教育勅語と修身

田母神塾
これが誇りある日本の教科書だ
田母神俊雄 双葉社 2009年3月1日

教育勅語と修身を現代に復活するべし
1880年、小学校の教科に「修身」という道徳教育が加えられました。
1890年に教育勅語が発布されると、小学校に限らず各学校で修身が教えられていきます。
しかし1945年に戦争に負けてからは、GHQによって修身も教育勅語も廃止されてしまいました。
「修身や教育勅語が、日本の国家主義を助長した。これらを復活すると、軍国主義が再来する」と
脅かす左翼がいます。いったいぜんたい、修身や教育勅語のどこに悪いことが書いてあるというのでしょうか。
そもそも彼らは、教育勅語を読んだことがあるのか。
あそこに書かれているのは、今日も通用するごく当たり前の道徳です。
例えば教育勅語には、次のような意味のことが書いてあります。
「子は親孝行をし、兄弟は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじくし、友人はお互いに信じ合う。
自分の言動は慎んで人々に博愛をさしのべ、学問を怠らず職業に専念し、
知識を養って人格を磨き、さらに進んで公益のために貢献していくべきである」
どれも当たり前で大事な徳目ではないですか。
修身の教科書には、教育勅語の精神に則って孝行や勤勉の大切さなどが書かれています。
人間そのものは、時代が変わっても変わるものではありません。
うれしければ喜び、悲しければ涙を流す。日本人がわきまえるべき道徳には、昔も今もありません。
教育勅語と修身は、日本人が半永久的に使える内容です。
それが戦後、アメリカと日本の左翼によってぶち壊されてしまいました。
日本は無宗教の国だと言われていますが、戦前は教育勅語と修身の教科書があった。
キリスト教世界やイスラム教世界では、聖書やコーランに則った宗教教育が行われています。
日本人には聖書やコーランは馴染みがありません。
日本では教育勅語と修身を使い、西洋人が行なっているような宗教教育を進めていたわけです。
その大切な教育を、敗戦に伴って破壊してしまった。
宗教教育が壊されて空白を作ってしまった結果、戦後の日本人のモラルは低下していく一方です。
教育勅語や修身の教科書に書かれていることは、今の日教組の教育ではあまり教えられていません。
(中略)
常識として当たり前のことを、敢えてイチから教育しなければいけない。
そんな時代になってしまったのは、修身と教育勅語をこの国から消し去ってしまったことが一番の原因です。
マスコミも教育界も左翼に乗っ取られてしまった結果、本当の情報が国民には伝えられなくなってしまった。
一度でも教育勅語や修身の原文を読んでみれば、
左翼のプロパガンダが説得力に乏しいことがおわかりいただけるはずです。
「左のメガネ」を通した情報だけを浴びていては、国民に伝えられるべき真実が隠されてしまいます。
左翼が当たり前のように主張していることに対して、
「おかしいな。彼らの言っていることは本当は違うのではないか」と
国民が疑いの目を向けてみることが大切です。
「モラル・ハザード」(倫理観の崩壊)が起きていると言われる今日こそ、
教育勅語と修身の精神を再び日本に復活するべきだと主張します。

伊勢神宮で神楽祭、15年ぶりに「八仙」披露

伊勢神宮で神楽祭、15年ぶりに「八仙」披露

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雨の中、15年ぶりに公開された「八仙」(伊勢市の伊勢神宮内宮で)

伊勢神宮(三重県伊勢市)の秋季神楽祭が22日始まり、
内宮神苑の特設舞台で公開された舞楽に多くの参拝者が見入った。
舞台を清める「振鉾えんぶ」で始まり、続いて極楽にすむ鳥が舞い遊ぶ様子を表した「迦陵頻かりょうびん」。
鳥の顔を模した独特の面をつけた4人舞「八仙」が15年ぶりに披露されたが、
雨あしが強まり、舞を伴わずに演奏する「長慶子ちょうげいし」は中止となった。
舞楽の公開は23、24日も午前11時、午後2時に行われる。
雨天の場合、参集殿能舞台で午前11時の1回だけとなる。
2017年09月23日 15時52分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170923-OYT1T50076.html

大喪礼、即位礼、大嘗祭

平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月

(昭和天皇のご大喪)
ともあれ、ご大喪は大正天皇の時と同じく新宿御苑で行われ、
八王子・武蔵野墓地内の武蔵野陵に永遠の眠りに就かれた。
京都市伏見区の伏見桃山陵に埋葬された明治天皇の先例を踏襲していない。
旧皇室典範では即位の礼および大嘗祭は京都において行う(十一条)とされ、
私の母方祖父、陸軍騎兵中将三好一(騎兵監・弘前師団長)も大礼服を着用して参加している。
(中略)
東園基文掌典長からご大喪祭官の一人として奉仕するように伝えられた級友旧公爵島津忠廣は皇居へ向かって遥拝し、
12日宮内庁へ登庁、正式に辞令交付を受けた。祭官長はご学友永積寅彦、祭官副長に山内豊秋、香川朝男を配し、
柳原承光、嵯峨公元、園基信、松平保定ら計十八人、祭官補十八人には宮内庁OBが当たった。
政教分離の原則から現職公務員は皇室の宗教儀式に携われない。
掌典職も宮中三殿の通常祭祀をとりおこなうため、ご大喪には参加できない。
(島津忠廣『昭和天皇のご大喪に奉仕して』)

