昭和の日 あの一体感取り戻したい

産経 主張
昭和の日 あの一体感取り戻したい
2008.4.29 03:28

今日は2回目の「昭和の日」である。言うまでもなく、この日は昭和時代の「天皇誕生日」だった。
昭和天皇が崩御された後、いったん「みどりの日」とされたが、
激動の「昭和」という時代や昭和天皇を偲(しの)ぶため、
国民運動を背景に昨年から「昭和の日」となった。そのことの意味を今一度考える必要がある。
あの時代を振り返るとき、何といっても忘れられないのは、
日本が未曾有の大戦を経験したことと敗戦から奇跡的といわれる復興を成しとげたことだろう。
ことに、戦後の復興から高度経済成長を経験した人々にとっては「よくぞ生き抜いた」との思いが強いに違いない。
その「力」となったのが、国民の中心に昭和天皇がおられたことである。
戦後の国づくりをめぐっては、敗戦によりそれまでの価値観の多くが否定されたこともあり、
さまざまな考えの違いがあり、対決や抗争があった。
それでも大多数の人が前向きに取り組むことができたのは、
国民の間に天皇を中心とした求心力があり「一体感」があったからといえる。
このことは、実に多くの人たちが、昭和天皇の全国御巡幸によって
励まされ苦難に立ち向かうことができた、と述懐していることからも十分わかる。
ひるがえって今の日本の状況を考えるとき、そうした「一体感」が急速に失われているような気がしてならない。
政治の世界をとっても、党利党略で国の将来など考えない政治家が目立つ。
有権者も目先の利益だけで投票しているように見える。国民の意識がバラバラである。
民主主義の国だから、いろんな思想や意見があっていい。
だが「心」の部分までがバラバラであっては国の行く末は危うい。
その理由はさまざまに考えられるが、昭和の時代に比べ、
国民の皇室への思いが希薄になっていることもそのひとつだろう。
グローバル化や近代化によって皇室に凝縮された日本の伝統文化への関心が薄れてきていることは間違いない。
しかし一方で、皇室自身や政府の側にもそうした伝統を軽んじていることはないのか、問い直す必要がありそうだ。
「昭和の日」の名称が定着しつつある今こそ、あの時代の「心」を取り戻すため、
国民と皇室とが向き合って、皇室のあるべき姿についても考えてみるべきだ。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080429/imp0804290329000-n1.htm

甘えるミーコに皇后さまにっこり

2011年1月6日
動物園ひと物語:宮崎市フェニックス自然動物園/4 /宮崎 - 毎日jp(毎日新聞)
<祝40年> ◇開園時からの最古参--長友茂美さん(58)=飼育員

甘えるミーコに皇后さまにっこり
1973年4月10日、毎日新聞社会面にクモザルを抱いた香淳皇后と昭和天皇の記事が写真付きで載った。
この年、全国植樹祭で宮崎入りし、動物園にも足を運ばれた。
クモザルは皇后が抱き寄せたのではない。突然、飼育員の手を離れて飛びついたのだ。
記事はこう伝えている。
<南米クモザルのミーコがひょいと皇后さまの胸へ。
皇后さまは驚かれて二、三歩あとずさりされた……
すぐ笑いが皇后さまのほおに返り、お孫さんでもあやすようにミーコの背中をポンポン>
侍従のコメントが面白い。
<こんな派手な抱きつかれ方は“皇室開びゃく以来”のことです>
この時の飼育員が長友さんだった。高校を出て3年目の春。
「しまった。引っかきでもしたら事だ」と冷や汗が流れた。
しかし、皇后は「孫のあーや(秋篠宮さま)に持って帰りたい」と優しくなでたという。
あとで園長から「とんだハプニングだったな」と肩をポンとたたかれたが、
今となっては懐かしい思い出だ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110106-00000202-mailo-l45


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


香淳皇后のおくり名の由来
産経新聞平成22年6月17日より

おくり名は「香淳(こうじゅん)皇后」。
天皇陛下が漢詩集「懐風藻」から選ばれた。
香は「花舒桃苑香 草秀蘭筵新」(花は開き桃の園は香(かぐわ)しく感じられる)、
淳は「四海既無為 九域正清淳」(世は太平でよく治まり、天下に清らかな徳が広く及んでいる)から。

昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について


昭和時代における香淳皇后の御活動について
平成21年12月4日

最近,一部の雑誌の皇室に関連する記事の中に,両陛下が揃って御公務をなさることは
昭和時代からの伝統ではなく,皇后陛下の御意思で天皇陛下と御一緒に御公務をされているものであるという
趣旨の記述が散見されますが,これは,皇后陛下の御行動に対する誤認であると共に,
昭和天皇のお側で数多くの公的行事に御出席になった香淳皇后に対し,
極めて失礼なことですので,この際,宮内庁として,事実関係を説明することにしました。
まず,現在の両陛下が,お揃いで御公務をなさることは,平成になってからの独自のなさり方ではなく,
昭和の時代のものを受け継ぎ,これを基盤にして新しい時代の要請に合わせて発展させてこられたものであり,
そのことは,現行の憲法のもとで,昭和天皇と香淳皇后がなさっていたことを調べれば分かる筈のことです。  
例えば,香淳皇后が60歳になられた昭和38年につき,同年の昭和天皇・香淳皇后の行幸啓を,
仮に同年前半のお出ましに限って記してみても,年初以来,中央区久松小学校創立90周年記念式,
エジプト美術五千年展,桜友会・常磐会主催古典舞踏鑑賞会,五島美術館御視察,第五回東京国際見本市,
カンボジア王国秘宝展,赤十字百周年記念大会,五月場所大相撲,世界の貝類展,
植樹行事ならびに地方事情御視察(宮城県,青森県),タイ国王・王妃両陛下国賓接遇などに
お二方お揃いでお出ましになっており,この間,昭和天皇お一方でお出かけになられたのは,
国会開会式,学士院授賞式及び芸術院授賞式の計3回のみです。
なお,同年の後半に,山口県で開催された第18回秋季国民体育大会にも,勿論お二方でお出ましになりました。
また,香淳皇后が70歳になられた昭和48年の前半についても,
お二方で,静岡県水産試験場御視察,植樹祭併せて地方事情御視察(宮崎県),
菊栄親睦会(於:新浜鴨場),世界の貝類展,世界に誇るブラジル展,園遊会,箱根樹木園等御視察,
多摩陵及び多摩東陵,NHK放送センターなどにお出かけになられ,
この間,昭和天皇お一方でお出かけになられたのは,国会開会式,学士院授賞式及び芸術院授賞式の計3回のみです。  
なお,この学士院,芸術院授賞式へのお出ましですが,平成に入って暫くした頃,当時の学士院院長から
学問の催しには是非両陛下のお出ましをお願いしたいとの申し出が宮内庁に寄せられ,芸術院もこれに続き,
当時の宮内庁長官及び侍従長の判断により皇后陛下にもお出ましを願うことになったものです。
国会の開会式は,現在も天皇陛下お一方で御臨席になっています。  

香淳皇后のお出ましが少なくなったのは,74歳におなりの昭和52年の夏,
那須御用邸で腰椎を骨折されて以降のことで,この時以来,お二方で諸行事にお出かけになることはほとんどなくなり,
例えば,昭和55年について,その年の前半について記しますと,
お揃いのお出ましは,植樹祭併せて伊勢神宮御参拝及び地方事情御視察のため
三重県に行幸啓になった一回のみで,年初以来のその他の行事,
具体的には,会計検査院創立百年記念式典,パナマ国大統領御夫妻の国賓接遇,
スウェーデン国王・王妃両陛下の国賓接遇,園遊会,
大相撲のように従来であれば御一緒であった筈の諸行事に,昭和天皇がお一方でお出ましになっています。
つまり,冒頭で述べた「両陛下が揃って公務をなさることは,昭和時代からの伝統ではなく」云々は,
この時期以降のみについてのことで,戦後から昭和30年代,40年代,50年代初期という時代が全く視野から落ちています。  
皇居内での拝謁についても,諸行事は勿論のこと,戦後次第に増えていった各種の拝謁についても
香淳皇后は願い出のあったものは,ほぼ全てに御臨席になっており,
その都度,昭和天皇に引き続いて,おことばも賜っております。また,勤労奉仕の人々に会われる際も同様です。
皇居での拝謁は,関係省庁からの願い出によるものがほとんどで,
昭和の頃と同じく平成に入ってからも,時代の要請で新しく加わるものが多々ありました。
職域も増え,また,各職域での女性の参加者は近年著しく増えているので,
それに伴い,両陛下お揃いでのお出ましへの願い出も,自然に増えています。
一例が全国校長会で,女性の校長が極めて稀であった昭和の時代には願い出も昭和天皇お一方でしたが,
女性校長の数が増えるに従って,願い出も両陛下となりました。
また,平成に入ってから加わった国際緊急援助隊や国際平和協力隊などの拝謁も,当初は天皇陛下お一方でしたが,
やがて女性隊員も増え,皇后陛下のお出ましも求められるようになり,前者については平成16年から,
後者については平成18年から,皇后陛下もお出ましになっています。
どちらの場合も,関係省庁ならびに宮内庁の検討を経て決定されたもので,
皇后陛下がなさりたいか,なさりたくないかによって決定されるという性格のものではありません。
ただ,皇后陛下が天皇陛下の御行事への御同席を求められれば,ほぼ全てこれをお受け入れになるのは,
求めには出来る限り応じなければというお気持ちは勿論のこと,それにより少しでも陛下のお疲れの総量を
お量りになれるようでありたいとのお気持ちをお持ちのようです。  
なお,宮中祭祀についても,香淳皇后が御熱心でいらしたことは,よく知られています。
平成に入り,皇后陛下は香淳皇后がなさっていた祭祀を全てそのままに受け継がれました。
お減らしになったものはありませんが,お足しになったものも一つもありません。  

