幕末維新から平成、そして未来へ-近現代史と皇室を考える

【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ-
近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(1)
2019.4.2 10:00
歴史(往事・往時)を彰(あき)らかにすることによって新時代(未来)を考える-。
「平成」から「令和」という歴史の転換点を迎えた現代こそ、
こうした「彰往考来(しょうおうこうらい)」(※1)が求められるであろう。
その最初の試みとして、皇室史の第一人者である所功・京都産業大学名誉教授に
明治から平成にいたる時代と歴代天皇や皇室、
そしてファミリーヒストリーについて語ってもらった。(編集委員 関厚夫)

◆「万機公論(ばんきこうろん)に決すべし」 戦前と戦後をつなぐ五箇条の御誓文
大化の改新・建武中興(新政)・明治維新は「日本史上の三大改革」と言われています。
昨年は「明治150年」という節目でしたが、残念だったのは明治の初めに掲げられた五箇条の御誓文(※2)が
あまり注目されなかったことです。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」をはじめとする五箇条の御誓文は単に明治元(1868)年3月、
明治天皇が国是(国家の基本方針)である5カ条の順守を天地神明に誓約されたのみならず、
新政府の副総裁だった三条実美以下、総勢七百数十人の文武百官らが一人一人、
「この御誓文を命がけで実行します」という決意を示す誓約の署名をしています。
それゆえ従来は260にも分かれていた諸藩が一つにまとまり、
翌年の版籍奉還、そして廃藩置県(明治4年)という近代的統一国家をつくる大前提が整いました。
その意義はいくら強調してもしすぎることがないほど重要だと考えています。
しかも、「天皇人間宣言」の通称でしられる昭和21(1946)年元日に公表された
「新日本建設に関する詔書」は、昭和天皇のご意向により五箇条の御誓文が冒頭に掲げられ、
日本は敗戦・占領下にあるけれども、誓いを新たにして
「このご趣旨にのっとり、新日本を建設すべし」などと述べられています。
つまり戦後の日本は五箇条の御誓文を新国是として再出発したといえるのです。

◆故郷・岐阜と「ご一新」
〈司馬遼太郎の短編に『美濃浪人』という佳作がある。主人公の志士、所郁太郎は西濃(岐阜県南西部)出身で、
適塾で学んだ蘭方医でもあった。幕末長州藩の内紛で襲撃され、瀕死だった後の顕官、
井上馨の一命を救ったことでしられる。しかし、まもなく病に倒れ、“無名の志士”のまま、数え歳28で生涯を終える。
郁太郎(旧姓・矢橋)の養子先の所家は、所さんの実家の隣町にあたる現在の岐阜県大野町にある〉
お国自慢の一つですが、西濃は江戸時代から非常に教育熱心です。
とくに大垣近辺は明治中期以降、数少ない博士号取得者を輩出したため「博士の町」とも呼ばれていました。
また、所姓はところどころにいるのですが(笑)、郁太郎も、長生きをすれば大きな働きをしたかもしれません。
故郷の西濃は幕末期、譜代大名の大垣藩(戸田氏)領や御三家の一つの尾張藩領、
それに天領(幕府の直轄地)などがモザイクのように入り組んでいました。
わが家は平凡な農家ですが、江戸時代の庶民がすごいと思うのは、かなり読み書きそろばんができたことです。
10年ほど前に仏壇を整理していたら、幕末のころに書かれた上手な手紙をみつけました。
なんと、それは恋文でした(笑)。
少し横道にそれましたが、私の故郷にとっても明治維新は大きな変革でした。
幕末まではすぐ隣の地区でも天領か尾張藩領か、あるいは大垣藩領かどうかで意識が異なり、
お互いに張り合ったり争ったりしたことが少なくなかったようです。
それが版籍奉還や廃藩置県によって解消されるようになったのです。

◆近代国家建設を可能にした歴代天皇と「帝王教育」の担い手たち
その後、明治10年の西南戦争を乗り越え、22年2月11日には欽定の大日本帝国憲法が公布され、
その施行とともに翌23年11月、帝国議会が開設されました。
このようにしてわが国は、天皇を中心として全国民が一致協力するという「君民一体の国柄」を堅持しながら、
西洋に学んだ立憲君主政体のもとで三権が機能する近代国家を構築しました。
やがて朝鮮半島をめぐる対立から日清戦争(明治27~28年)や
日露戦争(同37~38年)が起こったさいには政・軍・民が一体となって戦い抜き、
清とロシアという2つの大国に勝利をおさめました。特に日露戦争は長引けば危ういところでしたが、
外交的に英米などを味方にして奇跡的な勝利を実現したのです。
その結果、白人絶対であった欧米の主要国も植民地化されていた有色人種の国々も
日本を評価し、敬意を払うに至りました。
これらのことを可能にしたのは、近代を迎えたわが国に数多くの人材がいたからです。
しかも、その中核に明治天皇という格別な精神的リーダーがおられた、ということが非常に大きかったと思われます。
大和朝廷を中心とする統一国家の形成以降、隋・唐に学んだ律令体制のもと、
名門の貴族や武家が政治・軍事の実務を運用し、そのうえに伝統的な権威をもつ天皇が
一貫して全体を統合するという日本的なあり方が続いてきました。
日本の近現代はその延長線上に形成されてきたのです。
その中心におられる天皇は、2千年来の歴史を受け継いでこられた皇統のご子孫ですから、
一般とは異なる資質や伝統を備えておられます。
しかも同時に人間であられますから、幼少期より多くの教育を受けられます。
明治から戦後に至るまで、非常に優れた「帝王学」の指導者がいました。
立派な天皇の周辺には優れた奉仕者がおり、いろんなかたちでお導きしてきたのです。
明治天皇についていえば、西郷隆盛や山岡鉄舟をはじめとする側近たちが帝王教育に渾身の努力をしました。
その明治天皇に信任され、昭和天皇にも大きな影響を与えたのが後年、
学習院院長を務めた陸軍大将の乃木希典(のぎ・まれすけ)です。

 ※1 彰往考来 『春秋左氏伝』の研究者としてもしられる
中国西晋の武将・学者、杜預(222~84)の著書にある言葉。
「黄門さま」こと水戸藩主の徳川光圀が『大日本史』を編集するために開設した彰考館は
この言葉にちなんで命名されている。
 ※2 五箇条の御誓文全文 一、広く会議を興し、万機公論に決すべし 
一、上下心を一にして盛(さかん)に経綸(けいりん)を行うべし 
一、官武一途庶民に至る迄、各(おのおの)其志を遂げ、人心をして倦(うま)ざらしめん事を要す 
一、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし 
一、智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし(カタカナをひらがな表記にし、句読点を補うなどの編
https://www.sankei.com/life/news/190402/lif1904020003-n1.html


(2)
2019.4.3 10:00
明治時代の中ごろまで、天皇に和漢洋書を講義する「侍講(じこう)」という官職がありました。
この侍講を長期間にわたって務めた元田永孚(ながざね)(※1)が果たした役割は
きわめて大きかったと考えています。
明治天皇と元田の関係は、まさに「水魚の交わり」でした。
元田は「天皇・皇室は別格」という信念のもと、あえて明治天皇に厳しいことも申し上げました。
それでいて厚いご信任を受け、「御手許機密の顧問」として活動したのです。
伊藤博文が大日本帝国憲法の制定や帝国議会の開設というハード面で明治天皇を支えたのに対して、
元田は帝王学というソフト面で支えた忠臣です。

◆昭和天皇と乃木希典
同様に明治天皇のご信任を得たのが陸軍大将の乃木希典(のぎ・まれすけ)です。
乃木が学習院の院長に就任したのは明治40(1907)年1月。
当時5歳で翌年に学習院に入学される皇孫・裕仁親王(後の昭和天皇)の“薫陶役”をも兼ねるという大任でした。
そこで乃木は、裕仁親王が心身ともに強健な立憲君主として成長されるよう尽力しました。
その証しの一つが先日確認された、昭和天皇晩年の直筆歌稿のなかにもみられます。

 雨(の)時は馬車(うまぐるま)にて學校にかよひたること(りしが)のぎはさとせり

この御製(歌稿)には「赤坂御殿より通ふ のぎは乃木大将のこと」というご自身の「説明」が添えられています。
つまり、当時は東宮御所だった赤坂離宮(現・迎賓館)から四谷の学習院初等(学)科に通学するさい、
裕仁親王が晴の日は徒歩で、雨の日は馬車を利用されていたところ、
乃木院長から「雨の日も歩いて通われるように」と諭された、という思い出を詠まれたのです。
昭和天皇は昭和46年のある会見(※2)で、前述の御製に詠まれた出来事について
「(乃木から)質実剛健(が大事だということ)を教えられたと思います」と語っておられます。
その後、晩年の昭和62年に至ってもこの御製のように詠まれました。
小学校時代に乃木から学ばれたことが、いわば一生を貫く精神的な中核をなしていたことがわかります。
乃木や元田のような側近たちは、あえて苦言・諌言を申し上げたことも少なくありません。
それらを天皇は寛大に受け入れられ、道徳的に自らを高めていかれたのです。
以上、申し上げたのは「帝王教育」に関する話ですが、一般庶民にとりましても明治以後に学校教育が普及し、
充実したことはきわめて重要なことだと考えています。
たとえ裕福な家の出身ではなくても、勉強し、努力すればその才能を認めてもらえるような社会が到来したのですから。

◆庶民に根付き、花開く明治以後の学校教育
都会でも田舎でもほとんどの親たちは、苦労を重ねながらも、
自分の子供たちについては小学校だけは通わせようとしました。
立身出世のためという現実的な動機もあったでしょう。
でもそれとともに、教育がないのは人間として恥ずかしい、教育を受けて立派な人間になりたい、
というような意識が日本国中に広がっていたからではないかと思われます。
身内の話ですが、私の父は男2人、女3人という5人きょうだいの長男に生まれました。
田舎の貧しい小作農でしたが、父の両親とも「尋常小学校にだけは行かせたい」と考えていました。
ですので、小学校時代の父の生活は田畑の仕事をしてから学校へ行き、
授業が終わると田畑の仕事に帰ってくる、という日々の繰り返しでした。
それでも1日も学校を休まず、毎年「皆勤賞」をもらったことが父にとって何よりの自慢だったようです。
母も尋常小学校しか出ていませんが、良い先生に恵まれ、
明治天皇やおきさきの昭憲皇太后の御歌(和歌)をたくさんそらんじていました。
また、家計を助けるため住み込みで働いていたときにいろいろな習い事を覚え、かなりの教養を身につけていました。
 遠縁にあたる父と母が見合いの後、結婚に至ったさい、
母は嫁入り道具の一つに漢和辞典を携えてきました。
「嫁ぎ先で手紙を書くときにわからない字があったら恥ずかしいから」というのがその理由だと言っていました。
このように田舎の普通の主婦でも向学心があり、和歌や俳句を詠む豊かな感性を備えていました。
教育というものは学歴云々ではありません。基礎さえしっかりしていれば、
後は置かれた環境に応じて生きる楽しみを養ってゆくことができる。そんな「人間力」だと考えています。
〈所さんの父、久雄さんは大正元(1912)年、母のかなをさんは大正5年生まれ。
久雄さんは尋常小学校を卒業後、青年学校(勤労青年のための定時制の中等教育機関)に通い、
そこでも皆勤を続けた。また家業を継いだ後、農閑期には町工場で働き、生きた技術を身につけたという。
2人は昭和13年に結婚し、16年12月に長男の所さんが誕生した。
しかし、半年後に久雄さんは「赤紙召集」され、戦地へ。
この後、一家3人で再び相見る機会が訪れることはなかった〉
 
