昭和天皇の直筆原稿見つかる

昭和天皇の直筆原稿見つかる まとまった状態で初めて
2019年1月1日04時58分
昭和天皇が晩年、御製(ぎょせい、和歌)を推敲(すいこう)する際に使ったとみられる原稿が見つかった。
近しい人が保管していた。直筆を知る歌人も本人の字だと認めた。
「宮内庁」の文字が入った罫紙(けいし)29枚、裏表57ページ。
鉛筆でつづられた歌が少なくとも252首確認できる。欄外に注釈や書き込みもある。
まとまった状態で直筆の文書が公になるのは初めて。専門家は「人柄を深くしのぶ一級の史料」としている。
保管者は匿名を希望しており、今後、研究機関など適切な場所に原稿の管理を委ねることを検討している。
朝日新聞は保管者らへの取材を重ね、1月7日で昭和天皇逝去から30年となる節目を前に、
昭和天皇の歌を研究する所功(ところいさお)・京都産業大名誉教授(日本法制文化史)に協力を求め、
共同で確認、分析した。
昭和天皇の歌の晩年の相談役で直筆を見たことのある歌人の岡野弘彦さんに筆跡と内容を、
昭和史に詳しい作家・半藤一利さんにも内容を確認、評価してもらった。
その結果、筆跡、文体、内容から29枚はすべて昭和天皇によるもので、
1985(昭和60)年ごろから病に伏す88年秋までに書かれたとの判断で一致した。
所さんの調査によると、昭和天皇の歌は宮内庁侍従職編の歌集「おほうなばら」や、
宮内庁の「昭和天皇実録」に計870首が掲載されている。
今回の原稿には、それらに掲載済みの歌の推敲段階とみられるものが41首、未掲載のものが211首含まれていた。
題材は、戦争や家族、地方訪問など多岐にわたる。

あゝ悲し戰の後思ひつゝしきにいのりをさゝげたるなり

これは昭和天皇の最後の公式行事となった88年8月15日の全国戦没者追悼式に寄せた歌で、
約310万人の国民が亡くなった先の大戦への思いが「あゝ悲し」と表現されている。
86年4月29日の85歳の誕生日にあった在位60年記念式典の際はこう詠んだ。

國民の祝ひをうけてうれしきもふりかへりみればはづかしきかな

大元帥として開戦や敗戦を宣明した昭和天皇。
60歳の時に「われかへりみて恥多きかな」、70歳では「かへりみればただおもはゆく」と歌に詠んでおり、
通底する思いがうかがえる。
原稿の欄外には「この義式は國の行事なれどこれでよきや」と記されていた。
「筆者は本人以外あり得ないだろう」
〈所功・京都産業大名誉教授の話〉
これまで側近の日記などは公表されてきたが、ご本人の直筆の原稿が公になるのは初めてで驚きだ。
まとまった状態で大切に保存されていたことは素晴らしい。筆跡は昭和天皇の署名と矛盾なく、
「きさきは皇后のこと」などの表現、記述の内容からも、筆者は本人以外あり得ないだろう。
私の知る保管者と昭和天皇の関係からも疑いようがない。
推敲段階の和歌には平和や国民、家族への深い思いが率直につづられ、人柄が改めてしのばれる。
几帳面に旧字体を使い、武骨につづられた文字にも人柄がにじみでている。
在位60年記念式典の「はづかしき」という1首からは、
国家国民のために尽くす自らの役割を自問自答しておられることが推察される。
1929年に張作霖爆殺事件を巡って田中義一首相を叱責(しっせき)し辞任に追い込んだ事件から、
立憲君主として自らの言動を律した昭和天皇は、
戦後、その抑制的な態度が「戦争を止められなかった」と批判されることになる。
還暦、古希の時の歌と合わせて考えると、国民のために務めを果たせてきたのか、
生涯にわたり深い内省の中にあったことが伝わってきて胸に迫る。
https://www.asahi.com/articles/ASLDZ538RLDZUTIL00Q.html

人柄にじむその直筆 昭和天皇、激動の半生は歌と共に
2019年1月1日06時59分
平和を願う心、旅の思い出、親しい人との別れ――。昭和天皇が晩年つづった和歌の原稿に、
激動の半生への述懐や、日々の思いが残されていた。
余白をも埋める肉筆に几帳面(きちょうめん)な人柄もにじむ。歴史研究の資料として貴重だと、専門家は指摘する。