ご大喪の神道に置かれている、シンプリシティ(簡素)とピュアリティ(清潔)とでもいおうか、
古代から受け継がれてきた日本人の素朴な自然観、生命観を通じて培われた伝統的な文化が息づいている。
例えば一年の喪明け11月に行われる大饗の儀二日間だが、
天皇が神々と食した食事やお酒を国民の代表として参列した人々にふるまう儀式である。
この祝宴を通して神々と天皇、そして国民が一体になる。
殯宮(ひんきゅう)に関連する儀式、斂葬から轜車発引(じしゃはついん)の儀、葬場殿(そうじょうでん)の儀、
山稜関係の儀式、一年にわたる権殿(ごんでん)の儀などが皇室行事であった。皇室の伝統を守り、
旧皇室喪儀令、貞明皇后大喪儀などを斟酌して諸儀式の内容が詰められたと聞く。
これ以外に行われる大喪の礼あるいは即位礼は国の儀式であり、
新天皇即位礼の年の仲冬に行われる大嘗祭もまた、皇室行事である。
こうした区別はもとより祭政不一致の原則から明確にされたのだった。
練習を意味する習礼(しゅうらい)は五回行われた。1月31日午前10時に追号奉告の儀、
つまり亡き天皇に、新たに百二十五代天皇となった方が「贈り名」を告げる儀式が先行し、
「大行天皇には、御即位にあたり、国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され」
「ここに、追号して昭和天皇と申し上げます」と述べた。
それから殯宮祗候までに全ての儀式に参加する祭官と祭官補のために練習が組み込まれたのだった。
宮殿で最後のお別れの儀式が2月24日午前7時半から行われ、お柩が南車寄から宗明楽の調べが
奏でられるなか、皇居を後にした。二重橋から桜田門、国会議事堂前と進むころ警視庁音楽隊が演奏する
哀之極(かなしみのきわみ)が静かに流れた。島津は「普段は多くの人で賑わう四谷の駅前も
人の姿はなく、警戒の機動隊の車だけが目にとまり、
西部劇にみる死の街さながらの後継を眺めながら…」と都心のたたずまいを描写した。
冷雨が降りしきっていた。葱華輦(そうかれん)は左右に並んだ幄舎(あくしゃ)を埋めた内外の列席者に
見守られて祭場殿に奉安される。ここで奏でられた調べを道学(みちがく)という。古代から伝わる雅楽だ。
祭場殿の儀は三方二十一台の献饌に始まり、
天皇ご拝礼、皇后、皇太后(ご名代常陸宮華子妃殿下)、皇太子以下皇族の拝礼を経て、ほぼ50分で終わった。
手ひどい寒さはテレビ画面を見つめた国民にも均しく感じられた。八王子市郊外にある武蔵野陵御陵総門に
儀式が移った午後3時過ぎ、さしもの雨も降り止み、北山杉が靄に包まれて、
「雅楽の悲しい調べと玉砂利を踏みしめる音だけが聞こえていた」(前掲島津)。
ご親族だけによる「お土かけ」という内輪の儀は柩が御須屋(おすや)に納められてから
薄闇に暮れなずむ午後6時まで進行した。
ぞうりなど日常のご愛用品、礼宮文仁親王の字を刻んだ墓碑銘(陵誌)が
昭和天皇にご一緒し、永遠の眠りにつかれた。


