皇室軽視 民主党

別冊正論Extra.14
(平成23年1月7日発行)

“皇室軽視”民主党の理論的支柱を粉砕する
中央大学教授 長尾一紘
(略)
民主党は、日本の左翼の伝統にもとづいて、「天皇制廃止」を望んでいるかのようである。
もちろん、これを公言することはありえない。民主党の真意は、これを忖度する以外にない。
議員たちの言動をみるかぎり、民主党の本音について疑念をいだかざるをえない。

岡田克也外相(当時)は2009年10月に、国会開会式での天皇陛下のお言葉について、
「陛下の思いが少しは入ったお言葉をいただけるような工夫を考えてほしい」と述べている。
岡田氏の発言は、不適切と言わざるをえない。
陛下の「お言葉」において、政治的に影響のある内容のものは可及的に避けるべきものとされている。
むしろ、陛下の現実の「思い」が「お言葉」に反映することは、
憲法上避けなければならないとみるべきであろう。
また、外相の言にはいささか不遜の響きがあるように思われる。

小沢一郎幹事長(当時)は、天皇陛下と習近平中国国家副主席の特別会見を、
「一か月ルール」を無視した形で、宮内庁に強引に設定させた。このさいにおける、
小沢氏の皇室に対する無礼発言の数々は、小沢氏失脚の遠因のひとつになっている。

仙谷官房長官は、韓国への戦後補償は不十分だったとして、新たに個人補償を検討する考えを表明した。
その発言そのものも、個人補償問題を最終的に解決した日韓基本条約(昭和40年)を無視した暴言であるが、
さらに問題なのは、このさい仙谷氏が自ら高木健一氏の名を出して、「友人」として紹介したことだ。
この高木氏は、韓国における「日本政府を相手に明成皇后殺害事件の真相究明と天皇謝罪を要求する訴訟」の
原告団から弁護人に選任されている。
「友人」である仙谷氏は、これを知ったうえでの発言かと思われる。
天皇に謝罪を要求する訴訟に、日本政府が側面援助するものとの印象を与えかねない、
軽率きわまりない発言とみることができよう。

議会開設百二十年記念大典のさい、
来賓の秋篠宮ご夫妻が、天皇、皇后両陛下のご来場まで起立されているのをみて、
中井洽前国家公安委員長が、「早くしてくれよ、こっちも座れないじゃないか」と、
周囲にひびきわたる声で不平をのべた。
もはやいうべき言葉をもちえない無礼な発言だ。

自民党内閣においては二十年に一度もなかった事件が、一年半のうちにこれだれ連続して生じている。
これらの事件において共通するものは、
皇室に対する傲岸不遜の態度、そして皇室への理由不明の悪意である。
この共通項をみるかぎり、これらの不祥事を偶然とみることはできない。
民主党の皇室観そのものを投影するものとみることができよう。
民主党は、その公文書において天皇についての記述を避ける傾向にある。
民主党は、平成17年、「憲法提言」において、憲法改正のための構想を明らかにしているが、
そのなかで天皇についての記述は一行もない。民主党は、天皇について構想をもちえないのであろうか。
それとも、公言をひかえながらも、戦後の左翼人士に多くみられるように、
共和制の導入(天皇制の廃止)を本願としているのであろうか。
民主党に正式の綱領は存在しないので、綱領によってこれを知ることはできない。
しかし、民主党の基本理念、政治プログラムは、その基本政策のなかに、これをみることができる。
基本政策は、いわば「かくされた綱領」である。
民主党がとりわけ重視する政策として、東アジア共同体構想をあげることができる。
東アジア共同体構想は、たんなる思いつきではない。
鳩山前首相は、東アジア共同体の到達点が「東アジア連邦国家」の形成にあることを示唆している。
この連邦国家には、中国、韓国のほか北朝鮮などの参加が予想される。連邦国家を形成するためには、
統治原理についての「同質性」が要求される。日本は君主国であり、民主国家である。
一方、中国は共和国であり、一党独裁の国家である。
EUの例をみても、このように異質の国々が連邦国家を形成することはありえない。
この間のリーダーシップは中国がとるものと思われる。日本は、連邦国家を形成するために、
君主制と民主制を放棄して、共和制と一党独裁制を選択せざるをえないことになる。
民主党の基本政策である東アジア共同体構想は、
このように、日本における君主原理(天皇制度)の否定を前提とする。
民主党が東アジア共同体をどこまで現実的政策としているかは定かではない。
しかし、これを究極の政治目標とする点を看過することはできない。
民主党のかくされた綱領のなかには、「天皇制の廃止」が書かれているのではなかろうか。
民主党には、共和制への願望をひめた、悪意ある皇室軽視の傾向をみることができる。
このような天皇観は、どこから来たのであろうか。

