徹底管理されていた天皇乗車の特別列車

運転士の身辺調査までしていた! 徹底管理されていた天皇乗車の特別列車
新潮45 2016年12月号掲載

天皇が乗車する特別な列車があるのをご存じだろうか。
「御召列車」と呼ばれるこの列車は天皇、皇后、皇太后が乗車する特別列車を指す。
平成26年9月、24年もの歳月をかけて編纂された「昭和天皇実録」が公開された。
そこには昭和天皇の鉄道乗車記録ももちろん記載されている。
今年9月に出版された『昭和天皇 御召列車全記録』(新潮社)は、1年もの時間を費やし、
この「実録」から昭和天皇の鉄道乗車記録をリストアップ。
公文書や各種鉄道資料等で発着時刻、牽引機、編成などを調査し「天皇の旅路」の新事実を解明した。
今回は、調査の過程で判明した昭和天皇と御召列車にまつわるエピソードをいくつか紹介したい。

■鉄道マン、栄光と緊張の現場
御召列車を運転する鉄道の現場に目を向けると、この国が儀礼と神事の国であることがよくわかる。
御召列車が天皇を運ぶ列車であることから、なおさらわかりやすい形で現れる。
鉄道員の御召列車にかかわる手記やインタビューを読んでいるとしばしば「斎戒沐浴」という言葉を目にする。
御召列車の機関士は、技能優秀なベテラン機関士が選ばれる。もちろん技能優秀だけでは選ばれない。
戦前大阪機関区に松井虎太郎という名機関士がいた。
「健康と血統についても、厳重な調べがありまして、近親に脳に病気のある者はないか、
血圧は正常か、心臓病はないか、それらがすべてよろしいとなって、
いよいよ本決まり(略)この時は大阪の新聞に、私の名が出ました」
「当日の朝は、家に注連縄をはりまして、家族の者もすべて斎戒沐浴、
私が一番に水垢離を取って家を出ました」(阿川弘之『空旅・船旅・汽車の旅』中公文庫)
御召列車の機関士は新聞に名前が出たのだ。当日は斎戒沐浴。
機関区では御召機関車を前に神主がお祓いをする「修祓式」を行うのも通例だった。
写真を見ると厳かな儀式であることがわかる。
機関士は客車に振動を与えてはいけないことになっている。
出発するときはすべるように発車、停車もいつの間にか停まっているというふうに。
しかも天皇の通路に敷かれた絨毯から数センチもずれてはいけない。
斎戒沐浴はもちろんのこと、修祓式、列車に振動を与えない、
ピタリと停止位置に止めるなどは明文化されているわけではない。
いつ頃からそうなったのか、残念ながら分からずじまいだった。
機関士だけでなく、現場の鉄道員(幹部も含め)に緊張を強いる行幸だが、
天皇から労いの言葉をもらう場も用意されている。
こちらはかなり細かくマニュアルができているのだ。
国鉄運転局列車課が昭和46年に作った「お召列車運転の手引」から要約する。

服装、白手袋着用、帽子を右手に持つ。
1 隣の車両から御料車に入る。(御座所入り口に近づくと陛下のお姿が見える)。
2 次室を通り、御座所入り口で、正面に向かって軽く敬礼をする。(1回)
3 さらに2~3歩進んで正面に向かって最敬礼をする。(1回)
4 陛下からお言葉がある。
5 お言葉が終わったら、そのままの位置で正面に向かって最敬礼をする。(1回)
6 後ずさりして御座所入り口まで戻り、正面に向かって軽く敬礼する。(1回)
7 1~2歩後退して次室に入り、向きを変えて退出する。

(注)陛下のお言葉は通常「このたびはご苦労であった」であり、お言葉に対する返事はしないことになっている。
「正面に向かって敬礼又は最敬礼」をする場合、お並びになっておられる両陛下の中央に視線を向けて敬礼をすること。
両陛下別々に2度敬礼はしない。
機関士や駅員には、ホームなどで天皇から声をかける機会が設けられている。
御召対応を何度も経験した下山定則(のちの国鉄総裁)は、
「終着駅に着いて小豆色の皇室専用の自動車が出ていく音をきくとき一ぺんに安心感が湧出す」と言ったそうだ。
鉄道員の本音であろう。