 ※1 元田永孚(1818~91) 熊本藩出身。枢密顧問官。
「日本大百科全書」によると、「明治天皇の君徳輔導に尽力。立憲制に対しては天皇の徳治を、
教育政策では開明派の知的啓蒙に対して仁義忠孝の徳育を主張。(中略)教育勅語の草案作成に参画し、
(中略)明治公教育の理念形成を主導」した。
 ※2 昭和46年4月20日、ご訪問先の松江市での記者会見。
同月29日付の本紙によると、乃木と元帥、東郷平八郎にまつわるエピソードを尋ねられた昭和天皇は、
乃木についてふれた後、「東郷元帥たちからは帝王学の基礎を教えてもらいました。
それぞれ、いまも尊敬しています」と述べられた。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190403/lif1904030003-n1.html


(3)
2019.4.4 10:00
◆「大正」の光と影
大正天皇(1879~1926年)とその時代に話を移したいと思います。
大正天皇は幼少のころからご病弱でした。
しかし、東宮(皇太子)輔導となった有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王(※1)が
ご健康の回復に尽力されました。そして皇太子時代の大正天皇は、全国各地へ出かけられるようになり、
一般国民と直にふれあって一体感を醸成されました。
これは父君の明治天皇が地方を巡幸されたよりも自由な形で行われました。
今上陛下のお出ましのスタイルの先駆けといえるかもしれません。
明治後期に起きた日露戦争(1904~05)に勝利した後から大正の終わりごろまで、
日本は表向き景気がよく、社会的にも「大正デモクラシー」のムードが広がりました。
しかし、即位の大礼を終えられたころから大正天皇の病状が進行し、
大正10(1921)年11月に20歳の皇太子、すなわち後の昭和天皇に摂政を委ねられることになります。
関東大震災をはさんでその5年後に大正天皇が崩御するまで、昭和天皇は摂政として立派な働きをされましたが、
非常にお辛かったと思われます。なぜなら、摂政を委ねられた皇太子がその役割を果たすということは、
父君の大正天皇がもはや公務を何もおできにならないことを裏付けることになるからです。
昭和に入りますと、厳しい内外情勢のなか、25歳で即位された昭和天皇は、
大日本帝国憲法が規定する元首として、また陸海軍を統帥する大元帥として非常なご苦労をなさいます。
もちろん近代的な立憲君主制ですから、政治・軍事の実務は臣下に委ねられ、
政府や軍部の決定を承認する無答責(法律上の責任を負わなくてもよいこと)というお立場にありました。
とはいえ、昭和4(1929)年、「張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件」の
真相究明における首相、田中義一の食言を問責されたことで内閣が総辞職した(※2)結果、
国政に混乱を招いてしまったと反省され、ご真意の表明を控えられるようになります。

◆国民がことほぐ「皇太子さまお生まれなつた」
こうしたなかで何よりの朗報は、昭和8年12月23日の「皇太子さま(今上陛下)ご生誕」のニュースです。
昭和天皇と香淳皇后の間には4人の皇女(内親王)が次々と誕生されました。
しかし、皇位を継承できる皇子のご生誕はまだでしたから、この朗報に皇室も国民も大喜びだったようです。
そのころ、私の母(かなをさん)は岐阜市の会社重役方に住み込みで働いていました。
祝砲代わりのサイレンを聴いて飛び出し、みなでちょうちん行列をしたそうです。

〈ご生誕のさい、東京近辺では皇子さまならば祝砲代わりのサイレンは2度、
皇女さまならば1度鳴らされることになっていた。
「日の出だ、日の出に/鳴つた、鳴つた、ポーオ、ポー、/サイレンサイレン、ランラン、チンゴン、
/夜明けの鐘まで。/天皇陛下お喜び、/皆々(みんなみんな)かしは手、
/うれしいな、母さん、/皇太子さま、お生まれなつた。」
北原白秋が作詞した奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』の第一番である。
これに「カチューシャの唄」や「てるてる坊主」でしられる「大衆歌曲の父」の
中山晋平が曲をつけた奉祝歌は国民に愛された。
また与謝野晶子は「新しき光さし出(い)づあなかしこ 東方の主をおん父として」
という和歌でご生誕をことほいだ〉

◆日露戦争後の暗雲
少し話を戻します。わが国は、明治後半の日清戦争と日露戦争では全国民が一体となって戦い、勝利しました。
これを機に産業革命が進み、国際的に高く評価されるようになったことは確かです。
ただ、それによって日本人は一種の錯覚に陥ったのではないか。
つまり、「自分たちは世界の一等国になった」という意識が次第におごりとなり、
たとえば中国やロシアに優越感をもち、彼らを蔑視するような傾向が強まったとみられます。
大正の前半に起きた第一次世界大戦(1914~18)で
日本は英仏露を中核とする協商国側として参戦しました。
結果、戦勝国の恩恵に浴し、一時的な好景気にわきました。
「にわか成金」という言葉に代表されるようにお金さえもうければよい、
自分さえよければよいという利己主義・刹那主義の風潮が広がりました。
その矢先、昭和に入って世界的な大恐慌に巻き込まれ、国際的に孤立するような道をたどります。
ちなみに、東宮侍従や侍従次長などを歴任した木下道雄氏(1887~1974)が
残したノートをもとに編集された「側近日誌」が平成元年春に公開されました。
そこに昭和20年8月の終戦当時、日光に疎開されていた皇太子殿下--
11歳当時の今上陛下がつづられた「八月十五日 新日本の建設」という題の作文が書き写されています。
その作文では、前線で戦った人々や銃後を守った人々の辛苦をねぎらうとともに、
敗戦の原因について「英米の物量が我が国に比べ物にならない程多く、
(中略)科学の力が及ばなかつた」からと冷静に分析されています。
のみならず、「日本人が大正から昭和の初めにかけて国の為よりも私事を思つて自分勝手をした」
ということも敗因として挙げられています。
これを初めて読んだとき、従来そんなことをまったく思ってもみませんでしたから、たいへん驚きました。
このご指摘が意味するところを、私共は直視しなければならないと痛感しています。

 ※1 有栖川宮威仁親王(1862~1913) 幕末維新と明治前期に活躍した
有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第4王子。有栖川宮家を継承。海軍大将・元帥。
 ※2 昭和3年6月、中華民国陸海軍大元帥の張作霖が関東軍高級参謀、
河本(こうもと)大作大佐の謀略により奉天で爆殺された。
真相が秘匿されるなか、首相の田中義一は当初、軍法会議を開いて関係者を処分する方針を昭和天皇に上奏した。
しかし、結果として真相が明らかになることなどから陸軍や閣僚、与党の政友会幹部らが一致して反対。
このため田中は「警備上の不行き届き」として、より軽い行政処分にとどめるという内容の再上奏を行った。
それに対して昭和天皇は「それでは前と話が違ふではないか、
辞表を出してはどうかと強い語気で云つた」(『昭和天皇独白録』)という。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190404/lif1904040002-n1.html


(4)
2019.4.5 10:00
◆史上の名君
〈昭和天皇崩御から12日後にあたる平成元年1月19日付本紙「正論」欄で、
作家の阿川弘之さんは次のように述べている。
「対米開戦の詔書が天皇裕仁の名前で出されているにもかかわらず、陛下は世界に類い稀な、
二十世紀の名君だったという私の印象には変わりがない。
愚かな臣下どもが、半ば自分をだますようにして、勝てるはずのない無謀のいくさに突入し、
あげ句の果て、徹底的敗北を喫して、全国の都市が焼野原になり、国民は餓え、国土は戦勝国の軍隊に占領された。
その時、占領軍最高司令官のもとへ自ら出向いて行って、
『自分の一身はどうなっても構わない。どうか国民を救ってやってほしい』と懇願した、
そんな帝王が、世界の近代史の上にだれかいただろうか」(※1)
所さんもまた、昭和天皇を「類い稀な二十世紀の名君」と評価する一人である〉

「大東亜戦争」は開戦も終戦も同じ天皇のもとで行われたわけですから、
当然外部からその責任を問われかねません。それをだれよりも自覚しておられたのが昭和天皇ご自身です。
また、法的に立憲君主は無答責(法律上の責任を負わなくてもよいこと)となっていても、
自分には道義的な責任があることを晩年にいたるまで痛感しておられました。
たとえば、昭和61(1986)年の天皇誕生日(4月29日)に
在位60年の祝典が開催されたさいの御製(和歌)の草稿が先日、確認されました。

 國民の祝ひをうけてうれしきもふりかへりみればはづかしきかな
お祝いをしてくれるのは確かにうれしい。しかし、戦争によって多くの命が失われ、
国民が塗炭の苦しみを味わったことを思うと、そのようなお祝いを受けることは恥ずかしく、
自責の念にたえない。昭和天皇のそんな悔恨・痛悔の念がにじみ出ています。

◆戦死した父の「導き」

〈所さんの父、久雄さんは昭和17年7月に「赤紙召集」され、1年後、南太平洋のソロモン諸島で戦死した。
30歳だった。昭和47年夏、30歳の所さんが現地に住む日本人の協力を得て
ジャングルをかきわけて捜索したさい、偶然にも「所」と刻まれた飯ごうのふたを発見した。
さらにその翌日の7月27日朝、わずかに残っていた遺骨を拾い上げた。
「くしくも足かけ30年目の命日だった」という。
「私も人並に教育を受けて、いわゆる合理主義というものを身につけたつもりの人間であるが、
(中略)もしも霊の導きというものがあるならば、このことではないかと思わざるをえない」。
所さんはそう記している〉

