、皇太子さまがネパールなど三カ国旅行から帰国後の1987年4月25日、
高円宮ご夫妻がお二人を自邸に招き、ホームパーティを開いたことにある。
高円宮さまは、「殿下にご旅行の話を聞こうとお招きし、小和田さんは有望な女性外交官でもあり、
話題も合うと思って、一度ご一緒の機会を作りました」と
明かされる。が、宮家関係者によると、ご夫妻が雅子さんを宮邸に招き、
そこへ皇太子さまが訪問されるという形をとったが、実際は皇太子さまが一足早く着き、
雅子さんを出迎えられ、雅子さんは驚いた様子だったという。
四人は夕食をともにし、食後、皇太子さまは数日前から用意し、
宮邸に持参された三カ国旅行や留学時のアルバムを見せて、思い出などを語られた。
その際、皇太子さまは主に高円宮さまと話されたため、宮妃の久子さまが雅子さんの相手を務める形になったが、
雅子さんが自分の将来や外交官としての抱負などをハキハキと答えるのを見て、
英国留学で現地の学生が自分の意見をはっきり主張している点に感銘を受けていた皇太子さまが、
雅子さんに強い印象を持たれたという。
「実は、久子さまが雅子さんの母親と旧知の間柄で、娘が女性外交官を目指しているのを知り、
一度ぜひ、皇太子さまに紹介したいと思われていたようです」(宮家関係者)
この日は話がはずみ、雅子さんが帰宅したのは午前一時を過ぎていたともいう。
だが、高円宮さまとお二人の間柄は、実はもっと古くからだったのである。
「お二人の出会いは86年10月、東宮御所で開かれたスペインのエレナ王女の歓迎レセプションですが、
当時、東大の学生だった雅子さんを招いたのは、実は高円宮さまだったのです」
こう明かすのは、ある皇室関係者。さらにこう続ける。
「雅子さんが選ばれたのは、父親が外務省高官で、ご本人も外交官志望ということはもちろんですが、
高円宮さまが雅子さんを大変評価されていて、
『小和田さんという素晴らしい女性が外務省に入る』と前から気にかけていらしたからだそうです。
何しろ、高円宮さまは国際交流基金に勤務され、外務省との関係も深いし、
海外留学経験もあるし、久子さまはケンブリッジ大学のガ-トンカレッジを卒業、
翻訳家として活躍され、殿下に英語でプロポーズされたほどの国際派ですからね」
また、別の皇室関係者も、「皇太子さまは最も年齢が近く、国際感覚に富んだ高円宮ご夫妻を信頼され、
いろいろご相談されていたようです。そのお言葉は強い影響力があったと思いますよ」と話す。
高円宮さま自身、「小和田さんほど皇太子妃にピッタリの素敵な女性はいないんじゃないか」
と度々、漏らされている。
また、高円宮さまは脚本家の橋田壽賀子さんとの本誌対談の中(一部未掲載)で、
「我々皇族は外国に出た場合は、やはり日本の顔ということになりますし、
国内においては国民の見本にならなければならない。だからこそ、幸せな家庭を築いていかないとダメですし、
たとえば離婚は皇室典範にいけないと書いてあるわけじゃないが、そういう意味ですべきじゃない」
とされたうえで、「天皇家直系の方々は、皆さましっかりしておられるし、
我々はその手足として、安心して働けます」と話されている。
また皇太子さまの結婚についても、「殿下はご誠実な方で、両陛下も深い愛情で、温かく見守っておられます。
きっと心優しい国際感覚豊かな素晴らしい伴侶が見つかるでしょう」と〝予言〟されている。
まさしく、お二人の〝キューピッド〟であろう。


週刊新潮1993年1月21日号
皇太子妃内定巷談2 
小和田さんを承諾させた皇太子の条件
皇太子殿下と雅子さんの四年十ヶ月ぶりの再会は、昨年八月十六日、千代田区にあるその柳谷邸が舞台になった。
そしてもう一人、この再会までを陰に日向に支えてきたと目されるのが、高円宮憲仁殿下である。
七年前の出会いのときから、高円宮殿下の存在は知られてきたが、
「一昨年(=1991年)九月に東京芸術劇場で中村紘子さんのチャリティーピアノ演奏会があったのですが、
その打上げの席に、高円宮さまが雅子さんを連れてきていたのです」 と消息通が明かす。
「皇太子さまに年齢も近い高円宮さまが、皇太子さまの意を汲んで雅子さんとの間をつないできたのでしょう。
高円宮妃の久子さんと雅子さんの母親優美子さんも旧知の間柄という。


ロイヤルラブストーリー 毎日新聞社 昭和63年7月1日号
皇太子様と小和田雅子さん
「宮内庁など関係者によるお妃選びが具体化しはじめたのは80年前後、皇太子さまが20歳の成年式を迎える頃からだ。
皇后陛下が皇太子妃時代に
「浩宮の結婚についてはもう何年も前に宮内庁長官と東宮大夫にすべてを託し、委任しました」
と会見していることからもうかがえる(87年10月)」

「87年4月25日には高円宮邸で会食。皇太子さまは自分で撮った写真を雅子さんに見せた。
各国王室や皇室の仕事、英国留学の思い出、将来について熱く語ったという。
10月24日には学友の賀陽正憲氏と雅子さんを東宮御所に招いた。皇太子さまは雅子さんに身を乗り出してアプローチした」