いつのまによそぢあまりもたちにけるこのしきまでに(のうちに)やすらけき世みず

190101.jpg
1988年の終戦の日に寄せた歌=迫和義撮影

1988(昭和63)年8月15日の終戦の日に寄せ、昭和天皇はこんな歌を残していた。
所功・京都産業大名誉教授は「戦後40年余りたっても、世界では争いが絶えない状況をはかなんだ歌ではないか。
昭和天皇にとって日本と世界の平和はつながっていたように思える」とみる。
陸軍大将として日露戦争を戦い、後に学習院長を務めた乃木希典(のぎまれすけ)とのエピソードを詠んだ歌もある。
(以降有料記事)
https://www.asahi.com/articles/ASLDZ53F7LDZUTIL00R.html

「陛下の字ですね」作歌の相談役が語る逝去直前の出来事
2019年1月1日07時01分
昭和天皇が晩年、御製(ぎょせい、和歌)を推敲(すいこう)する際に使ったとみられる原稿が見つかった。
宮内庁御用掛として昭和天皇の作歌の相談役を務めた歌人、岡野弘彦さん(94)は、
今回見つかった原稿を「陛下の字ですね」と語り、昭和天皇が「生涯歌と共にあった」と振り返った。
昭和天皇は未発表のものも含めると生涯で1万首はお作りになったと思う。
ご日常の出来事をこまごまと歌に詠まれ、生涯、歌と共にあった。
作風は簡明で天皇たる独特の格調があり、今の日本人の心にも響く。
私は昭和天皇の直筆を見たことがある。お隠れ(逝去)になる数カ月前、88年秋のこと。
徳川義寛・元侍従長がやってきて、昭和天皇が終戦の際の感想として詠まれた
「爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも」を、
病床で7~8通りに推敲(すいこう)した紙を持ってきた。
「この歌の表現を心ゆくまで整えておきたい」とのことで、
今回見つかった宮内庁の罫紙(けいし)のような紙に、直筆で記されていた。
 その中の「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」
が「一番よろしいと思います」と言うと、
徳川さんは「お上(天皇のこと)もこれで安心なさいます」とほっとして帰られた。
今回の原稿も陛下の字ですね。見覚えのある歌もある。一つの事柄にいく通りもの歌を詠んだり、
丁寧な注釈があることからも、一つひとつの歌を丹念につくられた跡がうかがえて、
歌が本当にお好きだったことがわかる。
ご生前は発表するものが選抜されたが、今となっては全てが貴重な作品。
昭和史の核であった方の気持ちが表現されており、誰でも読めるように整理して発表してほしい。
     ◇
〈おかの・ひろひこ〉 94歳。歌人。
宮内庁御用掛(1983~2007)として昭和天皇や天皇家の和歌の相談役を担った。
https://www.asahi.com/articles/ASLD0562SLD0UTIL00K.html

昭和天皇の和歌直筆草稿
250首、大半が未公表
象徴や戦争への思い吐露
昭和天皇が晩年、和歌を推敲する際に使ったとみられる草稿が見つかった。
大半が未公表の歌だ。保管者から託された朝日新聞社が1日、一部を報道陣に公開した。
昭和天皇の和歌の相談役で、直筆を見たこともある歌人岡野弘彦さんは
「昭和天皇自身が書かれたもので間違いない。見覚えのある歌もある。
推敲を何度も重ねた丁寧さがにじみ出ている」と指摘した。
他の専門家も「歌の背景となった昭和天皇の思いが見て取れる。戦争や象徴への思いの一端が伝わる
貴重な史料だ」と評価している。
朝日新聞によると、草稿には、1985~88年に詠んだ和歌が、宮内庁の罫紙29枚に表裏で57ページ分書かれている。
鉛筆で縦書きされ、題材は戦争や地方訪問など多岐にわたる。
保管していたのは昭和天皇に近い人物で匿名を希望。
分析に当たった京都産業大の所功名誉教授(日本法制文化史)によると、草稿には約250首あり、
うち約200首は未公表だった。
86年4月に催された在位60年式典の際にはこう詠んだ。
 國民の祝ひをうけてうれしきも ふりかえみればはづかしきかな
所氏は「自らを顧み『象徴としても役割を果たせているのか』との謙虚さが伝わる」と話した。
昭和天皇は戦争責任を巡り、後半生まで苦悩していたことは侍従だった故小林忍の日記で明らかになっている。
草稿を解析した歴史家の半藤一利氏はこうした事情を踏まえ「自らの来し方に悔いを感じてこられ、
それを『はづかしき』と表現したように思う」と指摘した。
最後の出席となった88年8月15日の全国戦没者追悼式に寄せた歌も、戦争に触れている。
 あゝ悲し戰の後思ひつゝ しきにいのりをさゝげたるなり
大元帥として開戦と終戦に臨んだ昭和天皇の最晩年の悲哀がにじんでいる。
87年8月に亡くなった岸信介元首相をはじめ、側近だった侍従の死去を受けて詠んだ歌もあり、
記述は余白にまで及ぶ。所氏は「昭和天皇の誠実さと細やかさが伝わってくる」としている。
昭和天皇は生涯、約1万首の和歌を詠んだとされる。所氏によると、昭和天皇時代を記録し
刊行されている「昭和天皇実録」や、歌集「おほうなばら」には計870首が掲載されている。
(和歌の表記は原文のまま)
河北新報2019年1月3日