■機関砲を積んでいた? 厳戒態勢!戦勝祈願御召列車は伊勢神宮へ
昭和16年12月8日、日本の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。
翌昭和17年12月8日、昭和天皇は戦勝祈願のために伊勢神宮へ行くことになった。
実際には11日に東京を出発し、京都で1泊ののち12日に伊勢神宮参拝、その日のうちに京都に戻り、13日に還幸した。
東條英機首相も同乗していた。
『昭和天皇御召列車全記録』を編集するにあたって、『昭和天皇実録』とともに
重要参考文献としてほぼ毎日ページをめくっていたのが星山一男著『お召列車百年』という本だ。
御召列車のバイブル的な本である。昭和17年の伊勢神宮戦勝祈願御召列車について、以下のような記述がある。
「チキ1500形式の貨車2両に高射機関砲を積載して、お召列車の前部・後部に連結したのである」
すでにB25による本土空襲があり、しばしば空襲警報が出されていた時期のことだ。
御召列車が狙われることも可能性としてはある。
私は星山氏のこの記述を読んで、まず写真を探そうと考えた。しかしいくら探しても写真は出てこない。
ではこの日の列車編成を調べようとしたが、これもなかなか出てこない。
そうこうするうちに、当時の資料が米原市役所にあるという話を聞いた。
連絡すると旧米原機関区の文書が市役所に移管、保管されているという。
米原市役所に行くと、分厚い簿冊が何冊も出てきた。1ページずつめくっていくと、
「大阪鉄道管理局局報」の中に運行計画などとともに編成が出てきた。そこには機関砲を積んだ貨車はなかった。
星山氏はどのような資料を見たのだろうか。
では機関砲を積んだという事実はなかったのか。
調べに調べて宮内庁宮内公文書館に保存してある昭和17年の「幸啓録」に記述を見つけることができた。
なんと機関砲4門を指導列車(御召列車の前を走るいわゆる「露払い」列車)に積み、
近衛兵1個中隊(50人)も乗り込んでいた。
昭和天皇が戦勝祈願のために伊勢神宮へ行幸したことは、
東京へ還幸した翌日の12月14日に新聞が報道して国民は知らされた。
報道管制が敷かれていたのだ。御召列車が通過するというだけで奉迎者が溢れた戦争前とは様相が一変していたのだ。

田中比呂之(たなか・ひろし)
1957年札幌市生まれ。新潮社に入社。月刊誌編集部、営業部など経て書籍編集部。
編集を担当した「日本鉄道旅行地図帳」(監修・今尾恵介、全12号)は累計160万部を突破した。

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/12230630/?all=1

昭和天皇が変えた「寝室」の作法 他

「寝室問題」は皇室にもあった 昭和天皇が変えた「寝室」の作法

夫婦の寝室を別にするかどうか。それは、ときに大問題となる。天皇も例外ではなかった。
「一人で寝ても必ずしもうまくゆくとは限らぬ」
昭和59年(1984年)1月5日。皇后と寝室を別にしては、という侍従・卜部亮吾の提案に、
天皇はなかなか首を縦に振らなかった。『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』の著者、米窪明美さんが言う。
「その6年半前に那須御用邸で腰椎を骨折して以来、皇后さまは体力、気力、記憶力などの減退に悩まされていました。
入江相政侍従長の日記には、妻を懸命に支える天皇の姿が詳細に記されています。
老齢の天皇にとって公務はただでさえ激務。
そのうえ夜分に皇后のお世話をしていれば、睡眠不足が重なり体調を崩してしまう。
寝室を別にすれば、皇后には女官がつきっきりで行き届いたお世話ができるし、天皇はぐっすりと休むことができる。
双方にとって最も良い解決策だと側近たちは考えたんです」(米窪さん)

入江侍従長の日記を引用する。
〈どういふものか大変おねむさう。のべつにおあくび。又昨夜皇后さまお起こしになったか〉
(昭和57年6月15日)
〈この間お吐きになつたのも、皇后さまがお厠所がおわかりにならず、
お上をお起こしになつた為ではないかと思はれる〉
(昭和57年7月19日)

側近たちが心配するのも無理はなかった。皇后と一緒にいたいと渋った天皇も結局折れた。
しかし、一時的に寝室を別にしたものの、3カ月後の4月12日には元に戻っている。
このとき昭和天皇82歳、良子皇后81歳。ダイヤモンド婚を迎えていた。

