昭和天皇 他 目次

※昭和天皇※
第124代天皇
1901(明治34)年4月29日-1989(昭和64)年1月7日
在位 1926(昭和元)年12月25日-1989(昭和64)年1月7日
迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王

昭和天皇の最期 文藝春秋2009年2月号

終戦の詔勅
終戦時の手紙 新潮45 1986年5月号
昭和天皇 東条元首相を称賛 毎日新聞平成7年(1995年)3月19日
昭和天皇 御巡幸 2016年5月26日・他
昭和天皇実録 平成26年2014年)9月~
富田メモはなぜ今流出したか? 週刊ダイヤモンド2006年8月5日号
昭和の日 あの一体感取り戻したい 産経新聞平成20年4月29日
次代への名言 産経新聞平成21年1月7日

天皇独白録落札 2017年12月7日・2018年2月19日
小林忍侍従日記 2018年8月24日
昭和天皇 日記執筆か 河北新報平成30年8月24日
昭和天皇の直筆原稿見つかる 朝日新聞平成31年1月1日他
昭和天皇「拝謁記」 NHK令和元年8月16日他

※香淳皇后※
昭和天皇の皇后
1903(明治36)年3月6日 - 2000(平成12)年6月16日
久邇宮良子(くにのみやながこ)女王→裕仁親王妃(皇太子妃)→昭和天皇皇后→皇太后→香淳皇后

昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について
 平成21年12月4日/平成25年4月3日/平成28年9月23日
甘えるミーコに皇后さまにっこり 毎日新聞平成23年1月6日(出来事は1973年4月10日)


※明治天皇※
第122代天皇
1852年11月3日(嘉永5年9月22日)- 1912(明治45)年7月30日
在位1867年1月30日(慶応2年12月25日)-1912(明治45)年7月30日
祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王

明治天皇 2011年3月24日



※昭憲皇太后※
明治天皇の皇后
一条美子(いちじょう はるこ)
実子はなかったが、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。

昭憲皇太后の祈り 2014年4月4日
昭憲皇太后崩御百年 2014年4月2日~26日


※大正天皇※
第123代天皇
1879(明治12)年8月31日 - 1926(大正15)年12月25日
在位1912(明治45)年7月30日 - 1926(大正15)年12月25日
明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王

大正天皇 平成皇室論2009年7月


※貞明皇后※
大正天皇の皇后
九条節子(くじょう さだこ)

貞明皇后 2013年7月11日他

富田メモはなぜ今流出したか?

「『富田メモ』はなぜ今流出したか? 機密漏洩事件の本質をこそ見よ」
週刊ダイヤモンド2006年8月5日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 652
7月20日に「日本経済新聞」が「A級戦犯靖国合祀」「昭和天皇が不快感」と報じた
元宮内庁長官の故・富田朝彦氏のメモは、理解に苦しむものだ。
「富田メモ」には、1988(昭和63)年4月28日付で昭和天皇のご発言として
「A級(戦犯)が合祀されその上松岡、白取までもが」
「だから私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と走り書きされていた。
このメモをもって、「産経新聞」を除く各紙はほぼいっせいに、
昭和天皇は三国同盟に走り国を誤る元凶となった松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐イタリア大使を疎み、
A級戦犯の合祀に不快感を抱いていたと断定、“A級戦犯”を分祀すべきだという論調に傾こうとしている。
しかし、その解釈は天皇を究極的に貶めるものである。
「富田メモ」は、“A級戦犯”合祀に関して靖国神社の故・筑波藤麿元宮司は慎重だったが、
合祀に踏み切った後任の故・松平永芳元宮司は怪しからんと怒っておられる天皇のお姿を想像させる。
だが、筑波宮司がA級戦犯の合祀に反対で松平宮司のみが積極的だったというのは、事実に反する。
このような思い違いが目立つ「富田メモ」を全面的に信頼することはできない。
このメモから浮かび上がる天皇像にも違和感を抱く。あの不当な東京裁判で、
自らの命を差し出すことによって天皇と皇室を守り、日本国を守ったのが“A級戦犯”だった。
そして昭和天皇もまた、ご自分の命を差し出して日本国と国民を守ろうとした。
マッカーサーに対し、ご自分の運命はどうなってもよい、すべての責任はご自分にあると述べられ、
いっさいの弁明をなさらなかったのは周知のとおりだ。
他人への責任転嫁をなさらない昭和天皇が、「富田メモ」ではおよそ正反対の姿である。
これははたして真の姿なのか。88年4月当時の昭和天皇は体調も悪く、メモのようなご発言があったとしても、
ご自分の真意を十分に伝えることができていなかったのではないかと思えてならない。
そして、メモはなぜ今になって流出したのか。国家機密保持の観点から問題の根の深さを指摘するのが、
京都大学教授の中西輝政氏である。氏は、宮内庁長官だった富田氏が職務として昭和天皇のお近くに仕え、
そこで入手した情報を書きつけた「富田メモ」は、まぎれもない公文書であると指摘する。
「富田メモの公開に関しては、まず陛下の許可が必要です。
しかし、陛下は私人ではありませんから宮内庁の許可が必要です。
宮内庁は同メモの発表には関知していないと言っています。
富田さんのご家族はプライバシーを公表される側の許可をまったく取らずに公表したわけで、
こんなことが許されると考えたのでしょうか」
現在の日本では、個人情報について行き過ぎた規制が行なわれている。
事件や事故で病院に運ばれた人の病室さえも、個人情報だといって教えない病院が増えているなかで、
天皇の情報が長官メモのかたちで流出したことの異常さに気づかなければならない。
庶民と異なり、多くの人が公私にわたって日々お仕えしなければ、天皇家の生活は成り立たない。
お仕えする人びとがメモを取って、内容を確認することも合意を取りつけることもなく公表すれば、
皇室を守るべき人びとは恐るべき暴露者になる。
皇族の方がたにとって周囲がすべて敵になり、皇室は存続できないだろう。
中西氏は、「富田メモ」は欧米では公文書と見なされると指摘する。となれば、富田氏は退職後、
公文書を自宅に退蔵し、それを今回、富田家が私的に流用したことになる。
この種のことは英国では「公的機密保護法」で10年以上の懲役刑に処せられると、中西氏は言う。
宮内庁始まって以来の大スキャンダルが示す、日本という国家体制のあまりの不備、
驚くべき機密漏洩事件の本質をこそ見なければならない。