天皇家の宿題 
岩井克己氏(朝日新聞記者)
一方、「小和田雅子さん」の名を初めて聞いたのは昭和62年(1987)5月でした。
4月25日に高円宮邸で午前1時まで浩宮と会った女性がいるという聞き込みからでした。
7月16日に外務省経済局国際機関第二課の部屋を訪ねました。
入省3ヶ月の彼女は入り口近く、末席の机から立ち上がって、課の応接室に案内して会ってくれました。
浩宮と会ったことがなぜわかったのか気にして、やや緊張していましたが、次第にほぐれて、
別れ際の屈託ない輝くような笑顔が美しかったのが印象に残っています。


文藝春秋2009年12月号
雅子妃が変えた平成皇室
岩井克己氏
高円宮邸で浩宮様と午前一時まで一緒にいた女性がいると聞いて外務省応接室で雅子様に会った(昭和62年7月)。
外務省の応接室でお会いしたときには困りきっているわけですよ。
「どうして浩宮さまと会っていることが分かったんですか!」
何度も食い下がると「その件につきましては何も申し上げられません」の一点張りになってしまって、
退散を告げるとホッとしてニッコリ笑顔になられたんです。これがとっても屈託のない笑顔でらして。
同時に皇太子妃というイメージとは大分違うな、と思ったのも事実なんです。
「皇室に入りませんか」と言われても、「皇室って何?」といったような感じがあった。
「これは機が熟すとしても、かなりの時間が必要だろう」と思いましたが、案の定それから結婚まで六年かかった。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


憲仁親王殿下
薨去 平成14年11月21日
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20071130154540.jpg

平成14年(2002年)11月21日
愛子様をベビーカーに乗せ一家三人で神宮外苑を散歩

~余談的参考~

■「高円宮殿下」 久能靖 河出書房新社 (2003/11)
ある日、猿之助、宗十郎、段四郎、門之助の四人が宮邸に招かれたときのことだ。
じつはその席には、ご成婚前の皇太子様もおいでになっていたのだが、
のちの皇太子妃に小和田雅子さんが内定したと聞いて、猿之助さんはまたびっくりした。
母小和田優美子さんとは慶應大学で同じ学生劇団に所属し、
猿之助さんの脚本で優美子さんが主演女優を務めていたのだ。共演もしている。

■カメラの行方
WILLの編集長の花田氏が高円宮の思い出話
花田氏と高円宮は飲み仲間だったそうで、あるとき花田氏がカメラの好きな高円宮に
「カメラを貸すから(皇族には貸与のみ可能)赤坂御用地の中を撮ってきてくださいよ」と言ったら
高円宮が「じゃライカを貸してください」と言い、
仕方ないから花田氏が古いライカを100万円以上で手に入れ渡した。
しかしいくら待っても撮ってくれずそのうち亡くなってしまった。
カメラのことは仕方ないと思いながら、高円宮の思い出話として、
そういう話をあるコラムに書いたら宮内庁から電話がかかってきて
「花田さん、カメラをお借りしているそうでお返しします」
「いいです」と断ったがあるとき留守の時に宮内庁の職員が来てライカのカメラを置いて行った。
しかしよく見ると貸した古いライカではなくもっと新しいもののようだった。

■久子さまはフジサンケイグループと関わりが深い
産経新聞社では、高円宮妃久子殿下が日本全国で撮影された鳥の写真でつづるカレンダー
「高円宮妃久子殿下 鳥暦」を発売している。

■日本単独開催でほぼ決定していたW杯を韓国共催に尽力したのは高円宮殿下
関係者が落胆する中、共同開催の意義とやらを熱弁した。映像も残っている。
サッカー協会の上層部の言葉は承服しかねるというニュアンスだった。
日本単独開催を強引に共催にもっていったのは、韓国のチョンモンジュンという国際サッカー連盟の副会長。
高円宮殿下は周囲が危惧していた通り、ほどなくして薨去。

■平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月
徳仁親王が留学を終えて帰国した昭和60(1985)年の頃、
皇室は晩年の昭和天皇を中心になんの問題もなく繁栄を刻み、日本は平和の只中にあった。
後に札幌交響楽団の専属指揮者になる堤俊作は高円宮憲仁親王と親しい友人関係にあった。
日本テレビアナウンサーだった久能靖によれば、
留学を終えて帰国した記念に浩宮をヴィオラ・ソリストに迎えたコンサートをやろうと
堤に提案したのが高円宮憲仁親王だった。
高円宮は球技にいそしむなどスポーツ万能型の青年だった。
冬はスキーを能くし、指導員並みの腕前ですべりまくった。
サッカーW杯日韓共同開催の折、日本サッカー協会は宮を戴き、
結果として憲仁親王が公式な皇室代表として訪韓を果たした。
岡野俊一協会会長(IOC委員)は終始側近く見守った人物だが、
「宮さまの韓国における人気はすばらしく高かった。一生懸命尽くされ、
韓国人もまた親しみをこめて宮さまに接した」と語っている。
宮は単にサッカー競技を観戦しただけではない。
首都ソウルで当時の金大中大統領との正式な会談に臨み、国立墓地を詣でるなど、
歴史的に激しい闘争を抱える両国関係改善のために困難な任務をやり遂げた。
学者たちを招いて宴を張ったり、学校を訪問して現地の人々と積極的に接した。(中略)
オケではチェロを弾く宮だったが、堤俊作指揮者とのつながりから、徳仁親王を堤が持っている
俊友会管弦楽団に迎え、第五回定期演奏会を帰朝記念コンサートとして開催したのだった。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