以上のように,昭和の時代も今と変わらず,昭和天皇と香淳皇后は多くの場合お揃いでお出ましでした。  
それにもかかわらず冒頭に述べたような誤解が生ずるのは,昭和天皇が,戦争直後の国内御巡幸のほぼ全てを
お一方でなさったことと(最終回の北海道御巡幸はお二方でしたが,
香淳皇后がお風邪を召され,御同伴の部分が非常に短くなりました。),昭和53年以降,香淳皇后の御健康がすぐれず,
以後は,昭和天皇お一方で諸行事にお出ましになっていたことによるのではないかと思われます。
特に,香淳皇后が8月15日の戦没者追悼式に昭和天皇と御一緒に御臨席になったのは,昭和55年までで,
昭和56年以降は,昭和天皇がお一方で御臨席になりましたが,
昭和天皇お一人の映像が今でも時折放映乃至掲載されるので,
諸行事には昭和天皇お一方でお出ましになっていたという印象が殊更に強いのかもしれません。
しかし,御不例以前の香淳皇后は,実に度々に昭和天皇と御行動を共にされており,この誤解は正されなくてはなりません。
香淳皇后のお怪我や加齢以後の御公務についての誤解が次第に重なり,
中には御同伴のないことが昭和の伝統であったとする極論までありましたので,以上説明する次第です。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h21-1204.html


昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について
平成25年4月3日

最近の週刊誌においては,昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について,
「地方行幸啓などに御夫妻で出席される形は,両陛下が御成婚後に築かれたものであり,
昭和天皇のお出ましに香淳皇后がお供もしていたということはあまりない。」としている。
このことに関しては,平成21年12月に宮内庁ホームページで事実関係を詳しく説明したところであるが,
なお同様の記述が引き続き見られるので,
改めて,昭和天皇と香淳皇后の戦後の御活動状況について,「戦災復興状況御視察」(御巡幸)と,
恒例の行事である「秋季国体」及び「植樹祭」を例にしてみると,次のとおりである。
(御巡幸,秋季国体,及び植樹祭に関し,各年の主催県,開催の日取り,行幸啓か行幸のみか等については別表参照)