大正天皇は“暗愚”だったのか- 御製にあふれる鋭敏な知性

大正天皇は“暗愚”だったのか- 御製にあふれる鋭敏な知性
2018.12.1 07:00
大正天皇崩御
大正9年以降、長く療養中だった大正天皇の容体が急変したのは、15年12月8日である。
天皇は夜から食欲がまったくなくなり、鼻腔(びこう)から栄養補給をする状態となった。
裕仁皇太子と良子皇太子妃は11日、神奈川県の葉山御用邸に日帰りで大正天皇を見舞い、
13日からは泊まりがけで看病した。このとき、病床につきっきりだった貞明皇后から、
天皇の熱を冷ますため「おしぼり(をとってきて)」と言われた良子皇太子妃が、
緊張のあまり手袋をつけたままおしぼりを絞って天皇の額に当てたと伝えられる(※1)。
病状はその後、小康状態と重篤とを繰り返しながら推移し、25日の未明を迎えた。
午前1時12分《侍従詰所の非常鈴が鳴り、侍従・侍従武官一同は天皇の御前に伺候する。
同十五分御病勢ますます増進し、御危険に迫られる旨が発表される。午前一時二十五分、
天皇は心臓麻痺により遂に崩御される。宝算四十八歳、御在位十五年に渉らせられる。
(病床で看病していた)皇后は、侍医より御臨終の旨の言上をお聞きの後、直ちに綿棒に水を浸し、
天皇の御口元に奉り、皇太子・皇太子妃・宣仁親王・崇仁親王・昌子内親王・房子内親王・
允子(のぶこ)内親王・聰子(としこ)内親王及び女官一同がこれに続く》(昭和天皇実録13巻162頁)
大正天皇の生涯は、病気との闘いの連続だった。誕生後間もなく髄膜炎にかかり、
その後も百日咳、腸チフス、胸膜炎などに罹患(りかん)。青年期になって学習の後れを取り戻そうと、
東宮職員らが詰め込み式の帝王教育を急いだことも、大正天皇の心身に負担を強いたとされる。
貞明皇后と結婚してからは急速に健康を回復し、指南役である有栖川宮威仁(たけひと)親王とともに、
精力的に地方巡啓を重ねるなどした。思ったことをすぐに口にし、行動する性格だったため、
巡啓先の関係者らを慌てさせることもあったが、明治天皇とは異なる気さくな人柄として国民の人気は高かった。
明治40年10月には、皇太子として初めて韓国の地を踏み、日韓併合前の悪化した反日感情を和らげようと努めている。
これを機に韓国皇太子との親交を深め、自らの意思でハングルを勉強するなどした(※2)。
健康状態が再び悪化したのは、即位後しばらくたってからだ。
何事も先帝のようにと求める山県有朋ら元老との折り合いが悪く、ストレスが増大。
大正5年ごろから言語障害も発症し、ついに政務をとることが出来なくなったのである。
大正天皇の病気が何だったのかは、現在でもはっきりしない。
侍医の一人はアルツハイマー病を疑い、あるいはパーキンソン病の一種と推測する近年の研究もある(※3)。
ところが大正10年11月、裕仁皇太子の摂政就任と同時に宮内省が発表した病状報告により、
国民の間にあらぬ憶測を呼んでしまう。「御脳力御衰退…」「諸脳力漸次御衰へ…」
「御意思の御表現甚(はなはだ)御困難」などと、大正天皇の「脳力」の低下を
ことさら強調する内容だったからだ(※4)。この発表後、大正天皇は暗愚だったとする誤解まで生まれ、
それは現在も続いている。
だが、実際の大正天皇は日常的に漢詩を詠むほど聡明だった。鋭敏な知性は、和歌にもあふれている。
たとえば大正10年の、「社頭暁」と題された1首-。