以下は拾い物

ある皇室記者
昭和帝の御意志や雅子妃の背後の事情を無視し、
皇太子殿下と雅子妃の仲を、自宅を提供してまで取り持った高円宮殿下(故人)と、
佳子さまをご出産された後の秋篠宮紀子妃殿下に、
出産を控えるように圧力を掛けたとされる久子妃に対して、
自分は全く敬意を払っていないし、好意的な考えも持っていない。
秋篠宮様を貶める記事に苦情を言っても
「しかるべき筋からの話だから」と出版社が取り合わなかったそうだ。
しかるべき筋とは、高円宮様
高円宮様は、秋篠宮様ご成婚時、自分たちがいるから彼らに公務の依頼は殆どないのじゃないか?と発言
秋篠宮様に仕事を獲られるのが怖くてあらぬ噂を流していたとも言われている。

新聞記者証言
秋篠宮ご一家の創作悪口を内外に言いふらし、媒体で嫌味な発言連発したのは高円宮様。
高円宮様が皇太子を取り込んでから皇太子と秋篠宮家は疎遠になった。
なにより、雅子様入内を推していたのは高円宮様。
高円宮様が亡くなって皇太子ご夫妻がおかしいのが表面化したのを考えると、
彼が皇太子サイドで相当動いていたのだろうと想像出来る。

皇室関係者
紀子様の都市伝説関係が浮上したのは雅子様が皇室入りする1、2年前
流していたのは創価、外務省、高円宮様
雅子様の不出来を薄めるため、あるいは紀子様になすりつけるという目的があったといわれている。
高円宮様はワールドメイト教祖深見東州との関わりも深く、深見東州は紀子様の誹謗中傷を繰り返している。
その後渋谷氏(のちに雅子様の妹節子さんと結婚)を通じて医療関係者に噂を広げた。
各地で医学部教授等が偽の噂を得意気に吹聴する姿が目撃されている。



ワールドメイトと高円宮殿下
ワールドメイトは会員に「あなたの先祖は皇族だった」などと言っている
深見東州は12月1日発信のメルマガに高円宮殿下に関して
「お亡くなりになった理由として、三笠宮家の霊障が襲いかかった。立山のゼウスが雷を落とした」などと発言。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H14/1412/141261a-fukami.html#01(リンク切れ)
寛仁親王殿下のことはけなすが高円宮殿下とは親しい。
亡くなった後、追悼コンサートも開催。


深見東州と高円宮
日本の伝統芸術21世紀展実行委員会
名誉顧問 : 高円宮憲仁親王殿下
顧  問 : 奥野誠亮 衆議院議員・元文部大臣
会  長 : 小山宙丸 白鴎大学学長・前早稲田大学総長
副会長 : 堀江恭子 美術評論家・国士舘大学講師
深見東州 世界芸術文化振興協会会長(NPO法人)
http://www.fukami.com/htmls/2001/20011029.html


故人と交流のあった人間
高円宮様は一見気さくそうに見えて 実は最も階級意識の強い人だったらしい。
紀子様のご実家をバカにしきっていた。
高円宮様は皇太子には媚びて 秋篠宮様のことは悪口言いまくっていた。

M氏
高円宮様はもともと外務省と関係の深い人。
宮家といえど台所事情は楽じゃなかったから仕事もしていた。
だから恒氏が取り込みやすかった。

K氏
小和田恒氏と鳥取久子さん(高円宮妃久子様)の噂は?
高円宮様は国民と皇室の架け橋などと言っていたけど、基金集めでは色々黒い噂もあった。
高円宮様がお亡くなりになってからパタッと秋篠宮ご夫妻の誹謗中傷が止んだ時期がある。

H氏
あのお方が皇太子を応援していたのは「皇太子」だからでしょう。
雅子さまとあのお方で秋篠宮ご夫妻の文句(目立ちすぎ、出すぎ)を言っていたことも。

ある記者
承子様の成人コメントでも紀子妃懐妊については無視していた。
高円宮様が紀子様を貶める発言を広めていた。
あることないことまで噂を言いふらしていた。
高円宮様がお亡くなりになってから、あきらかに流れが変わった。
(小和田家親族や学会がらみの擁護派からの古い捏造話の蒸し返し以外はなくなった)
秋篠宮様ご成婚時の、特別報道番組内で
「秋篠宮ご夫妻が担われるお仕事は、殆どないだろうと発言。
…テープカットとか、シャンパン片手に乾杯とか、その手の公務そういう、
華やかな場面の公務は自分達が請け負っているから、秋篠宮ご夫妻には、殆ど回らないと。
蓋を開けたら、秋篠宮ご夫妻は大忙し→気に食わないという流れがあったことは確かです。

T氏
小和田雅子さんが皇太子妃候補として名前が出てくるきっかけを作ったのは、高円宮様。
未来の天皇の皇太子夫妻にはおべっかつかって持ち上げていた。
必要以上に庶民派ぶっていたが実はプライドは高く腹黒い面もあった。

森下洋子と高円宮様の対談番組
相手に対する物言いが、高飛車で傲慢。どことなく意地悪さを含んだ感じだった。
高円宮様は、「皇居、赤坂御所には農薬や除草剤のせいで虫一匹いない」などと平然と嘘をつく人。