昭和天皇「拝謁記」

昭和天皇「拝謁記」入手 語れなかった戦争への悔恨
2019年8月16日 19時00分

天皇陛下の祖父、昭和天皇の実像に迫る第一級の資料です。
NHKは初代宮内庁長官が5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。
その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、
終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、
国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、
当時の吉田茂総理大臣の反対で、その一節が削られていたことがわかりました。
分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、
これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。

繰り返し語る後悔の言葉
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、
戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、
宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。
田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、
昭和天皇との具体的なやりとりや、そのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、
NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。
その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、
軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、
「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで
最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと
後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

強くこだわった「反省」
さらに昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、
日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、
二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、
昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字を
どうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)
「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、
「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すれば
わるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も
今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

削除された戦争への悔恨
当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。

田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、
「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」
などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、
最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、
もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、
勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、
遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、
国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、
安からぬものがあります」という部分です。
このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと
強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

専門家「現代生きる者にも重い記録」
「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は
「戦争を回顧し、重要な局面でなぜミスをしてしまったのか、
繰り返し考え話す中で、独立回復の際のおことばにも、
やはり反省を盛り込みたいという気持ちが強くなっていったのだろう」と述べました。
そのうえで、「新憲法ができてから初めて、ある程度踏み込んだ発言ができるかもしれないチャンスが
講和条約発効のおことばだった。反省なりおわびをして、
どこかで戦争の問題にけりをつけたいということが出発点であり、
一番の動機だというのははっきりしている」と指摘しました。

さらに、「象徴天皇としてどういう振る舞い方をするかということを学習した過程でもあるだろうが、
昭和天皇個人にとっては苦渋の過程というか、今後ずっとこうやっていかなきゃいけないのかということを
認識させられた苦い思い出の方が大きかったのではないか。
その後、記者会見で、肝心なことは『言えない』で通したことが、
このときの苦渋の思いを引きずっていたことの表れなのだと思う。
そういう意味で昭和天皇にとって、とても重い体験だったのではないか」と述べました。
また、「拝謁記に出てくることは全部、結局は日本が無謀な戦争を起こして負けてしまったことにつながる。
天皇のあり方が戦前の主権者から象徴へと変わったのも、
政治関与を厳しく制限する規定ができたのも、敗戦がきっかけで、
しかも形式的な責任者は昭和天皇本人だった」と話しました。
そして、「拝謁記は、昭和の戦争というものは現代に生きるわれわれにまで
いろいろな意味で重くのしかかっているということを改めて認識させる記録、
忘れてはいけないということを語りかけてくれている記録ではないか」と話しました。

専門家「発言をほぼそのまま記録 非常に珍しい」
日本の近現代政治史が専門で、一橋大学の吉田裕特任教授は
「昭和天皇の肉声の記録は『昭和天皇独白録』のような、形を整えるために後から手を入れたものが多いので、
発言をほぼそのまま記録しているというのは非常に珍しい」と指摘しました。
そして、「昭和天皇と側近の内輪のやりとりが非常に克明にかなりまとまった形で残されているという点で
非常に重要な資料だ。昭和天皇の肉声が聞こえてくるし、
天皇自身の考えの揺らぎみたいなものが伝わってくる」と話しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190816/k10012038471000.html


昭和天皇「象徴像」を模索 国民との結び付きに心傾け
2019.8.19 18:14
昭和天皇との詳細な面会内容を記した初代宮内庁長官、田島道治(みちじ)氏による「拝謁記」が19日、
明らかになった。主に昭和20年代後半の面会の記録には、
新憲法下で「象徴」として歩み出した昭和天皇が、国民との距離を縮めようとする発言が多く残されていた。
上皇さまと天皇陛下のご姿勢に連なる象徴像を模索する様子が見て取れる。
「従来政治軍事中心であつたのを今度ハ文化中心で(中略)国民との接触を謀らねばならんと思ふ」-。
昭和天皇は26年1月24日、田島氏にそう決意を述べたと記される。
その後も「兎ニ角(とにかく)皇室と国民との関係といふものを
時勢ニあふ様ニしてもつとよくしていかなければと思ふ」(同10月10日)といった発言のほか、
田島氏に「何か皇室と国民との理想的結びつきに行く様研究し骨折つて欲しい」(同)と依頼したこともあったという。
昭和天皇は21~29年にかけて全国巡幸を行い、戦禍で傷ついた国民を励ましたが、
地方訪問について「皇室と国民との接近を害するやうになつても困る」
「折角出掛けても逆の印象を与へる事ニなるから困る」(27年2月25日)とも発言。
米軍や警察の厳重な警備が、国民との触れ合いの壁となることへ懸念を示していた。
一方、やり取りの中では、新憲法下で国政に関する権能を持たない「象徴」の枠を超えた発言もみられた。
再軍備や憲法改正に関する意見を当時の吉田茂首相に伝えることを提案したものの、
田島氏から新憲法の理念などの説明を受け、止められる様子が記載されていた。
日本大の古川隆久教授(日本近現代史)の話「質、量ともに膨大で、
昭和天皇の肉声とも言える言葉が生々しく描かれている。戦争の苦い追憶が多く、
昭和天皇は戦後も戦前・戦中を生きていたことがうかがえる。
首相へ意見を述べようとする場面などは、新憲法を頭では理解しながらも
『自分が何とかしなければ』という思いがあったのだろう。象徴天皇を模索する過程での葛藤や悩みが分かる資料だ」
https://www.sankei.com/life/news/190819/lif1908190031-n1.html