(即位礼)
明仁天皇は一年を三期に分けた喪が明けると、
大正15(1926)年12月25日大正天皇崩御後の「昭和大礼」について残された詳細な資料を取り寄せ、
書陵部に収集されている唐時代などの即位礼なども加えて、
「平成大礼」をどのように構成するか、勉強を重ねられたと聞いている。
昭和大礼当時は首相の下に「大礼使」という組織体を置き、総数1499人で即位礼の準備にかかっている。
また登極令という決まりでは、「天皇は神器を奉じて皇后とともに京都に赴く」と決まっていた。
一体として動かなければならない天皇と皇后に注目しよう。
新皇室典範に場所を京都に特定する条項はもはやない。
昭和天皇は香淳皇后と共に名古屋一泊を加え京都へ向かったのだが、
両陛下に先んじて賢所など宮中三殿も移送された。
賢所大前の儀はこうして京都御所で行われ、昭和3(1928)年11月10日午後両陛下は紫宸殿に入っている。
平成の場合、式典は政府・行政・司法が置かれる首都東京で挙行と決定。
従って京都御所紫宸殿から高御座と御帳台が東京に運ばれた。
こうして迎えた平成2(1990)年11月12日の即位礼。午前、先立つ賢所大前の儀が皇居内で行われた。
これは国家行事である即位礼とは異なる皇室行事であり、
皇族がたは白絹を地とした白の束帯をそれぞれ召されて臨んだ。
午後、即位礼正殿の儀は宮殿の正殿松の間を舞台にして展開した。
正殿、およびチャールズ英皇太子・ダイアナ妃はじめ外国賓客が参列する長和殿、
さらに豊明殿などで囲むほぼ正方形の中庭に緑、黄、白、紫の旛が林立。
鉦、鼓、桙さらに弓、太刀をたばさんだ古装束の宮内庁職員らが居並んだ。
正殿に向かって左際に月像纛旛(げっしょうとうばん)、右際に日像纛旛(にっしょうとうばん)、
十八段階段下左右に万歳旛、菊花大中小旛、威儀者棒持者が中庭左右に居並んだことになる。
即位の礼委員長海部俊樹首相ら三権の長が正殿に向かって左側回廊から松の間に入った。
続いて男子皇族が入場、そして同年6月29日結婚されたばかりの秋篠宮紀子妃ら女子皇族が位置に着いた。
男子皇族は束帯を着用し、これまで永らく陛下が着用されていた黄丹袍(おうにのほう)は
いまや徳仁親王が身に着けて陛下の前に、女子皇族は十二単姿で皇后の前に列立する。
天皇は黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)に立纓冠(りゅうえいのかんむり)で高御座に立ち、
皇后は五衣・唐衣・裳(十二単)の正装で御帳台に昇る。
高御座は総檜木づくり三層の継壇上に八角形の屋根を据えた構造。
幅六メートル、奥行き五・四メートル、八トンで高さ六メートルの頂点に大鳳凰が乗っている。
鏡・玉・小鳳凰で飾られ、深紫を表とし、濃い朱色を裏地とした帳(とばり)が正面と斜め左右だけ開けてある。
畳二枚の上に陛下のいすが置かれている。御帳台は一回り小柄で、天井に鏡が張っていない。
新天皇は、「さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、
ここに『即位礼正殿の儀』を行い、即位を内外に宣明いたします。
このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、
いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、
日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、
我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望します」
と宣じた。昭和天皇の場合は難解な勅語であったから、平明な話し言葉に時代の変化が読み取れた。
海部首相が寿詞(よごと)を述べ終わると、三、四歩下がり、
「ご即位を祝して」との言上を合図に万歳三唱が参列者から沸き起こる。
零時五十分の首相入場から数えて午後一時四十分、予定より十分食い込んで即位式は終了した。


(大嘗祭)
新帝の即位の礼の年に行われる新嘗祭を大嘗祭という。天皇がその年の新穀を神々に供え、
五穀豊穣を感謝し、それを神々と共に食するのが新嘗祭であり、日本の収穫祭である。
皇室ばかりでなく広く日本人の伝統的な習俗の中にその源泉をもっており、
大嘗祭はそれを大きくしたもので、基本的には変わらない。
皇位継承儀礼に国費から捻出された総額123億円の費用は大嘗祭も含んでの額だった。
皇居東御苑に大嘗宮域が、東に悠紀殿(ゆきでん)、西に主基殿(すきでん)、
北に廻立殿、外部に幄舎を造成して形を成した。間口95メートル、奥行き99メートルの大嘗宮であった。
皮付きの木材が柱に使われ、屋根は茅葺、床は竹張りがしてあった。その上に莚あるいは近江表が敷かれ、
屋根には古代の殿舎を模して千木と勝男木が乗った。
即位礼から十日後の11月22日午後6時半、純白祭礼服に身を包んだ天皇が前後に剣璽を持つ
侍従らを従え廻立殿から悠紀殿に着いた。かがり火だけたかれた荘重な雰囲気に囲まれて
悠紀殿供饌(きょうぜん)の儀が始まった。
全国民がテレビの前に釘付けになった。陛下は采女(うねめ)(饌女とも書く)の助けで
秋田県で収穫された新穀、白酒、黒酒、果物、調理した鯛など神饌を神座脇に供えた。
拝礼の後、お告文(つげぶみ)を述べ、新穀と酒を口にされ、儀は午後9時過ぎ終了。
さらに日が変わって午前0時半から三時間ほどかけて今度は主基殿供饌の儀が大分県農民が
生産した新穀を使っておこなわれ、天皇は天照大神に供え、国家の平安を祈り五穀豊穣に感謝した。
これが皇室の秘儀とされるのは、新天皇が皇祖天照大神を招じて魂の一体化を実現する
一夜の宴が、注目されるからであろう。天皇となる皇子が“こもり”、そこで霊格を得る、
あるいは入魂の場を持つという解釈なのだが、厳格な儀礼に埋もれる何か温かな交流を見る思いで、
国民が注視している。非科学的なところに、とても捨て去れない物語性が認められ、
国家の神秘な部分が天皇の営まれる祭祀によって代表されていることを実感する。
大嘗祭こそ万世一系というか日本の同一性と連続性を保証している。国家という組織体には
物語部分が必要不可欠だと言ってもいい。それは神話と置き換えられる世界である。
国の持つ神秘性は最も純粋に日本的なものを守って継承してきた唯一絶対の日本人、
天皇によって体現され、国民と共にあろうとする象徴性に加えて伝統の守り手の側面を色濃くにじませる。
農商務が専門であり朝日新聞の論説委員も務めた民俗学者・柳田国男はこう書き残している。
「世界最古の国の公の御祭、起源もっとも遥かな大嘗祭にいつも常民生活と比べて、
多くの著しい一致を見出すkとは第一の神秘である。豊かな秋の収穫を終えて後、
直ちに新穀を取って酒を温め飯を炊き、神に感謝の祭りを申すことは、
今も村々の常の行事であって、ことに直会の古例を存する土地においては、
至尊御自ら執行させたまうところとほぼ様式を一にしている」