小学校を卒業してからも青年学校(勤労青年のための定時制の中等教育機関)に通い、
そこで機械工学の基礎も身につけていたのか、出征先で父は、機関銃など機械類の操作に秀でていた、
と生還した戦友が言っていました。大東亜戦争では兵隊の質が落ちたと言われていますけれど、
名もなき兵士たちが自分がもつ知識や技能の限りを尽くし、まさに命懸けで戦ったことは確かだと思います。
父が戦死したとき、母は26歳、私は1歳半でした。父方の祖父母はすでに他界しており、
いわゆる母子家庭となりましたが、当時、故郷(現・岐阜県揖斐川町)では、
隣近所や親戚、とりわけ母の両親が本当によく助けてくれました。
いまもありがたいと思うのは、お互いに困ったときには助け合うのがまったく当たり前だったことです。
国全体としては大戦に敗れ、占領下に置かれても、昭和天皇は毅然としておられました。
また戦争で傷ついた人々を慰め、励ますため、全国を巡幸しておられます。
占領下にある国民が立ち直るためにできることは何でもしたい、という
強い気持ちをもたれていた昭和天皇は自分を省みず、固い意志で実行に移されたのです。
その結果、多くの国民が勇気づけられ、再建への道を歩み始めることになったわけです。

◆至高の名文「遺児の皆さんへ」との出会い

〈昭和30年、中学2年生の所さんが夏休みに日本遺族会の世話で靖国神社へ参拝したさい、
小冊子を受け取った。そこには「遺児の皆さんへ」の題で小泉信三(※2)の文章がつづられていた。
「身を殺して仁をなすは仁の最も大なるものであるといいます。即(すなわ)ち人を愛し、
人を救うために自分が死ぬということは、最高の愛の行為だということです。
戦死者は特定の人を救うために死んだのではありませんが、日本国民という、
過去から未来に及ぶ同胞の全体のために身を殺したものであって、
その人々に身を殺させた同胞国民としては、その人々とその行為とを忘れては済まないのです。
皆さんのお父さん、私の伜(せがれ)、その他無数の戦死者の死は、このような意味を持つのです。
その人々の死にも拘(かかわ)らず、日本が敗れ、彼等の死を空しくしたのは、
まことに忍びないことですが、貴とい犠牲の価値は、敗戦の故に亡びるものではありません」(※3)〉

戦後、戦没者遺族を戦争協力者として非難するような風潮もありました。
そんななか、小泉先生は遺児の私共を励ましてくださったのです。
小泉先生の最愛の一人息子だった信吉さんは海軍士官となり、戦死されています。
また小泉先生自身、空襲で家を焼かれ、顔と両手にやけどを負い、一時は重篤に陥りました。
しかし、節を変えることなく、占領下に置かれた日本が何とか精神的な独立を回復できるようにと
論壇で活躍されました。そのうえ、昭和24年から東宮御教育常時参与として
皇太子時代の今上陛下の教育に尽力しておられます。その功績については改めて述べたいと思います。

〈前述の小泉の一文は次のように続けられている。
「どうか今後、国民が国を護(まも)るために身を殺さなければならないような事態の起らぬようにしたいものです。
けれども、そういう事態の起らぬ世界の来るのを待ち望むということは、
身を殺して同胞を護ろうとした人々と、その行為の貴とさを忘れるということではありません。
皆さんのお父さんがなされたように、国のために死ぬというのはこういうことなのです」〉

 ※1 『阿川弘之全集』(第18巻=新潮社)では旧仮名遣いで収載され、ごく一部に表現の違いがある。
 ※2 小泉信三 1888~1966 経済学者。慶應義塾の名塾長。
 ※3 引用はすべて『小泉信三全集 16』(文芸春秋)から。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190405/lif1904050002-n1.html


(5)
2019.4.6 10:00
所さんは故郷(現・岐阜県揖斐川町)の公立小・中学校を経て、
県下でも有数の進学校である県立大垣北高校に入学したが、高校卒業後は就職を考えていた。
しかし、クラス担任から奨学金制度の活用を勧められたことをきっかけに方針を転換。
「授業料の安い国立大で、しかも家から通える範囲なら」という母、かなをさんの意をうけて
名古屋大学文学部を受験し、合格した。通学には往復で5時間あまりかかるなか、
帰路には家庭教師などのアルバイトを続けた〉

◆『風流夢譚(ふうりゅうむたん)』の衝撃

私が名古屋大に入学した昭和35(1960)年春は「60年安保闘争」(※)の真っ最中でした。
民主青年同盟(民青)の指導する学生自治会が授業拒否のストを行い、
大規模なデモにはノンポリの学生も動員されていました。
また彼らは、反米・親ソを連日吹聴しましたので、
「ひょっとしたら日本にも共産革命が起こるのではないか」という懸念がありました。
このような騒然とした世情のなかでさらに衝撃を受けたのが、
それまで良心的な総合雑誌だと思っていた「中央公論」の12月号(この年の11月10日発売)に
『風流夢譚』が掲載されたことでした。

〈『風流夢譚』は『楢山節考』の著者として知られる深沢七郎(1914~87)の短編小説。
夢の中という設定ながら、「革命の様なこと」が起き、群衆が皇居を占拠。お祭り騒ぎのなか、
当時の皇太子ご夫妻や天皇・皇后両陛下を処刑する--というセンセーショナルな内容だった。
掲載後、宮内庁は法的措置を検討。批判(一部には「革命への恐怖を語った寓話(ぐうわ)的な文学作品」
として擁護する声もあった)が高まるなか、中央公論社側は編集長が宮内庁に出向いて陳謝した。
宮内庁もこれを受け入れたが、右翼団体は抗議行動を継続。
そして翌36年2月、右翼少年が中央公論社社長方に侵入、家政婦を刺殺し、
夫人に重傷を負わせるテロ事件が起きた。前後して深沢は世間から身を隠し、放浪生活に入った〉

私は学内生協の書店で偶然これを見つけて立ち読みし、がくぜんとしました。
たとえ夢物語とはいえ、現行の憲法に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と明記される
天皇とご家族を斬殺して嘲笑するような小説が公表される、というのは異常です。もしこれを放置すれば、
やがて本当に天皇制度が抹殺されるような事態になるのではないかという危機感に襲われました。

◆孤軍奮闘
そこでまもなく「皇室の尊厳をお守りする運動」があることを知り、その署名運動に協力しました。
気の小さい田舎者の私がそんなことに参加したのは、高校時代の恩師、稲川誠一先生の影響です。
先生は戦争末期に東大に入り、戦後も東大大学院で日本中世史の研究をしておられましたが、
両親に孝養を尽くすために郷里へ帰られ、ちょうど私の高校入学の年に赴任してこられました。
先生のユニークな授業とご人徳に引かれて私は心底、歴史が好きになりました。
当時は日本教職員組合(日教組)全盛の時代でした。先生は教育正常化のために日教組を脱退し、
彼らから猛烈な非難にさらされましたが、堂々と信念を貫かれ、後には日本教師会の会長も務めておられます。
この稲川先生が「皇室の尊厳をお守りする運動」に奔走され、私にも協力を求められたのです。
私は政治的なことに関わることが嫌いでして、いろんな誘いを受けても断ってきました。
ただ、このときばかりは別でした。学内でも署名活動をしなければならないと思い立ち、
行動に移したところ、たちまち総スカンどころか、罵詈雑言を浴びせられる毎日となりました。
当時の名古屋大は学生運動が盛んで、校舎のあちこちに赤旗が立てられ、
教室ではアジビラがまかれていました。
「天皇制は有害無益どころか、早急に廃止・撲滅すべきである」といった考え方が、
学生自治会のリーダーだけでなく、一般のノンポリ学生にも共有されているようでした。
だから私が「日本の象徴として天皇が続いてゆくためには、皇室の尊厳を守る必要がある」などと言っても、
耳を傾けてくれる人はほとんどいませんでした。

◆皇室観が激変した理由
あれから60年近くたったいま、当時を振り返りますと、隔世の感があります。
天皇・皇室と一般国民の関係が激変したと言っても過言ではありません。
それはなぜか。いろいろな内外情勢の変化が背景に考えられます。
でも何より、60年以上在位された昭和天皇のご人徳とご活動が多くの人々に理解されたこと、
さらに今上陛下が昭和天皇をお手本に「国民統合の象徴」としての務めに全身全霊を注いでこられたこと
--こうした実績によるところが大きいと思われます。
ですので、いまでは「天皇が皇后とともに大きな役割を果たしておられる」
「われわれにとって重要な存在だ」というような理解をする人の方が圧倒的に多くなっています。

〈所さんは名古屋大学を卒業後、同大大学院に進学する。
そして昭和41年春、文学研究科修士課程(国史学)を修了し、皇學館大学文学部助手に就任した。
皇學館大は明治15(1882)年の神宮皇學館(後に内務省所管の官立専門学校を経て
文部省所管の官立大学に昇格)創設以来の歴史をもつ。
神宮皇學館は昭和21年、連合国軍総司令部(GHQ)から廃学処分を受けたが、
私立皇學館大として37年に再興されていた〉

 ※60年安保闘争 岸信介政権(当時)が、昭和27年に発効した日米安保条約を改定するために、
国会の承認を得ようとしたことに対する反対運動。野党や左派言論人などが主導し、大規模な国会デモやストが行われた。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190406/lif1904060002-n1.html


(6)
2019.4.7 10:00
◆生きた歴史の宝庫・伊勢
昭和41(1966)年春、文学部助手として赴任した皇學館大には
あこがれの日本古代史研究者、田中卓(たかし)教授(のち学長)をはじめ、
国史・国文の大家がたくさんおられました。
またここのキャンパスは故郷・岐阜県に近い三重県の伊勢市にありますから、
週末には帰省して母の手助けをすることもできました。
奉職の3年後に妻(京子さん)とスピード結婚しました。
彼女は京都女子大の史学科を卒業してからソーシャルワーカーの資格を取り、
ある病院に勤務した後、母校の大学院で平安貴族社会の研究をしていました。
ですから、田舎住まいや農作業なんかできないと思っていたところ、むしろ私の実家や故郷に喜んで溶け込み、
母にとって嫁というより実の娘のようになり、そのおかげで私は研究と教育に専念することができました。
妻にはまったく感謝のほかありません。
私の文献的な歴史研究は名古屋大でスタートしましたが、皇學館大に勤めてから
古代以来の伝統を体感することができました。とくに伊勢神宮で昭和48年に行われた第60回式年遷宮は、
数年前の準備段階から完成後にいたるまでの祭儀を継続的に間近で見聞させていただけた。
これは、伝統文化を保存し継承してゆくのに、どれほど多くの知恵と工夫が必要かということを
具体的に学ぶ機会となりました。
しかも、そこで展開される祭儀に用いられる衣装や調度などは、
私の専門とする平安時代の宮廷儀式や行事にきわめて似ています。
ですから、文献史料と伊勢神宮での見聞を照らし合わせることにより、
実によく理解できるようになったと思います。