戦後日本の天皇観に決定的な影響を与えた論者として、
宮沢俊義の名を挙げることに異論はないとものと思われる。
宮沢俊義氏は、戦争をはさむ三十余年の間、東大法学部の憲法担当教授の座をしめており、
昭和二十年代から三十年代にかけて、憲法学説に決定的に影響を与えた。
日本の憲法学説は、今でもそのときにつくられた枠組みのなかを動いているように思われる。
宮沢学説の天皇観は、一言でいえば、共和主義への願望をひめた、
悪意ある皇室軽視である。民主党の天皇観は、まさしくこの宮沢学説を継承するものである。
宮沢学説こそ、現在の皇室の危機の根源をなすものといえよう。
(中略)
宮沢氏によれば、日本政府が昭和20年8月、ポツダム宣言を受諾したさいに明治憲法の天皇主権が放棄され、
国民主権がもたらされたとされる。法学上も、また史実の上でも成立しえない奇説である。
(中略)
宮沢氏の八月革命説は、その後の憲法観に決定的な影響を与えた。
日本国憲法は、新たに主権者となった日本国民の自発的意志によって制定された、とのフィクションが形成され、
いつの間にかこれが史実とみなされるようになった。
事実は異なる。憲法草案の審議がGHQの全面的なコントロールの下におこなわれたことは意外に知られていない。
当時、GHQが起草した、この憲法草案に対する批判は一切禁じられており、
新聞、ラジオのみならず、個人の私信に至るまで厳重な検閲制度の下におかれていた。
草案審議のための衆議院選挙においては、立候補の自由はなく、
GHQの審査をパスした者だけが立候補することができた。
(中略)
宮沢氏の八月革命説によって、このような事情が隠蔽されることになった。
国民が自らの意思で憲法を制定したかのような錯覚が生じた。
(中略)
この八月革命説には、もうひとつ重要な役割が課せられていた。
それは明治憲法と日本国憲法を切断することである。
宮沢氏はつぎのように主張する。
―八月革命がおきて、ただちに国民が新たな主権者になった。
新憲法は、この国民が自発的に制定したとみるべきだ。
明治憲法とは無関係のものとみるべきだ。
命じて憲法の改正という手続きを経たのは、たんに便宜上の都合にすぎない―と。
宮沢氏は、日本国憲法にめいぶんにいて明治憲法の改正とあるのを、「改正」ではないと強弁する。
この立場にたてば、日本国憲法の天皇制度は、その伝統的基盤を失うことになる。
伝統と切り離された君主制は、その象徴作用すら十分にもちえないことになる。
そして、天皇制度の存在意義そのものが問われることになる。
これこそが宮沢氏の意図するところであった。
宮沢氏の真意は、天皇の象徴作用を機能不全のものとし、天皇と国民の関係を切り離そうとする点にある。
宮沢氏の所論の反憲法的性格は明らかである。
宮沢氏は、八月革命説を発表したあと、臨時法制調査会の委員として、皇室典範の改正作業に従事した。
このとき、宮沢氏は、天皇制度に対する否定的な意向を一段と明確なものとした。
委員会で主張された宮沢氏の所論は、女性天皇、女性宮家の存在を当然視するものであり、
女系天皇の容認を前提とするものであった。
また、事実上、宮家の存在を否定するものであった。
宮号は廃止され、皇族も一般国民と同じ「氏」を有する、とされた。
さすがに宮沢氏の主張は支持されるに至らなかったが、このような所論が実現されれば、
宮家は、一般庶民のなかにうずもれる存在となり、すべての宮家が全面的な廃絶に至ることは必至であった。
宮家の存在によって、皇位継承資格者が確保される。
宮沢氏は、女性天皇を導入し、宮家の庶民化を実現することにより、皇室の廃絶をはかったのである。
(中略)
宮沢氏は、日本は「君主国」ではなく、「共和国」だという。
この常識とはかけはなれた主張には、宮沢氏の皇室に対する悪意が感ぜられる。
宮沢氏は、「天皇制は廃止されるべきであった。憲法に天皇制がもうけられたのは誤りだ。
したがって、憲法解釈において、これをできるかぎり無視しなければならない。
天皇制があっても、これを無視して、日本は共和国だというべきだ」と考えたのであろうか。
(中略)
宮沢氏は、天皇を「象徴」であるといいながら、象徴であるための基盤である元首としての地位を否定する。
ここに象徴としての地位も、かぎりなく極小のものにしたいという隠微な願望をみることができる。
宮沢氏の天皇制否定への執念には、気味悪いほどの根づよいものがある。
(中略)
宮沢説は、共和主義的立場すらの、「天皇否定の天皇論」である。
憲法は、天皇制度を第一条において明定している。宮沢説は、この憲法原則を否定しようとする。
その所論がいまや政府与党の事実上の公式見解にまでなっている。
宮沢氏の天皇論には、皇室に対する悪意が認められる。
国家の象徴に対するこのような情念は、国家そのもの、国民そのものに対する否定の感情を醸成する。
日本の左翼の宿痾となっている反日自虐の妄念は、宮沢学説によるところが少なくないものと思われる。
(後略)