三笠宮彬子さまトルコご訪問

トルコで大絶賛! 三笠宮彬子さまのお辞儀とネイルに込められた「特別な国」への想い

内橋徹
2018年9月19日 水曜 午後6:30

彬子さまの所作に大反響
9月9日から14日にかけてトルコを訪問された彬子さま。
トルコでも関心が高く、連日その動静が報じられました。
その中でも彬子さまのある所作がトルコ人の大きな反響を呼びました。

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初代大統領アタチュルクの廟に献花・拝礼される彬子さま :トルコメディアより

首都アンカラにある初代大統領アタチュルクの廟。
トルコ建国の父として知られ、トルコ人は時の政権を好む好まざるにかかわらず、
初代大統領アタチュルクを尊敬しています。
10日に、そのアタチュルクの廟を訪れた彬子さまは献花し、深々とお辞儀をされました。
この姿に多くのトルコ人が驚きとともに感銘を受けたのでした。

SNS上ではトルコ人から「なんて素敵な、なんて気高いプリンセスなのだろう!素晴らしい!」
「アタチュルクにこれほど優美に敬意が表されたことが未だかつてあっただろうか!」
「日本人は、日本国に、環境に、自国の価値に対して敬意を払うことを学んでいる。
我々もその方法を見習うべきだ。」と彬子さまの振る舞いが絶賛されたのです。

トルコを訪れる海外要人は必ずと言っていいほどアタチュルク廟を訪れますが、
このような反応が出るのは珍しく、あるトルコ人は、
「献花をするだけの人が多い中、あそこまで綺麗に深々とお辞儀をする方を見たのは初めてだ」と話していました。
トルコ人は、自分たちが尊敬するアタチュルクに対し、彬子さまが多大な敬意を示されたことに感動したようです。

国旗を描いたネイルアートも話題に

また、トルコ外相と面会された際には、彬子さまの手元がクローズアップされ話題になりました。
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話題になった彬子さまの手元   :トルコメディアより
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日本国旗とトルコ国旗をあしらったネイル。
細部まで気遣い、日本とトルコの友好親善のお気持ちを示された彬子さま。
まさにトルコ人はハートをつかまれたのでした。
このほかにも彬子さまが各地を訪問される様子は連日報道されました。

28年前の同じ月日に訪問されたご両親の記帳
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イスタンブール市内のベイレルベイ宮殿(オスマントルコ時代の離宮)を鑑賞された彬子さま。
宮殿には28年前の同じ日に記された、父・寛仁さまと、母・信子さまの記帳が残されていました。
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今回、トルコの海事博物館に旧日本軍の軍艦「清輝」の模型が贈られました。
「清輝」は1878年に初めてトルコに寄港した日本の軍艦で、入港140周年を記念して寄贈されました。
模型とともに展示される木札は、戦艦「三笠」の甲板の一部で、彬子さまが「清輝」と書かれたということです。

トルコは「特別な国」

彬子さまのトルコ訪問は今回で7回目を数え、トルコとの繋がりについて「特別な国」だと述べられています。
「トルコは私にとりまして特別な国です。私が生まれて初めて訪れた海外の国はトルコでした。
父が、初めての私の海外行きを許して下さったのは私が高等科の二年生の時でした。
祖父である三笠宮殿下が、長年支援をされてきた、カマン・カレホユック遺跡を
どうしても見てみたいとお願いをしたのです」

彬子さまがトルコを訪問されるきっかけとなった、トルコ中部のカマン・カレホユック遺跡とは、
三笠宮さま・寛仁さまの支援を受けた日本の調査チームが30年以上に渡って発掘を続けている遺跡です。
出土した遺物を保存・研究するだけでなく、専門家や考古学者の育成も行われていて、
日本とトルコの学術研究における交流の懸け橋にもなっています。
遺跡の発掘、研究を今後も継続できるように、トルコでは去年、「三笠宮記念財団」が設立され、
彬子さまが総裁に就任されました。

13日に行われた記念式典で、彬子さまは「三笠宮家親子三代の想いが込められた研究所の活動を
永続的に支えていくために三笠宮記念財団がトルコ政府の認可を頂き設立されました。
この財団の総裁を引き受け致しますことは三笠宮家に連なる者として大変ありがたく、
また多くの責任も感じております。」と述べられました。

親子三代に渡って築き上げてこられたトルコとの絆、そして今回の彬子さまのご訪問は
日本とトルコの友好親善だけではなく、トルコ人の心に残る印象深いものになったようです。

(執筆:FNNイスタンブール支局長 内橋徹)

https://www.fnn.jp/posts/00364480HDK

話の肖像画 彬子女王

2015.6.1 08:20更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(1)
薨去3年 父の偉大さ実感
〈6日で父、寛仁(ともひと)親王殿下が薨去(こうきょ)されてから丸3年を迎える。
彬子さまは、寛仁さまが取り組まれてきたご公務のうち、
日本・トルコ協会、日本職業スキー教師協会、中近東文化センターの各総裁の役職を引き継がれている〉

