即位20年関連


天皇陛下ご即位20年

テーミス2009年12月号
天皇陛下御即位20年
皇居前の人々は日の丸を持って見事に整列していたが、
中国や北朝鮮の軍事パレードなどに見る一糸乱れぬ行動とは明らかに違った。
両陛下が闇の中に浮かび上がった光景は独特なもので、幻想的な雰囲気を感じた。
とても不思議な感覚を味わった。
即位20年で明らかに平成皇室は現代風にアレンジされてきたようだが、
その深奥にある皇室に対する畏敬の念はまだ残っている。


女性自身2009年12月15日号
11/25の内宴に招かれたのは両陛下を筆頭に島津貴子さん・黒田清子さん・川嶋夫妻など。
小和田夫妻は欠席。
皇太子がシャンパンで乾杯の音頭取りの後、フレンチのフルコースへ。
メインディッシュはローストビーフ。
シルクのスーツ姿の雅子さまは愛子さまに話しかけたり
世話を焼いたりしていたが緊張していたのか、会場内は微妙な雰囲気。
(旧皇族の話)「贈り物や連絡をしても両陛下や各宮家からはすぐにお礼の返事や連絡が来るのに、
皇太子ご夫妻はなかなか来なかった。」
側近がしっかりすればいいが、「雅子さまが病気だからしかたない」。
皇室など旧家となれば独自のつきあい方がある。雅子さまは海外生活が長かったので、
多人数の親戚づきあいにとまどいがあるのでは。
庶民でも40人以上の夫側の親戚が来れば"鬱"になる。(松崎敏也氏)
側近が東宮ご夫妻のためにと思ってやれば、かえってお叱りを受ける。


週刊文春2009年12月17日号
(友納尚子)
秋以降に雅子妃が姿を見せなかったのは両陛下お祝ご内宴の準備のため。
メインのローストビーフに心を砕かれ、その他メニューのアイディアを多くだし細かい工夫を凝らして職員に指示。


女性セブン2009年12月24日号
2009年11月25日、東宮御所で「天皇陛下在位20年・天皇皇后両陛下ご成婚50年」の内祝の夕食会が開かれた。
これには皇族、旧皇族の方々も参加
宴の半ばあたりで、雅子さまが
「『私は殿下とともに、皇室に新しいぬくもりを投じてみたい。
そして、日本の伝統を意識しながら、愛子の人生生活を守りたいと思っています』
というようなことを述べられたそうです」(皇室関係者)

戦後70年 全国戦没者追悼式の御言葉

2015.8.15 16:51更新
【全国戦没者追悼式】
「深い悲しみを新たに」 天皇陛下お言葉全文
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、
かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に七十年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民のたゆみない努力と、
平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、
我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。
戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。
ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、
全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、
世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
http://www.sankei.com/life/news/150815/lif1508150035-n1.html

