昭憲皇太后の祈り

いま伝えたい昭憲皇太后の祈り 比較文化史家 東京大学名誉教授・平川祐弘
2014.4.4 03:12
昭憲皇太后が崩御されて4月11日で百年になる。
明治天皇のお后(きさき)美子(はるこ)は大正3年に亡くなられた。

百年祭でお歌をひもとく

『昭憲皇太后御集』をひもとくと、生前最後の歌会始に皇太后は
伊勢神宮の杉に託して末永き世代交代を祈られた。
《あらたまの今年を千代のはじめにていやさかゆらむ伊勢の神杉》

明治天皇が天照大神に祈られた御製(ぎょせい)は昔は小学校の教科書に載っていた。
《とこしへに民やすかれといのるなるわがよをまもれ伊勢のおほかみ》

式年遷宮の昨年、私たちは日本の宗教文化を改めて有り難いものに感じた。
今年の三が日、内宮外宮の参拝は60万人を超えた。

《わが國は神のすゑなり神祭る昔の手ぶり忘るなよゆめ》

この歌は明治天皇の御子孫や国民への御訓戒と拝察する。
新宮に皇祖神がうつります際に皇后は明治の御代を言祝(ことほ)がれた。

《天の戸のひらくる御代をことさらにまもりますらむ伊勢の神垣》

若き日の皇后は西洋の新知識に憧れた。明治22年、宮中に電燈がともる。

《いなづまの光をかりしともしびによるもさやけき宮のうちかな》
稲妻への言及はフランクリンが凧(たこ)を用いて
稲妻と電気の同一性を証明した実験をご存じだったからだろう。

聡明な美子皇后がフランクリンの十二徳をよみかえると、プロテスタントの徳目は次の教訓歌となる。

《みがかずば玉の光はいでざらむ人のこころもかくこそあるらし》
明治8年女子に高等教育の門が開かれたとき、皇后は開校式に臨まれ、
先の歌に手を入れ「東京女子師範学校にくだしたまふ」た。

《みがかずば玉も鏡も何かせむまなびの道もかくこそありけれ》
今その後身のお茶の水女子大学の校歌で、付属小学校の秋篠宮のお子様もご一緒に歌っている。
歌はさらに『金剛石もみがかずば』となる。
「金剛石もみがかずば 珠のひかりはそはざらむ 人もまなびてのちにこそ まことの徳はあらはるれ」


津々浦々で歌われた唱歌に
そしてフランクリンの「時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし」
(Lose notime; be always employ’d 
insomething useful)の教えは
「時計のはりのたえまなく めぐるがごとく時のまの 
 日かげをしみてはげみなば いかなるわざかならざらむ」
と訳されて津々浦々で歌われた。小学生の私もその唱歌を歌った。

明治天皇、皇后が第一に心掛けられたのは何か。日露戦争の翌年、天皇は詠まれた。

《かみかぜの伊勢の宮居を拝みての後こそきかめ朝まつりごと》
天皇家にとって「まつりごと」とは「祭事(まつりごと)」が第一であり、
天皇は国民にとってまず神道の大祭司(プリースト)である。
それだから「伊勢の宮居を拝みて」の後に「まつりごと」の第二である
「政事(まつりごと)」の仕事に国王(キング)として耳を傾けるのである。


真心を神前に手向ける
では神道の倫理とは何か。それは罪の文化でも恥の文化でもない。
人に知られようが知られまいが恥ずべき事をしてはお天道様やご先祖様に相済まぬ、
という内面の倫理である。神道は心の清らかさを尊ぶ。皇后はこう歌われた。

《人しれず思ふこころのよしあしも照し分くらむ天地のかみ》
《まごころをぬさと手向(たむ)けて神がきにいのるは國のさかえなりけり》
幣帛(へいはく)として真心を神前に手向けると皇后は述べた。その社頭に霰(あられ)が散る。

《ささげもつ玉串の葉にたばしりてあられふるなり賀茂の瑞垣(みずがき)》

明治19年は新嘗祭の11月23日に雪が積もった。
《こむとしもゆたけかるらむ新なめのまつりの庭にふれる白ゆき》

日露戦争後の明治39年、皇后は、靖国神社に詣でた。
《みいくさのみちにつくししまこともてなほ國まもれ千萬の神》

《神がきに涙たむけてをがむらしかへるをまちし親も妻子(つまこ)も》
国のために殉じた人のために私たちは祈らねばならない。
勝ち戦であれ負け戦であれ、兵士の霊も遺族も、陛下のご参拝によって安らぎを覚える。