◆思わぬ転機

〈昭和50年の少し前、所さんに転機が訪れる。
文部省から「初等中等教育局の教科書調査官(社会科)に」との就任要請を受けたのだ〉

文部省からは「ぜひ来てほしい」と言われたのですが、
私は穏やかな伊勢に永住するために土地を買った直後でした。
お断りしようと思って田中先生に相談しましたところ、
先生から「ここにいてほしいが、東京へ行って全国を見渡せる研究者になるほうが重要だ」と言われ、
「いばらの道」に進む決意をしました。
いざ東京に出てみますと、確かに田中先生のおっしゃる通りでした。全国から集まる多彩な人々と出会い、
一挙に視野を広げることができました。
ただ、教科書調査官の仕事は、大学の先生や現場の方々が書かれた検定申請用の教科書原稿に
明らかな誤記や著しい偏向などがないかどうかを丹念に調べて審議会に検討材料を提出し、
その判定結果を編著者に伝達することの繰り返しでした。教育的な意義は大きいですが、
研究者としては気分が晴れない毎日でした。
そこで計6年間にわたって小・中・高の社会科検定を2回り担当した後、
昭和56年春、京都産業大学教養部の教授に転出しました。
ところが、その翌年、歴史教科書の「書き換え」をめぐる大騒動が起き、
それにしばらく振り回されることになりました。

◆「教科書書き換え」誤報事件と教科書裁判

〈昭和57年夏、高校教科書検定で文部省が「(中国)華北に侵略」という記述を「進出」に書き換えさせた
-などとマスコミ各社が一斉に報道した。誤報だった。しかし、訂正を出したのは本紙だけだった〉

私にはいまなお、マスコミの人たちに複雑な思いがあります。
もちろん、貴紙が誤報の訂正を出されたことには敬意を表します。
けれども、57年の教科書検定報道については事実と違う内容を各社とも
よく調べもせずにうのみにしてしまいました。
そのうえ、中国や韓国の報道まで利用して一斉に文部省を袋だたきにするという
異常な事態に空恐ろしい思いをしました。
あるとき、すでに退官していた私のところに若い記者が来ました。
「文部省による教科書検定の実態を正確に報道したいので詳しく話をしてほしい」と言うので、
応じることにしました。取材は3日間にわたり、双方とも録音を取りました。
ところが、実際の記事をみると、まるきり違う話になっていたのです。
即刻、その記者に抗議をしたところ、「デスクに既定方針があって、それにそった記事となってしまい…」。
そんな弁解を聞いてあきれかえりました。
これ以降、私は一時期マスコミ不信に陥りました。しかしその後、さまざまな出会いを重ね、
「どの社でも現場の人ほど真摯に相手の話を聞き、伝えようとしている。
それに応えて少しでも正確に報道してくれるよう誠意を尽くすほかない」と考えるようになりました。
ただ、私のコメントが掲載されるときには、新聞でも週刊誌でも一字一句を事前チェックすることにしました。
苦い目にあったおかげで少し知恵がついた、ということかもしれません。
ちなみに、私の在任中から続いていた家永三郎先生の教科書裁判(※)には、
私も文部省側の証人として出廷しました。
家永先生は日本思想史の大家であり、非常に純粋な方です。
思想的には右でも左でもない自由主義者(リベラリスト)を自認されていました。
しかし、一連の裁判では、反権力闘争の運動グループから支援を受けて、
かなりエキセントリックな主張をかたくなに続けておられました。そんな姿をみて気の毒に感じました。
 ※ 教科書裁判(家永教科書裁判) 家永三郎氏が自著の高校教科書に対する
検定不合格処分や条件付き合格処分は学問の自由や検閲の禁止などに反し、
違憲・違法--などとして国や文部相を相手取って提訴。計3次にわたり、30年あまりにわたって争われた。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190407/lif1904070002-n1.html 


(7)
2019.4.8 10:00
◆小泉信三の教え
以前、乃木希典(のぎ・まれすけ)の薫陶が昭和天皇に大きな影響を与えた話をしました。
同じことをまもなく譲位される今上陛下について考えますと、
穂積重遠先生(※1)をはじめとしてその「帝王教育」に献身された先生を幾人も挙げることができます。
その代表が昭和24(1949)年に東宮(皇太子)御教育常時参与に就任した小泉信三先生(※2)です。
小泉先生の教育内容については「御進講覚書」や「メモ」などが先年、公開されました。
これらを読んだとき、いくつもの新鮮な驚きがありました。
 まず小泉先生は、世界史を見渡すと、敗戦国では民心が王室から離れるか、
怨嗟(えんさ)の対象となって君主制は終焉するのが通則である
-などとしたうえで「ひとり日本は例外をなし、悲(かなし)むべき敗戦にも拘(かかわ)らず、
民心は皇室をはなれぬのみか、或(ある)意味に於ては
皇室と人民とは却(かえっ)て相近づき相親しむに至ったといふことは、
これは殿下に於て特と御考へにならねばならぬことであると存じます」と問題提起しています。
小泉先生はその“解”として昭和天皇の「御君徳」を挙げます。
昭和天皇は平和を愛好し、学問・芸術を尊重し、天皇としての義務に忠実であり、
人に対する思いやりが深いということを国民は存じ上げていた--などと説明します。
また、それが「敗戦といふ日本の最大不幸に際しての混乱動揺を
最小限に止(とど)めさせた所以(ゆえん)であると存じます」とも指摘しています。
そのうえで「この事を深くお考へになり、皇太子として、将来の君主としての責任を
御反省になることは殿下の些(いささ)かも怠(おこた)る可(べか)らざる義務であることを
よく御考へにならねばなりませぬ」「殿下の御勉強とは修養とは
日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし」などと結んでいます。
さらに「人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見て物を言ふこと」という具体的な心得もあります。
今上陛下が各地にお出ましになったさいには、必ず相手の顔を見ながらその悲しみや苦しみを理解しようと努められ、
その気持ちを受け止めたうえで、相手の心にしみいるような言葉をかけられる。
これは小泉先生の教えの影響であり、すでに昭和天皇がそのお手本でもありました。

◆天皇陛下の「旅」への畏敬
昨年末の会見でもふれておられましたように、ご成婚まもない昭和34年秋、
伊勢湾台風(※3)に襲われた東海地方を見舞われたのが、今上陛下の初めての被災地訪問です。
現地に行って関係者に直接会い、その顔を見ることによって学ばれたことは多いと思われます。
その後の被災地や国内外にわたる「慰霊の旅」は、悲しみ苦しむ人々のもとを訪れ、
その心に寄り添うことの意味と意義を実感としてよく理解されているからこそ、
おできになることではないでしょうか。
明治維新以来150年にわたる日本の近現代史において、ときどきの天皇は重要な役割を果たしてこられました。
その延長線上で、今上陛下が父君の昭和天皇をお手本とされ、
新たに大きな務めを重ねてこられたことには敬服し、感謝するほかありません。
今上陛下は、国民統合の象徴として現に生きている人々だけでなく、
亡くなった人々のためにも真心を尽くしてこられました。
象徴たる天皇は何をすべきか、何ができるかということを常に考えられ、政府と十分に協議をされたうえで、
慎重かつ積極的にその務めを続けられ、はや85歳となられたのです。
明治以来、「終身在位」が原則とされてきました。
けれども、7世紀の半ばから江戸時代までを概観すると、生前に譲位しておられる天皇が多い。
陛下はそういう歴史的な事実をふまえ、高齢化を理由とした譲位のご希望を表明されました。
そして一昨年、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が与野党合意に基づき、
衆参両院で可決され、成立したのです。

◆「平成後」の皇室と日本国憲法

〈歴史的な「御代替わり」は目前に迫っている。
所さんの胸中には、皇室の将来に関する期待と不安が混在しているという〉

実は一昨年12月、私個人として最後の皇居勤労奉仕(※4)に参加し、2日目に東宮御所へ参りました。
そのさい、皇太子殿下から思いがけない激励の言葉を賜りました。また、あの凛とした立ち居振る舞いとともに、
あらゆる人々を包み込むような笑顔を拝見して一同、深い感銘を受けました。
皇太子殿下は、天皇・皇后両陛下や昭和天皇・香淳皇后のご薫陶を受けて育たれました。
また英オックスフォード大学での留学経験などから国際的な広い視野と見識を養われています。
そのすぐれた能力と心やさしいお人柄は、世界からも高く評価されるに違いありません。
明治維新以来150年の間、日本は何度も難しい局面に至りながら、中心に天皇がおられ、
皇室があるおかげで、なんとかそれを乗り越えることができました。
それがいまも続き、これからも続いてゆくという展望をもつことができるのは、
まことにありがたいことだと思います。
とはいえ、このままでは皇室が人数的にやせ細ってしまい、やがて衰微する恐れがないとはいえません。
そこで今日、いろいろな考え方を出すのはよいことです。
何より日本国憲法の第1章(1~8条)が「天皇」の規定になっている事実に注目する必要があります。
そこには「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるとともに
「皇位は、世襲のもの」と明記されています。
この世襲の具体的なあり方については、2千年来の伝統を大事にしながら
少子高齢化が進む現代と未来にふさわしい改革を加え、近未来に備える必要があると考えています。
(この項終わり)
 ※1 穂積重遠(1883~1951) 東京帝大教授や最高裁判事などを歴任。
「日本家族法の父」とも称される。
祖父は『論語と算盤(そろばん)』の著書でもしられる実業家、渋沢栄一。
 ※2 小泉信三 本稿第4回参照。
 ※3 伊勢湾台風 高潮による水害などで愛知・三重の両県を中心に
死者・行方不明者が5千人を超えるなど戦後最大の台風被害をもたらした。
 ※4 皇居や赤坂御用地で平日に4日間行われる除草や清掃などのボランティア奉仕。
満15~75歳の15~60人で構成される団体が対象(詳細は宮内庁のHP参照)。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190408/lif1904080004-n1.html  
 