両陛下の静養延期、宮内庁に要請…組閣急ぐ民主

両陛下の静養延期、宮内庁に要請…組閣急ぐ民主
民主党は2日、退陣表明した鳩山首相の後継代表を選ぶ両院議員総会に加え、
国会での首相指名選挙と組閣を4日中に終えることで関係方面との調整をほぼ終えた。
同党は調整の中で、首相官邸を通じて宮内庁に、天皇・皇后両陛下の静養日程を変更するよう要請した。
天皇、皇后両陛下は当初、4日から8日まで、神奈川県葉山町の葉山御用邸で静養されるご予定だった。
このため、皇居での新首相の任命式や新閣僚の認証式は、週明け以降になるとの見方が出ていた。
だが、同党は「天皇陛下の葉山でのご静養を少し遅らせていただければ、
4日の組閣が可能になる」(党関係者)などとして、宮内庁に日程調整を要請。
静養入りは5日以降に遅らせる方向になったという。
民主党は、16日の今国会の閉会を目前に、新首相の所信表明や代表質問などの日程を確保するため、
任命式、認証式を急ぐ必要があった。
党内では、「首相の突然の退陣に伴って、天皇陛下の日程を変更すると、
批判を招くのではないか」と懸念する声も出ている。
(2010年6月3日03時04分 読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100603-00000045-yom-pol


組閣へ向け天皇陛下の日程変更
4日の組閣へ向け、天皇陛下の日程が変更された。宮内庁によると、天皇、皇后両陛下は4日午前、
神奈川県横須賀市で行われる第40回「戦没・殉職船員追悼式」にご出席。
その後、そのまま葉山御用邸(同県葉山町)に向かい、8日午後まで静養される予定だった。
だが、民主党は新首相を選ぶ両院議員総会に加え、首相指名選挙と組閣を同日中に終えることを決定。
そのため、新内閣発足に必要な天皇陛下による首相の任命式と閣僚の認証式も同日中に行われることになった。
平野官房長官は3日午後、記者会見で「ご静養されるとは事前に承知していなかった」と、
天皇陛下の日程を把握せずに4日の組閣を決定していたことを明らかにした。
2日に宮内庁側に連絡して天皇陛下の日程調整を要請、了承を得たという。
政府、与党側は組閣を急ぐ理由について「政治空白をつくらないため」と説明しているが、
野党関係者は「天皇陛下が強引な組閣日程に巻き込まれたとして、批判を招くはずだ」と指摘した。
[ 2010年06月04日 ]
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2010/06/04/05.html


週刊女性2010年6月22日号
「裏切り」と「悲鳴」/最後まで天皇をないがしろにした鳩山官邸
6/2の鳩山内閣退陣後の国事行為の日程を巡って、
宮内庁と官邸では水面下で相当緊迫したやりとりがあったようだ。(官邸担当記者)
平野前官房長官は日程上の問題はない、と話していたがズレを指摘され「私自身承知していなかった」
2日の時点で官邸と日程調整についての話が出ていたが、組閣の日程が決まらず官邸は返事を保留。
業を煮やした宮内庁が「話にならない」と苛立ち「静養の日程は動かさない。
必要なら陛下だけ葉山から戻るようにする」と通告。(宮内庁関係者)
2月のご静養を体調不良でキャンセルした経緯もあり、宮内庁は陛下の休養を優先したいと配慮してのこと。
4日午前の段階で予定が確定しないまま陛下は東京出発。
葉山到着後ようやく官邸から日程の報告が上がったが、現地での日程も入れられず、
宮内庁は相当不信感を募らせていた。(宮内庁関係者)
鳩山官邸は最後まで陛下をないがしろにした。