皇后は明治天皇の御代(みよ)ながかれと社頭に祈る。日本民族の命ながかれと祈るのである。

《二見がたのぼる朝日ののどかなる御代まもりませ伊勢の神垣》

昭憲皇太后も祈られたように、そして美智子皇后もいわれるように、
皇室の大切なお勤めは民のために祈ることである。
思うに宮中祭祀(さいし)はただ単に天皇家の為の儀式ではない。陛下は国民のために祈るのである。
民族の永生を祈るこの伝統の儀式がとこしえに続くよう、皇室の末永い繁栄を祈らずにいられない。
(ひらかわ すけひろ)

http://sankei.jp.msn.com/life/news/140404/imp14040403150001-n1.htm

昭和天皇 日記執筆か

(河北新報2018年8月24日)

昭和天皇 日記執筆か
小林忍侍従日記「お机に向い おつけになっておられた」
定説覆す可能性も

「日記らしきものをおつけになっておられた」―。
「小林忍侍従日記」の記載で、昭和天皇自身が生前に日記をつけていた可能性が浮上した。
記載があるのは1976年の元日。皇居・吹上御所で新年早朝の祭祀を昭和天皇に代わり
側近が済ませたことを、小林氏が居間で待機していた昭和天皇に報告しに行ったところ
「お上(かみ)はお机に向い日記らしきものをおつけになっておられた」とつづっている。

昭和天皇の記録としては、戦後すぐに回想を側近が聞き取った「昭和天皇独白録」や「拝聴録」、
昭和天皇が亡くなった後、宮内庁が24年余りをかけて編集した「昭和天皇実録」などがあるが、
自ら筆を執った日記類の存在は確認されず、存在しないというのが定説だった。
ただ、思わせぶりな記述は、これまでの史料にもあった。「卜部亮吾侍従日記」には、
香淳皇后が亡くなった後の2000年6月24日「女官長に例の『お日記』お忘れものとして
副葬品にお入れいただくようお預けする」と書かれている。昭和天皇の日記が形見として
“埋葬”されてしまったとも解釈できる内容だ。
一方、「拝聴録」は入江相政侍従長が昭和天皇から聞き取った記録で、見つかったり、
不明になったりを繰り返した。
卜部日記の88年5月23日の記述には、入江氏の後任の徳川義寛侍従長と「(皇居・宮殿の)
表御服所に赴き、入江侍従長の『拝聴録』を探索す。断念しかけたが最後にキャビネット最下段から発見。
内容確認しリストを作り元の場所に収納」とある。
その後また行方が分からなくなったが、卜部日記によると、2001年2月7日に再発見された。
現在は再び不明となっている。

早世の娘命日終生慎み
60年間悲しみ忘れず
昭和天皇は1961年に長女の東久邇成子(ひがしくにしげこ)(照宮)さん=当時(35)を、
28年に次女祐子(久宮)さん=生後訳6ヵ月を亡くしている。
「小林忍侍従日記」には、昭和天皇が晩年までそれぞれの命日は外出を控えていたことが記されており、
早世した娘たちを思いながら静かに過ごしていた様子がうかがえる。
成子さんの命日は7月23日。小林氏が侍従に就いた74年は「故東久邇成子様御命日につき終日吹上御所においで」
と書き、昭和天皇が一日中、住まいの吹上御所にいたと記録している。
昭和天皇は夏のこの時期、栃木県の那須御用邸に滞在していることが多かったが、
日記には「照宮さまの御命日のためお出ましなし」(76年)、「東久邇成子様御命日のため
終日お出ましなし」(83年)、「東久邇成子様御命日のためおでましなし」(85年)とあり、
日課としていた御用邸内での散策や植物観察を慎み、室内にこもっていたことが分かる。
祐子さんの五十年式年祭に当たる78年3月8日は「宮殿へのお出ましなし」と記述。
85年の命日も「久宮祐子内親王殿下御命日につき宮殿へのお出ましなし」と記録している。
この日は閣議のある金曜日で、通常なら宮殿の執務室で政府文書の決済をする日だが、
吹上御所で執務に当たったとみられる。
昭和天皇が亡くなる前年の88年の命日も「久宮内親王殿下御命日お出ましなし」。
60年前の悲しみを忘れることはなかった。