3年がたち、父がなさってきたことの大きさを感じています。
父の公務を私が国際交流関係とスポーツ関係、妹(瑶子(ようこ)さま)が社会福祉関係と分けて引き継いでいますが、
父がこれを一人でされていたということに改めて尊敬の念を抱きます。
全てのお仕事に対して本当に全力投球で責任を持ってやっていらっしゃいました。
新しいことを始めるときには「父だったらなんとおっしゃるだろう」と考えます。
ですが、あまりとらわれすぎてもいけないと最近は思うようになりました。
1年目は「本来であれば父がごあいさつするところでございますが…」と、父の代理というつもりでやっていましたが、
2年目からはできるだけ私自身の言葉で伝えることが重要だと感じています。
私の公務については、父の生前から一緒に行っていたものがほとんどです。
おそらく父は「お前にも関わりがあるから見ておけよ」というようなおつもりであったと思います。

〈寛仁さまは裏表がないお人柄で、「議論好き」としても知られていた。
一方で、皇族としての振る舞いには非常に気を配られていた〉

議論はよくしておりました。無意味な会話がお嫌いなので、「じゃあ、お前はどう思うんだ」という感じで。
父は親子というよりも、人生の先輩として娘たちに接しておられたような気がします。
初等科のころに学校行事に来てくださった記憶はあまりありません。
ご公務などでお忙しくされていましたし、議論ができない子供にはあまり興味がおありにならなかったのかもしれません。
私が高等科ぐらいになって、同じ土俵に上がって会話ができるようになってからの方が父との記憶は強く残っております。
私の知らなかった父の仕事のときの姿を耳にすることもあります。
「ホテルの部屋でずっとお酒を飲ませていただきました」というような話も聞かせていただきますが、
それはやはりそうでしょうね、と思うことなので、イメージとかけ離れていることはありません。
父とはいえ身位が上の皇族さまであり、敬語で話すのが当たり前だと思ってきましたので、
友人の家に遊びに行き、友人が「お父さん、○○取って」と話しかけるのを聞き、
「そういうものなのだ」と衝撃を受けたことがあります。
父からは服装に関して、プライベートな旅であっても、
公共の交通機関に乗るときに「いいかげんな格好をするな」とよく注意をされました。
当時は「面倒だな」と思っていましたが、今思うと、いつ、どこで、誰に見られているか分からないのだから
皇族としては当然のことです。子供のころは実感がなかったのですが、多くの方と接する機会が増えた今になって、
「父がおっしゃっていたことはこういうことだったのだ」とひしひしと感じることがあります。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)

  ◇

【プロフィル】彬子(あきこ)女王
昭和56年12月20日、寛仁親王殿下の長女としてご誕生。お印は「雪」。
学習院大文学部史学科に在学中の平成13~14年と、同大卒業後の16~21年の計6年間、
英オックスフォード大マートン・コレッジに留学し、
「日本美術史」の研究で女性皇族として初めて博士号を取得された。
現在は、京都市立芸術大芸術資源研究センター客員教授兼特別招聘(しょうへい)研究員、
京都産業大日本文化研究所専任研究員として研究を続けられている。
24年4月に自ら立ち上げた一般社団法人「心游舎」の総裁を務め、
子供に日本文化を伝える活動にも携わられている。
http://www.sankei.com/life/news/150601/lif1506010014-n1.html


2015.6.2 07:38更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(2)
祖父母は「人生の目標」
〈祖父の三笠宮さまは今年12月で100歳となられ、祖母の三笠宮妃百合子さまは今月4日に92歳の誕生日を迎えられる〉

人生の目標というか、あのようにお年を重ねていけたらと思います。
俳句という共通のご趣味をお持ちで、季節の移り変わりを同じように感じられて、一句詠まれるということはすてきだと思います。
祖父は昔のご記憶が鮮明でいらっしゃって、軍隊にいらした時のことですとか、
初めて大学で教鞭(きょうべん)を執られた時のお話などを聞かせてくださいます。
私が申し上げるのは僭越(せんえつ)ですが、それをオーラル・ヒストリーとして残しておくべきだと思うところはあります。
祖母からは皇室の習慣、伝統にどういう意味があるのかということをよく聞かせていただきます。
例えば、皇族がなぜ帽子をかぶるのか。祖母に伺うと、「日よけなのよ」とお教えくださいました。
基本的に帽子は明治時代に外国から入ってきたものですが、
当時外に出るときは日よけとして帽子をかぶるのがエチケットであり、マナーでした。
皇族にはその習慣が残っているので外出時は帽子を着用しますが、
午後4時以降の行事では帽子をかぶりません。なぜなら4時以降は日をよける必要がないからです。
皇族の習慣には理由があり、それを次の世代につないでいかなければならないと思います。
祖母は皇室の知識の宝庫でいらっしゃるので、本当にありがたく思っております。

〈父の寛仁親王殿下に続いて、昨年6月には叔父の桂宮さまが薨去(こうきょ)された。
同10月には高円宮妃久子さまの次女、千家典子さんが結婚して皇籍を離脱した。
皇族が減少する中、女性宮家の創設や女性皇族の結婚後の公務のあり方などについて議論が続いている。
彬子さまは別のインタビューで、
女性宮家について「決めるのであれば早く決めていただきたい」と語られたと紹介され、波紋を呼んだことがある〉