皇居・賢所で行われている皇室の祭祀とは

25年前「結婚の儀」リハーサルで微笑んだ小和田雅子さん
皇居・賢所で行われている皇室の祭祀とは
三木 善明
2018.09.24
皇居の西にある半蔵門は、天皇皇后両陛下と皇太子ご一家が主にお使いになる「格」の高い門だ。
宮内庁職員であっても、通行を許可された者だけが、半蔵門の小扉(しょうひ)を通り、
皇居内へ入ることができる。皇室の祭祀を司る部署である「掌典(しょうてん)職」の一員として、
28年間仕えた三木(そうぎ)善明氏もその一人だった。
今も変わらずに続く宮中の祈りと、昭和の大喪と平成の即位の大礼、
皇太子同妃両殿下の結婚儀式などを知る三木氏が、
平成の終わりを目前に控え、これまでの経験と出会った人々との思い出をあらためて語った。

皇居内にあった2つの「机」
神社の家に生まれた私は、ご縁があって京都御所に出仕していたところ、東京の皇居内で働くことになりました。
掌典職の職員、その中でも唯一公務員の立場である掌典補(しょうてんほ)として、
お堀の中へ出勤していたのです。
宮内庁の組織図の中では「式部(しきぶ)職」に属していました。

私には、2つの「机」がありました。1つは坂下門を入ってすぐの宮内庁庁舎。
2階の部屋にある「掌典職」の机です。宮内記者クラブと近い部屋で、
当時はまだ記者クラブにも麻雀に興じる人たちがいて、とてもにぎやかでした。
もう1つは半蔵門から入った皇居の森の奥に位置する「賢所(けんしょ)」の中。
毎朝、千鳥ヶ淵の三番町宿舎から20分ほど歩いて出勤する時は、
半蔵門を通り賢所へ直接向かうことが多かったですね。
賢所はとても広いところで、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)から職員がひかえる部屋まで
全てが一つ屋根の下にあります。掌典補の詰所(つめしょ)にも、私の机がありました。
公務員でありながら、神様にご奉仕するという立場だったからこそ、
知ることのできた内実が多くあったように思います。

祭祀を司る部署である掌典職は、宮内庁の組織ではなく、内廷(天皇の私的機関)に属しています。
掌典長以下、掌典次長、掌典までが管理職。
そして、祭祀の実務を担当する女性の内掌典(ないしょうてん)と掌典補からなります。
先述した通り、例外は私たち掌典補で、公務員として採用され、宮内庁の式部職に属していました。
歌会始に関する事務、儀式に関する事柄などもあわせて担当していたのです。

皇太子同妃両殿下のご婚儀のリハーサルで
私が掌典補としてお仕えしたのは、昭和48年(1973年)から平成13年(2001年)までの28年間のこと。
最も忘れがたい経験と言えば、昭和天皇の御大喪と今上陛下の御大礼です
(「知られざる『掌典職』の世界 儀礼担当者が語る『平成の大礼』の舞台裏」)。
また、平成5年(1993年)の皇太子同妃両殿下のご婚儀に際して、数日前に行われた習礼(しゅらい)、
すなわちリハーサルの時に、皇太子妃殿下の先導をさせていただきました。
お車で賢所へお着きになった皇太子妃殿下は大変緊張されたご様子だったのですが、
私から「おめでとうございます」と申し上げたところ、「ありがとうございます」とおっしゃいました。
まだその時は、小和田雅子さんという民間の方ですから、「ありがとう」とはおっしゃらなかった。
その時にニコッと微笑まれた笑顔を拝見して、実にチャーミングな方だということが伝わってきました。
習礼が終わりお車へ戻られる頃には、ほっと安堵したご表情をなさっていましたね。

賢所の一日 朝5時から夜9時まで
平時の場合、掌典補は6日に1回が当直の日に当たり、朝は5時45分に起きます。
御殿を開けてお掃除をして、それから神様のお食事(神饌)を用意してお供えすると、
8時30分には、御上(天皇陛下)の代わりに当直の侍従さんが毎朝御代拝に参られます。
その後、神様のお食事をお下げして片付けをして、事務仕事に戻ります。
そして夕方に御殿の扉を閉めて、21時30分頃には夜の御用を終えるという日々でした。
毎日の御用のほかに、年間60回ほどの御祭(宮中祭祀)などがあります。
賢所は厳かで尊い場所ですが、お客様の来訪などもあり、
一般の人が想像されるよりはにぎやかなところだと思います。