神まつる わが白妙の 袖の上に かつうすれ行く みあかしのかげ

この感性はどうだ。国家と国民の平安を祈る未明の祭祀で、
純白の御祭服に灯明の光(みあかしのかげ)が反射してゆらめき、
暁が近づくとともに薄れゆく情景が、痛いほど鋭利に詠まれている。
国民への深い愛情も、数多の和歌から読みとれよう。

われを待つ 民の心は ともし火の 数かぎりなき 光にもみゆ(大正3年)

日露戦争などの戦利品をみたときは、こう詠んだ。

武夫(もののふ)の いのちにかへし 品なれば うれしくもまた 悲しかりけり(明治時代)

人間性も豊かで、子煩悩だったことはすでに書いたとおりだ。

しばらくは 世のうきことも 忘れけり 幼き子らの 遊ぶさまみて(大正6年)

崩御の数日前から、病床で看病する裕仁皇太子の食事量は半分以下に減っていた。
その悲しみは、どれほどだっただろう。
だが、それを表に出すわけにはいかない。

崩御の日、裕仁皇太子は天皇となった--。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)


(※1) 貞明皇后は「おしぼり」の一言で、緊張して何も出来ないでいた良子皇太子妃に
看病するきっかけをつくったとも、叱責したとも解釈されている
(※2) 大正天皇は即位後も韓国語の勉強を続けた
(※3) 杉下守弘著「大正天皇の御病気に関する文献的考察」(医学誌『認知神経科学』14巻1号収録)では、
大正天皇の病名を「大脳皮質基底核症候群」や「原発性進行性失語症」と推測している
(※4) 大正10年11月25日の東京朝日新聞夕刊に掲載された宮内省発表の「聖上陛下御容体書」は以下の通り
「天皇陛下に於かせられては禀賦御孱弱(ひんぷせんじゃく=生まれつき身体が弱いこと)に渉らせられ、
御降誕後三週日を出てさるに脳膜炎様の御疾患に罹(かか)らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、
続いて腸チフス、胸膜炎等の御大患を御経過あらせられ、其の為め御心身の発達に於いて
幾分後れさせらるゝ所ありしが、御践祚(せんそ)以来内外の政務御多端に渉らせられ、
日夜御宸襟(しんきん)を悩ませられ給ひし為め、近年に至り遂に御脳力御衰退の徴候を拝するに至れり。
目下御身体の御模様に於ては引続き御変りあらせられず、御体量の如きも従前と大差あらせられざるも、
御記銘、御判断、御思考等の諸脳力漸次衰へさせられ、御思慮の環境も随(したがっ)て
陝隘(きょうあい)とならせらる。殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく、
之に加ふるに御発語の御障碍(しょうがい)あらせらるる為め、
御意志の御表現甚(はなはだ)御困難に拝し奉るは洵(まこと)に恐懼に堪へざる所なり」
この発表には、摂政設置を国民に納得させる狙いもあったが、批判も多く、
大正天皇の侍従武官だった四竈(しかま)孝輔は日記に「嗚呼(ああ)、何たる発表ぞ。
昨日までは叡慮文武の聖上と其の御聖徳を頌(しょう)しつゝ、今日俄然此の発表あり。(中略)
今や統治の大権施行を摂政殿下に托し給ひ、専ら御静養あらせ給はんとする聖上陛下に対し、
何の必要ありてか此の発表を敢てしたる」とつづっている
なお、大正天皇が暗愚だったする風説の一つに、帝国議会の開院式で勅語を読み上げた後、
持っていた証書をクルクルと丸め、遠めがねのようにして議場を見回したとされる「遠眼鏡事件」があるが、
事実とする1次史料はなく、信憑性は低いとされる