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2015.9.20 06:00更新
【皇室ウイークリー(番外編)】
戦後70年、両陛下の思い引き継がれ…皇族方も「慰霊の旅」
戦後70年を迎えた今年、天皇、皇后両陛下は4月に激戦地だったパラオ共和国ペリリュー島を訪問するなど
「慰霊の旅」を果たされてきた。その陰で報道などではあまり大きくは取り上げられていないものの、
皇太子ご一家、秋篠宮ご一家をはじめ皇族方も両陛下の平和への思いを受け止め、
追悼の祈りと記憶の継承に尽くされている。
「亡くなられた方々のことを決して忘れず、多くの犠牲の上に今日の日本が築かれてきたことを心に刻み、
戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう過去の歴史に対する認識を深め、
平和を愛する心を育んでいくことが大切ではないか」
2月23日のお誕生日を控えた記者会見で、皇太子さまは「戦争と平和についてのお考え」を尋ねる質問に
こう答えられた。「戦争の惨禍を繰り返さない」というお気持ちは、
8月15日の全国戦没者追悼式で、天皇陛下が述べられたお言葉と重なる。
皇太子さまはさらに、ご自身が戦後生まれであることに加え、近年は戦争の記憶が薄れようとしているとした上で、
「戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、
悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切である」と述べられた。
天皇陛下は1月1日、新年にあたって出した感想の中で、
「戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、
今、極めて大切なことだと思っています」とのお考えを示されている。
側近は「両陛下が自ら慰霊の旅を続けるのは、若い世代に戦争の悲惨さや
平和の尊さを思い起こしてもらいたいというお気持ちも込められている」と話す。
6月には、両陛下とともに皇太子さま、秋篠宮さまが
原盤の再生に成功した昭和天皇の「玉音放送」を聞く機会を持たれた。
7月には、皇太子さま、秋篠宮さまが皇居内の防空壕だった「御文庫付属庫」を視察されている。
皇太子ご夫妻の長女で、学習院女子中等科2年の敬宮愛子さまが折に触れ、
両陛下や皇太子ご夫妻から先の大戦の話をお聞きになる機会もあるという。
4月9日。両陛下がパラオ・ペリリュー島で西太平洋戦没者の碑に供花し、
深々と拝礼される様子を、皇太子ご一家はテレビでご覧になったという。
両陛下のご帰国後の同月13日、皇太子さまは皇居・御所を訪れ、
パラオ訪問中に委任されていた国事行為の臨時代行について、天皇陛下に報告された。
報告を終えた後には、皇后さまと皇太子妃雅子さまも加わり、パラオ訪問について言葉を交わされたという。
7月26日。皇太子ご夫妻は、戦争を知らない若い世代に悲惨な体験や
日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切とのお考えで、
夏休み中の愛子さまを伴い、東京都千代田区の国立施設「昭和館」を訪問された。
同館では、戦中・戦後の労苦を後世に伝えるため、
「学童疎開」や「空襲」などのテーマごとに資料を常設展示している。
戦後70年の今年は「昭和20年という年~空襲、終戦、そして復興へ~」と題する特別企画展も開かれていた。
戦争関連の展示を初めて見学した愛子さまは、当時の写真などが並ぶガラスケースをのぞき込み、
戦後、墨塗りされた教科書に関心を示されていた。
8月22日には、皇太子ご一家で東京都千代田区の日比谷図書文化館を訪れ、
昭和館など国立施設3館の合同企画展「伝えたい あの日、あの時の記憶」をご覧になった。
愛子さまが、曾祖母の香淳皇后が戦傷者に贈った日常用と作業用の義手に目を留め、
「これも義手なのですね」と尋ねられる場面もあった。
戦傷者である漫画家の水木しげるさんの体験を講演した水木さんの長女、
原口尚子さんらとも約30分にわたってご懇談。
小町恭士東宮大夫によると、愛子さまは、原口さんに
「水木さんから戦争のお話をお聞きになっていますか」などと質問されたという。
約10万人が命を落とした東京大空襲から70年を迎えた3月10日。
秋篠宮ご夫妻は東京都慰霊堂(墨田区)で行われた慰霊法要に参列し、焼香して犠牲者を悼まれた。
この法要には毎年、宮家の皇族方が順に臨まれているが、この4年間は秋篠宮ご夫妻が続けて足を運ばれている。
「宮家の皇族方も両陛下の平和への思いを受け止め、訪問先の近くに慰霊にまつわる施設があれば立ち寄り、
追悼の祈りをささげられている。戦後70年の今年は特に、そういうお姿が見られる」。
宮内庁関係者はこう語る。
4月6日。総裁を務める山階鳥類研究所の会合に臨席するため、広島市を訪問した秋篠宮さまは、
昨年8月の土砂災害で大きな被害が出た安佐南区八木地区の現場を視察するとともに、
平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に供花もされた。
5月25日には、秋篠宮ご夫妻が東京都千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑で開かれた拝礼式に
皇族方を代表して臨席し、先の大戦で海外などで亡くなった身元不明の戦没者を追悼された。
秋篠宮さまは同月28日、日本動物園水族館協会の通常総会に出席するため訪問した兵庫県姫路市で、
先の大戦の空襲犠牲者を祭る「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」に供花されている。
秋篠宮ご夫妻も、お子さま方への記憶の継承に心を砕かれている。
昨年11月30日の秋篠宮さまのお誕生日を前にした記者会見で、
秋篠宮妃紀子さまは、読書や戦争体験者の話を聞くことなどを通じ、
「子どもたちが自然に平和の尊さを感じることができるよう心がけてまいりました」と述べられている。
ご夫妻は7月17日、次女の佳子さまとともに東京都港区で開催されていた展示会「はがきで綴(つづ)る、
戦争の記憶-千の証言展」を訪れ、先の大戦中に特攻隊員が家族にあてた遺書などを見て回られた。
8月7日には、佳子さま、長男の悠仁さまを連れ、昭和館をご訪問。
常設展示で空襲の犠牲者を示したタッチパネルの前では、
悠仁さまが「やっぱり広島県が多いね」と指摘され、秋篠宮さまが「広島は原爆でね」と応じられていた。
同月17日には、4方で新宿区の京王プラザホテルを訪れ、沖縄戦を語り継ぎ、
犠牲者を追悼するイベント「沖縄地上戦と子どもたち」に参加された。
昨年8月にも同じ団体が主催した学童疎開船「対馬丸」の追悼イベントに、
長女の眞子さまを加えたご一家で臨まれている。
この日は、沖縄戦があった昭和20年に10歳だった女性が家族を失った体験を証言し、
「戦争は二度とあってはならない」と訴えた。
ご一家は女性の話に熱心に耳を傾け、その後、参加者とともに沖縄民謡「てぃんさぐぬ花」を合唱された。
皇太子ご一家、秋篠宮ご一家ともに、両陛下と同じく、沖縄戦が終結した6月23日、
広島、長崎に原爆が投下された8月6日、同月9日、
終戦の日の8月15日に犠牲者の冥福を祈り続けられているという。
また、昭和天皇の次男である常陸宮さまと、常陸宮妃華子さまは5月19日、
日本いけばな芸術中国展の開会式に臨席するため広島市を訪問し、平和記念公園で供花されている。
三笠宮家の彬子さまと瑶子さまは4月22日、先の大戦の戦没者をまつる東京都千代田区の靖国神社を
春季例大祭に合わせて参拝された。
三笠宮家では祖父の三笠宮さまや、平成24年に薨去(こうきょ)された父の寛仁親王殿下も
春秋の例大祭期間中にたびたび参拝されている。
http://www.sankei.com/premium/news/150920/prm1509200034-n1.html