(戦災復興状況御視察(御巡幸)について)
昭和21年から昭和29年までにわたる46都道府県(この時点では沖縄県はまだ返還されていなかった。)の
御巡幸については,昭和天皇がほぼすべてをお一方でなさっておられ,
最終回の北海道御巡幸に際しては,第9回国体が北海道で開催されたこともあり,
国体御臨席を兼ねて,昭和天皇と香淳皇后のお二方でお出ましになった。
(秋季国体について)
戦後間もない昭和21年秋に京阪神地区で第1回国体が開催され,翌22年には昭和天皇は,
お一方で御巡幸を兼ねて福井,石川,富山の三県に赴かれた際に,
石川県で開催された第2回国体に初めて御臨席になった。
そして,翌々年の昭和24年に東京都で開催された第4回国体以降は,
昭和51年の第31回国体(佐賀県にて開催)までのほぼ30年間にわたり,
毎年秋,昭和天皇は香淳皇后とご一緒に国体に御臨席になった。
その後,昭和52年7月に香淳皇后が那須御用邸内で転倒され腰を痛められたので,
同年秋,翌53年秋そして昭和54年秋の国体には,昭和天皇お一方で御臨席になったが,
昭和55年及び昭和56年の秋季国体には,昭和天皇は,再び香淳皇后とご一緒にお出ましになった。
しかしながら,昭和57年秋以降は,香淳皇后のご体調がすぐれず,お出ましが困難となったため,
昭和天皇は同年秋の第37回国体以降,昭和61年の第41回国体まで,毎年お一方で国体に御臨席になった。
ちなみに,昭和62年の第42回国体(沖縄県にて開催)には当時の皇太子同妃両殿下が御名代として御臨席になった。
(植樹祭について)
昭和25年4月山梨県で開催された第1回植樹祭以来,昭和52年の第28回植樹祭(和歌山県にて開催)までの
ほぼ30年間にわたって,十勝沖地震のため御臨席を取りやめた昭和43年の第19回植樹祭を除いて毎年春,
昭和天皇は,香淳皇后とご一緒に植樹祭に御臨席になった。
その後,昭和53年の第29回植樹祭に際しては,上記の通り香淳皇后のご体調が万全ではなかったため,
昭和天皇はお一方で植樹祭に御臨席になったが,昭和54年から同57年まで4回にわたる植樹祭に際しては,
昭和天皇は,再び香淳皇后とご一緒に御臨席になった。
しかしながら昭和58年以降の植樹祭については,香淳皇后のご体調がすぐれず,お出ましが困難になったため,
昭和天皇は昭和62年の第38回植樹祭まで,毎年お一人で御臨席になった。
ちなみに,昭和63年の第39回植樹祭(香川県にて開催)には当時の皇太子同妃両殿下が御名代として御臨席になった。

以上を要するに,終戦直後の昭和21年に開始された全国各地の戦災復興状況を御視察するための御巡幸については,
当時香淳皇后をお迎えできるような宿泊施設等も整っていなかったことなどもあり,最後の御巡幸であり,
かつ秋季国体御臨席を兼ねていた昭和29年の北海道御訪問を除き,すべて昭和天皇がお一方でお出ましになった。
しかしながら,戦後に開始された毎年の重要行事である国体及び植樹祭については,当初から,
昭和天皇と香淳皇后が必ずお揃いで御臨席になっており,昭和天皇がお一方でこの両行事に御臨席になったのは,
香淳皇后がご体調を崩されて,次第に御臨席が困難となられた昭和50年代に入って以降のことである。
「地方行幸啓などに御夫妻で出席される形は,両陛下が御成婚後に築かれたものであり,
昭和天皇のお出ましに香淳皇后がお供もしていたということはあまりない。」という認識は,
以上の歴史的な事実を無視するものであるので,注意喚起する次第である。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h25-0403.html

皇室ウイークリー(270)
2013.3.16 07:00
週刊女性は「美智子さま『マスク姿』でご公務・月30件なのに-
雅子さまはわずか3件の知られざる『事情』!」と題する記事の中で、ある大学教授のコメントとして
「地方行幸啓などにご夫妻で出席される形は、主に現在の両陛下がご成婚後に築かれてきたものです。
昭和天皇のお出ましに、香淳皇后がお供していたことはあまりなく…」と述べていた。
これに対し、風岡長官は「(香淳皇后の)晩年はともかく、通常の形は昭和の時代でも
天皇と皇后が一緒に公務をされるというのが通例だった」と反論したのだ。
宮内庁は平成21年にも、「ご一緒の公務は昭和からの伝統ではなく、
現在の皇后さまの意思で陛下と一緒にされているものである」という趣旨の記述が雑誌で散見されることについて、
ホームページ(HP)などで同様に反論している。現在も掲載しているHPの説明では、
「昭和の時代も今と変わらず、昭和天皇と香淳皇后は多くの場合お揃いでお出ましでした」とし、
こうした報道に対し、「昭和天皇のお側で数多くの公的行事に御出席になった香淳皇后に対し、極めて失礼」と苦言を呈している。
公務のあり方については、15日の衆院内閣委員会でも取り上げられるなど、関心も高まっているが、
正確な事実に基づいた議論が求められる。
(略)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130316/imp13031607010001-n4.htm


昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について
平成28年9月23日

平成28年8月27日付け毎日新聞朝刊の「危機の20年」と題する記事の中で,
原武史氏は「平成になると,宮中祭祀に天皇と皇后がそろって出席するようになったばかりか,
行幸も皇后が同伴する行幸啓となり,」と述べています。
昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況については,
これまでも宮内庁ホームページで事実関係を説明してきたところでありますが,
こうした事実と異なる認識が依然として見られることから,改めてこの点についての事実関係を説明します。
香淳皇后は,ご晩年の20年近くは,ご高齢とご健康上の理由により,行事への御臨席が困難となられましたが,
昭和52年に腰を痛められるまでの戦後約30年間の長きにわたり,
昭和天皇と共に多くの宮中祭祀にお出ましになり,また,行幸啓を共になさっています。
宮中祭祀について見ますと,昭和21年から51年までの恒例の祭祀で,
かつ,天皇皇后両陛下のお出ましが予定された364件のうち,
昭和天皇とお揃いでのお出ましは213件(58.5%)を占めています。
ちなみに,昭和30年以降で見ますと66.7%となります。
また,地方ご訪問について見ますと,昭和21年に開催された国体には,
昭和22年の第2回石川県大会には昭和天皇が御巡幸を兼ねてお一方で御臨席になりましたが,
昭和24年に東京都で開催された第4回国体以降は,昭和51年まで毎年,
昭和天皇は香淳皇后とご一緒に御臨席になっています。
また,植樹祭には,十勝沖地震のため御臨席を取りやめた昭和43年の第19回を除き,
昭和25年の第1回から御不例となった昭和52年まで毎年春,昭和天皇とご一緒に御臨席になりました。
なお,昭和21年から昭和29年までにわたる戦災復興状況御視察のための御巡幸は,
当時,香淳皇后をお迎えできるような宿泊施設等が整っていなかったこともあり
,昭和天皇がほぼすべてをお一方でなさっていますが,
最終回の北海道御巡幸には第9回国体が北海道で開催されたことから,
国体御臨席を兼ねて昭和天皇と香淳皇后のお二方でお出ましになりました。
こうした戦後間もない御巡幸は別としても,昭和21年から51年までの地方へのお出まし78件のうち,
昭和天皇とお揃いでのお出ましは73件(93.6%)を占めています。

このように,宮中祭祀や地方ご訪問については,戦後から既に天皇と皇后がお揃いでなさっておられ,
御成婚後の今上両陛下は,これをそのままに受け継がれ,昭和,平成とお続けになっておられるものであり,
平成になってから,宮中祭祀や地方ご訪問を両陛下でなさるように変わったという事実は全くありません。
以上のことについては,過去にも宮内庁ホームページで事実関係を詳しく説明し,
繰り返し注意を喚起してきたところ(「昭和時代における香淳皇后の御活動について(平成21年12月4日)」
及び「昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について(平成25年4月3日)」)でありますが,
未だにこうした基本的な事実を確認せずに皇室について議論がなされることは遺憾であり,
第三者の対談ではありますが,この点の事実関係の誤認については毎日新聞社にも伝えました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h28-0926.html



昭和天皇の初の外国訪問の経緯

(2014年)
NHKNEWSWEB

外交文書 昭和天皇の初の外国訪問の経緯
7月24日 21時19分

昭和天皇が1971年にヨーロッパを歴訪するのにあたり、政府内でパスポートを発給するかどうか
議論が行われるなど、天皇としての初めての外国訪問に向けた準備作業の様子が、
24日に公開された外交文書で明らかになりました。また、ヨーロッパ歴訪よりも前に、
アメリカで開かれた国連の行事への出席の可能性が検討されたことも明らかになりました。

昭和天皇は、天皇としては初めての外国訪問として、1971年9月から10月の18日間にわたり、
ベルギーや当時の西ドイツ、イギリスなどヨーロッパ7か国を香淳皇后とともに歴訪しており、
24日に公開された外交文書で、訪問を巡る経緯が明らかになりました。
このうち、1971年5月の文書では、昭和天皇にパスポートを発給するかどうかについて
検討した経緯が記されています。
この中では、日本を訪れた各国の元首らがパスポートを所持していたかどうかを確認したうえで、
天皇が日本国の象徴であることや、天皇に対する伝統的な国民感情から見て、
「外務大臣が発給するパスポートを携行して、出入国の手続きなどを経られるのは極めてふさわしくない」
などと指摘し、パスポートは発給しないのが適当と結論づけています。
このほか、滞在中の食事について、オランダにある日本大使館が出してきた献立の案を、
政府側が差し替えるよう要請した公電などもあり、綿密な準備作業が行われていたことをうかがわせています。
一方、1969年7月付けの文書では、ヨーロッパ歴訪よりも前に、1970年にアメリカで開かれた
国連創立25周年の行事への昭和天皇の出席の可能性が検討されたことが明らかになりました。
この中では、各国の元首が集まる会議に出席することや、元首の立場で署名などを行うことが、
憲法上できないといった意見が出されており、結局、出席は見送られました。
ただ、これを契機に、政府内で昭和天皇の外国訪問の本格的な検討が始まり、
ヨーロッパから帰国後の1972年8月の文書では、相手国の元首が来日したことに対する『答礼』としての
訪問を優先するなどとして、ベルギーや西ドイツなどの訪問が決まった経緯がつづられています。
日米外交史が専門の日本大学の信夫隆司教授は、パスポートの発給を巡る議論について、
「天皇に一般の国民と同じような対応をしていただくのは、
失礼ではないかという考えが当然あったのではないか」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140724/k10013270731000.html