お二人の時代が到来したご大喪以降、初めて両陛下と旧華族との桎梏がとりはらわれる機会となったのが
平成の即位礼および大嘗祭であった。さまざまな役目は旧華族を召しだして依頼し、
仕事を割り振って協力を求めた。受けるほうも大きな伝統的式典の再現であり、
重々しい即位の大礼への関与であるから、光栄と感じて引き受けた。
壮大なドラマが完結したとき両陛下はねんごろに彼らの奉仕に感謝した。

大嘗宮=1990年11月撮影、皇居・東御苑(時事)
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皇太子さまへの御忠言 西尾幹二(2008年9月WAC)

大嘗祭と新嘗祭の違いが天皇と公民との関係を象徴的に表している。
毎年恒例の新嘗祭で用いられる米は、皇室の水田(屯田・官田)で収穫されたものであるのに対し、
大嘗祭では一般百姓の田、公民の耕作田で収穫された米が用いられるのを原則としている。
大嘗祭で天照大神と天皇が即位の儀の一つとして「神人共食」の神事を行うが、
そのときの新穀があらゆる階級を超えた国家全体の成員を代表しているところの公民の奉仕という
形をとっている(高森明勅『天皇と民の大嘗祭』参照)。
武家や公家などの諸対立を超えた「公」の概念が存在する証拠である。

「村山談話」こそ更迭せよ!

WiLL2009年1月号
「村山談話」こそ更迭せよ!
西村眞悟

自衛隊の航空幕僚長と社会党の委員長が、同じ歴史観をもっていては国が困る。
従って、航空幕僚長が村山談話を信奉しておれば直ちに更迭すべきなのである。
そもそも、社会党とは、「アメリカ帝国主義は日中両国人民共通の敵」との方針で
我が国の社会主義人民共和国化を目指し、
日米安全保障条約に反対で非武装中立を国是として自衛隊を違憲とした政党ではないか。
さらに、中国共産党と北朝鮮のエージェントといえる活動をしていたのが社会党であり、
ソビエトから資金援助を受けていたのも社会党である。
このことは「クレムリン秘密文書」で明らかになっている。
長年このような国益を害する政党にいて委員長になった村山富市氏の歴史観と
自衛隊尾航空幕僚長の歴史観が同じであってよいはずがない。
これは子供でも分かることだ。同じであれば、自衛隊は国を守るために戦えない。
さらに、平成7年の阪神淡路大震災を、痛恨の思いを以て振り返ってほしい。
その地震の朝、直ちに伊丹にある陸上自衛隊の中部方面軍を
神戸の被災者救助に向かわせる発想もなく漫然と時間を浪費し、
その結果救助すべき多くの人々を放置して焼死または衰弱死に至らしめるという
驚くべき無能ぶりを発揮した自衛隊の最高司令官、
即ち時の総理大臣は誰だったか。これこそ村山富市という社会党の御仁ではないか。
従って、同年、彼がしなければばらなかったのは、
自らの無能政策の故に無念の死を遂げた阪神淡路大震災の多くの被災者と家族に対する謝罪であった。
しかし、彼は「遠くない過去の一時期、国策を誤った」と自国をして謝罪せしめたが、
「直前の自らの過ち」による多くの犠牲者に謝罪しなかった。これを偽善という。
従って、村山談話とは、祖国を喜々として謝罪せしめても自らのことについては
一切謝罪しない偽善者にして驚くべき無能な総理による談話なのだ。
これに何の権威がある。