 ところ・いさお 昭和16(1941)年12月、岐阜県揖斐川町に生まれる。
41年、名古屋大学大学院文学研究科修士課程(国史学)修了。
慶大大学院法学研究科で法学博士号取得。専門は日本法制文化史。
文部省初等中等教育局教科書調査官や京都産業大学法学部教授、同大日本文化研究所長などを歴任。

文喜相発言

「天皇が手を握り謝罪すべき」 慰安婦問題で韓国国会議長 米メディアのインタビューで
2019.2.9 14:35
【ソウル=名村隆寛】韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が
米ブルームバーグ通信のインタビューで慰安婦問題に触れ、
解決には天皇陛下の謝罪が必要との趣旨の発言をし、韓国メディアが9日、発言内容を一斉に報じた。
インタビューの記事は8日報道された。
文氏は「一言でいい。首相、もしくは近く退位する天皇が元慰安婦のおばあさんらの手を握り、
謝罪の言葉を伝えれば(問題は)すっきりと解決する」と語った。
また、天皇陛下について「戦争犯罪の主犯の息子ではないか」とも述べたという。
慰安婦問題をめぐる2015年12月の日韓合意で
「日本政府は責任を痛感している」と記されたことについては、
「それは法的な謝罪だ。国家間での謝罪はあるが、問題は被害者がいるということだ」と主張。
元慰安婦への直接謝罪を訴えた。文氏は04~08年に韓日議員連盟の会長を務めた人物。
https://www.sankei.com/politics/news/190209/plt1902090003-n1.html


菅官房長官「甚だしく不適切で極めて遺憾」 韓国国会議長発言の謝罪と撤回要求
2019.2.12 11:13
菅義偉官房長官は12日午前の記者会見で、
韓国国会の文喜相議長が天皇陛下による謝罪で慰安婦問題が解決すると発言したことについて、
外交ルートを通じて抗議し、謝罪と撤回を求めたことを明らかにした。
「甚だしく不適切な内容を含むもので極めて遺憾である旨を厳しく申し入れ、強く抗議した」と述べた。
菅氏によると、8日に外務省の局長級で申し入れを行い、
9日には長嶺安政駐韓大使が韓国外務省第1次官に申し入れた。
韓国政府からは文氏の発言が意図とは違うように報じられたと説明があったという。
文氏は米ブルームバーグ通信のインタビューで
「日本を代表する(安倍晋三)首相から(謝罪の)一言でいい。
近く退位されるのだから、天皇がそれを行うことを願う」とし、
陛下は「戦争犯罪の主犯の息子ではないのか」と指摘。
「そのような人が、高齢の元慰安婦の手を握り本当に申し訳なかったといえば、
これを最後に問題は解決する」と語った。
https://www.sankei.com/politics/news/190212/plt1902120004-n1.html


天皇謝罪発言で韓国国会議長が釈明 日本の何度もの謝罪に「そんなことはない」とも
2019.2.12 14:54
【ソウル=名村隆寛】韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が米メディアに対し
「慰安婦問題の解決には天皇の謝罪が必要」とし、
天皇陛下について「戦争犯罪の主犯の息子」と発言をした問題で、
文氏は12日までに「重要な地位にある指導者の心からの謝罪を強調する流れで出た表現」と釈明した。
訪問先の米ワシントンで11日、韓国メディアに語ったもので、
文氏は「戦犯主犯の息子」という表現を「戦時の日本国王(天皇陛下)の息子という意味だ」と述べた。
その上で、「日本の責任ある指導者が元慰安婦に
納得できる誠意ある謝罪を行うことが優先されねばならない」とし、
「日本側は数十回謝罪したと言うが、そんなことはない」と強調したという。
自身の発言に日本で反発が起きていることについて文氏は
「両国間の不必要な論争は望ましくなく、起きてもならない」と語った。
韓国外務省報道官は12日の定例会見で、文氏の発言について
「日本側が誠意ある姿勢を見せる必要があるとの点を強調する趣旨と理解している」と擁護した。
https://www.sankei.com/world/news/190212/wor1902120013-n1.html


韓国国会議長発言に政府が3度の抗議 「甚だしく不適切」
2019.2.12 18:58
安倍晋三首相は12日の衆院予算委員会で、慰安婦問題について
天皇陛下による謝罪で問題が解決するとした韓国国会の文喜相議長の発言について
「本当に驚いた。直ちに外交ルートを通じ、
甚だしく不適切な内容を含み極めて遺憾だと厳しく申し入れた」と述べ、
韓国側に抗議するとともに謝罪と撤回を求めたことを明かした。
政府は8日に外務省の局長級で、9日には長嶺安政駐韓大使が韓国外務省第1次官に抗議した。
さらに、12日も外務省の金杉憲治アジア大洋州局長が
在日韓国大使館の金敬翰次席公使を同省に呼び、改めて抗議している。
菅義偉官房長官は記者会見で、日本側が謝罪と撤回を求めたことに対し、
韓国側から「早期の日韓関係改善を願う文氏の思いから出たものであり、
報道のされ方は本意ではなかった」との説明があったと語った。
河野太郎外相は衆院予算委で「(文氏の発言は)到底受け入れられない。極めて無礼な発言だ」と批判した上で、
「韓国側が誠意を持った対応をすると期待している」と語った。
河野氏は10日、訪問先のフィリピンで「発言には気を付けていただきたい」などと苦言を呈していた。
また、公明党の山口那津男代表も12日の記者会見で「どういう思いで発言したのか定かではないが、
天皇陛下の謝罪を求めるというのはいかがなものか」と不快感を示した。
文氏は米ブルームバーグ通信のインタビューで、慰安婦問題をめぐり、
天皇陛下は「戦争犯罪の主犯の息子ではないのか」と指摘。
「そのような人が、高齢の元慰安婦の手を握り本当に申し訳なかったといえば、
これを最後に問題は解決する」と述べた。
https://www.sankei.com/world/news/190212/wor1902120018-n1.html


首相、韓国議長発言に「多くの国民が驚きや怒り」
2019.2.13 12:52
安倍晋三首相は13日午前の衆院予算委員会で、
慰安婦問題について天皇陛下による謝罪で問題が解決するとした
韓国国会の文喜相(ムン・ヒサン)議長の発言に関し「多くの国民が驚きや怒りを感じたと思う。
文議長はその後も同趣旨の発言を繰り返しており、極めて遺憾。
引き続き謝罪と撤回を求める」と重ねて強調した。
河野太郎外相は韓国側に5回ほど抗議や謝罪・撤回を申し入れたことを明かした。
河野氏は「現時点で謝罪や撤回に応じるとの(韓国側の)反応はない」としつつ、
「わが国の厳しい立場を累次にわたり伝達している。
韓国側から誠意ある対応があるものと期待し、注視したい」と語った。
また、首相は慰安婦問題について「完全かつ不可逆的に解決した。
日韓両国が国と国とで約束をした」と改めて説明。
「政権が変わったからといってそれが覆されれば、国と国の関係はそもそも成り立たない」と述べ、
韓国側の姿勢を批判した。
https://www.sankei.com/politics/news/190213/plt1902130013-n1.html


韓国国会議長 慰安婦問題発言の謝罪と撤回を拒否
2019年2月13日 15時29分
韓国のムン・ヒサン(文喜相)国会議長は、慰安婦問題をめぐり、
天皇陛下が謝罪すれば解消されるなどと述べた自身の発言に対し、
日本政府が謝罪と撤回を求めていることについて、
「なぜこのように大きな問題になるのか、到底理解できない。謝罪することではない」などとして拒否しました。
韓国のムン・ヒサン国会議長が先に、慰安婦問題をめぐり、
天皇陛下が謝罪すれば解消されるなどと述べたことについて、
安倍総理大臣は「甚だしく不適切な内容を含み、極めて遺憾だ」などとして謝罪と撤回を求めています。
韓国国会の報道官によりますと、これについてアメリカを訪問中のムン国会議長は記者団に対し、
「なぜこのように大きな問題になるのか、安倍総理大臣まで出てきたことは、到底理解できない」
と述べたということです。
そのうえでムン国会議長は「謝罪することではない。私がした話は持論であり、
根本的な解決方法だと今でも考えている」と述べ、日本政府が求める謝罪と撤回を拒否したということです。

ムン氏は革新系与党の重鎮
去年7月に韓国の国会議長に選出されたムン・ヒサン氏は73歳。
当選回数は6回に上る革新系の与党「共に民主党」の重鎮です。
2003年、ノ・ムヒョン(盧武鉉)政権の発足とともに、大統領の最側近の秘書室長に就任したのに続いて、
2004年から4年間にわたって、韓日議員連盟の会長を務めました。
さらには、おととし、9年ぶりの革新政権となるムン・ジェイン(文在寅)政権が誕生した直後には、
ムン大統領の特使として日本を訪問し、安倍総理大臣と会談するなど、
韓国の政界では「知日派」の1人と位置づけられてきました。
一方、ムン氏は率直な物言いでも知られ、去年12月には記者会見の中で、慰安婦問題をめぐる日韓合意に関連して、
「元慰安婦が望むのはカネではなく、安倍総理大臣の謝罪のひと言だ。
なぜ、それができないのか」などと発言しました。
また、太平洋戦争中の「徴用」をめぐる問題で、韓国の最高裁判所が
日本企業に賠償を命じる判決を言い渡したことについても、「判決は韓国国民ならば受け入れるしかない。
正しいとか間違っているということではなく、守らなければならない」と述べ、
あくまで判決を尊重すべきだという考えを強調していました。

韓国世論は日韓関係への関心低い
韓国では、日韓関係の悪化に危機感を募らせる外相経験者や元駐日大使らが
「国交正常化以降、最悪の状況だ」として、ムン・ジェイン政権に前向きな対応や、
日韓首脳のシャトル外交の再開、それに民間交流の推進などを促す意見を新聞に寄稿する動きも見られます。
しかし、先月行われた世論調査によりますと、韓国政府に求める日本政府への対応としては、
「より強硬に対応すべき」が45.6%、次いで「現在の対応が適切」が37.6%を占めたのに対し、
「自制すべき」は12.5%にとどまりました。
一方で、ムン政権が北朝鮮との関係改善を最優先課題に位置づけるとともに、
国民の間で懸念が強い経済政策に全力を挙げる姿勢を強調する中、
日韓関係に対する韓国世論の関心は低いのが実情です。
13日朝の韓国の主要な新聞も、ムン・ヒサン(文喜相)国会議長や安倍総理大臣の発言について、
いずれも1面や社説では扱わず、国際面などで淡々と伝えるにとどまっています。
ただ、日本の植民地支配からの独立運動が始まった日から来月1日で100年、
その翌月にも朝鮮半島出身の独立運動家たちが上海に韓国臨時政府を発足させてから100年の節目が控えており、
韓国国内でナショナリズムが高まる可能性も指摘されています。