東京裁判後も退位に言及
「拝謁記」の記述からは、敗戦後の退位をめぐる問題が決着したとされていた東京裁判の後にも、
昭和天皇が「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と語るなど、
退位の可能性にたびたび言及していたことがわかりました。
分析にあたった専門家は「本当に皇室が国民に認められるかどうかがすごく気になっていて、
存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘しています。

昭和天皇の退位の問題をめぐっては、これまでの研究で、昭和23年11月の東京裁判の判決に際し、
昭和天皇が連合国軍最高司令官のマッカーサーに手紙を送り、
退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えたことで決着したとされてきました。
しかし、「拝謁記」には、判決から1年が過ぎた昭和24年12月に、
昭和天皇が田島長官に「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ又退位等ノ論が出テ
イロイロノ情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」と退位の可能性に言及し、
当時皇太子だった上皇さまを早く外遊させてはどうかと述べたと記されていました。

また、サンフランシスコ平和条約の調印が翌月に迫った昭和26年8月には、
「責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は
私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易である」と、
退位した方がむしろ楽だと語ったと記されています。

「国民が退位を希望するなら少しも躊躇せぬ」
さらにその4か月後の拝謁でも、
「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と述べたと記されています。

分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は
「辞めたほうが気が楽になるというのが昭和天皇の偽らざる本心だったと思う。
位にとどまることが本当に皇室が国民に認められていくことにプラスになるかどうかがすごく気になっていて、
存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1&diary=2


「象徴」への模索も明らかに
「拝謁記」には、戦後の日本国憲法で「君主」から「象徴」となった昭和天皇が
自ら変わろうとする一方で、君主としての意識を払拭できずに、
時に政治的な発言をしていさめられるなど、象徴天皇像を模索する姿が克明に記されていました。
分析にあたった専門家は「象徴天皇の行動のあり方が決まっていく現場がわかる貴重な資料だ」と指摘しています。

象徴への決意
戦後、日本国憲法によって「君主」から「象徴」となった昭和天皇は、
「私ハ象徴として、自分個人のいやな事は進んでやるやうに心懸ける
又スキなやりたい事ハ一応やめる様に心掛けてる」とか、
「兎に角(とにかく)皇室と国民との関係といふものを時勢ニあふ様ニして
もつとよくしていかなければと思ふ。私も微力ながらやる積りだ。
長官も私の事で気付いたらいつてくれ」などと語ったと記され、「象徴」として、自らも変わりながら、
国民との新しい関係を築いていく決意を繰り返し示していたことがわかりました。
また、国民との距離を縮めることに心を配り、昭和27年2月25日の拝謁で、
地方訪問の際の警備の強化が話題になると、「その為に折角の皇室と国民との接近を害するやうになつても困る/
あまり厳重過ぎると折角出掛けても逆の印象を与へる事ニなるから困る
その辺のかねあひが六ヶ(むつか)しいネ」と述べたと記されています。

政治的発言も
その一方で、昭和28年3月12日の拝謁では、新しい憲法で政治への関与を厳しく制限されたにも関わらず、
保守陣営が分裂していた当時の日本の政界について、
「真ニ国家の前途を憂うるなら保守ハ大同団結してやるべき」などと述べ、
田島長官に「新憲法でハ違反になります故、国事をお憂へになりましても
何も遊ばす事ハ不可能であります」と釘を刺されるなど、
政治的な発言をいさめられる場面が、繰り返し記されています。

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は
「憲法で抽象的に規定された象徴天皇とは具体的に何ができるのかという応用問題を実際に解いてく過程で、
どんな葛藤や悩み、議論があったのかというのは、この拝謁記を見るまではわからなかった。
田島が象徴天皇の最初の段階の姿を決めたキーマンだったことや、
実際に象徴天皇の行動のあり方が決まっていく現場がわかる貴重な資料だ」と指摘しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1&diary=3


東西冷戦下 再軍備や改憲にも言及
「拝謁記」には、独立回復後の安全保障が現実的な課題となる中で、
昭和天皇が戦前のような軍隊を否定しつつも、再軍備やそれに伴う憲法改正の必要性にたびたび言及し、
総理大臣に伝えないよう長官にいさめられる様子が記されていました。
分析にあたった専門家は「昭和天皇が改憲や再軍備に言及していたことは新たな発見だが、
自衛隊的なものを作ることを憲法上認めるというものであり
戦前の軍隊を再現する気が全くないということは押さえておかなければならない」としています。

「軍備の点だけ公明正大に…」
「拝謁記」には、東西冷戦が激しさを増す中で、ソ連の侵略を現実的な脅威と認識し、
危機感を募らせる昭和天皇の様子が記録されていて、サンフランシスコ平和条約の調印から
5か月が経過した昭和27年2月11日に、昭和天皇が田島長官に対して、
「私は憲法改正ニ便乗して 外(ほか)のいろ/\(いろ)の事が出ると思つて否定的ニ考へてたが
今となつては他の改正ハ一切ふれずに 軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいヽ様ニ思ふ」と
再軍備と憲法改正の必要性について言及したと記されています。

「旧軍閥の再抬頭は絶対にいや」
昭和天皇は、その一方で、戦前の軍隊や軍閥の復活はかたくなに拒む姿勢を示していて、
日本が独立を回復した直後の昭和27年5月8日の拝謁では、
「私は再軍備によつて 旧軍閥式の再抬頭(たいとう)は絶対にいやだが
去りとて侵略を受ける脅威がある以上 防衛的の新軍備なしといふ訳ニはいかぬと思ふ」と語ったと記されています。