「平和」軽井沢で体現した陛下 悠仁さまが引き継ぐ思い

深く心に刻み忘れてはいけない日

入江日記より

(昭和の頃の)東宮家では常日頃から
日本人には深く心に刻み忘れてはいけない日が四つある。
それは
6月23日 沖縄戦終結日(現・沖縄慰霊の日)
8月6日  広島原爆投下日(広島原爆慰霊祭)
8月8日  長崎原爆投下日(長崎原爆慰霊祭)
8月15日 太平洋戦争終結日(戦没者慰霊祭)である
そして、「当日は家族全員が式典に合わせその方角に向かって黙祷し、
全ての犠牲者への慰霊と平和への誓い・願いを続けられている。
それは全ての事から優先され、欠かす事のない大切な行事になっている。
役所方でもその日は黙祷・慰霊が優先して出来るように予定を組んでいた。

象徴性の力

WiLL2016年6月号
象徴性の力 渡部昇一

(略)
ふと「昭和」という年号について連想した。
敗戦後は、保守派と見做されている人々の中にも、
「昭和天皇は退位されて、一応、戦争責任を明らかにされるべきだ」という意見を言う人もいた。
左翼の人はたいていそう考えていたようだし、もちろん皇室廃止論者も多くいた。
平等主義者からすれば、皇室そのものが民主主義と相容れないという主張になる。
しかし、何ということなく「昭和」は残った。
昭和天皇御自身が退位に反対だったのだろうと御推察申し上げるのだが、
今になって見ても、戦前・戦中・戦後を通じて、一人の同じ人が天皇であらせられ、
したがって年号も「昭和」で一貫していることは、日本の歴史の連続性にとって実に有難い象徴的なことであった。
敗戦直後は皇統断絶の懼れさえあった。断絶はなくとも、もし昭和天皇が退位されて、
別の方が皇位につかれたとしても、皇位の一貫性が、米軍の占領によって、
つまり外国の力で傷つけられたという「感覚」は残ったと思われる。
約七年間、日本が外国によって間接統治を受けていたのは事実としても、
「昭和」が続いていたことは歴史的に重大である。
百年、二百年と経てば、間接統治の七年間は単なるエピソードになってしまうであろう。
そして将来の日本人には、日本人の歴史の一貫性が記憶されるであろう。
そういう自国の一貫性の感じひそは、意識下において愛国心のもととなり、
国民としての誇りのもととなるものだと思う。そして国の繁栄のもとともなるであろう。
(中略)