濱田防衛大臣は逆をしている。村山談話と同じ考えをもつ航空幕僚長を更迭すべきなのであり、
村山談話と逆の歴史観を持った航空幕僚長はサポートすべきである。
防衛省は、このたびのことを契機にして、幹部自衛官の歴史観をチェックするというのならば、
まず陸海空の各幕僚長が、村山談話と同じ歴史観ならば直ちに更迭したまえ。
政治がシビリアンコントロールの本質を理解せず、自衛隊を戦えなくしていたうえで、
年間五兆円を超える防衛費を支出しているとするならば、これこそ亡国に至る無駄遣いだ。
自衛隊は国を守るためにあるというならば、国のために戦える自衛隊にすることが国政の責務である。

マスコミも、政界も、「政」と「軍」の区別を理解せず、
シビリアンコントロールを曲解して田母神更迭劇を論じている。
防衛省も、田母神航空幕僚長の思想を点検してこなかったとして大臣以下内局の官房長まで懲戒処分にし、
挙句の果てに、自衛官の思想教育をチェックするという。何を慌てふためいているのか。
これではまるで、腹心の共産党員を政治将校として部隊に放って
将兵の思想傾向をチェックした「スターリンの軍隊」ではないか。
防衛省は、二十五万の全自衛官が村山談話の歴史観をもつようにするというのか。そして自衛隊を
「村山富市の軍隊」にするのか。当職の息子は陸上自衛官だが、息子が防衛省内局の思想指導により
村山談話を信奉すべきなどというたわごとは、断じて許せん。怒りがこみ上げる。

軍の領域にある田母神航空幕僚長の責務は何か。
それは、国を守る為に、よく戦える部隊を育成する為に部下をして日々訓練を続行させることである。
従って、この航空幕僚長が戦えない歴史観を持つならば更迭されなければならない。
そこで、村山談話の思想で自衛官は戦えるのか。
「日本は侵略を繰り返した悪い国で、近隣諸国に多くの苦痛を与えた国ですから軍隊を持ってはならないのです。
当然、自衛隊は軍隊ではなく自衛隊も軍人ではありません。
従って、仮に敵に捕まっても君たちには捕虜としての保護は与えられません」
このように村山談話に迎合した教えを受けて、このように信じた自衛官は国のためによく戦えない。
戦う前に自衛官を辞めるだろう。
では、如何なる思いにより人は祖国のために戦うのか。それは「祖国への愛」である。いろいろな人間愛の中で、
「祖国への愛」はその中心にあり、「祖国への愛」がない者は、
他の人間愛も維持することができないと古代ローマの政治家であるキケロも言う。
その通りである。
我が国の教育勅語にある人間愛と責務の徳目にも「一旦緩急あれば義勇公に報じ」と明記されている。
田母神氏も論文に記しているが「人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や
自分の生まれた国を自然に愛するものである」。
しかし村山談話の毒は、自分の生まれた祖国を悪として青少年から祖国への愛を奪うことである。
それでは田母神航空幕僚長は、空軍のトップとして如何なる問題意識を持ち、
如何なる指針に基づいて強い空軍を造り、その責務を果たすべきなのか。
この点を、昭和13年制定の作戦要務令が冒頭で簡潔に指摘している。
これが航空幕僚長の職務領域である。
「軍の主とするところは、戦闘なり。故に百事皆戦闘を以て基準とすべし。
しこうして戦闘一般の目的は、敵を圧倒殲滅して迅速に戦捷を獲得するに在り」
「訓練精倒にして必勝の信念堅く、軍紀厳正にして攻撃精神充溢せる軍隊は、
能く物質的威力を凌駕して戦捷を完うし得るものとす」「必勝の信念は、主として軍の光輝ある歴史に根源し、
周到なる訓練を以て之を培養し、卓越なる指揮統制を以て之を充実す」
この作戦要務令の指針は、人間の本質に基いており、単なる軍隊の指針に止まらず、普遍的で、
一定の目的を持った組織の指針として有効である。もちろん航空幕僚長のみならず他の陸海の各幕僚長とも、
この作戦要務令にもとづいて職責を果たすべきである。村山談話を信奉していてそれができるはずがない。
必勝の信念は「軍の光輝ある歴史の根源し」とするならば、
村山談話は、訓練を受ける部下から必勝の信念を奪い、ひいては「周到なる訓練」を不可能とする。
軍の領域では、実際の戦闘はもちろんのこと、その訓練にも命の危険がある。
他方、防衛大臣は、戦後政治のなかの野党の追及という与野党の駆け引きの次元にいる。
しかし、航空幕僚長はそのレベルにいてはならない。
「必勝の信念」がなければ、部下が無駄に死に国家が崩壊するという
取り返しのつかない事態に直結するのが軍事の領域であるからだ。