「拝謁記」には昭和天皇がこうした再軍備や憲法改正についての考えを
当時の吉田茂総理大臣に直接伝えようとして、田島長官がいさめる様子が記されています。

昭和27年3月11日の拝謁では、昭和天皇が「警察も医者も病院もない世の中が理想的だが、
病気がある以上は医者ハ必要だし、乱暴者がある以上警察も必要だ。
侵略者のない世の中ニなれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上 
軍隊ハ不得已(やむをえず)必要だといふ事ハ残念ながら道理がある」と述べたのに対し、
田島長官は「その通りでありまするが憲法の手前そんな事ハいへませぬし最近の戦争で
日本が侵略者といはれた計(ばか)りの事ではあり、それは禁句であります」と 苦言を呈したと記されています。

また、昭和天皇は、昭和28年6月17日の拝謁で、石川県内灘(うちなだ)の米軍基地反対闘争に触れ、
「日本の軍備がなければ米国が進駐してヽ 守つてくれるより仕方ハないのだ
内灘の問題なども その事思へば已むを得ぬ現状である」と述べたとされています。
昭和天皇は、国防をアメリカに頼る以上は、基地の提供もやむをえないという認識を繰り返し示していて、
基地反対運動に批判的な見解を語ったことも記されています。

専門家「新たな発見だが旧軍には批判的」
「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は
「昭和天皇が改憲や再軍備に言及していたことは新たな発見だが、
改憲と言っても自衛隊的なものを作ることを憲法上認めるということで、
国民主権や象徴天皇の枠組みを変えるところまではいっていない。
昭和天皇は旧軍にものすごく批判的で、同じような軍隊を再現する気が全くないということは
きちんと押さえておかなければならない」と指摘しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1&diary=4


歴代総理大臣の人物評繰り返す
「拝謁記」には、当時の吉田茂総理大臣について「吉田ハカンで動く人間ハ六ヶ(むつか)しいね」と述べるなど、
昭和天皇から見た歴代総理大臣の人物評が頻繁に記されています。

近衛文麿と東條英機
特によく出てくるのが、日中戦争開戦や御前会議で対米戦争の方針を実質的に決めた際、
総理大臣を務めていた近衛文麿と、その後任で、太平洋戦争開戦時の総理大臣として戦後、
A級戦犯として処刑された東條英機です。
昭和27年5月28日の拝謁では、昭和天皇は自らは事務的な人間であり、
同じように事務的な人間と相性がよかったとしたうえで、近衛と東條を比較し、
「近衛はよく話すけれどもあてニならず、いつの間ニか抜けていふし、
人はいかもの食ひで一寸(ちょっと)変つたやうな人が好きで、之を重く用ふるが、
又直(じ)きにその考へも変る。政事家(せいじか)的といふのか知らんが事務的ではない。
東條ハ之ニ反して事務的であつたそして相当な点強かつた。強かつた為に部下からきらはれ始めた」と語ったと記され、
別の機会には、「近衛と東条との両長所が一人ニなればと思ふ」などと述べたと記されています。

芦田均と吉田茂
一方、戦後の総理大臣では、田島を宮内府の長官に任命した芦田均と、
その後、長く政権を担った吉田茂との対比が多く登場します。
昭和26年5月23日の拝謁では、田島長官が吉田について勘で決めたことを強く押し通す人物だなどと話したのに対し、
昭和天皇は「芦田は其点よろしい。理論ぜめで少しぎこちないが行き届く。
研究した結果道理でおして、一寸(ちょっと)きつすぎる場合もあるが事態はちやんと研究する。
吉田ハカンで動く人間ハ六ヶ(むつか)しいね吉田と芦田との長所が一人だとよい」と述べたと記されています。

「独自視点から人々を判断」
分析にあたった成城大学の瀬畑源非常勤講師は「昭和天皇は人物評が好きだった。
事務的な人物が好きで論理的に話が通じる人の方が、波長が合う一方、やや流されやすいというか、
感情的になりやすい人物に対してはあまり評価が高くない。
国というレベルで物事を考えて人を見ているということでは、
昭和天皇は他の人にはない視点から人々を判断しているので、
当時の人たちを複眼的に見てその評価をもう一回考え直すきっかけや手がかりになると思う」と話しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1&diary=5


「拝謁記」とは
「生々しい肉声 超一級の資料」
今回見つかった「拝謁記」は初代宮内庁長官の田島道治が、日記とは別に、
昭和天皇などと面会した際のやり取りなどを記録していたもので、長年遺族の元で極秘に保管されていました。

18冊の手帳とノート
宮内府の長官に就任した半年後の昭和24年2月から長官を退いた昭和28年12月までの
4年10か月余りの間の拝謁の記録が、手帳とノート合わせて18冊に記されています。
このうち6冊は小型の手帳や日記帳で、欄外や余白部分にまで細かい文字がびっしりと書き込まれていて、
12冊はより大きなA5やB5サイズのノートに記されています。
手帳や日記帳の形をしているものは、いずれも冒頭部分に「拝謁記」というタイトルと記録の期間が書かれています。
また、ノートの一部には表紙に赤鉛筆で「マル秘」と書かれています。
一部原本が残っていない時期がありますが、遺族が「拝謁記」の内容を24冊のノートに書き写して保存していたため、
こうした時期のやり取りもうかがうことができます。

昭和天皇の発言だけでなく、相対している田島長官の発言や田島長官がその時感じたことなども含めて
2人の対話の流れをそのまま追える形で書かれているのが大きな特徴です。

また、拝謁の日付だけでなく、開始と終了の時間や場所のほか、同席者の有無、
天皇から呼ばれた「御召し」か長官から面会を求めた「願出(ねがいで)」かなど、
その時々の状況も詳しく記録されているため、長い時間をかけて
昭和天皇と田島長官の間で交わされたやり取りが、その場の雰囲気も含めて手に取るようにわかります。