【参考・引用文献】
○主婦の友社編「貞明皇后」
○宮内庁編「昭和天皇実録」13巻
○宮内省編「大正天皇実録」71巻
○原武史著「大正天皇」(朝日新聞出版)
○四竈孝輔記「侍従武官日記」(芙蓉書房)
○大正天皇御集刊行会編「大正天皇御集」
○岡野弘彦解説「おほみやびうた」(邑心文庫)
https://www.sankei.com/life/news/181201/lif1812010003-n1.html



taisyoutei.jpg

貞明皇后

関東大震災の被災地視察する貞明皇后…写真公開へ
宮内庁は、90年前の関東大震災の際、被災地を視察する貞明皇后(大正天皇の皇后)の写真を
初公開することを決めた。
当時、皇后が被災地を訪問するのは極めて異例で、今の皇室の被災地お見舞いの原点ともいえる貴重な資料。
9月1日から昭和天皇記念館(東京都立川市)で開かれる関東大震災関連の企画展で紹介される。
写真は大震災発生から約1か月後の1923年(大正12年)9月29日、東京・上野で撮影された。
洋装に帽子姿の貞明皇后が数人の被災者を励ます姿をとらえ、近くには、子供や女性の被災者を気遣う
貞明皇后の意向で組織された宮内省巡回救療班の医療関係者や巡回用バスも写っている。
(2013年7月11日17時33分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130711-OYT1T00230.htm

読売新聞2013年7月11日
貞明皇后90年前の被災地視察
宮内庁は、90年前の関東大震災の際、被災地を視察する貞明皇后の写真を初公開することを決めた。
当時皇后が被災地を訪問するのは極めて異例で、今の皇室の被災地お見舞いの原点ともいえる貴重な資料。
9月1日から昭和天皇記念館で開かれる関東大震災関連の企画展で紹介される。
写真は大震災発生から約1カ月後の1923年大正12年9月29日、東京上野で撮影された。
洋装に帽子姿の貞明皇后が数人の被災者を励ます姿をとらえ、
近くには、子供や女性の被災者を気遣う貞明皇后の意向で組織された
宮内省巡回救療班の医療関係者や巡回用バスも写っている。
未曾有の被害をもたらした関東大震災では、当時皇太子だった昭和天皇も被災地を視察しており、
企画展ではその写真も展示される。
宮内庁によると、皇后や皇太子が天災発生直後に現地に赴き、被災者を見舞うことは当時ほとんどなかったという。
堀口修・大正大教授は「貞明皇后が大震災という国家の危機的状況下、苦境にある人々に心を寄せる姿を示す中に、
皇室の役割を強く意識していたことをうかがわる貴重な資料だ」と話している。


正論 
評論家・鳥居民 「宮中祭祀廃止論」への疑問
2008.10.13 03:01
≪原教授の誤読・誤解≫
皇太子妃殿下は「適応障害」という病気に罹(かか)られているのだという。
そしてその原因に宮中祭祀(さいし)への違和感があるのだという。
市井の一庶民である私は、それ以外のことはなにも知らないし、病理学に無縁な私が口を挟む事柄でもない。
ところで、皇太子妃のその問題から「宮中祭祀の廃止」を唱えてきた人物がいる。
明治学院大学教授の原武史氏である。
原氏はそのための言論活動をおこなうにあたって、貞明皇太后に言及し、
二、三の出来事を誤読、誤解することによって、皇太后の虚像をつくりあげた。
昭和天皇は第二次大戦中、「戦況の悪化に反比例するかのように、神がかりの傾向を強めつつあった」
皇太后、「『かちいくさ』を祈る皇太后」の「呪縛(じゅばく)」のもとにあったのだと説いている。
そして原氏はそのような貞明皇太后が昭和のはじめから戦争中にかけて今
日の宮中祭祀の基礎をつくりあげたのだと主張することによって、
その廃止は当然なのだと読者を説得しようと努めている。
私がこの欄で原氏の主張を取り上げるのは、貞明皇太后の実像を読者に知ってもらおうと思うからである。