私にとって幸せであったのは、内掌典さんのすぐ横でご奉仕をさせていただいて、
尊敬できる方がたくさんおられたことです。私がお仕えしていた当時は、
未婚の女性が4~5人おつとめされていました。
短大や大学を卒業してまだ間もないような20代前半の方であっても、
自分には決してできないことをやっておられる。そういった意味で、みなさんを尊敬できました。
内掌典は心身共に清浄であるため、神事を第一として実に大変なことをされているんだな、と。

「神さまのことは研究してはいけない」
今年5月に、内掌典であった高谷朝子さんが93歳で亡くなられました。
高谷さんは昭和18年(1943年)に内掌典に上がられてから、57年にわたり奉仕された方です。
ご著書『宮中賢所物語 五十七年間皇居に暮らして』(ビジネス社刊、のちに加筆・修正のうえ
『皇室の祭祀と生きて 内掌典57年の日々』として河出文庫から刊行)からは、
内掌典がご奉仕する御祭と御用などについて、その一端を知ることができます。
高谷さんは私に対しても、実にさまざまなことをお教えくださいました。

「神様は研究してはいけない」。このことは、高谷朝子さんが「当時、上の方には
『神さまのことは研究してはいけない。ただ素直に御用をさせていただくように。
研究をすると神さまに御縁がなくなるのですよ』と教えていただきました」と
インタビューでもお話しになっていました(「祖国と青年」平成18年2月号)。
神様は神様であって、例えばここにどういう神様がいらっしゃるか、
神様とはなんぞや、ということは考える必要がない。
自分の身も心も清めてご奉仕するもの、というのが内掌典なのです。

夜の御用を終えた後、候所で宴会を行ったことも
内掌典と、その他の職員がお話をする機会は、思いのほかたくさんありました。
毎日21時頃に内掌典は「おひけ」と言って、夜の御用を終えて候所に戻ります。
当直の掌典補は皇宮警察の人と最終的な点検をするので、私が当直の日は内掌典候所の前を通った時に、
「おやすみなさい」とお声をかけますと、少しお話をすることもありましたね。
高谷朝子さんがお頭さん(上席、一番長くおつとめをする内掌典)になられた後は、
候所で宴会をやったこともありました。若い人の中には、ワインが好きな人もいて、
日本酒はもちろん、ビールなどのお酒も多少は召し上がっていたようです。
男性の職員も一緒になってお話しできる機会でもあり、
日々の楽しみの一つになっていたのではないかと思います。
候所にはテレビもありました。

たまの息抜きはありますが、内掌典はさまざまなしきたりを守って、
基本的には365日、賢所で生活を送っています。
プライベートな時間は、内掌典候所で過ごし、時間がある時には、身の回りのこと、
例えば手紙を書いたり、読書をしたり、若い人であれば3日に一度髪を結い直したりしているようです。

内掌典の食事は、雑仕(ざっし)が作ります。内掌典の手足は、神様のためだけに使われないといけない。
自分のために使ってはいけないので、炊事・洗濯は雑仕の仕事です。
食事の内容は魚と野菜が中心で、鶏肉以外の肉類や、
バター、牛乳、肉のエキスが入った加工品などは食べません。
豆乳やマーガリンなどはOKです。

最初の試練は「髪上げ」
賢所での生活は常に着物で、洋服は外出する時も着ません。候所をはじめとして全てが畳の間です。
眠る時は、髪が崩れないように箱枕を使うそうです。
時々、時代劇では箱枕に仰向けになって寝ている場合がありますが、それは間違い。
顔を横に向けて寝るものなんですね。

賢所での生活を始めたばかりの内掌典の姿を見ていて、最初の試練として特に心に残っているのは
「髪上げ」ができないことで四苦八苦していたことです。
内掌典を拝命し、賢所での生活を始めた翌日は「おさえ」という髪型に上げます。
まず内掌典の次席の人が新人の髪を上げるのに、4時間もかかるそうです。
3回目くらいまでは先輩のお姉さんが新人を助けるのですが、そのあとからは自分でやるのです。
そうすると10時間以上かけても、髪が上がらない。一日中髪上げです。
髪を上げられないと御用ができません。
髪を上げる時には「びんつけ油」を付けますので、舞妓さんや芸妓さんと同じような甘い香りがしますね。
内掌典は、採用が決まった時から髪を切らずに伸ばすのだそうです。