専門家「生々しい肉声 超一級の資料」
「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は
「詳しくて生々しい昭和天皇の肉声がいっぱい書かれているので非常に驚いた。
発言の要旨ではなくほとんど昭和天皇がしゃべったままの言葉が書かれていると思う。
昭和天皇の肉声をこれほど継続的に詳しく記録した資料は他に例がなく、
今後昭和史を研究する上で超一級の基本資料になる」と話しています。

拝謁の記録は600回 300時間超
「拝謁記」には合わせて622回の拝謁が記録されていて、このうち99%にあたる613回が昭和天皇への拝謁でした。
そのほとんどにあたる563回は場所が明記されていて、
それ以外についても他の記録と突き合わせることで場所が特定できるものもあります。

拝謁の場所で最も多かったのは、当時宮内庁の庁舎内にあり、
昭和天皇が公務のために使っていた部屋「御座所(ござしょ)」で334回、
次いで、戦時中に作られた防空施設で、空襲のため宮殿が焼失したあと
戦後長く昭和天皇が住居として使っていた「御文庫(おぶんこ)」が175回、
葉山御用邸が32回、那須御用邸が12回などとなっています。
中には、地方巡幸に向かう特別列車の車内や訪問先の宿舎などでのやり取りの記録もありました。
拝謁は短い時で数分、長いときには2時間にも及び、記録された面会時間を足し上げると330時間を超えます。

9割は「昭和天皇実録」に記載なし
「拝謁記」の発見によって今回判明した昭和天皇と田島長官のやり取りのほとんどは、
これまで全く知られていなかったものです。
宮内庁は、昭和天皇の活動を後世に伝えるため、公文書をはじめ未公開の日誌や側近の日記、
それに外交や防衛関連の文書などおよそ3000件にのぼる資料をもとに、24年5か月かけて61巻、
1万2000ページ余りにおよぶ公式記録集「昭和天皇実録」を編さんし、5年前に公開しました。

昭和天皇実録
田島家に残されていた資料のうち、長官在任中の日記や文書などはこのとき宮内庁に提供され、
昭和天皇実録のさまざまな記述の典拠として使われました。
しかし、「拝謁記」については極秘に保管されていたということです。
このため、「拝謁記」に記録されている昭和天皇と田島長官の拝謁のうち実録に記載があるのはわずか1割に過ぎず、
その部分も交わされた会話の詳しい内容はほとんど記されていません。

「空白期」埋める貴重な資料
「拝謁記」の分析を担当した近現代史の専門家たちは、「田島の拝謁記にはこれまで資料が乏しかった
占領期の昭和天皇の肉声がこれ以上期待できないほどの質と圧倒的な量で記録されていて、
今後占領期の日本や象徴天皇制の成り立ちを研究するうえで根幹をなす貴重な資料だ」と指摘しています。
昭和天皇の肉声を記録した資料は、戦前や戦中については宮内大臣や内大臣を務めた牧野伸顕の日記や、
戦時中に内大臣を務め戦後A級戦犯として終身禁錮刑の判決を受けた木戸幸一の日記などがあり、
研究も進んでいます。
しかし戦後のものは多くなく、このうち、戦後間もない頃に侍従次長を務めた木下道雄の「側近日誌」には、
当時の宮中の状況や昭和天皇の肉声が克明に記録されていますが、その期間はわずか半年余りです。
また、戦中から昭和60年まで側近として昭和天皇を支え、侍従長も務めた入江相政が
50年余りにわたってほぼ毎日つけていた日記も残されていますが、占領期については、
まだ若手の侍従の1人にすぎなかったため、重要な場面に関する記述や昭和天皇の肉声の記録はほとんどありません。
このほか、昭和天皇が戦争に関する出来事を回想し、側近に書き取らせた「昭和天皇独白録」もありますが、
東京裁判対策のために作られたこともあり、その内容は限定的です。

昭和天皇独白録
戦後の占領期は断片的な資料しかない、いわば「資料の空白期」で、
昭和天皇の戦争責任や政治への関与に関する新事実は、
アメリカ側の資料によって少しずつ明らかにされてきたのが実情です。

9か月かけ10人超える専門家と分析
NHKは、日本近現代史が専門の第一線の研究者に協力を求め、
およそ9か月かけて遺族から提供を受けた「拝謁記」などの資料の解読と分析を進めてきました。
分析を主に担当したのは「昭和天皇『理性の君主』の孤独」などの著書がある
日本大学の古川隆久教授をはじめ、志學館大学の茶谷誠一准教授、成城大学の瀬畑源非常勤講師、
京都大学大学文書館の冨永望特定助教の4人のチームです。
それ以外に、4人の若手研究者が膨大な記述の解読作業をサポートしたほか、
昭和天皇実録の編さんに関わった元宮内庁職員や政治史や軍事史などが専門の複数の研究者、
それに海外の識者にも「拝謁記」や関連資料の評価などについて意見を求めました。
「拝謁記」の分析には合わせて10人を超える専門家が関わっています。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/about-diary-01.html


初代宮内庁長官 田島道治氏
田島道治は、日本国憲法施行の翌年の昭和23年6月、
宮中改革を進めたいGHQ=連合国軍総司令部の意向を受けた当時の芦田均総理大臣に任命され
宮内庁の前身の宮内府の長官に就任しました。