■お后女官という“配偶者”
米窪さんによれば、明治天皇は美子皇后と寝室を共にしなかったという。
「高齢とか不仲といった理由ではなく、それが皇室の伝統なのです。
天皇を起こすのも、脇に侍寝したお后女官の役目です。
大正天皇の生母・柳原愛子も、成人した4人の皇女の生母・園祥子もお后女官でした」
お后女官は江戸時代の将軍家や大名家における側室と似た存在であるが、だからといって両者は同じではない。
徳川将軍家や大名家の側室には美人であれば町娘でもなれた。しかしお后女官の実家は旧堂上家、
明治時代の家格に直すと伯爵、子爵家と厳しく定められており、容姿よりもまず家柄が優先された。
つまりお后女官は側室というよりも、むしろ配偶者の色合いが濃いのだ。
昭和天皇は皇太子時代のヨーロッパ外遊以来、ライフスタイルを欧米風に切り替えていた。
それゆえ新婚時代からずっとベッドを使用し、パジャマを着て、皇后と一緒に寝ていたのだ。
宮中を変えたといわれる昭和天皇の改革は、寝室にも及んでいたのである。

デイリー新潮編集部
http://www.dailyshincho.jp/article/2015/12190600/?all=1

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

お風呂場から寝室まで「明治天皇」と「昭和天皇」の私生活比較
――米窪明美(学習院女子中・高等科非常勤講師)
社会週刊新潮 2015年12月31日・2016年1月7日新年特大号掲載

食べて、浴びて、寝る。日々繰り返される当たり前の営みだが、皇居内での話となると想像がつかない。
どんな食卓だったのか、どうやって息抜きをされていたのか――。
宮廷儀式などの研究を続けてきた筆者が、明治天皇と昭和天皇の「日常」を浮かび上がらせる。

 ***

驚くべきことに、昭和天皇はお一人でお風呂に入られていた――。
何を言っているのか、入浴は一人が当然であり、どこが驚くべきことなのか、と思われるかもしれない。
しかし、これは宮廷においては決して「常識」ではなかった。
明治天皇がお風呂に入られるときには、3人の女官がお供をしていた。
お体を洗うにしても天皇は何もせず、女官たちがお世話をしていたのである。
戦後70年の節目にあたる平成27年、ご聖断を下し、終戦への道を開かれた昭和天皇の存在が再びクローズアップされた。
昭和天皇といえば、背広をお召しになった戦後の学者天皇としてのお姿が記憶に残る。
戦前戦後を通じて生真面目で誠実なイメージを抱く方が多いのではないだろうか。
これに対して祖父の明治天皇は、玉座に座り美々しい軍服を身につけ、剣を握りしめた肖像が流布したせいだろうか、
威厳に満ちた大帝のイメージがある。
近代国家・日本を導いた2人の天皇の公的なご活躍は様々な機会に紹介されるが、その私生活が語られることは少ない。
しかしいくら偉大な天皇であっても、日常生活は必ず存在する。そして、その生活ぶりには時代や個性が表れる。
入浴方法がそうであるように、側近たちの日記、回想録、証言をつなぎあわせてゆくと、
皇居の森の奥深くに隠された天皇の私生活が鮮やかに蘇(よみがえ)る。
こうした史料をもとに、私は明治天皇の私生活に関する著作に続いて、
この度、その昭和天皇版とでも言うべき『天皇陛下の私生活―1945年の昭和天皇』(新潮社刊)を上梓した。
日々の暮らしの中にこそ宮廷、そして天皇の本質を解く鍵が潜んでいると考えているからだ。
節目の年を締めくくるにあたり、2人の天皇の暮らしぶりを通して近代皇室の歩みについて今一度思いを馳せてみたい。
まずはお風呂場の様子をさらに詳しく眺めてみることにしよう。
「独浴」されていた昭和天皇はお風呂があまりお好きではなく、週に1回程度入るが、
あっという間に出てきてしまったという史料が残されている。
空っぽになった御湯殿(お風呂場)をのぞくと、シャボンはあちらこちらへ跳ね、
スポンジは隅っこに転がっている状態だったというから、いささかお行儀が悪い。
対する明治の御内儀(私生活を営む空間)では、日常のあらゆる場面で清らかであることが尊ばれた。
清浄と不浄は峻別され、上半身は清浄、下半身は不浄とされた。
それゆえ、明治天皇がお風呂に入られるときには3人の女官がお供をして、
お体を洗う際には上役の女官が天皇の上半身を、下級の女官が下半身を担当した。
また、首までお湯に浸(つ)かると、下半身に触れたお湯により上半身まで穢(けが)れてしまうことになる。
そこで湯船には少なめにお湯が張られて、明治天皇は半身浴の形式で湯船に浸かられ、
後ろに回った女官が手拭いで新しいお湯をかけた。
さらに湯上がりに一枚の布で全身を拭くと、お体全体が穢れてしまうため、専用の浴衣をまとい水分を拭きとる。
明治天皇と昭和天皇の御湯殿の大きな違いは、先に触れた通り一人で入るのか否かだが、
実は幼いころの昭和天皇のお側にはお付きの女性たちが控え、あれこれとお世話をしていた。
ところが学習院初等科卒業後、未来の大元帥としてふさわしい帝王学を学ぶため、
東宮御学問所にて5人のご学友と共に「合宿生活」を行う時期になると、
女性職員は遠ざけられ周囲を固めるのは男性職員のみとなる。
昭和天皇が自身で身の回りのことを行うようになったのはこの頃からと推察される。
天皇という「システム」が最優先された明治と、皇族とはいえ時代に即して「個」が重要視された昭和。
入浴に関しても、その時代ゆえの「天皇像」の違いが浮かび上がってくるのだ。