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小林忍侍従日記

小林忍侍従日記

昭和天皇、戦争責任「つらい」
故小林忍侍従の日記
昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと
元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が22日までに日記を入手した。
昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。
辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。
兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。
日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について
気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。
小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。
https://this.kiji.is/405044604695348321?c=39546741839462401

小林忍侍従日記の詳報
昭和天皇の侍従だった小林忍氏の日記の詳報は次の通り。(表記は原文のまま)
1974年4月26日 田中氏から宮殿菊の間つつじ庭の桐の花が咲き始めたとの連絡あり、
お上に申しあげたところ、お庭にお出まし。
お供してつつじの庭左側の桐というのでみて回られたがわからずじまいで、場所を確かめておくようにとのおおせ。

5月5日 
午前御散策。(中略)お上が最初「小林、暑ければ上衣をとっていいよ」とおっしゃられた。

9月13日 
佐藤達夫氏(※注1)の献上のアヅマシライトの所で
「遺品だな。持って来た人は死んでしまった。遺品だな」とおっしゃった。しんみりさせられた。

9月25日 
東宮四殿下御参(中略)礼宮やんちゃで広間のドラを一発ならす。

1975年4月28日 
今日は沖縄デーでデモ行進あり。失念していたところ、(中略)お召しで混乱の有無をお尋ねあり。
全く報道されなかったので何もなかった旨申しあげた。「それはよかった。それはよかった」と非常にお喜びだった。

5月13日 
「天皇の外交」伊達宗克著(NHK記者)(現代企画室刊)につき毎日新聞に広告が出ており、
それに戦争のつぐないとして戦後平和外交を推進しているかの如く広告しているが、
そのような内容ならそれはおかしい。戦前も平和を念願しての外交だったのだからと仰せあり。
内容を調べてほしいといわれた。

11月24日 
お上の近況について侍従長のお話(11月22日昼食事の時)。
御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており、
加えて御体調がお風邪、下痢なども重なり御疲れが三重国体後もなお十分でないこともあり、
御自信を失っておられるので(中略)記者その他専門家筋の批評が、
お上の素朴な御行動が反ってアメリカの世論を驚威的にもりあげたことなど具体的につぶさに申しあげ、
自信をもって行動なさるべきことを累々申しあげたところ、涙をお流しになっておききになっていたと。
それで大変御気嫌よく19日の御訪米随員等のお茶御出ましの時は非常にお元気であったと。

76年2月26日 
2・26事件の当日に当るので、宮殿にお出ましなし。

78年4月29日 夜は東宮五殿下、常陸宮両殿下吹上においでお祝い御膳。7
時ごろから35分野生の王国(吹上御苑の野鳥)(NHK)(※注2)を皆様で御覧。

5月19日 
東宮殿下がお上のお風邪の間色々と行事をなさったことについて天皇の代行なのか東宮殿下としてなさったものか、
御名代とは何かなど論議が再燃している。今回の諸行事は急ぎきまったため十分な理論づけ、
詰めがなされて行われたものでないため、その形式が先行して処理されたきらいがあり、
そのために理論づけが曇ることになることを恐れる。

5月26日 宮内庁長官異動 のびのびになっていた長官の異動今日認証式、発令。(中略)
激動の戦後から新しい皇室制度の定着をはかったのは宇佐美氏のがんこさの功績であろう。
新長官(※注3)がなお残る旧来のろう習にどのように立ち向うか、仲々むずかしいと思われる。
入江、徳川両長老(※注4)のいる侍従職への発言力が高まると同時に、侍従長の重責がさらに高まろう。

6月20日 
那須御用邸行幸啓。(中略)夜、那須から電話。日本帰化植物図鑑と高知植樹祭日程表をお忘れにつき送付されたしと。

10月23日 
鄧小平副総理午餐。(中略)日中平和条約批准書の交換のため来日したものだが、大変な歓迎ぶり。(中略)
国賓以上の報道ぶり。右翼の妨害に対する警戒ぶり厳重であることの報道ないのはどうしたことか。