当時の報道ではかなりの部分を省略されてしまったので誤解が生じてしまいました。
この問題に関しましては、できればきちんと多くの方で議論していただき、
どこかで変えなくてはならないことだと思っていることは事実です。
現状のように方針が論じられることなく、先送りにするだけになってしまいますと、
その決定次第では人生設計を大きく変えなければならない女性皇族にとって、
大変厳しいことであることを分かっていただきたくて申し上げました。
父の生前は、妹(瑶子さま)ともこの問題について話し合うことがありました。
私たちは結婚したら皇室の外に出るものとして育てられてまいりました。そ
の大前提が崩れるか崩れないかというのは、女性皇族の人生にとって大きなことではありますが、
今は頂戴したお仕事を真摯(しんし)に務めさせていただき、皇族としての務めを果たしていくのみだと私は思っております。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)
http://www.sankei.com/life/news/150602/lif1506020006-n1.html


2015.6.3 06:48更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(33)(3)
戦後70年 記憶を語り継いで
〈戦後70年を迎えるのにあたり、天皇、皇后両陛下は昨年から沖縄、
長崎、広島をめぐる「慰霊の旅」を重ね、今年4月には日米双方で
約1万2千人が犠牲になったパラオ共和国ペリリュー島で全ての戦没者を追悼された〉

本当にたくさんの方たちの心が救われたと思います。
両陛下が国民一人一人に心を寄せられて、ずっと魂の巡礼の旅をされているというのは本当にありがたく、
日本という国に生まれたことを改めて幸せに思います。

〈今や戦後生まれが1億人を超え、全人口の8割を占める。
両陛下は、先の大戦の記憶の継承についても常々心を砕かれている。
彬子さまと妹の瑶子さまは、祖父の三笠宮さま、父の寛仁親王殿下にならい、
英霊をまつる靖国神社を春と秋の例大祭に合わせて参拝されている〉

戦後第1世代の父からは「お前のような世代は戦中も戦後も経験していないのだから、
自ら知る努力をしなければいけない、何かを感じて自分の行動を決めないといけない」と言われていました。
祖父母から直接話をお聞きすること、広島や長崎で資料館に行くこともそうですけれど、
やはり記憶を語り継いでいくことをしていかなければいけないと思っています。

〈三笠宮さまは昭和18~19年に中国・南京の支那派遣軍総司令部に所属されていた。
同妃百合子さまとは16年10月に結婚し、19年4月には長女の近衛●子(やすこ)さんをもうけられた。
百合子さまは終戦時、寛仁さまを懐妊されていた〉

一番苦しい時代での婚礼なので、祖母の服装は十二単(ひとえ)ではなく小袿(こうちぎ)でした。
戦争が終わってすぐに父を出産されたので、本当に大変だったと伺っています。
戦後のつらい状況の中で、レクリエーションが必要だということで、
祖父が率先されてダンスなどを推奨されたそうです。
今の宮邸ではなく、借家に住まわれて、とても少ない予算でやりくりされていたという話も伺いました。
ただ、戦争のつらさはもちろんなのですが、その中でも父が生まれた幸せがあったという話をお聞かせいただくので、
とても心が温まります。

〈フジサンケイグループ主催の「国民の自衛官」の表彰式には寛仁さまが臨席し、平成25年から彬子さまが引き継がれた。
同年のあいさつでは、寛仁さまが軍人だった三笠宮さまと秩父宮さま、
高松宮さまを「大変尊敬されていた」というエピソードを紹介されている〉

父は昔から自衛隊の方たちに心を寄せられていました。
東日本大震災が起こったときには、両陛下をはじめ皇族殿下方が被災者のところに訪問される中で、
「自分は被災者を助けた自衛隊のところに」とおっしゃって慰問に行かれました。
私にとっても、子供のころから自衛官の方たちが身近におられたので、
表彰式への出席を引き継ぐことに違和感はありませんでした。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)
●=ウかんむりの下に心、その下に用
http://www.sankei.com/life/news/150603/lif1506030009-n1.html


2015.6.4 07:44更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(4)
留学記 父との約束果たし安堵
〈英オックスフォード大マートン・コレッジに6年間留学し、日本美術史の研究で女性皇族として初めて博士号を取得された。
1月には留学記「赤と青のガウン」を刊行された〉

祖父(三笠宮さま)が古代オリエントの学者でいらっしゃいますので、
宮邸にはブリタニカ百科事典が全巻そろっていて子供心にも高揚感があるものでした。
分からないことがあって祖父に伺うと、すぐにはお答えにならず、
複数の資料をコピーして届けてくださるのです。少しずつ書いてあることが違うので、
「これが正解というのではなく、あなたの意見をここからまとめなさい」ということだったのだと思います。
資料を見て自分で答えを見つける、学問の面白さを教えてくださったのは祖父でした。
大学2年生で最初の留学をさせていただいたとき、自分が日本についていかに知らないかということを実感しました。
海外では歴史に関しても政治に関しても、日本のことはすべて私に質問がくる。
日本では「専門外なので…」とかわすことができることでも、
海外では「何で自分の国のことなのに分からないの?」と言われてしまいます。
日本人として恥ずかしくない知識を身につけなければと、日本美術を勉強しようと思いました。

〈留学記の執筆は父、寛仁親王殿下と生前から約束されていた。
著書には、寛仁さまの容体が急変されたが、怒られるのを恐れて帰国を断念された秘話も。
結局、研究発表ののちに帰国され、寛仁さまは間もなく息を引き取られた〉