■変化した「おすべり」
お風呂と並ぶもう一つのプライベートスペースといえば寝室である。
皇太子時代にヨーロッパを外遊して以来、昭和天皇はライフスタイルを欧米風に切り替えられていた。
それゆえ新婚時代からずっとベッドを使用し、パジャマを着用されていた。
昭和天皇がベッドから起き上がられると、共に寝ていた良子皇后はすでに傍らにいない。
身支度を整えるために一足先に洗面所へと向かわれているからだ。
ガウンをはおり、スリッパを履いた天皇はブザーを押す。
これは侍従の控える部屋など関係部署に通じていて、昭和の宮廷の一日が始まる。
一方、明治天皇は美子皇后と御寝室を共にされていない。
2人が不仲だったのではなく、それが皇室の伝統だったのだ。
明治天皇は御寝台という、宮廷伝来の天蓋付きの寝具の上で目覚めた。
白羽二重(しろはぶたえ)の寝間着を身につけた天皇を起こすのは、御寝台の脇に侍寝した権典侍(ごんてんじ)、
所謂(いわゆる)お后女官(きさきにょかん)の役目である。
お后女官は江戸時代の将軍家の側室と似た存在で、大正天皇の生母・柳原愛子も、
成人した4人の皇女の生母・園祥子もお后女官だった。
天皇のお目覚めを確認すると、お后女官はおもむろに「おひーる」と声を張り上げる。
「おひる」といっても朝8時頃だ。すると、これに呼応して隣室に当直した女官が、
「申しょー、おひるでおじゃーと、申させ給う」と声を張る。
さらにこれに応えて……と女官たちの甲高い声がさざなみのように伝わってゆき、明治宮廷の一日が始まる。
明治天皇と昭和天皇の御寝室の違いは、なんといってもお后女官の有無に尽きる。
お后女官は大正時代まで存在したが、貞明皇后から4人もの皇子が誕生したことで、「お后」としての役目はなかった。
表面的な制度は残したまま、実質的には一夫一婦制度へと移行していたことになる。
昭和天皇はさらに改革を推し進め、権典侍という役名そのものを宮廷からなくす。
これにより、皇室は完全な一夫一婦制となり現在に至っている。