≪貞明皇太后の提言≫
いうまでもなく貞明皇太后は昭和天皇の母君である。
昭和20年の前半、天皇と皇太后とのあいだに葛藤(かっとう)があった。
ところが、それらの出来事にかかわった人びとはなにひとつ口外しなかった。
口を閉じてはいたが、内大臣だった木戸幸一の日記と貞明皇太后の第三子、高松宮の日記を丁寧に読めば、
昭和20年の前半に宮廷で起きた天皇と皇太后の葛藤の全体像がぼんやりではありながらもすべて浮かび上がる。
原氏も、木戸と高松宮の日記を読んではいる。これらを読んだうえで、
原氏は貞明皇太后が神功皇后に「傾倒していた」のだと説き、
「天皇は、そのような皇太后に手を焼きつつも、影響を免れなかったのではないか」と記すのである。
昭和20年の歴史にいささかの関心を持つ人であれば、
その年の2月に近衛文麿から東条英機まで7人の「重臣上奏(じょうそう)」があったことを記憶されていよう。
だが、それが天皇の発意によるものか、内大臣の助言によるものか、
そもそもだれが天皇にそれを説いたのかを明らかにした研究はこれまでにない。
これこそが皇太后の提案だった。そのあと3月2日の天皇と皇族の懇談会も同じだったのである。
皇太后は天皇になにを求めたのか。原氏の想像とはまったく逆だ。この戦争を終わりにすることはできないものか、
政府首脳と統帥部総長の主張だけでなく、牧野伸顕伯爵、近衛文麿公爵、
そして皇族の皆さんの考えを聴(き)いてはいかがと皇太后は天皇に問うたのである。
皇太后の思いどおりに事態は進展しなかった。天皇と皇太后とのあいだの感情の齟齬(そご)はつづくことになった。

≪「疎開せず」の真意≫
それから4カ月あとの6月14日に天皇は皇太后を訪ねた。
原氏はその著書『昭和天皇』のなかでその訪問についてつぎのように記している。
「ずっと『かちいくさ』を信じて『神』に祈り続けていたのに、
木戸に冷水を浴びせられた皇太后から、天皇はまたしても厳しく詰問されたに違いない。
このとき、皇太后が『神罰』という言葉を使ったかどうか定かでないが、
天皇はショックのあまり立ち上がることができなかった。
そこから立ち上がったとき、天皇はようやく、皇太后という呪縛から脱却し」、戦争終結を決意したのだ。
原氏はこのように説くのだが、残念ながら「冷水」から「呪縛」まで、すべて事実からかけ離れている。
天皇が皇太后を訪ねたのは、疎開を勧めるためであり、皇太后は天皇の説得に応じなかった。
東京に残って、神に祈りつづけるのだと説いたのではない。
口にはしなかったであろうが、皇太后が説きたかったのは、疎開などではなく、
戦争終結を考えるべきだということだった。
長野県の松代なんかに行ってしまったら、お上は陸軍の虜(とりこ)となってしまう、
戦争の終結はいよいよできなくなると言外に仄(ほの)めかしたのである。
天皇は皇太后の考えがわかっていたのだと私は思っている。
そして天皇はその5日前に戦争終結を決意していたことを母君に明かすことができないのを
無念に思っていたのだと私は理解している。
神がかりであり、抗戦派である貞明皇太后といった叙述、その呪縛下にあった昭和天皇といった主張は、
事実から遠い。残念ながらともう一度言うが、すべては原氏の思い過ごしである。(とりい たみ)
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/081013/imp0810130301000-n1.htm




国母の気品―貞明皇后の生涯 工藤美代子著 清流出版 (2008/07)

十五歳でのちの大正天皇と御成婚。四人の皇子の母となり、
病気がちの大正天皇を支えて激動の時代を生き抜いた。その波瀾の人生を豊富な資料と丁寧な取材で描ききる。

目次
第1章 利発な姫君(幻の伝記/ 九条家の謎/ 幼児体験/ トレビアン/ ご婚約内定/ 破談のドミノ/
皇太子の立場/ 長い長い一日)/
第2章 聡明な皇后(新婚の日々/ 親王御降誕/ 皇室の伝統/皇太子妃という仮装/ 結婚十年後の病/
明治天皇崩御/ ある噂/ 裕仁親王妃内定/ 宮中某重大事件/ 皇太子の外遊/ 遠眼鏡事件/ 質素の範/
大地震発生/ 未曾有の大祝典/ 皇后の役割/ 九条武子夫人/ 秩父宮のお妃選び)/
第3章 国民のおばばさま(天皇の病勢報道/ 皇太后になった瞬間/ 皇太后の熱意/ 嫁教育/
銀のボンボニェール/ 第三皇子の結婚/ 皇子単行/ 皇太后と皇后/ 皇室外交の先駆者/ 母として/
戦勝ムード/ 防空壕での暮らし/ 両陛下との話し合い/ 悲母観音の相/ 皇太后の覚悟/ 六十七年の生涯)