一見何でもないことのようであるが、些事に見えても、象徴的な意味あることは、
意外に大きな結果を生むことがあるのではないだろうか。
近くの例では平成4年10月の天皇・皇后両陛下の中国訪問を思い出す。
天皇が外国を訪問されることは親善外交の姿としてよろこばしいことであると思う。
しかし相手を考えなければならない。欧米諸国やアメリカの御訪問ならまことに結構である。
しかし東アジアの元首の訪問は、これを朝貢と見做す国の場合は話が違う。
シナ大陸の王朝では、昔から周辺の君主が首都にやってくれば、
それは朝貢であり、臣下の礼を執ったち見なされるのだ。
日清戦争、満州事変、シナ事変以来、シナのリーダーたちが日本や日本人を憎んだとしても当然である。
しかし蒋介石も、毛沢東も、周恩来も、鄧小平も、日本を憎んだとしても、懼れたり、尊敬の念は持っていたと思う。
何しろ阿片戦争以来、シナ人を見下し、
シナの公園なのに「犬を連れた者とシナ人は入るべからず」という立札を建てたと言われるほど
傲慢だが強かった白人たちに勝った日本や日本人に一目置く気があったに違いない、と私は思う。
しかし平成4年10月でそれが変ったのである。それは平成元年6月、いわゆる天安門事件が起った時、
中国当局は天安門広場を占拠して市民を装甲車や戦車で制圧し多数の死者を出し、
それが世界中にテレビで放送されたことに関係がある。
この市民虐殺に対してアメリカは武器輸出、軍事交流を停止し、フランスも対中国関係を凍結し、
イギリスも武器禁輸し、ソ連ですらゴルバチョフが憂慮を表面するなど、中国は外交は孤立化した。
中国支持したのは東ドイツとチェコぐらいであった。
それで中国を取り囲む外交の輪の一番弱いところと言われた日本に
平成4年4月に中国共産党総書記であった江沢民が来日し、宮沢首相に天皇の中国訪問を要請したのである。
そして翌日、江沢民は天皇に表敬訪問し、与野党の首脳とも会談したのであった。
この要請を受けて宮沢内閣はその年の10月、両陛下の中国御訪問を実現させたのであった。
中国から見れは、日本の天皇を朝貢させたことになる。
日本の歴史ではシナの王朝との交渉は聖徳太子に始まるとされている。
そして、よく知られるように聖徳太子の書状は、東の天皇が西の皇帝に書いたものという形式で、
大国隋とも平等の姿勢であった。
それ以来、日本の天皇がシナ大陸の王朝に朝貢することはなかった。

それが平成4年(1992)の10月に変化が起ったのである。このシナ史上空前の手柄のためか、
この年10月の中国共産党第14回大会において江沢民は党総書記に再選されている。
その江沢民は6年後の平成10年(1998)の11月に日本を再訪問した。その時の皇居における
公式晩餐会での江沢民の姿は、一部テレビにも出たので知られたが傲慢そのものであった。
第一に服装からして他国の元首と公式の食事をするものとは言えなかった。
何より日本の過去を批判するようなスピーチをしたのである。
6年前、宮沢内閣時代にゆってきた江沢民と、この時の江沢民とは別人の如くであった。
天皇陛下を見下している態度なのである。これに対して多くの日本人は腹を立てた。
しかし江沢民側からすれば、すなわち中国人の方から見れば当然なのである。
日本の天皇も、江沢民の目から見れば、今や東の島にある国の「朝貢した君主けにすぎないからである。
宮沢さんにしてみれば、日中関係をよくするためにやったことだったろう。
しかし秀才の多くいたと言われる宮沢内閣に「朝貢」の意味を考える人はいなかったのであろうか。
もちろん朝貢などは公務員試験の対象となる事項ではないだろう。
しかし社名、年号、武士の髪などなど、いろいろなことに象徴的なものがあり、
それには理を越えた何かしらがあると思われてならないのである。