最も重要かつ基本的な「次清」のこと
賢所での生活の中で、大切なことが「次(ツギ)」、「清(キヨ)」という概念です。
「御殿での次清」、「候所での次清」が、最も重要かつ基本的なしきたりです。
とても厳しいものだと思います。
清浄ではないことを「次」、清浄なことを「清」と区別して、どんなに細かなことでも厳格に区別しています。
社寺に参拝する前などのように「手水」をすると、手が綺麗になり、清められますね。
これは「清」の状態です。一方で、体の下半身に触れたり、
履物やお金、賢所の外から届いた郵便物を扱ったりした時などは
手が「次」の状態になっている、という次第です。

私が掌典補としてお仕えした頃、内掌典の仕事のうち、簡単なところの手伝いをしたことがありました。
例えば、「おすべし」。これは神様のお食事を下げるという仕事ですが、一つひとつ、
今自分の手がどの状態なのか意識していないと、本当に分からなくなってしまいます。
また、内掌典の場合、「御内陣」という神様がいらっしゃる場所で御用をする時や、
しつらえてある物を持つ時は、手が「清い」以上の状態、「もったいない手」になっています。
平常に戻す――「次める」と言いますが――ということもやらないといけない。
清いと思っていたはずが、次になっている。これは大変なことですが、
間違いを指摘された時は素直に自らの振る舞いを顧みるのだそうです。

上下が入れちがうということは、あってはならない
一般の人が畳の上で寝る時、布団を畳んで押し入れに入れてまた出して、としている間に、
ひょっとしたら布団の頭と足の位置が逆になっていることもあるでしょう。これもいけません。
上半身は「清」。下半身は「次」なので、上下が入れちがうということはあってはならないのです。

また、入浴の時は湯船に肩まで浸かるのではなく、大たらいを使って行水するようです。
これも「次」と「清」の関係ですね。バスタオルで体をふくのではなく、
浴衣を着て水分を拭き取るそうです。
浴衣の語源は「ゆかたびら」と言って、「かたびら」は薄い着物のことを指します。
お湯で使うので、「ゆ・かたびら」。それが短くなって「ゆかた」。
バスローブのような役割を果たしているのですね。
あらゆる生活の所作の中に、「次」と「清」があるんですよ。

心が変わることによって、形が変わる
「手抜きがない」というのは、賢所の伝統だと思います。
よく「形は変わっても心は変わらない」ということが言われますね。私は、そうではないと思うんです。
心が変わることによって、形が変わるんですよ。
もちろん、自分の技量が足りないという問題が、最初はあるかもしれません。
それでも、色々と突き詰めてやっていくのが普通なんです。
形を変えて、上辺だけでやってしまうと駄目なんですね。私たち掌典補も神様のお食事をこしらえる時、
例えば鯛を薄切りにして円筒状に形作る場合、「できるだけきれいに」と心を込めてこしらえます。
そこで、「ここまでやる必要があるのだろうか」と思って手抜きをすれば、心が変わってしまっている。
あるいは「ちょっと、この鯛は高価すぎるのではないか」と感じてしまうこともあるのですが、
神様に対して「ぜいたく」はないんですよ。

私がご奉仕させていただくようになってから、大正年間に内掌典として賢所へ入っておられた
ある内掌典がいらっしゃいました。京都で執り行われた昭和天皇の御大礼も経験された方です。
退職される時に、貯金がどれくらいあるのか伺ったら、思いもよらないほど少ない額でした。
何十年もおられて、倹約した生活をなさっているのに、と非常に驚いたのです。
戦後直後の一時期は、物資が不足していたために、神様にお供えするものが粗末になってしまった。
その方は、少なくとも自分が頂く以上のものを神様にお供えしたい、
そういう思いで、ご自分の持ち出しもあって、神様のお食事を用意されていた。
歴代の内掌典の方々には、妥協する心や「まあいいか」という姿勢が全くありません。
本当にすごいことだと思います。

絶えたことのない「御燈」
賢所には、「御燈(ごとう)」という絶えたことのない火があります。
朝夕には土器に菜種油を注ぎ足して、消えることがないようお守りするのも内掌典の仕事です。
油が多すぎても少なすぎてもいけませんし、煤がたまってしまうと
火が大きく燃え盛った後に消えてしまうことが考えられるので、適度に煤を払います。
地震があった時などは、真夜中でも内掌典が火の無事を確かめるそうです。
また平時の御用や宮中祭祀など、すべての作法は口伝(くでん)で伝えられ、
記録として書き残されているものはありません。こうして、現代に受け継がれてきた伝統なのです。