およそ軍隊の世界は村山談話の精神では運用できない。
祖国と軍の「光輝ある歴史」の拠り所とすることにより運用できるのだ。
しかも、田母神氏も述べているように、我が国の歴史を学べば学ぶほど、
我が国の真実の「光輝ある歴史」が見えてくる。
歴史を捏造し偽装する必要は一切ない。
このような国は滅多にあるものではない。これが我が国に生まれた幸せである。
従って、よき軍隊を創る為には、歴史を真摯に学習しなければならない。
田母神氏の論文は、その真摯な学習の結果である。
さらにチャーチルが言うように、政治家は祖国の歴史を学ぶことによって、
その使命を自覚すべきであるとするあらば、軍人と政治家はともに歴史に学ばねばならない。
特に戦争の歴史(戦史)は教訓の宝庫である。従って、軍人教育の中で戦史研究は大きな比重を占めるべき課題である。
従ってこのたびのように、多くの航空自衛隊幹部が公募に応じて歴史論文を投稿したことは、
内閣が慌てるべきことではなく、歓迎し評価すべきことである。
ところが、現在の我が国では、政の世界における歴史観が村山談話で固定され封印されている。
これは極めて国益を害する異常事態だと言わねばならない。
何故なら、村山談話の歴史観からは、祖国を守るために戦う軍人は育たず、
祖国を謝罪させることに執念を燃やす無国籍の政治家は育っても、
祖国を愛して歴史に学び、祖国の再興に使命感をもつ国民や政治家が出ないからである。
今や、日中戦争の始まりとなった日華事変の仕掛け人は、中国共産党の劉少奇であることも、
コミンテルンの指令でゾルゲというスパイと、朝日新聞記者の経歴を持ち、
近衛内閣及び満鉄調査部の嘱託を務めた尾﨑秀実が近衛内閣に
影響を与えて日中戦争の停戦を阻止して泥沼化を仕掛けていたことも、
日米開戦の引き金になった「ハルノートを書いた男」は
ルーズベルト政権内に送り込まれたコミンテルンのエージェントであったことも明らかになっている。
田母神航空幕僚長のこのたびの論文は、これらの事実を学んで書かれており、歴史の真実に根ざしている。
そしてこの各事実からは、これらが封印されていた東京裁判の時の歴史認識と全く違ったものが導かれて当然である。
航空幕僚長として歴史を学んだ田母神氏の論文に何ら非難すべきものはない。
ここで、政治における公定史観である村山談話とは何かと再度確認したい。
第一に、この公定史観こそ、中国共産党と朝鮮半島の歓迎するところである。
と言うよりも、中国共産党の気に入る歴史認識を社会党の村山富市氏が総理大臣談話として発表したのだ。
従って、この談話の主語は「私」である。
村山内閣の当時の閣僚にも心ある日本人がいたとしても、談話の主語が「私」であるが故に、
「村山が言っていること」として見逃してしまったのではないのか。
「ハルノートを書いた男」はコミンテルンのエージェントだったとすれば、
「村山談話を書いた男」は何処のエージェントの可能性があるのか。
スパイ防止法のない我が国では分からない。いずれにしても、更迭すべきは
田母神論文ではなく、他国に迎合してその反日教育を正当化する村山談話である。
案の定、この村山談話の歴史観により東アジアの華夷秩序ができた。
つまり、日本は、中国と韓国や朝鮮に謝り償うために金を支払う存在であるという秩序である。
それと同時に、この歴史観により、中国共産党は中国支配の正当性を確保している。
即ち、中国共産党こそが、中国人民に悪逆の限りを尽くした日本帝国主義を打倒し、
中国人民に幸をもたらしたという政権の正当性が、日本悪玉論により中国共産党に与えられる。
現在中国で行われているえげつない反日教育・反日プロパガンダに、我が国は村山談話により承認を与えている。
また、昨年アメリカ下院ででっち上げられた我が国に対する「従軍慰安婦謝罪要求決議」に対して、
我が国の外交官が適切な反論ができなかったのは、村山談話があるからである。
村山談話こそ、著しく国益に反するものである。
さらに、そもそも村山談話は、史実に基づいているのか。
答えは否である。始めに謝罪ありきの政治文書であって、史実にもとづいてはいない。
田母神論文の結論、「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣」、これこそ史実に基づいている。

ここにおいて、我が国の政界とマスコミ界は、シビリアンコントロールの故に、政治が航空幕僚長を更迭し、
自衛官の思想統制を行うのが当然と言う前提で動いている。しかし、これこそ、我が国の政界とマスコミ界が
シビリアンコントロールの本質を理解していないことを示していることなのだ。
つまり、シビリアンコントロールの原則は、「軍の自律」を前提に機能する。
そして田母神論文は、この「軍の自律」の領域にある。
既に述べたように、村山談話では軍の訓練と訓練が目指す戦場での勝利も達成することができない。
ということは、つまり、村山談話では、シビリアンコントロールが無意味になるということである。
何故なら、村山談話では、コントロールする対象としての軍が無くなるからだ。