皇后陛下御養蚕 眞子様へのお手紙

皇后陛下が眞子内親王殿下に宛てたお手紙

眞子ちゃんへ
 眞子ちゃんは、ばあばがお蚕さんの仕事をする時、よくいっしょに紅葉山のご養蚕所にいきましたね。
今はばあばが養蚕のお仕事をしていますが、このお仕事は、
眞子ちゃんのおじじ様のひいおばば様の昭憲皇太后様、おばば様の貞明皇后様、
そしてお母様でいらっしゃる香淳皇后様と、明治、大正、昭和という
三つの時代をとおってばあばにつたえられたお仕事です。
 眞子ちゃんは紅葉山で見たいろいろの道具を覚えているかしら。
蚕棚の中の竹であんだ平たい飼育かごをひとつずつ取り出して、
その中にいるたくさんの蚕に桑の葉をやりましたね。
蚕が大きくなって、桑をたくさん食べるようになって桑をたくさん食べるようになってからは、
二かいにあるもっと深い、大きな木の枠のようなものの中に移して、
こんどは葉のいっぱいついた太い桑のえだを、そのまま蚕の上においてやしないましたね。
しばらくすると、見えない下のほうから蚕が葉を食べるよい音が聞こえてきたのをおぼえているでしょう。
耳をすませないと聞こえないくらいの小さい音ですが、ばあばは蚕が桑の葉を食べる音がとてもすきです。

 蚕はどうしてか一匹、二匹とはいわず、馬をかぞえるように
一頭、二頭と数えることを眞子ちゃんはごぞんじでしたか?
あのとき、眞子ちゃんといっしょに給桑をした二かいの部屋には、たしか十二万頭ほどの蚕がいたはずです。
眞子ちゃんはもう、万という数字を習いましたか?少しけんとうのつかない大きな数ですが、
たくさんたくさんの蚕があそこにいて、その一つ一つが白や黄色の美しいまゆを作ります。
 きょねんとおととしは眞子ちゃんも自分で飼ったので、蚕が何日かごとに皮をぬいだり、
眠ったりしながらだんだん大きくなり、四回目ぐらいの眠りのあと、口から糸を出して
自分の体のまわりにまゆを作っていくところを見たでしょう。きょねんはご養蚕所の主任さんが、
眞子ちゃんのためにボール紙で小さなまぶしを作って下さったので、
蚕が糸をはきはじめたら、すぐにそのまぶしに入れましたね。

蚕は時が来るとどこででもまゆになりますが、
まぶしの中だと安心して、良い形のしっかりとしたまゆを作るようです。
まぶしには、いろいろな種類があり、山をならべたような形の、
わらやプラスチックのまぶしの中にできたまゆは手でとりだしますが、
眞子ちゃんが作っていただいたような回転まぶしの中のまゆは、
わくの上において、木でできたくしのような形の道具で上からおして出すのでしたね。
さくねんは、ひいおばば様のお喪中で蚕さんのお仕事が一緒にできませんでしたが、
おととし眞子ちゃんはこのまゆかきの仕事をずいぶん長い時間てつだって下さり、
ばあばは眞子ちゃんはたいそうはたらき者だと思いました。
サクッサクッと一回ごとによい音がして、だんだん仕事がリズムにのってきて・・・
また、今年もできましたらお母様と佳子ちゃんとおてつだいにいらして下さい。
 蚕は、始めから今のようであったのではなく、長い長い間に、
人がすこしずつ、よい糸がとれるような虫を作り上げてきたものです。
眉のそせんは自然の中に生きており、まゆももっとザクザクとした目のあらいものだったでしょう。
人間は生き物を作ることはできませんが、野生のものを
少しずつ人間の生活の役に立つように変えるくふうをずっと続けてきたのです。
野原に住んでいた野生の鳥から、人間が鶏をつくったお話も、きっとそのうちにお父様がしてくださると思います。

蚕の始まりを教えてくれる「おしらさま」のお話を眞子ちゃんは、もう読んだかしら。
ばあばは蚕のことでいつか眞子ちゃんにお見せしたいなと思っている本があります。
 女の方がご自分のことを書いている本で、その中に、四年生くらいのころ、
おばあ様の養蚕のお手伝いをしていた時のお話がでてきます。
まだ字などが少しむづかしいので、中学生くらいになったらお見せいたしましょう。
 この間、昔のことや家で使っている古い道具についてお話してとおたのまれしていましたのに、
暮れとお正月にゆっくりとお会いすることができませんでしたので、思いついたことを書いてお届けいたします。
今は蚕さんはおりませんが、もう一度場所や道具をごらんになるようでしたら、どうぞいらっしゃいませ。
たいそう寒いので、スキーに行く時のように温かにしていらっしゃい。
ごきげんよう
                            ばあば
眞子様