今上陛下がお持ちになっている宮中祭祀へのお気持ち、これは物凄いものだと思います。
皇后陛下も同じです。昭和天皇に勝るとも劣らないと、私は思っています。
ご自分がお参りできるものは、どんなことがあってもお参りされる。
宮中祭祀を一番になさってこられましたよね。それは昭和天皇も同じご姿勢でした。
今上陛下がお父さまの後姿をご覧になってやってこられたからこそ、
平成という時代がここまで続いてきたのだと、30年を振り返りあらためて思っています。

そうぎ・よしあき 1948年京都府生まれ。
1973年、宮内庁京都事務所から掌典職に異動。昭和天皇大喪儀、
今上陛下の即位・大嘗祭を担当、伊勢神宮の式年遷宮も二度務める。
2014年より御香宮神社権禰宜。
http://bunshun.jp/articles/-/9046

靖国神社参拝要請

靖国、昨秋 天皇参拝を要請 創立150年向け 宮内庁は断る
靖国神社が昨秋、当時の天皇陛下(現上皇さま)に
二〇一九年の神社創立百五十年に合わせた参拝を求める極めて異例の「行幸(ぎょうこう)請願」を宮内庁に行い、
断られていたことが十三日、靖国神社や宮内庁への取材で分かった。
靖国側は再要請しない方針で、天皇が参拝した創立五十年、百年に続く節目での参拝は行われず、
不参拝がさらに続く見通しだ。
天皇の参拝は創立から五十年ごとの節目以外でも行われていたが、一九七五年の昭和天皇が最後。
七八年のA級戦犯合祀(ごうし)が「不参拝」の契機となったことが側近のメモなどで明らかになっている。
一部保守層から天皇参拝を実現するためA級戦犯分祀(ぶんし)を求める声があるが、靖国側は応じていない。
靖国神社の前身「東京招魂社(しょうこんしゃ)」は、戊辰戦争の官軍側戦死者らを弔う明治天皇の意向で
一八六九年六月二十九日に創建。創立五十年の一九一九年五月に大正天皇、
創立百年の六九年十月に昭和天皇が参拝している。
上皇さまは在位中に参拝しておらず、平成は天皇参拝のない初の時代となった。
関係者によると、靖国神社は昨年九月、平成中の参拝を促すため、
宮中祭祀(さいし)を担う宮内庁掌典職に過去の天皇の参拝例を示し、参拝を求める行幸請願をした。
掌典職は代替わりを控えた多忙などを理由に、宮内庁長官や天皇側近部局の侍従職への取り次ぎも
「できない」と回答したという。
共同通信の取材に対し、掌典職は「参拝について判断やコメントをする立場にない」としている。
靖国側は「断られた」と判断、創立二百年の参拝も確約されないことから
「将来も参拝は難しくなった」と受け止めた。
代替わり後の再要請について取材に「(陛下の参拝を)お待ち申し上げる立場」と回答し、行わない方針だ。
戦後に宗教法人となった靖国神社は終戦まで軍直轄だった。
太平洋戦争などで戦死した日本軍の軍人らも含め約二百五十万人を祭る。
天皇はじめ公人の参拝では政教分離が問題視されてきた。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201908/CK2019081402000149.html


「要請も断った事実もない」=靖国参拝めぐる報道否定-宮内庁
2019年08月26日19時01分
宮内庁の西村泰彦次長は26日の定例記者会見で、靖国神社が昨年秋、
当時天皇だった上皇さまの参拝を宮内庁に要請したが断られたとの一部報道について、
「そもそも宮内庁として願い出を受けた事実はなく、それをお断りしたという事実もない」と否定した。
共同通信は13日、靖国神社が昨年秋、在位中の上皇さまに
2019年の神社創立150年に合わせた参拝を求める「行幸請願」を宮内庁に行い、
断られていたことが分かったと報じた。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019082600945&g=soc

元号ってそもそも何?

ハルメク2019年6月号
世界丸ごと一問一答

Q元号ってそもそも何?