留学中にたびたび帰国したことを「軟弱だ」とよく怒られました。
ですが、私なりの事情がありましたので、父とは何度も戦いました。
父は「自分が負った責任は果たしなさい」という教育方針だったので、
職務でポーランドに出張していたときも行ったからには何もしないで帰るわけにはいきませんでした。
留学記を父に読んでいただけなかったのはとても残念でしたが、約束を果たせたことにはホッとしております。
読んでくださった方からは「こんなにつらい思いをして論文を書いていたのね」とよく言われます。

〈4月からは京都市立芸術大客員教授兼特別招聘(しょうへい)研究員、
京都産業大日本文化研究所専任研究員として研究を続けられている〉

京産大では研究室をいただきました。
大学時代に指導教授の研究室の壁一面に本が並べられているのに、憧れがあったのですね。
「これだけの本を読みこなすと、ああいう立派な先生になれる」という意識があったので、
自分がいざその立場になったことに身が引き締まる思いではおります。
公務がない日は朝から研究室で仕事をしております。
ポットを買って、ティーセットを持ち込み、とても快適な環境になりました。
芸大の方では集中講義もさせていただくことになり、今から楽しみにしています。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)
http://www.sankei.com/life/news/150604/lif1506040021-n1.html


2015.6.5 06:34更新
【話の肖像画】
寛仁親王殿下第1女子・彬子女王(5)
伝統芸能 子供の記憶に種を
〈留学中は大英博物館で日本セクションのボランティアを経験し、帰国後は文化財保護をテーマにシンポジウムも開催された。
平成24年からは一般社団法人「心游舎」総裁として、子供たちに日本文化を伝える活動を続けられる〉

日本の未来を担う子供たちが「ご飯とおみそ汁ってホッとするよね」
「床の間にお花が生けてあるっていいよね」と感じられる心の土壌を育まないと、
日本の文化をつないでいくことはできないと思っています。
子供のうちに能や歌舞伎を見ていれば、大人になって伝統芸能を受け継ぐ重要性に気が付きやすい。
子供たちの記憶に種をまく作業を続けていきたいです。

〈3月には宮城県南三陸町で、神棚飾り「きりこ」のワークショップを催された。
同町とは東日本大震災の復興祈願でチリから贈られたモアイ像が縁となり、交流を重ねられている〉

被災地で年1回活動するのが目標です。ニュースで聞くのと実際に経験された方にお話を伺うのとでは
見えてくるものが違ってきます。私に何ができるだろうと悩んだこともありましたけれど、
皆さんにはつらいことがたくさんおありだったはずなのに、にこやかに迎えてくださる。
構える必要はなかったのだと思いました。
年がたつごとに風化してしまうこともあります。
被災地にはまだ仮設住宅にお住まいで、不自由な生活をしておられる方たちがたくさんいらっしゃいます。
私が活動することで被災地の方々に「忘れていませんよ」というメッセージを
伝えることができればいいと思っています。
復興があまり進んでいない地区もありますが、家が新しく建ち、高台の土台作りが終わっているなど
少しずつ変化を感じます。やはり1回だけで終わりというのではなく、
同じ場所に何度も足を運ぶことに意味があると思います。

〈歌舞伎鑑賞が趣味で、中村勘三郎さんとは家族ぐるみで付き合われてきた。
長男の勘九郎さんとは同学年になられる。
平成24年6月6日に父、寛仁親王殿下が薨去(こうきょ)されたのに続き、同12月5日には勘三郎さんも死去している〉

勘三郎さんには本当にかわいがっていただき、第二の父のように思っていました。
人生の転換点で何度も何度も背中を押してくださいました。
あまり結婚して家族を持つことに現実味がなかったのですが、勘三郎さん一家と出会って初めて「家族っていいな」と思いました。
伝統を受け継ぐということに関して共通点も多いですし、分かり合える部分は多い気がします。
私が初めて見た歌舞伎が勘三郎さんと勘九郎さんの「連獅子」でした。
歌舞伎の何たるかも分かりませんでしたが、赤と白の髪がぐるぐる回るのを見た驚きは今も鮮烈に残っています。
私の連獅子の記憶のように、本物の記憶は絶対に心に残ります。
ほかの子供たちにも同じような経験をしてもらえたらと思っています。
(聞き手 伊藤真呂武、今村義丈)
http://www.sankei.com/life/news/150605/lif1506050006-n1.html