専門家が懸念「底が見えない」
韓国政治を長年研究している東京大学大学院の木宮正史教授は、NHKとの電話インタビューで、
最近の日本と韓国の関係について「いちばん心配なのは底が見えないことだ」として、
改善の兆しすら見いだせない現状に懸念を示しました。
そのうえで「日韓が、『自分のほうに正義がある』と主張し、あらゆる局面で相手に負けられないと考えている。
お互いに妥協ができない状況だ」と述べ、解決は容易ではないと指摘しました。
関係悪化のきっかけとなった「徴用」をめぐる問題で、韓国政府から対応策が示されないことについては
「韓国の世論が日本に対して妥協することへの強い拒否感がある。
そのため、韓国政府は日本政府との約束と世論の双方をどう尊重させるか悩んでいて、
解決策が見つかっていない」と述べ、板挟みになっている韓国政府の立場を分析しました。
また木宮教授は、日韓関係の悪化は北朝鮮の非核化をめぐる対応や安全保障環境などに悪い影響を及ぼすとして、
お互いの利益を確保するためにも両国が協力すべきだと強調しました。
そして、韓国から日本への観光客や日本企業に就職する若者が近年増加するなど、
日韓の民間交流が活発になっていることを指摘し、
「韓国語が周りで飛び交い、私たちにとって韓国という存在が近くなり、顔の見える関係になっている。
反日だけではない、さまざまな関係から日韓関係を考えてほしい」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190213/k10011813411000.html


天皇陛下と韓国・文議長「御面会になった記録はありません」 宮内庁、夕刊フジに正式回答で「完全否定」
2019.2.23
「天皇陛下への謝罪要求」など、常軌を逸した非礼発言を続ける
韓国国会の文喜相(ムン・ヒサン)議長について、宮内庁が夕刊フジに正式回答を寄せた。
文議長が、韓国メディアのインタビューで、天皇陛下から訪韓の仲介を頼まれた-
といった趣旨の話をしていたが、陛下と文議長の面会について完全否定したのだ。
「御面会になった記録はありません」
宮内庁長官官房総務課報道室は21日、文書で明確にこう回答した。
聯合ニュース(日本語版)は18日、文議長のインタビューとして、
《文氏は10年前に天皇から韓国に行きたい、仲立ちしてほしいと言われた時、
「何はともあれ、(慰安婦被害者の)ハルモニ(おばあさん)たちが集まっているところに行き、
ひと言『すまない』と言うだけでいい」と話した》と報じた。
政治的発言を避けられてきた陛下のご発言とは考えにくいため、
夕刊フジは同日、(1)天皇陛下が、文議長と面会された事実はあるのか(2)面会された場合、いつのことか
(3)天皇陛下から韓国訪問をご希望される発言があったのか
(4)文議長の発言が事実と異なる場合、宮内庁として抗議される考えはあるのか
-という質問状を宮内庁に送った。
宮内庁から21日午後、回答書が届いた。
(1)と(2)、(3)については「回答」として冒頭の「御面会になった記録はありません」と記されていた。
(4)については「宮内庁としてはコメントを差し控えさせていただきます」とあった。
天皇陛下を政治利用することは、他国の「三権の長」といえども、絶対に許されない。
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190223/soc1902230004-n1.html


「天皇が謝罪を」 韓国国会議長、慰安婦問題で主張繰り返す
2019.3.27 15:00
【ソウル=名村隆寛】韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長は韓国紙ハンギョレ(27日付)のインタビューで
「慰安婦問題の解決には天皇の謝罪が必要」とした自身の発言について、
「真意が歪曲(わいきょく)されたのか」との質問に「歪曲というよりも、真意が伝わっていない」と答えた。
文氏は「誠意ある謝罪が最も重要だ、安倍(晋三)首相、
あるいは安倍首相に準じた日本を象徴する国王(天皇)が元慰安婦に
『ごめんなさい』とひと言、言えば根本的な問題が解決されるという話だ」と従来の主張を繰り返した。
また、「歴史の法廷で、戦争犯罪や人倫に関する罪には時効がない。
ドイツが敗戦国でも欧州のリーダーになった理由は、全ての問題について謝罪し、
現在も続けているからだ」と強調し、日本の謝罪の必要性をあらためて訴えた。
文氏は2月、米ブルームバーグとのインタビューで天皇陛下に元慰安婦への謝罪を求め、
天皇を「戦犯主犯の息子」と呼んだ。発言に日本が強く反発した後も、韓国メディアに対し
「戦時の日本国王(天皇陛下)の息子という意味だ」
「日本側は数十回謝罪したと言うが、そんなことはない」などと主張した。
https://www.sankei.com/world/news/190327/wor1903270021-n1.html


「コメントする気にもならない」菅長官、韓国国会議長の天皇陛下謝罪発言で
2019.3.27 12:46
菅義偉官房長官は27日の記者会見で、慰安婦問題をめぐり
韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が天皇陛下に改めて謝罪を求めたことについて、
「甚だしく不適切で、コメントする気にもならない」と述べた。
韓国側には強く抗議し、謝罪と撤回を求めたことを明らかにした。
抗議は、外務省の金杉憲治アジア大洋州局長から在日韓国大使館の次席公使に行った。
文氏は27日付の韓国紙、ハンギョレのインタビューで、
天皇陛下による謝罪で慰安婦問題が解決するとした自身の発言について、
「誠意のある謝罪が最も重要で、安倍(晋三)首相または日本を象徴する天皇が元慰安婦に
『申し訳ない』と一言謝罪すれば根本的な問題が解決されるとの趣旨だった」と述べた。
https://www.sankei.com/politics/news/190327/plt1903270014-n1.html


韓国議長のおわびの手紙「承知していない」 菅長官
2019.11.7 11:51
菅義偉(すが・よしひで)官房長官は7日午前の記者会見で、
韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が慰安婦問題に絡み、
退位される前の上皇さまに謝罪を求めた発言に関し、
おわびの手紙を上皇さまに送ったと日韓議連幹事長の河村建夫元官房長官が明らかにしたことについて
「政府としては承知していない」と述べた。
https://www.sankei.com/politics/news/191107/plt1911070007-n1.html

宮中で執り行われる祭

大事な日は元日、穀霊の「死と生」を演じる冬至の日。冬至の日には夏にどうか豊作をと願うタマフリの祭りを行う。
新嘗祭の前日に鎮魂(たまふり)という神祇令を挙げるが、
岩屋に隠れた陽の神を誘い出す儀式であって、一般にいいならわされている「一陽来復」
つまり日の神が再生し、復活する祈りの場そのものである。

宮中で拍手する所作が登場するのは新嘗祭の前日、天皇皇后、皇太子皇太子妃の長寿安泰を祈る鎮魂祭だけ。
場所は綾綺殿。「やひらで」という八開手のことを指す八度の拍手をする。
長さはほぼ十分間。陛下がお告文あるいは御拝のときジャラジャラと
十センチくらいの金色の鈴を何十個と紐でくくったものを内掌典が振る。
振っている間に降神があり、御祭典を挙げる。
御鈴が鳴っている間、陛下はずっと平伏したままだ。
こうした複雑な手順を要する宮中祭祀は陛下の日常の一部となっている。
平成21(2009)年を節目としてご高齢の両陛下の負担の軽減がなされるまで、年間三十数回の祭祀を執り行ってきた。
それはしばしば早朝・深夜におよぶ。いわゆるマニュアルのようなものはない。
天皇から皇太子へと見よう見まねで伝えられる所作である。
旬祭は一日、十一日、二十一日の日に行われるが一日は御直拝、他は侍従による代拝。
平成21(2009)年に入り、陛下の御直拝は五月一日、十月一日のみになるとの発表が宮内庁からあった。
主要な祭祀には大祭と小祭、その他元旦に行われる四方拝などがある。

新嘗祭を始めとする大祭は天皇自ら祭典を挙げるものであり、お告文を奏上される。
皇后、皇太子、同妃は順序に従って内陣で拝礼となる。
今上天皇の誕生日を祝する天長祭などの小祭は掌典長が祭典を行い、陛下がご拝礼になる形である。
原則として天皇と皇太子だけで皇后は出ない。
しかし先祖である歴代天皇の御例祭では皇后、皇太子妃も出席するならわしだ。
小祭で皇后が出ないのは元旦に行われる祭祀、毎年二月十七日に五穀豊穣を祈って行われる祈年祭くらいという。
陛下が行幸で不在の折など、侍従による代拝は賢所と皇霊殿さらに神殿の順で行われている。
平成20(2008)年3月下旬まではご神体が仮殿に移っていたためモーニングでよかったが、普段は束帯をまとう。
日供(につく)のお供えは内掌典の役割だ。
次に主要な祭祀の詳細を記す。

《四方拝・歳旦祭》
早朝4時ころ陛下は床を離れ支度に移る。潔斎のうえ黄櫨染御袍の正装に着替え5時半から始まる四方拝の主役を務める。
場所は神嘉殿南庭。地面に薄く白布をかぶせた板敷きが用意され真薦(まこも)が敷いてある。御座がある。
一双の屏風で囲んである。東京であるから、伊勢神宮を指す南西の方向に少し開けてある。
陛下は着座すると南西に拝礼され、順次右回りに白虎・玄武・青龍・朱雀と四方を拝する。
各拝礼とも両段再拝(四度拝むこと)と丁重なお姿。
皇后は御所で同じ時間帯を陛下への気遣いと祈りと共に過ごされる。

去年」(こぞ)の星宿せる空に年明けて歳旦祭に君いでたまふ
神まつる昔の手ぶり守らむと旬祭(しゅんさい)に発(た)たす君をかしこむ
やがて出づる日を待ちをればこの年の序章のごとく空は明けゆく
新嘗(しんじょう)のみ祭り果てて還ります君のみ衣夜気冷えびえし

このように皇后はご出発を送り、一人静かに待ち、冷え冷えとした天皇を迎える。
四方拝が終わってすぐ歳旦祭となり陛下は賢所に向かい、皇霊殿・神殿と拝礼する。
皇太子が共になさる。綾綺殿に戻ってお召し替えとなる。
御所で「晴れの御膳」に箸を立て、元日の諸行事に対応して行く。