「外交官とはなにも語学が堪能で高学歴であることが条件ではない。
むしろ相手の懐に飛び込むような思いやりや優しさを備えた人が優秀な仕事を残す」

あとがき
「貞明皇后の志操は、香淳皇后、そして美智子皇后へと受け継がれていった。
しかしこの先ははたしてどうだろうか。
自分の実家の価値観しか持たず、
すべてにおいて自己の欲望ばかりを優先させるような皇后が誕生したら
国民は尊崇の念を失い、天皇制度の存続もあやういものとなるだろう」

明治天皇

【幕末から学ぶ現在(いま)】(106)
東大教授・山内昌之 明治天皇
2011.3.24 07:47

天皇陛下は3月16日、東日本大震災の被災者や国民に向けてビデオメッセージを寄せられた。
陛下がビデオでお考えやお気持ちを人びとに述べられるのは初めてだという。
私はNHKテレビでメッセージを謹聴していたが、
すべての方面への気配りと激励にあふれたお言葉に感動したのは私だけではないだろう。
犠牲者を悼まれた後、陛下は多くの人びとの無事を願われ、
被災者の状況が少しでも好転し、復興への希望につながっていくことを願望された。
「何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、
これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」
これは誰にも不平不満を言わず、全力で試練に立ち向かっている被災者に対する国民の敬意を
代弁されたものともいえよう。
さらに、原発関係者の修復努力、自衛隊・警察・消防・海上保安庁の救援、
外国人と日本人ボランティアが「余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力」に感謝され、
労を深くねぎらっておられるのだ。
そして、世界各国の元首の相次ぐ見舞いが届いていることを紹介され、
各国国民の気持ちが被災者とともにあると添えられた言葉に触れられ、
被災者を激励することをお忘れにならない。
陛下は、海外でも日本人が「取り乱すことなく助け合い、
秩序ある対応を示していることに触れた論調も多い」と述べられた上で、
「これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えること」を心から願われた。
そして、メッセージの掉尾(ちょうび)を国民のすべてにとって励みとなる素晴らしいお言葉で結んでおられる。

「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、
さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。
被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、
また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、
被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」

これほど見事なバランス感覚に富んだ文章を私は知らない。歴史にも長く残ることであろう。
陛下のメッセージが私たちの心を打つのは、少しも飾らない文章が誰にも分かりやすく、
お心のうちを包み隠さずに吐露される誠実さが人を感動させるからであろう。

◆国難の時、鼓舞する御製
こうしたメッセージは、国や人びとが困難な状態にあるとき、しばしば歴代天皇によって発せられてきた。
なかでも陛下の曽祖父にあたる明治天皇は、生涯の御製(ぎょせい)が九万余首の多きに上り、
在世中から世の中に漏れ聞こえてきただけでも五百余首ある。
そのなかには今回の大震災のような未曽有の国難や試練に遭ったときに、
国家と国民を何とかして鼓舞したいと願った御製も多い。
いちばん有名なのは、明治37(1904)年に戦端が開かれた日露戦争の折に詠まれた和歌である。

しきしまの大和心のをゝしさは
 ことある時ぞあらはれにける

日本国民の大和魂は雄々しいものである。たとえ平時には現れなくても、
一朝事のある時には自然と外に現れるものではある。
もちろん、帝国憲法下の天皇と戦後新憲法の象徴天皇とでは、国制上の位置も役割も当然異なっている。
歴史や時代の感性も違うことは述べるまでもない。
それでも、明治天皇の御製には「取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していること」や
「これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えること」を訴えかける陛下のお心に
共通する励ましの響きが感じられる。

◆勇猛の元は敷島の大和魂
次に挙げる和歌も同じ明治37年の御製である。

山をぬく人のちからも敷島の
 大和心ぞもとゐなるべき

『史記』(項羽本紀)にある「抜山蓋世(ばつざんがいせい)」とは、
力は山を抜き気は世をおおうほどに勇壮な気性を表すという意味である。
明治天皇は、山を抜くくらいの勇猛な力の出所は敷島の大和魂が基礎である、と詠みたかったのだろう。