79年8月17日 
那須御用邸行幸啓。(中略)お庭御散策の際「山ユリの花が今日までにすっかり終ったことは
例年より1週間位早いのではないか。マルバダケブキの花がもう咲いているところから、
今年の秋は早く、寒さが早くくるのではないか」とおっしゃった。

80年2月19日 
三宮様御参晩餐。(中略)大食堂からお戻りの際、はじめ高松宮さまが皇后さまのお手をお持ちだったが、
お上がお焼きになるからと宮様がおっしゃり皆様大笑い。
お上がなさったらということでお上が皇后さまとお手をつないでお談話室にお戻り。
大変ほほえましい、珍らしい情景だった。

5月27日 
華国鋒首相との御引見にあたり、陛下は日中戦争は遺憾であった旨先方におっしゃりたいが、
長官、式部官長は今更ということで反対の意向とか。侍従長は結構という意見らしいが、
長官などの反対は、右翼の動きが気になるためという。
しかし、国際的に重要な意味をもつことに右翼が反対しているから、止めた方がよいというのでは余りになさけない。
かまわずお考えどおり御発言なさったらいい。大変よいことではないか。

81年5月5日 
レンゲツツジ(赤と黄)満開。
これは毒なので山野(那須でも)では馬も食べないためこれだけ残り、繁茂しているとお上。

6月6日 
御生研からのお帰り時、大池通りにクサイチゴの赤い実が多く熟していた。
「クサイチゴの実は野生のイチゴとしては最もうまいものである」
「ヘビイチゴの実は、以前には毒だと言われていたが、毒ではない。
しかし今では味がない(すっぱくも、甘くもない)といわれている」

85年2月26日 
昭和12年(※注5)の2・26事件の日のため、午前中宮殿へのお出ましなし。午後は進講あり。

6月27日 
国立防災科学センター、筑波実験植物園においで。
植物園ではカワラナデシコについて強い疑問をおもちで、ハマナデシコではないかと。
記者会見のあと黒川園長にお上のお考えをそっと伝えたところ、言下に否定した。

87年2月3日 
高松宮殿下薨去(こうきょ)。

24日 
全くお行事なく、お上も26日の2・26事件に当る日であるが1週に2回も何もない日があることは珍らしい。
何か特別のわけでもあるのかのお尋ね。国会との関係、喪中であることなどから偶然そうなっただけと申しあげた。

4月6日 
土曜日の御研究を午前中だけにすることについて御意見あり。(中略)
午前中は1時間くらいしか時間がないので、須崎の採集物など研究するひまが少なくなってしまうので、
午後を切ることは賛成しかねる。

7日 
お行事軽減について御意見

仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。
兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれるなど。
これに対し、戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。
戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。
お気になさることはない。個人的には色々おつらいこともおありでしょうが、
国のため国民のためにお立場上、今の状態を少しでも長くお続けいただきたい旨申し上げた。昨夕のこと。

29日 
豊明殿の宴会途中御退席。(中略)お席でお上がお食事をおもどしになったので、(中略)
お歩きで泉の間にご退場。(中略)侍医の診察あり。一段と平常に近ずいていると。
(当初、血圧70-130 お脈85、お体温5・6°)。朝から胃のつかえがあった御様子で、
基本的にはお疲れがあったところに(1週間前の記者会見の前後の緊張も原因の一つと思われる)
気候不順など重なりこうなったと思われる。

7月19日 
お上御異常。御車寄前植込横(東側)においでの時急にお立ち止り、
不審に思っているとふらふらなさり始めたので、高木侍医長と田中侍従が左右からお支えしたところ
その場におくずれになった。(中略)侍医長のお尋ねに少し胸苦しい旨おっしゃった。(中略)
心電図をお取りしたが格別の異常はないとのこと。(中略)4時からは大相撲のテレビを御覧になり、
夜は御夕食も割合良く召上がり、8時からの「伊達政宗」を御覧になった。(中略)
看護婦長にお話しになったところによると少しむかついたとのことで、
エレベーターでの「胸苦しい」というのは「むかつき」をそう表現なさったのか。
要するに脳貧血だったということであるが、その原因は結局よくわからないということ(中略)