《節折(よおり)・大祓》
6月30日と12月31日には節折が行われる。これは皇太子妃まで含む親族のお祓い。
まず天皇お一人が正殿竹の間に立たれる。午後2時、掌典長が一拝して退く。
天皇の御衣御贖物(みあがもの)ふたつがあらかじめ卓上に用意されて置いてある。
絹製で白の荒世(あらよ)と紅の和世(にごよ)があり、それぞれ柳筥(やなぎばこ)に納めてある。
最初に行われるのは「荒世の儀」。
侍従が荒世の衣を納めた柳筥を捧持して御前に進み、うずくまり蓋を開く。
包み紙を開けて捧げ出ると天皇が息をかける。侍従が天皇の息がかかった衣を元に納めて退室、掌典に渡す。
掌典長が御麻(みぬさ)という紅白の絹をつけた榊を侍従に渡す。侍従がそれを天皇に捧呈する。
天皇は御麻を執り、左右左と自ら祓い、侍従に渡す、さらに掌典に渡す。
次に掌典がお竹を一本献進する。侍従から侍従に渡されたこの細い篠竹で、天皇の背後にて頭上の背を測る。
硯から筆を執って印をつける。先の侍従に返す。
次いで竹二本の一本で肩から下までを測り、三番目も二本の竹で横に伸ばした背筋中央から指先までを測る。
四番目は腰の下を、五番目は膝の下を測り、印をつける、それぞれの印のところを折るので「節折」という。
それから侍従が差し出した素焼きの壺に天皇が息を吹き入れて荒世の儀が終わる。
続いて「和世の儀」となる。御衣が異なるだけで所作は「荒世の儀」とまったく同じだ。
節折を終えた御衣は唐櫃(からびつ)に納められ、賢所構内神嘉殿の大祓の式場に運ばれる。
皇后以下は天皇の息がかかった御衣を頂戴して、それでお祓いをする。
皇后、東宮、東宮妃の分はそれぞれご自分の衣を一つだけ、
あらかじめ和世の儀のために用意しておき、天皇の御衣と同じ卓上に置いておく。
この儀には皇族を代表するお一方の着座を伴う。その日に元気な方であればどなたでもいい。
最近は秋篠宮文仁親王が務めておられる。「祓いやれと宣(の)る」という締めくくりで
参列者を国民全体に見立てて大祓の儀式が終わる。
すべては従来隅田川に流すのだが、河川法もあり、いまでは皇居内のお濠に投棄している。

《大祭》
大祭には1月3日に国家国民の繁栄を願う「元始祭」、
春分の日に行われる「春季皇霊祭」、秋分の日に行われる「秋季皇霊祭」、
10月17日、新穀を皇祖ら神々に供える「神嘗祭」などがある。
「神嘗祭」では陛下が伊勢神宮を遥拝。宮中では午前から神嘉殿南側廊下の殿上で行われる。
賢所に進みご拝礼、お告文があり、お鈴の儀を挙げる。皇后、東宮、東宮妃が続いて拝礼する。
もっとも重要な大祭は天皇が新穀を神々に供え自らも食する「新嘗祭」である。
11月23日に神嘉殿内部に御神座、御寝座、陛下御座を設けて行われる。
御座の前には御食薦(おんしょくせん)(みけこも)を置く。
その上に葛筥(くずばこ)、鮮物筥(なまものばこ)、干物筥(からものばこ)、御菓子筥と汁ものが出る。
陛下はお手水を済ませると葛筥を受け取り、蓋を開けて小筥を取り出して采女に渡す。
采女が密に編まれた神食薦に供える。
采女という女性は正式には四人いて、一人が陪膳、もう一人が後取(しんどり)。
二人は女官で殿上にて務めを果たし、後の二人は女嬬と身分が低く、
働く内容も神饌(しんせん)や脂燭(ししょく)を東の隔殿まで運んでくる役割だ。
天皇が采女二人と御直会をしている間、皇太子は西の隔殿北側に設けられた座に座っている。
東宮大夫の先導で南廂の中央に設けてある拝座から御正殿に向かって拝む。これまでを「夕の儀」という。
さらに午後11時から「暁の儀」が同じように始まる。
御寝座は八重畳というごわごわした分厚い畳表様のものを重ねて敷いてあり、一畳より大きい。
そばに沓箱と麦藁を巻いたような形のものが用意されてある。
こうした備えは天皇即位に沿ってあげられる大嘗祭と基本的には同じである。皇后、皇太子妃の参列はない。
この「暁の儀」も平成21(2009)年からの公務・祭祀の見直しに伴い、時間を限ってのものになるという。
「先帝祭」と「神武天皇祭」の晩には皇霊殿御神楽がある。
天皇拝礼のあと午後6時からお神楽が始まり終わるのは12時を過ぎる。
昭和天皇祭は1月7日だからいずれも極寒の中の儀式となる。
新嘗祭で供える米は全国から献納される。陛下お手植えの収穫米も供えられる。
指定された地方ごとに米一人、粟一人の献納者が選ばれ、精米は一升、精粟は五合と献じる量が決まっている。
献納者は両陛下、東宮両殿下からお会釈を賜る。
大嘗祭については前に記したが、天皇の式服は新嘗祭のときと同じように純白生絹(すずし)の装束だ。

《小祭》
先帝、神武天皇の式年祭は大祭だが、その他の歴代天皇の式年祭は小祭りである。
南北朝で格差や差別は認められない。各天皇の位牌めいたものがあるのかどうか不明だが、
皇霊殿には大きな唐櫃が置いてありご神体が入っていると聞く。式年祭に先立って
天皇は歴史家を召し、該当天皇の事蹟について進講を聞いている。
時にニュースとして報道されるが、東宮ご夫妻にも声がかかる。
天皇と同年輩のわれわれは歴代天皇名を思い出すとか、
記憶の底に沈殿している文章が浮かび上がるなどの現象を共有している。
トヨアシハラノ チイホアキノミズホノクニハなどである。
天照大神はなぜか孫を地上に送った。送り先は豊葦原の千五百秋の瑞穂の国。
農業盛んな美しい土地である。ニニギノミコトといわれる。
現代語に直すと―。
「たくさん豊かに稲穂がみのる葦原のナカツクニは、
アマテラスオオミカミの子孫が国主として統治なさるべき土地である。
汝ニニギノミコトよ、下界に下り、その国を支配せよ。さ、でかけよ。
天の日嗣(皇統)は天地とともに窮ることはないからだ」
ついでだが、この言葉から天壌無窮とか天長地久といった言葉が生まれている。
父つまり大神の子だった天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)をさしおいて、
天孫降臨となったニニギノミコトに父親は鏡を手渡しただけだった。
「吾が児、この宝鏡を視まさんこと、まさに吾を視るがごとくすべし」
三種の神器はこの八咫鏡(ヤタノカガミ)、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)、
それに八尺瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)を指し、彼の後裔である神武天皇に伝えられていく。
これらは天皇位の象徴であり、歴代天皇が苦難に打ち克って代々伝えてきた。
鏡は別途鋳造し、宮中賢所の神体となって奉安され、原鏡は伊勢神宮に入っている。
剣は東征の折、火に包まれた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がこれを振るって脱出に成功、
爾来別名草薙剣(クサナギノツルギ)として熱田神宮に納められた。新しく作った剣は曲玉とともに宮中にある。
昭和天皇は三種神器を守り、日本人の種を残す目的で戦争終結を決意した。
剣璽動座(けんじどうざ)という名称は天皇が移動するたびに神器も移動するという意味であり、
普段は御所ご寝所隣の六畳の間ほどの部屋に袱紗で覆われて置かれている。
こうしてみてくると、陰陽二元の立場を濃厚に伝える宮中祭祀が主として豊かな農耕を期待し、
安定した環境の中で五穀豊穣を実現するために捧げられていると知る。
農業振興はとりもなおさず食べるという国民の欲求を満たす目標であるから、天皇は平和を祈り、
国民の幸福を願う務めを伝統的に背負ってこられた。明治維新による近代化の激変、
天皇元首制を経てもこうした基本的な柱はいささかの影響も受けず、連綿と伝わってきた。
伝えたのはほかでもない、天皇ご自身である。
鉄砲や軍艦に鎧われても、天皇は武神とはほど遠く、平和な中での営みを守る穀霊神であったことを知るのである。
井上辰雄教授が指摘するように、太陽の運行を軸に月を読み、
耕作・植え付けと育成、収穫を律してきた陰陽の定めに特徴的な精神は、死と再生の輪廻ではなかったろうか。
春を待って厳しい冬に耐える、仲冬の卯に大嘗祭を催す、こうしたもろもろの姿勢は
一陽来復を信じる素直さに満ちているように感じられる。

(平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月より)

麗しき大和の国柄を守れ

麗しき大和の国柄を守れ 櫻井よしこ・国家問題研究所理事長
2019.5.1 01:05

日本よ、麗しき善き大和の国であれとの願いを込めた「令和」の時代が始まった。
十七条憲法の精神を引き継ぐとされる元号、令和の時代の課題は
聖徳太子が脱中華と大和の国造りを目指したように、日本の国柄を誇りをもって定着させることである。
平成の御代には多くのことが成された一方、積み残しの課題も多い。
その筆頭が日本の国柄とはおよそゆかりのない現行憲法の改正である。

敗戦当時、内外の視線は昭和天皇に厳しかった。戦勝国では「天皇戦犯論」「天皇処刑論」が展開された。
先人たちはそれら敵意溢(あふ)れる糾弾から、皇室を戴(いただ)く日本の国柄を守り
日本国として生きのびるために、現行憲法をはじめ占領軍による理不尽な制度改革を、
棒を呑(の)み込む覚悟で受け入れた。

マッカーサー司令部は昭和天皇を温存し、占領政策を円滑に進めたが、背後では日本の国柄を潰す試みがなされていた。
情報は厳しく統制され、国民は米国の支配を善きものと歓迎し、民主主義などは米国がもたらしたと思い込み始めた。
そのとき、昭和天皇が詔勅を発せられた。

昭和21年1月1日の詔勅の冒頭に、昭和天皇は明治天皇の「五箇条の御誓文」全文を置かれた。
後にこの御心について語っている。
「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。(中略)
『(民主主義を体現する)五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができた。
民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあった」

政府や国民が涙をのんで日本の国柄とは言えない米国製憲法を受け入れたのは皇室と国柄を守るためだった。
にもかかわらず、国民が日本の国柄を忘れるのは本末転倒だというお気持ちであろう。
占領下でこの重要な詔勅を出された昭和天皇は立派な帝王学を身につけていらした方だ。 