Aもともとは君主の権力を示すもの。
しかし天皇が「象徴」となった今、元号のあり方も変化しています。
退位は、周囲への負担を減らしたいという
上皇陛下らしいご配慮とも考えられます。

4月1日に248番目の元号「令和」が発表され、5月1日に改元されました。
昨年末あたりから何かと「平成最後」が謳われ、新しい元号の予想で盛り上がり、
いよいよ新元号が発表されるとお祭りムードで沸き立ちました。
一方、昭和から平成への改元はどうだったでしょうか。
もっと物々しい雰囲気だったと感じた方もいるかもしれません。
元号については、元号法が次のように定めています。
「1、元号は、政令で定める」「2、元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める」。
この皇位の継承については皇室典範の第4条で次のように定められています。
「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」。
つまり改元は天皇の崩御と裏表。
次の元号予想で盛り上がるなど、昭和ではとんでもないことでした。

数年に一度!?
江戸時代までの改元
元号の根底には、君主が時を支配できるという考え方があり、その起源は中国です。
これが日本に導入されたのが645年。
当時、天皇をも凌ぐ権力をもっていた蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が暗殺。
元号を「大化」と制定しました。
大化という元号は天皇家が権力を掌握した象徴でもあったのです。
以来、代々の天皇が元号を定めてきました。
しかし当時の元号は今と様子が違います。
天皇の代替わりと同時に改元するのは今と変わりませんが、国の繁栄と平安を願う意味合いが強く、
吉事があっては改元、災害が起こっても改元していました。
江戸時代の明和9年には災害が多く、「めいわく」年だと揶揄されて改元しています。
そんな調子で数年に一度のペースで改元が行われ、
また武家政権下では権力を持っていた幕府が実質的に改元を握っていました。
状況が変わったのが明治時代です。
幕府から権力を奪取した新政権下で、明治天皇は「一世一元の詔」を出し、
明治へと改元。同時に天皇の在位中は元号を変えない「一世一元の制」が始まりました。
権力の象徴である元号を、天皇以外が勝手に変えられないようになったのです。
またその後、旧皇室典範が制定され、天皇は終身制となりました。
こうして改元は天皇の崩御と表裏一体の「一大事」となった結果、
役所などさまざまな場所で元号が用いられるようになりました。
特に昭和は64年と長く、人々の意識に深く浸透しました。みなさんの中にも
過去を思い出すときに「あれは昭和30年頃だから」と、西暦よりも昭和を用いる方もいるかもしれません。
実は1947年に制定された新皇室典範では、日本国憲法の趣旨も踏まえて、
元号に関する項目は削除されています。元号の法的根拠がなくなったのです。
それでも先述の元号法が制定される79年までの約30年間、日本人は元号を使い続けたわけですが、
それもやはり昭和が暦として浸透していたからでしょう。
特に昭和天皇は戦前まで神として扱われていました。
その名残か、昭和が永遠に続くような感覚を抱いていた人もいたでしょう。

自粛ムードのご懸念からか
その昭和が終わったとき、日本に衝撃が走りました。
人間の心理的に慶事と弔事が同時に来ると、弔事が優先されます。
昭和天皇が崩御されたとき、形としては新元号に移行したものの、
企業CMや娯楽番組がテレビから姿を消したり、
お祭りなどの催しが中止されたりと自粛・哀悼ムードが広がりました。
そのことへ懸念を抱いていらしたのが現在の上皇陛下でしょう。
退位のきっかけとなった、2016年8月8日の「おことば」では次のようにおっしゃっています。
「(前略)天皇の終焉に当たっては(中略)喪儀に関連する行事が、1年間続きます。
その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、
行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません」。
在位中の天皇が崩御すると大規模な葬儀が行われ、社会や家族に負担がかかる。
だから存命のうちに退位したいというご意向は、
これまでも陵墓の縮小を希望されてきた上皇陛下らしいご配慮とも考えられます。
上皇陛下は、現憲法のもとで初めて即位して以来、「象徴」として天皇のあり方を
考え続けられてきました。今回の退位について、政府は皇室典範の「特例法」という形で、
現在の上皇に限った対応としていますが、令和以降も今回の改元が前例として踏襲される可能性があります。
西暦が普及し、また天皇が象徴となった今、元号を廃止すべきではという意見もあります。
確かに改元には役所の仕様変更やシステム改修が必要ですが、
社会的に大きな実害を与えるかといえば、そうではないように思います。
憲法は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」としています。
天皇は国民の総意、つまり支持する心が基盤です。
元号も使いたいと思う人が使い続ける形で存続するのではないでしょうか。
(この記事は2019年4月11日時点の情報をもとに執筆しております。)


坂東太郎
1962(昭和37)年生まれ。
毎日新聞記者などを経て、ニュース時事能力検定講師、十文字学園女子大学講師などを務める。