9月21日 
沖縄に浩宮さんに同行する筈だった宮内記者会の連中は出発当日19日の朝全員出発取り止めて、
陛下の取材に動いたという。侍従室にも記者入れかわりやってくる。
宮内庁発表(午)後3時 8月下旬から時々おなかが張るなどの御異常。(中略)
明22日宮内庁病院にご入院手術の予定。(中略)
概略以上のような発表。報道されている実状からみて何とも間が抜けている。

22日 
御入院・手術 国事行為の臨時代行 東宮殿下 当分の間 御署名は「裕仁 明仁」となさる(御訪米時と同じ)
(中略)〈記者の質問攻めに遭い〉手術の時間は事前の診断やら、
麻すいの用意やらで手術後も麻すいの状況など見守るため順調にいっても2時間半くらいかかるらしい
事前にそういう説明がないので、長びいていて悪い個所があったのではとか、いらぬおくそくが飛び交うことになる。

88年2月9日 
「皇居の植物」原稿御覧。数日前から愈(いよいよ)。
原稿お手許に出たので御熱心に御検討。あれこれ御注文やらお尋ねが当直の侍従にある。
一度お答えしたものについて更にお尋ねなどあり、
お上は根をつめて御検討なので御疲れが出るのではないかと心配される。

9月19日 
御容態急変 (中略)わが家には0時半と1時ころの2回朝日新聞社会部青柳氏から電話
(最初は氏名不明)あり(中略)宮内庁から連絡はないかときいてきた。文子が寝ている旨答えた。
何かあったと思ったが、もしそうなら当直の田中氏は対応に追われていると思い確認の電話はせず。

22日 
国事行為臨時代行の委任 (中略)御沙汰書には本来御署名があるところ今回それがおできにならないので
陛下の委任する旨の御意思を明確にしておく必要があるとの法制局の意向で、
御沙汰を伺った当直侍従から宮内庁長官宛に次のような文書を提出しておいてほしいとのことであったので、
事務主管の卜部侍従の名前で提出した。(9月22日付)
「天皇陛下から、国事に関する行為を委任する旨の御沙汰がありましたので、
御報告します。宮内庁長官 藤森昭一殿 侍従 卜部亮吾(印)」

11月14日 
案外持ちこたえ新嘗祭(にいなめさい)までは大丈夫という予想も出ている。

お召し 夜8時半すぎ侍従をお呼びというので御寝室に出た。
言語不明瞭というより言葉になっていないので侍医2人、看護婦3人と何とおっしゃっているのか
聞き耳をたてたが全く分からない。(中略)「明日にまた」と伺ってもそれは御承知にならない。
今知りたいということらしい。お疲れになるばかりというので、
侍医が安定剤を点滴に入れお眠りになるようにした。先週9日に安定剤を投与してからお眠りが多くなり、
言語も不明瞭になってきたらしい。その分御病状は安定している。

12月1日 
摂政問題 御容態が現状のように傾眠状態が続き、意識が明確でなくなってくると、
一時的でも意思表示ができればよいが、さもないと国事行為の代行では済まなくなる
虞(おそ)れが出てくる。(中略)常時意識がはっきりしない状態であるとなると代行制度はなじまず、
摂政を立てざるをえなくなるのではないか。幹部の間でも論議されている。

20日 
昨日は「おじゃじゃ」ということもおっしゃったと。「痛い」とか「いや」とかも。
侍医も驚いているというが、一時的なものかどうか。

23日 
昨夜 侍医の「お寒くありませんか」の呼びかけにお首を左右にお振りになるなど反応をお示しになったという。

31日 
9月の御発病以来、侍従長と侍従次長は日曜、祭日もなく毎日吹上に勤務を続けている。
御容態の安定しているときぐらいはどちらか交替で休めばよいと思うのだが、
東宮両殿下が毎日お見舞に吹上においでのこともあるのか休まれない。

89年1月6日 
このところ輸血の効果が仲々出にくくなっている。すべての機能が衰えてきているためという。
尿も殆ど出ない状況が続き、愈(いよいよ)今度こそはという時期にきている。