戦後初めて民間から長官に
学生時代は国際親善と平和を説いた新渡戸稲造に学び、地元愛知県の銀行に勤務したあと、
31歳から2年ほど鉄道院総裁だった後藤新平の秘書などを務め中央官僚としての経験を積みました。
その後、新渡戸や後藤らとともに欧米への外遊も経験しました。
外遊後は地元愛知の銀行に戻りましたが、40代から50代にかけては再び東京に移って
昭和銀行の頭取として金融恐慌後の銀行の建て直しに尽力し、
その手腕を買われて初めて民間から宮内府の長官に登用されました。
当時の日本は、まだアメリカ軍など連合国軍の占領下で、昭和天皇は連合国が戦争指導者を裁く
極東国際軍事裁判いわゆる「東京裁判」での訴追は免れていましたが、
判決が近づくにつれて内外で退位を求める声が上がっていました。
長官就任当時63歳だった田島は、こうした状況の中で天皇の退位問題への対応や連合国側との折衝にあたり、
日本の独立回復をはじめ、当時皇太子だった上皇さまの教育や
初めての外国訪問など様々な難局で昭和天皇を支え続けました。
また、長官を退いたあとも皇太子妃選定のメンバーの1人として、
初の民間出身の皇太子妃の誕生に深く関わるなど、戦後の皇室の基礎を築きました。
田島は日銀の参与やソニーの会長を歴任するなど晩年まで経済人として活躍し、昭和43年に83歳で亡くなりました。

「焼却される寸前だった」
戦後間もない時期、祖父 田島道治と同じ家で暮らし
その後も20代半ばごろまで一緒に過ごしたという孫の田島圭介さんは
「祖父はすごく頭が鋭くて、自分に対しても他人に対しても非常に厳しい人でした。
記憶力が抜群で、以前と違うことを言うとすぐ気付いて怒られました。
しかもそれは最期まで衰えませんでした」とその人柄を振り返りました。
そのうえで、「拝謁記の筆跡は祖父のもので間違いありません。亡くなる直前まで、
病室の中でも日記をつけていたほどまめできちょうめんな人だったので、
昭和天皇と会うたびにこうした記録を詳細につけていたのは祖父らしいと思います」と話しました。
さらに、晩年入退院を繰り返していた田島道治が、身辺整理のため「拝謁記」を焼却処分しようとした際、
圭介さんの叔父が寸前で気付いて止めたエピソードを明かし、
「決して悪いようには取り扱わないから焼かないで残しなさいと説得して、
かろうじて焼却は免れた」と語りました。
そして、「当時はまだ昭和天皇がご存命だったので、拝謁記を燃やそうとしたこともわかるし、
それを止めたことも理解できます。祖父が説得を受け入れて焼却をやめたということは、
いずれ歴史の1つとして拝謁記を公にすることを受け入れたのだと考え、
今回、内容の公開を決意しました」と述べました。
さらに、「祖父は自分が目立つのがとても嫌いな人だったので、『余計なこと言うなよ』って
天国からどなられるかもしれませんね」と話しました。
田島家では、今後、「拝謁記」など残された資料を公的機関に移し、いずれ公開することにしています。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/about-diary-02.html


終戦から独立回復 昭和天皇を取り巻く状況
田島道治が長官を務めた時期は、新しい憲法のもと再スタートを切った日本が
アメリカ軍など連合国軍の占領下から脱して独立を回復していった激動の時代です。

「人間宣言」から「象徴」へ
昭和20年の敗戦後、連合国軍によって日本の非軍事化と民主化が推し進められ、
皇室財産の凍結や国家神道の廃止などの改革が次々に打ち出されるとともに、戦争犯罪の追及が行われました。
こうした中、昭和天皇はいわゆる「人間宣言」を行って、みずから神話と伝説に基づく神であることを否定し、
全国各地を巡幸して人々とふれあう中で、新たな天皇像を模索し始めます。
そして、統治権を総覧する君主であり陸海軍を率いる大元帥だった天皇は、
昭和22年の日本国憲法の施行によって政治的な権能を奪われ「象徴」となりました。
連合国側は、極東国際軍事裁判いわゆる「東京裁判」で天皇を訴追しないことを決めましたが、
昭和23年秋の判決が近づくにつれて再び内外から退位を求める声が上がりました。
昭和天皇は東京裁判の判決に際して連合国軍最高司令官のマッカーサーに手紙を送り、
退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えましたが、このことは当時は公にされませんでした。

西側陣営で国際社会復帰へ
戦後の日本の政界では東西冷戦構造を背景に革新勢力が躍進し、
一時は社会党が政権を担いましたが、いずれの政権も長く続かず混迷が続いていました。

田島の長官就任の4か月後に吉田茂が再び政権を担うようになると、日本は東西冷戦が厳しさを増す国際情勢の中で、
西側陣営の一員として国際社会復帰を目指す道を選びました。
独立回復に向けて再軍備や憲法改正の議論が高まる中、昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発すると
連合国軍は対日政策を転換。日本を「反共の防波堤」と位置づけて、
警察予備隊の組織やいわゆる「レッドパージ」、それに旧軍人らの公職追放解除など、
「逆コース」と呼ばれる政策を進めました。
朝鮮戦争が激化する中で、占領軍トップのマッカーサーは解任され、
後任のリッジウェイのもとで昭和26年9月にサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が調印されました。
そして、翌昭和27年4月28日、昭和天皇の51歳の誕生日の前日に7年近くに及んだ占領が終わり、
日本は独立を回復しました。

平和条約発効記念式典とは
日本の独立回復を祝う「平和条約発効並びに日本国憲法施行五周年記念式典」は、
昭和27年5月3日、皇居前広場で開かれました。
昭和天皇は香淳(こうじゅん)皇后とともに壇上に上がり、
当時の吉田茂総理大臣や衆参両院の議長の祝辞に続いて、およそ4万人の群衆を前におことばを述べました。
この中で昭和天皇は、初めて公の場で退位を否定して、引き続き国民とともに歩むことを明らかにし、
当時の新聞は「退位説に終止符」「決意を新たに独立を祝う」などと報じました。
一方で、当初国民に伝えたいと考えていた戦争への悔恨と反省の気持ちを込めたメッセージが
発せられることはなく、これまでこのときのおことばは「退位説を否定したおことば」と位置づけられてきました。
宮内庁が編さんした公式記録の「昭和天皇実録」には、
昭和天皇のおことばのあと都議会議長の発声で「日本国万歳」が三唱されると、
昭和天皇も香淳皇后とともに両手を高く挙げて万歳を唱和し、
式典を後にする際には一般の参列者から期せずして起こった「天皇陛下万歳」の声に対し、
シルクハットを掲げて応えたと記されています。