美智子さま 眞子さまにあてた「宿題」の手紙を公開

週刊朝日 3月13日(火)19時12分配信
3月3日から皇后美智子さまの喜寿を記念し、皇居東御苑の三の丸尚蔵館で特別展
「紅葉山御養蚕所と正倉院裂(ぎれ)復元のその後」が開催されている。
今回の展示では美智子さまが眞子さまにあてた手紙が図録に収録された。
掲載した手紙は、美智子さまから学習院初等科の3年生だった眞子さまにあてたもの。
学校の授業で「お年寄りの世代が行っていた手仕事について調べよう」
という宿題を出された眞子さまの質問に答える形になっている。
自らを「ばあば」と呼ぶ美智子さまが、日本の伝統を「眞子ちゃん」に伝える文章からは、
普段見ることができない皇族の素顔が伝わってくる。
天皇、皇后両陛下は、ほかの孫にも深い愛情を注いでいる。
天皇陛下は2010年まで、葉山御用邸に滞在すると
「たけ」という和船に美智子さまや悠仁さまを乗せ、近くの海に出ていた。
美智子さまは08年の誕生日に際して出した文章で、悠仁さまの様子についてこう触れている。
「御用邸にもどって後、高揚した様子で常にも増して活々と動いたり、
声を出したりしており、その様子が可愛かったことを思い出します」
同じ文章では、愛子さまについてもこう述べている。
「周囲の人の一寸した言葉の表現や、話している語の響きなど、
『これは面白がっているな』と思ってそっと見ると、
あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのような時、とても幸せな気持ちになります」
この特別展は4月8日まで。美智子さまが自ら藁を編んで作った養蚕の道具や、
美智子さまが養蚕した絹糸で表紙の布を復元した鎌倉時代の絵巻「春日権現験記絵」などが展示されている。
午前9時~午後4時15分。月、金休館。入場無料。
眞子さまへの手紙が収録された図録は展示会場で販売されている。2千円。
週刊朝日 2012年3月23日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120313-00000303-sasahi-soci


週刊朝日2012年3月23日号

美智子さま喜寿特別展で公開
全文掲載 「ばあば」が眞子さまに送った「お蚕さん」の手紙

皇居の森の高台に、紅葉山御養蚕所と蚕のえさとなる桑園がある。
毎年春から初夏の2カ月間、美智子様は何度もここに出向き蚕を育てている。
日本書紀に、5世紀雄略天皇が皇后に養蚕を勧めたという記述がある。
途絶えていた皇室の養蚕を復活させたのは昭憲皇太后。
以来、皇后による「ご親蚕」として受け継がれ、1990年からは美智子様が養蚕を行っている。
美智子様の育てている純日本産の蚕「小石丸」。
生産性が低く一般では生産されなくなっていたが、美智子様が惜しんで育てている。


読売新聞日曜版

2012年(平成24年)3月18日付 
皇室ダイアリー No.139 皇后さま
孫に伝える「ばあば」の手紙

しゅりしゃり、かさかさ、しゃりしゅり。
皇居深くに立つ紅葉山御養蚕所で何万頭もの蚕が桑をはむ音は、どこか楽しげなリズム感を紡ぎ出す。
皇后さまが育まれ、その高質の絹糸が正倉院宝物の復元に使われる
日本純粋種「小石丸」たちの食欲は特に旺盛だ。
古民家のたたずまいの養蚕所が震える気がするほどの輪唱で食べ続ける。
今、皇居・三の丸尚蔵間館で皇后さまの喜寿を記念した特別展、
「紅葉山御養蚕所と正倉院裂復元のその後」が開かれている(4月8日まで。月・金は休館)。
小石丸で復元された正倉院宝物など約30点を鑑賞でき、皇后さまが、
自身で作った伝統用具「わらまぶし」を使うなどして作業される様子もパネル展示されている。
図録を手に取ると、温かなサプライズに出会える。
皇后さまが、小学3年生だった頃の眞子さまに送られた手紙が載っているのだ。
「眞子ちゃんは、ばあばがお蚕さんの仕事をする時、よくいっしょにご養蚕所にいきましたね」
とはじまる孫への手紙には、養蚕が、「眞子ちゃんのおじじ様(天皇陛下)のひいおばば様の
昭憲皇太后様」の時代から代々伝えられてきたことや、一緒に桑の葉をやった思い出がつづられている。
例年なら4月末頃に桑摘みが始まる。
(編集委員 小松夏樹)