天皇陛下はどんなものを食べているのか? 「チャーハン」や「ふりかけご飯」

天皇陛下はどんなものを食べているのか? 「チャーハン」や「ふりかけご飯」

食べることは生きること。いわば食は命の素である。多くの人にとって食事は大きな関心事だろう。
では、天皇の食事はどうなっているのだろうか。調べてみたら、知らないことだらけで驚いた。

「昭和天皇の朝食は1年中洋食でした」
と言うのは、『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』の著者、米窪明美さんだ。
「具体的には、オートミール、パン、野菜料理、サラダ、果物、煮冷水(湯冷まし)、
お茶、牛乳を毎朝食べていたんです。
オートミールは大麦を使った西洋風のおかゆのようなもので、戦後はコンフレークのこともありました。
牛乳や甘みを足して天皇好みの味に仕上げるのは皇后の役目です」

風変わりな習慣もあった。
「ピーナッツか銀杏の炒ったものを3粒だけ食べる、というのが昭和天皇の毎朝の習慣でした。
ピーナッツは皮をむき、バターで炒めて軽く塩をふります。
銀杏は殻からだして皮付きのまま焼き、その後皮をむいて軽く塩をふるのです」(米窪さん)
朝食は8時、昼食は12時、夕食は18時で1年中変わることがない。
昼食が洋食であれば夕食は和食、昼食が和食なら夕食は洋食と決まっていた。

ウナギ以外の好物は
食べ物の好き嫌いを言わなかった天皇が、ふと好みを口にしたことがある。
昭和62年(1987年)10月3日、前月に十二指腸部の腺癌の手術を受けた天皇は、
昼食として出された平目のムニエルに全く食欲を示さなかった。
そこで医師団が食べたいものを尋ねたところ、イワシやサンマだというではないか。
「本来、イワシやサンマ、サバのような大衆魚は皇室の食卓にのぼらなかったのですが、
戦時中に物資が手に入らず、天皇がヤミで物を買うのを禁じたために、献立の常連となったのです。
天皇はそれらをとても気に入っていました」
米窪さんが解説してくれる。
「昭和天皇のウナギ好きはよく知られていますが、宮内庁大膳課に勤めた渡辺誠さんによれば、
昭和59年にウナギの蒲焼を食べた回数は22回、それに対してサバの味噌煮も12回ありました。
麦入りごはんで山かけを食べるのも好きだったようです。
ただ、基本的にお刺身は少ないんです。特に地方への行幸啓に出かける前は、
行事に支障をきたしてはいけないので、なまものは外されました」

困ったときの「ふりかけご飯」
繰り返すが、天皇は基本的に好みを言わない。だから料理人は天皇の食べっぷりから好みを推し量るほかない。
「渡辺さんによれば、リンゴはシャキシャキよりもふかふかが好きで、
サツマイモは黄色いホクホクより白っぽいベチャ芋がお好きだったそうです。
また、稚鮎を塩焼きにして骨をとらずに頭から食べたり、
鮎の内臓を塩漬けしたウルカをご飯に混ぜてよく食べていたとか。
そこだけみるとお酒もいけそうに思えますが、お酒はまったく飲めませんでした」(米窪さん)
一方、苦手なのは酸っぱい味付け。洋食にレモンをつけても使わなかった。
しょっぱいもの、辛いものも苦手だった。食が進まないときは、ふりかけをかけて食べたという。
チャーハン、餃子、春巻、酢豚、シューマイといったお馴染みの中華料理も食卓に並んだ。
さらに米は市中の米屋さんから普通の米を買い、押し麦を混ぜ、水道水を使って炊いたというから、
なんだか親しみがわくではないか。

デイリー新潮編集部
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/01070600/?all=1