彬子さま、日本古来の文化を子どもに伝えるプロジェクト立ち上げ

彬子さま、日本古来の文化を子どもに伝えるプロジェクト立ち上げ
ひげの殿下として親しまれ、6月に亡くなられた三笠宮寛仁さまの長女・彬子さまが、
日本古来の文化を子どもたちに伝えるプロジェクトを立ち上げ、有志の仲間とともに活動を始められた。
かがり火が暗闇を照らす中、平安時代から1000年以上続く祭りが始まった。
毎年9月15日、京都・石清水八幡宮で行われる石清水祭。
鮮やかな色彩を放つのは「御花神饌(しんせん)」と呼ばれる、和紙で作られた造花。
職人の手によって、毎年命を吹き込まれてきたが、2012年は特別に子どもたちも手伝うことになった。
子どもたちの笑顔の仕掛け人は、彬子さま。
ひげの殿下として親しまれた寛仁さまの長女として、そのご遺志を継ぎ活動されている。
彬子さまは「父は昔から、国民の中に入っていって、国民が求めることをやっていくのが、皇族の仕事だと。
何が自分にできるかなということを考えていく中で見つかってきたテーマが、
子どもたちに日本の文化を伝えていくということだったので」と話された。
スポーツ振興に尽力し、時にはラジオのDJもこなすなど、国民と積極的に触れ合われた寛仁さま。
皇族という身分に自らの行動が制約されることを悩み、一度は皇籍離脱を宣言されるなど、
型破りな皇族としても話題を集めた。
そんな父の背中を見て育った彬子さまが見つけられた、皇族としての仕事の1つが、日本文化の継承だった。
彬子さまは「楽しんで、そして神様に見ていただくということで、
心を込めて作っていただけたらと思います」と話されていた。
彬子さまは2012年4月、次世代を担う子どもたちが、日本文化に触れる機会を増やすために、
民間団体「心游舎」を設立した。
伝統文化は、日常生活の中に残さなければ、衰退していってしまうという危惧がある。
心游舎設立のきっかけは、父と同じイギリス・オックスフォード大学への留学だった。
留学先では、日本美術史を専攻し、女性皇族として初めて博士号を取得。
海外に出ることで、日本文化の良さを再認識された彬子さまは、現在、
銀閣寺の研修道場・美術研究員としても活動されている。
国際シンポジウムでは、日本漫画の海外での取り上げ方を紹介するなど、
外から見た日本文化の魅力を精力的にアナウンスされている。
生前、寛仁さまも「ぜひやってみたらいい」と後押しし、期待を寄せられていた心游舎プロジェクト。
日本の伝統文化に携わる彬子さまと同世代の若者たちも、一緒になって動き出している。
彬子さまは「自分は父のようなことはできないなということを思いまして、
ずっと研究職を続けてきたんですけれども、いざ始めてみたら、結局自分がリーダー的な存在に
ならざるを得なくなりまして、何かちょっと、やっぱり父の血を引いていたのかなぁなんていう」と話された。
最愛の父との思い出を胸に、女性皇族として、彬子さまは新たな一歩を踏み出されている。
(09/18 00:35)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00231695.html

心游舎プロジェクトについて、日本画家の神戸智行氏に聞きました。
ひげの殿下として親しまれ、6月に亡くなられた三笠宮寛仁さまの長女・彬子さまが、
日本古来の文化を子どもたちに伝える心游舎プロジェクトを立ち上げ、有志の仲間とともに活動を始められました。
彬子さまと共にプロジェクトに携わっている、日本画家の神戸智行さんに話を聞きました。

(彬子さまと一緒に心游舎のプロジェクトに携わっていらっしゃいますが、きっかけは何だったのですか?)
私自身、日本画の素材を使って制作をしているんですが、以前から美術館なり、
そういったところで、ワークショップを子どもたちに向けてさせていただいていました。
3月に太宰府天満宮で展覧会をした際に、彬子さまに展覧会を見ていただいて、心游舎のお話をいただき、
それでぜひお手伝いをしてくださいということで、一緒に活動させていただくことになりました。

(お誘いを受けたということですね?)
はい。

(どんなお気持ちでした?)
本当にそういった子どもたちに対して、そういったことができるっていうのは、そういった機会って、
なかなか普通できることがないので、そういった意味では、すごくこれからの日本の文化をつくっていく
未来の担い手たちに、そういった経験ができるっていうのは、いい機会だと思いました。

(お近くで一緒に活動をされていて、彬子さまはどんな方ですか?)
とてもすごく子どもがお好きで、常に本当に心游舎の活動は、子どもたちと一緒に、
一緒の目線で物を作ったり、あといろんなものを体験するということが主になっているんですが、
本当にいつも笑顔で楽しんでやっておられます。

(プロジェクトに関して、彬子さまはお父さまにも相談されたということですが?)
僕が聞いた範囲では、すごくこの活動は本当に意味のあるいいことなので、
末永くやっていけるようにということで、本当に励ましの言葉をいただいたみたいです。

(お父さまの寛仁さまの後押しがあって、やはり力を入れていらっしゃるということですね?)
実際、斂葬(れんそう)の儀が終わられたあとも、それ以前に太宰府天満宮のほうで、
和菓子を子どもたちと一緒に作って、それをご奉納するというプロジェクトが始まっていたんですが、
そちらのほうもすぐ参加に、また第2弾のほうにすぐ駆けつけて、そちらのほうも一生懸命、
子どもたちと一緒に楽しみながらやっておられたと思います。

(今後のプロジェクトですが、彬子さまを含め皆さん、心游舎の活動を今後どのようなものにしていかれたいですか?)
本当にこの日本の文化を守っていくというか、これからつなげていくという意味でも、
本当に子どもたちに対してすることが、それが日常になっていて、
どんどん広がっていくことになると思いますので、そういった経験ができる場をどんどん増やしながら、
いろんなところでこういった活動もできればなと思っております。

(彬子さまにとって、父親であられる寛仁さまも、こういう活動をされていましたが、
やはり背中を追っていかれているのかなという印象はありますか?)
そうですね。ただ寛仁殿下も、実際は自分の思いをちゃんと真っすぐ向いてやっていたことが、
結果としてそうなったというお話を聞いておりますので、彬子さまもきっとこの活動を、
本当に自分の芯のところから思ってやっているので、そういった意味では、
ずっと続いていけるんじゃないかなと思います。
(09/18 00:45)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00231696.html