7日 
崩御 前・6時33分 朝5時すぎ当直の井原侍従から電話。御容態悪化したので待機していてほしいと。
更に6時ころ電話で来るようにと。(中略)8時ころ吹上へ。すぐ御寝室に急ぎゆく。お別れの拝礼。
既に侍医、看護婦の手でお体の清拭など行われ丁度終るところだった。
間もなくお召ものをお着せすることが始まり、卜部氏と小生が主になって申又、袖なり肌着、
小袖、襪(シタウズ)(足袋指なし)、帯をおきせする。(中略)肌着は右手は袖を通したが
左手は腕関節が既に固くなって曲がらないので袖に通すことができず、左手は肌着の中に包んで前部ボタンを掛けた。
小袖の袖も同様にせざるを得ず、左手は袖を通さず、従ってたもとはお体にかけたようなぐあいになった。
お体の下を小袖をくぐらせる時はお腰をもちあげたり、横にしたり仲々重い。まだ暖かみが残っていた。

23日 
殯宮(ひんきゅう)一般拝礼は昨日1日だけで16万3400名の人が来たという。
好天で割合暖かったせいもあろうが、それにしても大行天皇に対する国民の敬愛、哀惜の情の深いのを感ずる。

11月29日 
「皇居の植物」完成。懸案だった「皇居の植物」が納入された。(中略)立派なできばえ。

90年8月21日 
徳川参与侍従室に来られ暫(しばら)くお話し。靖国神社への総理参拝で
毎年問題となる戦犯合祀(ごうし)で東條など取りあげられるが、
最も問題となるのはむしろ松岡、広田の文官(非軍人)が入っていることである。
また特に松岡は日米開戦の張本人ともいうべきもので、日米交渉の最中、
ルーズヴェルト大統領の出した条件に、陸軍も海軍も賛成していたのに松岡が
自分が交渉に当らなかった故をもって反対したために交渉がまとまらなかったという。
松岡は日独伊三国同盟をまとめて帰国の途中、ソ連に寄り、日ソ不可侵条約を結んで、
そのためドイツをひどく怒らせたとか、とにかく異常の人だった。
松岡はA級戦犯の判決後2年くらいで病気のため入院死亡した。処刑されたのではない。と

11月17日 
大嘗祭習礼。今日初めて大嘗宮を見る。仲々立派だが、14億円とはとても考えられない。

22日 
陛下が悠紀殿にお入りになると剣璽及びお裾の侍従は同殿の西側簀子(すのこ)に出て坐り、
陛下のお帰りを待つが、このあと2時間40分の間この3人だけで待機するのは大変だからというので
他のお供の侍従6人も3人ずつ組んで20分ずつ交替で簀子に坐る。(中略)
采女、掌典の内部における神饌供饌の儀の終るのを待つ間庭燎の明りだけがともされ神秘的な雰囲気をかもし出す。

(※注1)74年9月13日の「佐藤達夫氏」は、法制局長(当時)を務めたこともある人事院総裁だった佐藤氏。9月12日に死去した。
(※注2)78年4月29日の「NHK」は「TBS」の誤りとみられる。
(※注3)78年5月26日の「新長官」は、警察官僚の富田朝彦氏。
(※注4)同じ日付の「入江、徳川両長老」は、当時の入江相政侍従長と徳川義寛侍従次長。
(※注5)85年2月26日の「昭和12年」は「昭和11年」の誤りとみられる。
(共同通信社)
https://www.toonippo.co.jp/feature/notice/kobayashi

平成の即位礼「ちぐはぐな舞台」

天皇独白録落札

昭和天皇回想録、高須院長が3千万円で落札 査定の2倍
中田絢子
2017年12月7日10時50分
昭和天皇が戦後、側近に語った内容を記録した回想録とされる文書が6日、
米ニューヨークで開催された競売に掛けられ、27万5千ドル(約3千万円)で落札された。
競売を運営する「Bonhams」が発表した。落札者は美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長。
朝日新聞の取材に「お金に換えられない日本の心。
秋篠宮家の悠仁さまがご覧になれる場所に差し上げたい」と話した。
文書は、宮内省御用掛だった元外交官・寺崎英成氏により記録された昭和天皇の回想録とされる。
太平洋戦争の開戦や敗戦の原因、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言受諾の経緯などに言及した内容で、
1990年に月刊誌上で「昭和天皇独白録」として公表されたものの原文という。
全173ページで、寺崎家で保管されていた。
運営側の査定価格は10万~15万ドル(日本円で約1100万~1700万円)で、2倍以上の高値で落札された。
高須院長は、文書が競売に掛けられることを報道で知り、自身のSNSで「落札する」と宣言。
オークション会場に代理人を送り込み、日本から指示をして落札したという。
落札したことを記した7日のブログに「『昭和天皇独白録』は日本の未来に役立つ財産だ」
「日本に取り戻すのは国民の使命だと思う」などとつづった。(中田絢子)
http://www.asahi.com/articles/ASKD7368VKD7UTIL008.html