第二次大戦中のイギリスの首相はチャーチルであり、
イギリス軍の最高位にあったのは参謀総長アランブルックであった。
彼ら二人は戦争中、憎しみ合いながらも毎日数時間会っていた。
その間、チャーチルが多くをしゃべり、それを聞いたアランブルックは、
たった一言しゃべるだけだったという。その一言とは、「閣下、それはできません」ということ。
これがシビリアンコントロールが現実に機能している姿である。
ここにあるのは、政と軍の緊張関係である。
チャーチルの政治家(シビリアン)としての発想に対して、参謀総長アランブルックは
軍人として拒否すべきは断固拒否して作戦の軍事的整合性を守っていた。
そうでなければ敵に勝利できないからである。
そもそも国家の目的は、敵に勝利して国家の安泰を確保することである。
シビリアンコントロールは、この国家目的に奉仕するものである。
国家の勝ち負けはどうでもよいが、政治が軍事に関与しなければならないというのは
シビリアンコントロールではない。
似て非なる軍への素人(シビリアン)の過度の介入である。素人に過度に介入されれば、軍は戦えなくなる。
従って、田母神氏の第二の戦場での任務は、部下が戦えるように、「閣下、それはできません」と、防衛大臣に対して、
きっぱりと軍隊への村山談話浸透拒否することである。
我が国の帝国海軍が真珠湾を攻撃したとの知らせに反応したルーズベルト大統領は参謀総長を振り返って、
「問題の解決を君たちの領域に移す」と言ったという。これがシビリアンコントロールが発動された典型的情景である。
シビリアンコントロールとは、政治的最高指導者が、軍の最高指揮官となって、
軍を動かすボタンを押すか否かを決定するその瞬間の決断のことである。
これによって動き始めた軍は、軍事的に最良の行動をとっていくのである。
政治が軍に目的を与え、それを実行に移すが否か、また何時中止するかを決定する。
これがシビリアンコントロールである。
これは国家の運命を決する厳しい決断である。
神戸の大震災に際して、「なにぶん初めてのことで、朝も早かったものですから」と
自らの無能を弁解した社会党の首相に為しうる決断ではない。
そして、この国家の運命を決する決断の前提には、
前に記した作戦要務令の精神で練り上げられた必勝の信念を持つ自律した軍隊が存在しなければならない。
それにしても、我が国家安泰のために、自衛隊を自律した軍隊にすること、
その為に村山談話を「更迭」すること、これらは総て政治の任務である。
このたび、この国家再興のための問題提起を田母神前航空幕僚長にのみ任せていることを
政治の領域にいる議会人として恥じている。
田母神航空幕僚長更迭問題を契機として、政界全体が村山談話に覆われているこの閉塞状況を打ち破る為の、
真の保守愛国の同志を結集することが、議会人としての責務であると深く自覚する次第である。