続いて天皇家の食卓をのぞいてみる。
明治天皇は寝間着から和服へと着替えられて、お一人で朝の食卓に向かう。
美子皇后は化粧着のまま、自室で朝食をとられる。
昼食、夕食は両陛下揃ってとる。とはいえ、一つの食卓は囲まない。天皇皇后が別々のテーブルに着席する。
給仕は天皇に2人、皇后に1人の女官が付く。
彼女たちが最も気を遣ったのは、食事をいかに美味しく召し上がって頂くか、ではない。
最大の注意を払ったのは、食器を触る手の平が何かの加減で自分の衣服に触れないようにすることだ。
このような場合、もう一度手を洗い直さなければならない。
こうした独特な作法を守るため、お給仕に時間がかかってしまう。
しかし、天皇皇后は文句も言わずじっと待っていた。
ところで、両陛下のお食事というと、懐石料理のようにほんのちょっぴりずつ、
美しくお料理が盛りつけられているイメージを抱く方が多いのではないか。
しかし明治の御代はイメージと逆で、大きなお皿に驚くほどの量が盛られていた。
そこから、女官が天皇皇后用としてほんの少しだけ取り分け、残りは全て臣下に下賜された。
これは「おすべり」という宮廷で古くから続く慣習である。
おすべりは天皇から臣下への思いやりの気持ちを表すもので、
同じ料理を食べることで和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気作りに一役買っていた。
一方、昭和の宮廷では、三食とも天皇皇后が揃って一つのテーブルを囲まれた。
また、明治天皇ご夫妻の食事と異なるのは、それぞれ一人前が一つの器に上品に盛りつけられていた点だ。
臣下へのおすべりという習慣は残っていたが、厨房で最初から天皇皇后用と臣下用に取り分けられていた。
明治の御世と昭和の御世では、このように臣下へのおすべりの形式が異なる。その意味するものは何か。
明治の宮廷では、天皇の周囲に常に多くの人々が控えていて、
およそプライバシーというものはなかったが、それが当たり前だった。
身分の差こそあったものの、宮殿全体がまるで一つの家庭のようで、いつも笑いが絶えなかった。
大きなお皿から同じ料理を取り分けるスタイルは、天皇皇后を中心とした大家族の雰囲気をよく表している。
昭和天皇も祖父と同様に多くの人々に囲まれて生活していたが、近代的な教育を受け外遊を経験し、
君主といえども、ある程度のプライバシーは守られるべきだと考えられていた。
天皇は皇后やお子さまたちとの時間を殊の外大事にされており、家族団欒の様子は世間一般のそれと変わらない。
一つのお皿に一人前ずつ盛りつけられたスタイルは、伝統を受け継ぎつつも、
個というものを大切に考え始めた昭和の宮廷の姿を図らずも表している。

■Xデーが近づくなかで…
さて、多忙な公務と独特な宮廷の慣習にしばられた生活のなかで、天皇はどのように息抜きをされていたのだろうか。
昭和天皇のお楽しみはなんといっても生物学の研究だった。
普段は口が重いが、話題が生物に及ぶと途端に活き活きと話し出される。
それが嬉しくて、側近たちは好んで生物学の話題を持ち出した。
研究には専門の御用掛がついていたが、貝やクラゲを採取する際には側近たちもお手伝いした。
側近たちの回想録や日記などを調べてゆくと、昭和天皇と彼らの交わす会話は知的好奇心に満ち、
まるで大学の研究室の教授と弟子のそれのようだ。勿論、教授は天皇である。
このお楽しみへのこだわりは病床でも貫かれた。
昭和63年9月19日午後10時前、天皇は大量吐血される。宮内庁関係者やマスコミがXデーに向かって走り出している最中、
病床の天皇は生物学への情熱を未だに失っていなかった。
9月25日午後8時15分過ぎ、吹上御所2階の御寝室で、天皇はベッドに横たわり侍従の中村賢二郎と話されていた。
やがて中村が御前を下がろうとすると、「あのね」と大きな声で呼び止められた。
「それからもう一つ。蚊がいたんだ。看護婦が獲ったんだ。清水(筆者注・生物学御研究所の専門官)に言って、
御研究所の清水に、何の種類か調べるように」
なんと天皇は鼻孔に酸素吸入のチューブが2本入っている状態で、病室に迷い込んだ蚊に目を止め、
種類を突き止めたいと言い出されたのだ。
朝までに手分けをして季節外れの蚊が5匹捕らえられ、生物学御研究所に届けられた。
折り返し、1匹はヒトスジシマカの雌、2匹はハマダラカの類の雄、他2匹は吻(ふん)がないので
ヌカカとキノコバエ科の虫で、蚊ではない、との報告があったので中村がその通り言上する。
しかし、これでめでたく問題解決……ではなかった。天皇は動物分類学者の朝比奈正二郎にサンプルを渡し、
さらに詳しく調査するように命じられたのだ。
その日の午後5時、朝比奈から、〈ヒトスジシマカ 1♀(黒色種、吸血、昼間・薄暮)、
アカイエカ 2♂(褐色種、♀吸血、夜間)、キノコバエ科 
2(黒色、森林中の菌などより発生)〉との詳細な報告を受けて、
天皇はやっと満足される。ついで5匹のサンプルは、ラベルを貼り生物学御研究所にて保管するようにと指示された。