現代では「大和心」や「大和魂」という表現を日常使う人も少ない。しかし、こうした言葉をあえて使わずとも、
東日本大震災の被災者の克己心や救助者らの犠牲的献身ぶりを見るにつけて、
日本人としての精神力のたくましさやヒューマニティーを感じざるをえない。
そして国民を励まそうとする心こそ、明治天皇の御製から陛下のメッセージに共通するお気持ちではなかろうか。
(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】明治天皇
めいじてんのう 第122代天皇。諱(いみな)は睦仁(むつひと)。
嘉永5(1852)年、孝明天皇の第2皇子として生まれる。
慶応4(1868)年に即位、同年「明治」に改元。
明治22(1889)年の帝国憲法公布、27~28年の日清戦争、
37~38年の日露戦争などを通じ、近代国家日本の君主として国民の畏敬を受ける。
明治45(1912)年7月、崩御。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110324/art11032407500001-n1.htm

昭憲皇太后崩御百年

両陛下、明治神宮ご参拝、昭憲皇太后崩御百年を前に 皇太子さまも
2014.4.2 11:57
天皇、皇后両陛下は2日午前、明治天皇の皇后、昭憲皇太后の崩御から11日で100年にあたるのを前に、
明治神宮(東京都渋谷区)を参拝された。
モーニング姿の陛下は神職の先導を受けて本殿に向かい、玉串をささげて拝礼された。
続いて皇后さまがご参拝。皇太子さまも参拝された。
大正9年創建の明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后をまつっている。
昭憲皇太后は、現在も皇后さまが引き継がれている皇室のご養蚕を復興したことでも知られる。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140402/imp14040212050000-n1.htm

秋篠宮さま:明治神宮を参拝 昭憲皇太后の没後100年で
毎日新聞 2014年04月18日 10時28分(最終更新 04月18日 10時35分)
秋篠宮ご夫妻と長女眞子さまは18日午前、明治天皇の皇后だった昭憲皇太后が
亡くなって今年で100年となるのを受けて、明治神宮(東京都渋谷区)を参拝した。
明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后がまつられている。
モーニング姿の秋篠宮さま、拝礼服姿の秋篠宮妃紀子さまと眞子さまが本殿前に進み、
1人ずつ玉串をささげて拝礼した。天皇、皇后両陛下と皇太子さまも2日に参拝した。【真鍋光之】
http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20140418k0000e040176000c.html

明治天皇の皇后、昭憲皇太后の没後100年に際し、明治神宮を参拝した秋篠宮ご夫妻と眞子さま
東京都渋谷区の明治神宮で2014年4月18日午前9時12分 徳野仁子撮影
140418.jpeg

常陸宮ご夫妻:昭憲皇太后没後100年 明治神宮を参拝
毎日新聞 2014年04月22日 11時23分(最終更新 04月22日 12時26分)
常陸宮ご夫妻は22日午前、明治天皇の皇后だった昭憲皇太后が亡くなって今年で100年となるのを受け、
明治神宮(東京都渋谷区)を参拝した。
明治神宮には明治天皇と昭憲皇太后がまつられている。モーニング姿の常陸宮さまと
参拝服姿の常陸宮妃華子さまは本殿前まで進み、それぞれ玉串をささげて拝礼した。
天皇、皇后両陛下は2日に参拝している。【真鍋光之】
http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20140422k0000e040198000c.html

高円宮妃久子さま:承子さま、典子さまと明治神宮参拝
毎日新聞 2014年04月26日 10時47分
高円宮妃久子さまと長女承子さま、次女典子さまが26日午前、明治神宮(東京都渋谷区)を参拝した。
明治天皇の皇后の昭憲皇太后が亡くなってから今年で100年になるのに合わせて訪れた。
http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20140426k0000e040178000c.html


■明治神宮HP
各宮家が御参拝
昭憲皇太后百年祭にあたり、4月2日の天皇皇后両陛下、皇太子殿下の御参拝に続き、各宮家が御参拝になりました。
同月18日に秋篠宮同妃両殿下・眞子内親王殿下、
22日に常陸宮同妃両殿下、26日には高円宮妃久子殿下・承子女王殿下・典子女王殿下が
神職の先導により内拝殿へと進み、玉串を御神前に奉り拝礼されました。
http://www.meijijingu.or.jp/news/140501.html

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

昭憲皇太后の祈り