共産党が皇室に急接近

【高木桂一の『ここだけ』の話】
2015.6.16 11:00更新
共産党が皇室に急接近した瞬間を激写!!「次の狙いは佳子さまだ」 
でも国歌斉唱では口を閉ざしたまま…
さる5月25日に開かれた千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式で、
共産党の小池晃副委員長が秋篠宮ご夫妻と同席した。
皇室への“接近”をはかる革命政党の戦略を示すものだが、
産経新聞は拝礼式での「歴史的瞬間」をカメラに収めた。
そこで見えたのは、共産党の隠しきれない“本性”だった。
厚生労働省が主催する拝礼式は昭和40年から皇室の方々が臨席されて毎年開かれている。
各政党は欠かさず代表者を出席させてきたが、共産党は昨年5月26日の拝礼式に初めて参列し、
小池氏が代表として秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまと同席した。
共産党は皇族の方々が臨席されるため約50年の長きにわたって拝礼式への参列を見送ってきたが、
昨年、ついに「禁」を破ったのだ。
これまで皇室と距離を置いてきた共産党にとっては
史上初めて能動的に皇室の方々と同じ舞台に立つという歴史的な出来事だった。
厚労省の担当者も事前に共産党から「出席」を伝えられ、耳を疑ったほどの“事件”だった。
このところ国政選挙で「躍進」を続けて意気上がる共産党だが、
志位和夫委員長ら指導部がさらなる党勢拡大に向け
「共産党イコール天皇制打倒」のイメージを抱く
多数の国民の“共産党アレルギー”をやわらげることが不可欠だと判断していることは言うまでもない。
「機関紙『しんぶん赤旗』の部数は増えていないのに、選挙の得票は増えている」と共産党関係者はいう。
従来のコアな支持層以外の有権者が共産党になびいてきているという分析だが、
“ゆるい支持層”をさらに引き寄せるには「普通の政党」「大衆政党」といったイメージを拡散していくことが
この党の重要な戦略になっている。皇室との距離を縮める路線はまさにその戦略に沿ったものだ。
ところが昨年5月の歴史的な出来事に関して当時は産経新聞を含めて、
どのマスコミも報じることがなく、見逃してしまった。
共産党幹部に後日、「拝礼式に取材に来ていた記者さんたちも
みんな気がつかなかったねぇ…」と皮肉を言われたほどだ。
ならば“1年遅れ”ででも歴史的な現場に立ち会うしかない。
筆者は、2年連続で千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式に出席した小池氏の姿を追った。
5月25日正午すぎ、安倍晋三首相のほか、塩崎恭久厚労相や岸田文雄外相ら
閣僚、自民党の棚橋泰文幹事長代理、公明党の山口那津男代表、民主党の岡田克也代表、
維新の党の松野頼久代表、次世代の党の平沼赳夫党首、
社民党の吉田忠智党首ら各党代表の中に小池氏がいた。
総勢約600人の参列者が、秋篠宮ご夫妻が到着されるのを待っていた。
やがて秋篠宮ご夫妻をお迎えし、式典が始まる。ご夫妻と数メートル離れた位置に立った小池氏。
冒頭の国歌斉唱の際には起立していたものの、口はしっかり閉ざしたままだった。
周囲がみな「君が代」を斉唱するなか、ただ一人「われ関せず」の模様はやはり異様だった。
小池氏は拝礼式後、「君が代」斉唱を拒否した理由について「内心の自由だから」と筆者に語った。
むろん「君が代」を国歌とすることに強硬に反対し続けている共産党の幹部としては
文字通り“レッド・ライン”なのである。
政府・与党が「日の丸」を国旗に、「君が代」を国歌に
それぞれ法制化する方針を決めた平成11年3月のことだ。
いずれも容認しない共産党の不破哲三委員長(当時)は、
「君が代」反対の理由を党の見解としてこう表明した。
「『君が代』という歌は、千年以上前の作者の意に反して、
明治以後、天皇の統治をたたえる歌という意味づけを与えられてきた。
『君が代は千代に八千代に』、つまり“天皇統治は永久であれ”という歌だから、
今の憲法の国民主権の原則と全く両立することはできない」
この不破見解は現在も共産党の公式な立場となっているというから、さすがに党幹部が歌うわけにはいかない。
最近も『赤旗』の「主張」(一般の新聞の社説に相当)で
「『君が代』の強制 いったい誰のための式なのか」(今年3月1日付)、
「大学と国旗・国歌 許されぬ学問と自治への介入」(同5月4日付)と、
「君が代」への拒絶を叫び続けている。
共産党の皇室戦略転換の大きな胎動となったのは、平成16年1月の第23回党大会だ。
昭和36年の第8回党大会で採択した党の基本的文書である綱領(いわゆる「宮本綱領」)を全面改定し、
天皇制について「民主主義及び人間の平等の原則と両立しない」と反対姿勢を堅持しつつも、
「君主制を廃止」というそれまでの表現を削除した。
天皇が「憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、
国民の総意によって解決されるべきもの」と明記し、天皇制との共存を容認した。
当時、不破氏が議長として主導したソフト・イメージ路線の象徴だった。ある共産党関係者はこう漏らす。
「佳子さまとの“接点”がもてれば党の大きなイメージアップになる。次の狙いは佳子さまだ」
つまり国民的人気のある秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまの公務で党幹部が同席する機会がつくれれば、
共産党にとってはメガトン級の得点になると皮算用しているのだ。
しかし計算ずくで皇室にじわじわと近寄りながら、
一方で「天皇統治体制が永久に続くことはまかりならぬ」と「君が代」をかたくなに拒否する、
この党の二重基準は何なのか。
5月25日の千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式で明確になったのは、
皇室を事実上利用してどれだけ「普通の政党」を偽装しようが、
革命政党の本質は変わらないということである。
ちなみに「赤旗」は翌5月26日付で「千鳥ケ淵で戦没者拝礼式 小池副委員長が献花」という見出しで
記事を掲載したが、記事では秋篠宮ご夫妻が臨席されたことには一切触れていない。
「実は『赤旗』編集局も昨年5月に小池氏が拝礼式に参列したことを
後日知ったため記事にならなかった。
今年初めて取材し記事にした」(共産党関係者)という。
党内には「天皇制打破」を強硬に主張し続けている古参党員も少なくないと聞く。
“皇室への接近”は、多くの党員が目にする機関紙への掲載をはばかる「不都合な真実」なのかもしれない。
(政治部編集委員 高木桂一)
http://www.sankei.com/politics/news/150616/plt1506160002-n1.html