■女官たちがキャッキャッ
一方、明治天皇の生涯を通じてのお楽しみは、学者肌の昭和天皇とは対照的に酒を呑むことだった。
若い頃の天皇は毎晩のように遅くまで臣下と酒を酌み交わし、
度を越して側近に抱えられながら還御(かんぎょ)(帰宅の意)されることも、一度や二度ではなかった。
側近たちの多くがついこの間まで地方の中・下級武士だったので、酒席の話題も洗練されているとは言い難い。
薩摩藩出身で後に内閣総理大臣となった黒田清隆は、酒乱との噂のある人物だったが、
天皇皇后の御前でも大虎ぶりを発揮している。
皇太子(後の大正天皇)の御立儲(りっちょ)(皇太子を立てる所謂立太子)の御内宴で
嬉しさのあまり泥酔した黒田は、旧幕臣の榎本武揚を指さし、「陛下、この席に賊がおります」と言い出した。
その後も「賊がおる」を連発し、危うく一触即発の事態となったという。
黒田の悪酔いにも呆れるが、とぐろを巻く黒田を放置して宴会は続いたというから驚かされる。
恐れ多くも臣下のほうが先に酔い潰れることはよくあり、皆さして気にしなかったのだ。
また、天皇はあだ名をつける名人で、美子皇后のことは「天狗さん」とお呼びになっていた。
これは皇后の鼻筋が通っていることに由来するものだが、
3歳年上のしっかり者の姉さん女房に対する、そこはかとない畏敬の念が感じられる。
盃を重ねるごとに陽気になった天皇はすっかりご機嫌になり、何か面白いことを思いつかれては傍らの皇后を振り返り、
「な、天狗さん」「な、天狗さん」と話しかける。その都度、部屋には皇后や女官たちの笑いさざめく声が広がっていた。
そして、電気を嫌い、ベルギー製の蝋燭(ろうそく)を愛用されていた天皇は、
灯りを点けたり消したりしては女官たちを困らせ、
キャッキャッと大騒ぎになることもあった。厳しい風貌の写真からは想像しにくいが、
明治天皇はお茶目な人物で、その周囲には陽気で楽天的な人々が自然と集まった。
明治宮廷には、まるで体育会のような雰囲気が漂っていた。
ちなみに昭和天皇は酒が全く呑めない。宮中饗宴の席では煮冷水(ゆざまし)を用意させ、
あたかも酒を口にしているように振る舞い、相手に気を遣わせないよう工夫されていたほどだ――。
元号が一世一元制となった現在、天皇は国家の時計であり国家を映す鏡である。
明治天皇は陽気で冗談がお好きで、臣下と酒を酌み交わすのを何よりの楽しみにされていた。
そんな天皇が治めた日本は西洋列強の脅威に晒されながらも国家の独立を守り、
世界の一等国を目指してひたすらに前へ前へと歩んでゆく。
その後日本は国際的な孤立、敗戦、占領と荒波をくぐり抜け、経済大国へ駆け上がっていく。
それを可能にしたのは勤勉な国民性であり、病床にあっても学者肌で生真面目な昭和天皇こそが
あの時代の天皇としてふさわしかったと言えよう。
今までの天皇と国民がそうであったように、天皇陛下と私たちもまた平成という時間で結ばれている。
12月23日、天皇陛下は満82歳のお誕生日をお迎えになった。
年が明ければ皇室ご一家のご近影が公開され、講書始の儀、歌会始の儀など
伝統的な宮中儀式をニュースで目にする機会も多い。
これまで見てきたように明治と昭和で違いがあったとはいえ、
例えば天皇が決して食べ物の好き嫌いを口にされず、大膳(調理係)は
下がってきたお皿を確認して好みを推し測っていたように、
貫かれてきた「天皇像」というものもある。
天皇陛下のお姿を通じて見えてくる明治、大正、昭和に続く平成の時代は、
果たして我々に何を突き付けているのだろうか。

米窪明美(よねくぼ・あけみ)
1964年東京都生まれ。学習院女子中・高等科の非常勤講師として作法を教えている。
近代宮廷の研究を続け、『明治天皇の一日』(新潮新書)などの著書がある。
近刊は12月18日に発売された『天皇陛下の私生活―1945年の昭和天皇』。

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/01030720/?all=1

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下半身の触れたお湯で上半身を穢してはいけない 明治天皇の入浴法