平和条約発効式典おことば
平和条約は、国民待望のうちに、その効力を発し、ここにわが国が独立国として
再び国際社会に加わるを得たことは、まことに喜ばしく、
日本国憲法施行五周年の今日、この式典に臨み、一層同慶の念に堪えません。
さきに、万世のために、太平を開かんと決意し、四国共同宣言を受諾して以来、
年をけみすること七歳、米国を始め連合国の好意と国民不屈の努力とによって、
ついにこの喜びの日を迎うることを得ました。
ここに、内外の協力と誠意とに対し、衷心感謝すると共に戦争による無数の犠牲者に対しては、
あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します。
又特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびせざることを、
堅く心に銘すべきであると信じます。
今や世局は非常の機に臨み、前途もとより多難ではありますが、いたずらに明日を憂うることなく、
深く人類の禍福と、これに対する現世代の責務とに思いを致し、同心協力、事に当るならば、
ただに時難を克服するのみならず、新憲法の精神を発揮し、
新日本建設の使命を達成し得ること、期して待つべきであります。
すべからく、民主主義の本旨に徹し、国際の信義を守るの覚悟を新たにし、
東西の文化を総合して、国本につちかい、殖産通商を振興して、民力を養い、
もって邦家の安栄を確保し、世界の協和を招来すべきであると思います。
この時に当り、身寡薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、
負荷の重きにたえんことを期し、日夜ただおよばざることを、恐れるのみであります。
こいねがわくば、共に分を尽し、事に勉め、相たずさえて国家再建の志業を大成し、
もって永くその慶福を共にせんことを切望して、やみません。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/about-diary-03.html


分析に当たった専門家の評価
「拝謁記」の分析に当たった専門家は「昭和天皇の発言がほぼそのまま記され、
本音を読み取ることができる非常に貴重な資料だ」と高く評価しています。

「生々しい昭和天皇の本音」
日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「詳しくて生々しい昭和天皇の肉声が
いっぱい書かれているので非常に驚いた。発言の要旨ではなく
ほとんど昭和天皇がしゃべったままの言葉が書かれていると思う。
昭和天皇の肉声をこれほど継続的に詳しく記録した資料は他に例がなく、
今後昭和史を研究する上で超一級の基本資料になる」と指摘しました。
そして、「天皇の発言をきちんと記録しておこうという田島の気持ちが表れていて、昭和天皇と
しっかりコミュニケーションをとって仕事を進めることが大事だと考えていたことがわかる」と話しました。
そのうえで、「天皇の1人語りや断片的なメモではなく、2人の対話がそのままの形で克明に記録されているため、
天皇がどのような文脈で発言しているのかが非常に明瞭にわかるのが大きな特徴だ。
解釈の幅があまりなく、議論の余地なくわかる資料だという意味でも珍しい存在だ」と指摘しました。
さらに、「外に見せるために作ったり調整したりしたものではなく、
あくまでも信頼できる側近との対話の記録なので、ここに書かれていることは生々しい昭和天皇の本音だと思う。
田島長官の思いや意図もきちんと書いてあるので、
それとセットで組み合わせて本音を読み取っていくことが大事だ」と話しました。

「天皇の考えの揺らぎ伝わる」
日本の近現代政治史が専門で一橋大学の吉田裕特任教授は
「昭和天皇の肉声の記録は『昭和天皇独白録』のような、形を整えるために後から手を入れたものが多いので、
発言をほぼそのまま記録しているというのは非常に珍しい」と指摘しました。
そして、「昭和天皇と側近の内輪のやりとりが非常に克明にかなりまとまった形で残されているという点で
非常に重要な資料だ。昭和天皇の肉声が聞こえてくるし、
天皇自身の考えの揺らぎみたいなものが伝わってくる」と話しました。

「一言一句の記録 見たことない」
志學館大学の茶谷誠一准教授は「昭和天皇の発言を一言一句克明に書き残している。
占領期から独立回復後の動きを追える資料がなかなかない中で、このような資料は見たことがなく、
専門の研究者から見てもとても貴重な第一級の資料だ。1冊手にとって何ページか開いただけでも
それがわかるほどの価値ある資料が、これだけまとまった期間残されているのでさらに貴重だ」と述べました。
そのうえで、「5年前に宮内庁が昭和天皇実録を公開した際、
どれだけ多くのことがわかるかと期待していてそうでもなく拍子抜けしたが、
この拝謁記からは戦後の混乱期における天皇と宮中の動向を細かいところまでうかがい知れる」と話しました。

「生身の昭和天皇 衝撃的な資料
京都大学大学文書館の冨永望特定助教は「昭和天皇の肉声が話し方の癖まで細かく書かれていて、
よくぞこれだけ書き残してくれたというのが率直な感想だ。
昭和天皇もやはり感情を持った生身の人間だったということがよく伝わってくる、
本当に衝撃的な資料だ」と述べました。そのうえで、「単に天皇が話したことを記録したのではなく、
2人の対話が記録されている点が大きな特徴だ。昭和天皇の発言だけでなく、
田島長官の発言や考えもたくさん書かれているので、昭和天皇が田島との対話の中で
どのように自分の考えを決めていったのかよくわかる」と話しました。
さらに「量が圧倒的で、田島の考えと天皇の発言とが明確に区別されているので、
田島が記録者として非常に良心的であったと言え、間違いなくこれは質、量ともに
最上級の資料だ」と指摘しました。また、「当時天皇がどのようなことを考えていたのかという点で
新事実が多いが、日本国憲法のもとで天皇はどのような位置にあるかということを、
繰り返し模索していたことがわかる資料でもある」と述べました。
そして、「歴史は選択の積み重ねで、過去の選択の上に現代の我々の社会がある。
今後私たちが天皇にどのような役割を求め、皇室をどのように位置づけるかということを考えるうえで、
新憲法発足時の当事者がどのような選択をしていったのかを知ることは、
今後の私たちの選択をも左右する大きな指針になるだろう」と話しました。