高須院長「お金に換えられぬ日本の心」 天皇独白録落札
中田絢子
2017年12月7日12時48分
米国での競売で「昭和天皇独白録」とされる文書を落札した美容外科「高須クリニック」の
高須克弥院長が7日、取材に応じた。
高須院長によると、競売は6万6千ドルから始まり、終盤で1万ドル単位で一気に値段がつり上がった。
「お金に換えられない日本の心。必ず落札すると決めていた」と高須氏。
手に入れた文書は、昭和天皇のひ孫にあたる秋篠宮家の悠仁さま(11)に届けたいと考えたが、
皇室経済法は皇族が多額の財産を譲り受けたり、ほかに譲ったりする場合には、国会の議決が必要としている。
宮家に届けるのは難しいが「悠仁さまがご覧になれる場所に差し上げたい」と話す。
「昭和天皇独白録」では、昭和天皇が皇族や閣僚らの個人名を挙げてやりとりを明かし、
時に人物評を述べている。高須氏は「昭和天皇が人間的な方だったとわかる文書。
ぜひ読んで頂きたいと思う」と語った。文書は1週間ほどで高須氏の手元に届くという。(中田絢子)
http://www.asahi.com/articles/ASKD73WK8KD7UTIL00V.html

「昭和天皇独白録」宮内庁に届ける 落札の高須院長
2018/2/19 21:20
昭和天皇が太平洋戦争前や戦中の出来事を回想した「昭和天皇独白録」を、
米ニューヨークの競売で手数料含め約3090万円で落札した美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長が
19日、宮内庁に原本を届けたことを明らかにした。
高須氏の秘書によると、落札後に宮内庁への寄贈を表明していた高須氏本人が同日、宮内庁の担当者に手渡した。
宮内庁側は「1カ月ほど預かり、(寄贈を受けるかどうかなどの)対応を決めたい」と応じたという。
独白録は、昭和天皇が1946年春、日本の関東軍の謀略だった張作霖爆殺事件から、
太平洋戦争終戦に至るまでの経緯を側近に語った昭和史の第一級資料だ。
昭和天皇と連合国軍総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサー司令官との会見の通訳も担った元外交官、
寺崎英成氏が記録した約170ページ分が昨年12月に競売に出され、高須氏が落札した。
独白録の内容は90年代に日本で出版され、大きな反響を呼んだ。〔共同〕
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27102050Z10C18A2CR8000/

次代への名言

平成21年(2009年)1月7日 産経新聞
次代への名言

私の健康について皆が心配してくれてありがとう。
どうか今年もより年であるように希望します。(昭和天皇)

この言葉から約1年後、昭和64年のきょう午前6時33分、東京・吹上御所で昭和天皇は崩御した。
ちょうど20年前にもかかわらず、闘病の間の国民の祈り、
そして崩御当日の悲痛とあわただしさの記憶がいまなお鮮明に残っている人も多いと思う。
いまいちど、昭和天皇を偲び、考えるために筆者はある先人のことばを紹介したい。
「天下より視れば人君(天皇)程尊き者はなし。人君より視れば人民(国民)程貴き者はなし」―。
幕末の志士、吉田松陰の胸には、天皇と国民が同じように尊び合う世界が広がっていた。
また、司馬遼太郎は言う。
「マッカーサーが、天皇様に、『私は人間である』といってもらったのはきわめて政治的なことで、
史的真実からいえば、やはり神です。神であるがために、人民に無害でした。
天皇の日常は、今でもそうですが、いかなる神主より神主で、神に仕える祭事がじつに多く、
どんな神主より忙しいですね。少なくとも(平安時代中期の)摂関政治以降は、
神もしくは神主である性格がより濃厚になった」
2人が説くところの象徴、それゆえの苦悩と悲劇を併せもった存在。
それが昭和天皇だった―と思えてならない。