いつの間にか、入浴法の定番となった感のある半身浴。実は、天皇は大昔から半身浴を実践していた。
『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』の著者、米窪明美さんが言う。
「天皇夫妻のプライベート空間(御内儀)では、あらゆる場面で清らかであることが尊ばれ、
清(清浄)と次(不浄)がはっきりと区別されていました。
そのルールでは、人間の上半身は清浄、下半身は不浄。
ですから、下半身の触れたお湯で上半身を穢してはいけないのです」
だから湯船には少なめにお湯が張られ、半身浴の形式で入浴しているのだ。清と次のルールは実に細かい。
「お風呂からあがるとき1枚の布で全身を拭くと体全体が“穢れてしまう”ので、
明治天皇は専用の浴衣をまとって水分を拭きとっていたのです」
ちなみに、米窪さんが書いた『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』によれば、
明治天皇は自分で体を洗わなかった。
3人の女官がお供して入浴、「清」である上半身は上役の女官が、
「次」である下半身は下級の女官が担当していたのだ。
至れりつくせりだが、これも清と次のルールを守るためである。

お風呂は苦手、のはずが……
一方、昭和天皇は1人で入浴する。それもカラスの行水のようにあっという間だった。
使用したあとをのぞくと、シャボンはあちらこちらへ飛び、
スポンジは隅っこに転がっている状態だったというから、いささかお行儀が悪い。
「まるで幼い子供のようなふるまい方ですが、明治天皇のお風呂の入り方を考え合わせると、
別の可能性も思い浮かびます。
わたしは、たったひとりで清と次のルールを守った結果かもしれないと想像しているんです」
はっきりわかっているのは、昭和天皇はあまりお風呂が好きではなかったこと。
ところが戦後全国巡幸の際、一般の宿に泊まると毎日のように入浴したという。
つまり天皇は宮中のお風呂より民間のお風呂の方を好んでいたのだ。
ちなみに、明治天皇も規則ばかりの入浴法のせいかお風呂が嫌いだったという。
もしも民間のお風呂に入る機会があれば、風呂好きになっていたかもしれない。

デイリー新潮編集部
https://www.dailyshincho.jp/article/2015/12220600/?all=1

昭和天皇と偽物の指輪のエピソード

昭和天皇と偽物の指輪のエピソード 元参議院のドンが明かす
2014.03.07 16:00
昭和天皇が崩御されてから25年。かつて“参議院のドン”と呼ばれた村上正邦・元自民党参議院議員会長が、
新刊『だから政治家は嫌われる』(小学館刊)の中で、昭和天皇の知られざるエピソードを明かした。
* * *
たぶん、昔の人なので覚えている人も少ないと思うけど、
重宗雄三さんという参議院議長をされていた方がおられてね。佐藤栄作内閣の頃に参議院議長をされていた。
これはその重宗さんから聞いた話だ。インドネシアのスカルノ大統領が日本にお見えになったときに、
天皇陛下(昭和天皇)の主催で晩餐会が開かれた。そのときに議長夫妻が晩餐会に呼ばれたんだ。
重宗さんは大崎にご自宅があって、議長はちゃんとモーニングを着て、車寄せに車が来たから、車に乗った。
ところが奥さんがなかなか出て来ない。「おい、どうしたんだ」と、声をかけたら、奥さんがあたふたと出て来た。
いったん車に乗ったが「あら、あら、忘れ物」って言って出て行き、玄関にお見送りに出ていた小学生の
お孫ちゃんに、「私の部屋の、鏡台の上に指輪を忘れたから、持って来てよ」って。
重宗さんが「もう、そんな時間はないよ」って言ったら、奥さんは「じゃあ、その指輪でいいわ」って言って、
お孫ちゃんがしてたガラスの指輪をもらって、奥さんはその指輪をして、皇居へ行った。
小学生の女の子がしていたオモチャのガラスの指輪ですよ。
だけど、はめた瞬間、そんなことは忘れてしまっている。それで、晩餐会の席へ出た。
そしたら、陛下、昭和天皇が、「おい、重宗」と、声をかけられたって言うんだ。
昭和天皇は、くん付けだとか、さん付けはしないからね、戦前の習慣で。「おい、重宗」と。
「おまえの奥は素晴らしい指輪をしてるな。キラキラ光ってる」と陛下が言われたというんだ。
本物の宝石よりガラスのほうがシャンデリアの光に反射してよく光るんだ。
そう言われた瞬間に、重宗さんははっと気づいて、冷汗がたらたらっと出たって言うんだ。
それで、「あれはニセモノです。ガラス細工です」って、こう言った。
すると、陛下はこうおっしゃったと言うんだ。「ガラスはニセモノか?」
陛下に、ニセモノも本物もないじゃないかって、こう言われたことに、重宗議長は、
「凡人のわれわれを超越したところに、陛下は常にお考えがあるんだということがそれでわかった」と、
「陛下っていうのはそういうお方なんだ」ということを、お話しくださった。
この話を聞いて、私は、陛下の素晴らしさはもちろんだけども、
ざっくばらんにこういう話ができる重宗さんも偉いなと思ったね。
※村上正邦/著『だから政治家は嫌われる』(小学館)より
http://www.news-postseven.com/archives/20140307_244287.html