昭和天皇はどのように帝王学を学ばれたのか。東宮御学問所には全分野にわたる碩学(せきがく)が集められ、
白鳥庫吉(くらきち)博士が教務全般の主任を務めた。皇統の継承者にとって不可欠の学問である歴史は、
白鳥博士が7年間一人で受け持ち、国史、東洋史、西洋史のうち、国史と東洋史の教科書は博士自ら執筆した。
『昭和天皇の教科書 国史』がそれで、見事な歴史書である。
優れた教育、深い歴史観を身につけられた昭和天皇にして、初めて日本はあの敗戦を乗り切れた。
だが、国柄を忘れてはならないとの昭和天皇の国民への語りかけとは反対に、
米国は教育を通して日本人に影響を及ぼし続けた。米国の情報操作の苛烈さはここではおくが、
米国は天皇となる東宮さま(現在の上皇さま)の家庭教師にクエーカー教徒のバイニング夫人をつけた。
夫人は著書『皇太子の窓』に、「1946年の春」、
昭和天皇が「アメリカ人の家庭教師を一人世話してもらえるだろうか」と米側に依頼されたとし、
「アメリカ人の家庭教師は占領軍から押しつけられた」との推測は事実に反すると書いている。

一方、マッカーサーの軍事秘書、フェラーズは46年1月、吉田茂外相に
「皇太子は西洋の思想と習慣を学び始めるべき」として
「円熟したアメリカ人女性を」家庭教師につけるよう提案した
(瀬畑源〈せばた・はじめ〉『象徴天皇制の形成過程-宮内庁とマスメディアの関係を中心に』一橋大学機関リポジトリ)。
これは天皇のご依頼の約2カ月前だ。背後に米国の意図が見えないか。

昭和天皇が民主主義は外来の価値観ではなく日本の価値観であることに想いをいたせと詔勅で仰るかたわら、
バイニング夫人は「英語を教えるということは(中略)アメリカ的な民主主義の思想と実践とを、
皇太子殿下その他の生徒達に教えるという、さらに大きな仕事の方便にすぎない」と考えていた(前掲書)。
このせめぎ合いの中で若き日の上皇さまは教育された。
天皇としてのお姿が、昭和天皇と比べて自ずと異なるのにはこうした要素もあるだろう。

では新たに即位した天皇陛下の受けられた教育はどうか。学習院には帝王学の発想もなく、
ご学友もいないと学習院大学の教授だった篠沢秀夫は書いている(『だから皇室は大切なのです』草思社)。

『浩宮の感情教育』(飛鳥新社)の著者、小坂部元秀氏は陛下が学習院高等科にご在籍当時、
クラス担任を2年間務めた。皇室関係の在学生名が大書されている学習院父母会名簿の最初のページを
学生が「破り棄て」るはなしが、小坂部氏の著書の「序章」に出てくるのだが、
小坂部氏はその行為をもっともだと認めているかのようだ。
別の章で小坂部氏は南原繁の国会演説を「記念碑的」と評価し、
「所詮は天皇陛下なんてどうでもいい」と書いた詩人の三好達治や、中野重治らを賛美している。

当時の浩宮親王殿下に小坂部氏が担任教師としての愛情や情熱を注いでいたとは考えにくく、
陛下にとって学習院の教育環境は実に冷淡だったと推測できる。

こんな状況に皇族方を放置して、私たちに立派な天皇像を望む資格があるのか。
帝王学や皇室は、国民から遊離したものではない。国民が望む天皇像は、国民がどのような価値観を重視し、
どれほどの敬愛をもって皇室を支えるかという命題と背中合わせだ。
令和の皇室が日本の国柄を尊び、国民統合の中心となるには、
新天皇の大いなる学びをあらゆる面で支える制度と心が、政府、国民の側にも必要だ。
共に立派な国を創るという覚悟をもって初めてもうひとつの課題の憲法改正も可能になる。

https://www.sankei.com/life/news/190501/lif1905010012-n1.html

理想と現実の狭間の教育基本法

「理想と現実の狭間の教育基本法」
週刊新潮06年5月25日号
日本ルネッサンス 第215回 櫻井よしこ

憲法改正とともに教育基本法の改正が焦眉の急である。過日与党の改正案が出され、
かねて注目されていた愛国心について、そこには「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊敬し、
国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と書かれていた。「愛国心を養う」と書けず、
「愛する態度を養う」と表現したのは、自民、公明両党の連立から生ずる苦渋の折衷そのものの案だった。
他方民主党は5月15日、「日本国教育基本法案」を発表した。まず第一に注目すべきは、
民主党が現行の教育基本法を廃止するとした上で、右の法案を新法として作成したことだ。
西岡武夫座長の下で、新法案を取りまとめた鈴木寛参議院議員が語る。氏は5年前の参院選挙で、
教育問題のみをとりあげて約76万票を集めた。
以来、民主党の教育基本問題調査会事務局長を4年間務めてきた。
「占領下で作成された教育基本法は一旦廃止し、
真にあるべき日本国の教育を念頭にゼロから作り直すべきだとわれわれは考えたのです」
新法案に「日本国」と冠した点に、日本人が日本人のために作る教育基本法だという気概が込められている。
憲法も教育基本法も、こうした考え方が根幹にあってほしいと私は思っている。
単なる改正ではなく、日本人の手で、占領軍が有無を言わせず日本人に与えたものを、
根底から作り変える気概が必要なのだ。
現行の教育基本法の問題点は、全てにおいて個人を強調しすぎ、家庭や家族を置き去りにしたこと、
現場を強調しすぎ、教育行政への国の関与を〝不当な支配〟として排除しようとしたこと、
日本国民を抱きとめ、守り育てる大きな枠組みとしての国家や、国家を構成する歴史や文明、
穏やかで謙虚な精神文明の生成に大きな役割をはたした宗教心の重要性を無視して、まるで人間はみな突然、
ひとりでこの世に生れ、ひとりで成長したかのように位置づけたことだ。
その結果、個人はバラバラの存在となり、家庭や家族、故郷や国から切り離されていった。

民主党案の大胆な挑戦
民主党の新法案は、「前文」で家庭を教育の原点と位置づけた。
さらに第十条で、「家庭における教育は、教育の原点」だと再度強調し、
「子どもの基本的な生活習慣、倫理観、自制心、自尊心等の資質の形成に積極的な役割を果たす」のが
家庭教育であると規定した。
与党案も第十条の「家庭教育」に同趣旨の内容があるが、民主党案は右の文言のように、
明らかに現在の教育に欠けている資質を具体的に書き出した点でより説得力がある。
現行教育基本法では、教育行政は「不当な支配」扱いされ、現場の考え方が優先された。
その結果、日教組が力を持ち、教育を歪めてきた。民主党案はこの「不当な支配」条項を取り去り、
第四条において、「学校教育は、我が国の歴史と伝統文化を踏まえつつ」
「学校の自主性及び自律性が十分に発揮されなければならない」とした。
与党案が「不当な支配」の文言をそのまま残したのとは対照的である。
宗教教育に関しても民主党は重要な点を新法案に盛り込んだ。
第十六条で「宗教的な伝統や文化に関する基本的知識の修得及び宗教の意義の理解」
「宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度を養う」ことなどは「教育上重視されなければならない」とし、
「生の意義と死の意味を考察し、生命あるすべてのものを尊ぶ」ことの大切さも強調した。
宗教心も道徳心も消え去ったかのような現在の日本で、宗教心の育成、小さな存在としての人間を超えた
大摂理への畏敬の念を養うことがどれ程大切かは、今更言うまでもない。
この点も、現行教育基本法をほぼそのまま焼き直し、宗教心の涵養よりも、
行政による特定宗教への肩入れの禁止に軸足を置いた与党案よりは、民主党案のほうが優れている。
注目の「愛国心」について、民主党は「前文」で「日本を愛する心を涵養」すると明記した。
「祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び」と続け、与党案を凌駕した。
再び鈴木氏が説明する。
「愛国心ではなく、日本を愛する心の涵養としたのは、そうすれば、日本人と日本国を作りあげてきた
祖先の生き方も伝統も文化文明も、全て包含されるからです。聖徳太子以来の日本、
大化の改新で太子の理想を具現化した日本、古事記や日本書紀に記されている日本国の足跡、
そこから窺える日本人の価値観全てを愛する心という意味で『日本を愛する心』としました」
聖徳太子、大化の改新、奈良時代に編纂された古事記と日本書紀を縦軸として貫くのは
まさに旧き良き日本の価値観である。そこには、神道も仏教も含めた宗教への畏敬、天皇を戴く皇室の尊重、
皇室を支えてきた男系男子による皇統の継続、善き道徳心、
上も下も睦(むつ)びて和の精神を尊重することなどが、当然含まれる。
国家百年の教育のために
それにしても、旧社会党系議員も混在する民主党で、よくこの法案を取りまとめたものだ。
西岡座長や鈴木事務局長、鈴木氏と共に奔走した佐藤泰介参議院議員らの功績であり、高く評価したい。
問題は、しかし、民主党案に沿って教育基本法が改正される可能性はあるのかという点だ。
その内容は、バランスのとれた常識を備える保守の立場の人々が切望するものであり、自民党議員のなかに
も、この民主党案こそが本来の自民党提出の案でなければならないと語る人は、実は、少なくない。
だが、肝心の自民党は、公明党との連立で制約を受けており、
両党間で詰めた現法案を修正するのは難しいと見られている。考えられる“修正”は、
付帯決議に「愛国心」を盛り込むことや、国会質疑の答弁で「愛国心の涵養」という言葉で答えることなどだという。
自民党にとって、公明党との連立は、参議院での過半数を得る代わりに、重要法案になればなるほど、
自民党の質的変化を進めるジレンマとも、深刻な矛盾ともなって噴き出してくる。
他方、民主党が党内左派勢力をおさえて今回の至極まっ当な新法案をまとめることが出来たのは、
国会で過半数を持たない民主党の案は成立しないと踏んだうえで、従来自民党を支えてきた各種宗教団体を、
新法案によって民主党支持に変えさせることが出来ると読んだからだとの突き放した見方もある。
種々の見方も批判も一理ある。だが強調したいのは、民主党案をまとめた人々、
それを支持する民主党と自民党の議員たちが、心底、真面目に、まともな教育基本法を作りたいと欲している事実だ。
教育こそ、国家百年の計である。その重要性を考えて、自民党も民主党も、
民主党案を軸にした歩み寄りの知恵を出すのが、国民への責任である。