天皇ヒロヒト

レナード・モズレー (イギリス・伝記小説家)
天皇ヒロヒト 高田市太郎訳 毎日新聞社 1966

天皇裕仁にとって1936年の2.26事件は一つだけ良い結果をもたらした。
それは皇弟・秩父宮との和解であった。
二人の間には幼少期から一種の緊張があった。
というのは、皮肉にも皇弟のほうが人格形成期に有利な条件下で育てられたからである。
天皇裕仁は皇位継承者として、短い欧州旅行を除いては、生涯ずっとしきたりのワクにはめられてきた。
しかし秩父宮は海外留学を許され、自ら妃を選ぶことを許され、
時代の発展について心に思ったことを語ることを許されていたから、
天皇裕仁が時にこうした皇弟をうらやむだけでなく、反感さえ抱かれたことを否定してもムダである。
秩父宮も妃殿下や少数の側近に対してだけではあったが、天皇のことを“鈍行馬車”などといったりした。
1930年代初期のクーデターのうち少なくとも2度は、天皇裕仁と秩父宮とを入れ替えようとするものであった。
秩父宮は事件と何ら関係はなかったが、それでも秩父宮が天皇の競争者の役をになわされた事になり、
天皇ご自身にとっても、そうではないとは思えなかった。
とにかく天皇も秩父宮について宮内省のある筋に次のようにもらされたことがある。
「秩父宮は私にない帝王の性質をいろいろそなえておる。あれは生まれながらの指導者だ。
自分の感じたことをためらわずに表す。帝王の仕事はあれには易しいことだ。
自分が大臣や国民に何を求めているか、あれは疑問に思うことがない」
この競争関係を感じ取った青年将校は秩父宮を戴くことを決めていた。権力を握り、
計画通り過激なファシスト政権を樹立した暁には秩父宮を表に立てて陰から操ろうというわけで、
秩父宮の同調は疑いなしと勝手に決め込んでいた。
ところが2.26事件で秩父宮が宮城にかけつけ、まごうことなき忠誠を示されたため彼らは面食らったに違いない。
そのさい秩父宮は妃殿下をも皇后のもとへおもむかしめられた。
事件後、秩父宮は自分が天皇支持者であることを天皇と国民に示すことを心がけられた。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

リチャード・ニクソン「指導者とは」
「もっと大きい打撃は日本人を内から支えてきた神州不滅の信念の崩壊だった。
彼らが崇敬する天皇裕仁は、日本の開国以来はじめて武人たちに銃を捨てて敗者の屈辱の中に生きよ、と命じた。
それのみか、自分は一個の人間であると宣言し、何世紀にもわたって日本人の価値観を
支えてきた基盤を、みずから放棄した。
軍事的敗北が一国の民をかほど精神的な空白に追い込んだ例は、史上かつてなかった。
マッカーサーは日本人に民主主義を実感させ、そのために民主主義を愛させた英雄だった。
吉田茂と協力しながら彼は日本人に自由を愛させ、それゆえに自由を守る気持ちをおこさせた」

昭和天皇 晴れ男

宮中物語 元式武官の回想
武田竜夫著 中公文庫(1997/1)

四月二十九日の天皇誕生日──夜来の雨はからりと晴れ上がった好天である。
有名になった、いわゆる晴れ男陛下の神通力のオドロキである。
だから戸外行事でもあって、雨模様の時など、
「なーに、陛下がお出になられるから晴天になるさ」などとささやかれるまでになってしまった。
いわゆる神話的な「エンペラーズウェザー」として、今や外国にまで知られているらしい。
なんでも陛下がお出でになられたとき雨天というのは、ほんの数えるほどなのだそうだ。
ある時も園遊会前夜のパーティーで当日の雨天必至という気象予測が話題になったとき、
某国大使が「陛下がお出でになられるのだから雨は降らないと思うね」と
言って笑わせていたことがあったが、それほど有名になってしまったようだ。