「昭和天皇の本音がわかる貴重な資料」
成城大学の瀬畑源非常勤講師は「昭和天皇が本当は何を考えていたのかという本音の部分がわかる貴重な資料だ。
憲法が変わり天皇や皇室をめぐる制度が変わったということは昭和天皇もよくわかっていたと思うが、
それに順応しきれず昔のように政治家に色々言おうとするなど本音が克明に記録されている」と述べました。
さらに、「当時の社会についてどのように考え、どこを評価し、どこに不満があったのかなど、
昭和天皇の考え方もよくわかる。生身の人間としてどのような葛藤や苦しみがあったのかなど、
天皇個人の思想的なものもわかるので、ほかの資料とはかなり違う」と話しました。
そのうえで、「天皇制と国民や政治家とのあり方の転換期に関するこれだけ大きな資料が出てきたことは
非常に貴重だ。拝謁記の記述から、新憲法における象徴天皇が実は我々の見えないところで
葛藤を抱えながら色々なことをやってきたことがわかる。
それを土台に、象徴とはどうあるべきかを考えることが皇位継承や女性天皇の問題など
今後のことを考える材料になるだろう」と話しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/about-diary-04.html


昭和天皇「拝謁記」
―戦争への悔恨―
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1&diary=1


週刊文春デジタル
NHK 昭和天皇「新資料発見」は“スクープ偽装”だった
https://ch.nicovideo.jp/shukanbunshun/blomaga/ar1801751?ref=video_watch_html5_marquee


【主張】昭和天皇と戦争 反省と再軍備に矛盾ない
2019.8.26 05:00
戦後の昭和24年から28年にかけて、昭和天皇と田島道治(みちじ)初代宮内庁長官が
交わしていたやり取りの詳細な記録が明らかになった。
田島長官が18冊の手帳やノートに個人的に書き残していた「拝謁(はいえつ)記」である。
拝謁は600回以上にもわたる。
先の大戦などを経て、戦後の連合国による占領を体験されていた当時の、昭和天皇の「肉声」だ。
激動の時代の一級史料といえる。遺族から提供を受けたNHKが、その一部を公表した。
27年5月の日本の主権回復を祝う式典でのお言葉をめぐって、昭和天皇は先の大戦について
「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(同年1月11日)など、
悔恨の念を盛り込みたい意向を示された。だが、当時の吉田茂首相らの反対で草案から削られた経緯が分かった。
昭和天皇は、領土の一部を失ったことや、戦死傷者や日本への未帰還者など戦争の犠牲者のことを思われ、
主権回復について「少シモ喜ブベキデナイ」(26年7月26日)と、複雑な心境も語られていた。
日本や国民を第一に思われるお人柄が改めて分かる。
ご自身の戦争への反省、悔恨の念に加え、軍や政府、国民についても
「下克上(げこくじょう)とか軍部の専横を見逃す」(27年2月20日)など
「皆反省して繰返したくないものだ」(同)とも述べられていた。
その昭和天皇が、主権回復を前にした27年頃、日本の再軍備や
そのための憲法改正の必要性に言及されていた意味は極めて重い。
「再軍備によつて旧軍閥式の再抬頭(たいとう)は絶対にいやだが 去りとて侵略を受ける脅威がある以上 
防衛的の新軍備なしといふ訳ニはいかぬと思ふ」(同年5月8日)からで、
憲法改正についても「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいヽ様ニ思ふ」(同年2月11日)と指摘された。
戦争の反省と、再軍備の間に、矛盾はない。
昭和天皇は、この現実的な安全保障観を吉田首相に伝えようとされた。
日本の平和と国民の安全に心を砕かれていたからだ。天皇は「国政に関する権能を有しない」(憲法第4条)が、
現憲法でも日本の立憲君主である。命令ではないお考えを首相に内々に伝えることまで禁じられると解するのは行き過ぎだ。
田島長官のいさめで実現しなかったのは残念だった。
https://www.sankei.com/life/news/190826/lif1908260005-n1.html

昭和天皇三つの「逸脱」

昭和天皇三つの「逸脱」
明治帝から数えて三代目、立憲君主制の道を歩んだ昭和天皇は敗戦の憂き目を味わった。
英国のジョージ五世に「君臨すれども統治せず」の姿勢を学んだ昭和帝も、
ご生涯の中で三度だけ、ご自身の政治的意思を貫く場面があった。

第一の「逸脱」は昭和3(1928)年6月の「張作霖事件」である。
蒋介石の国民革命軍と戦っていた北軍総司令張作霖は奉天に向かう途次、列車が爆破され将軍は死んだ。
関東軍所属河本大作大佐が首謀者だった。
事件から半年後真相が判明し、軍の関係者に厳罰を期待した天皇の意向に反して
若槻礼次郎内閣の後首相となった陸軍大将田中義一は処罰をしなかった。
怒りを込めて天皇は「お前の顔は見たくない」と田中首相に辞職を迫る。
田中は辞職し、心労からか程なくして死んだ。天皇は後に言いすぎたと反省しているが、
これが自らが考える立憲君主の立場を逸脱した昭和天皇第一の行為である。
天皇が軍部を抑えきれなくなった背景には様々な要因が挙げられるが、
アメリカにおける排日移民法の成立を契機として日本の眼が中国大陸に振り向けられたことも
大きいといえるだろう。低賃金・悪環境下でも勤勉に働く日本移民の姿が、
先住白人たちの脅威となり「黄禍論」が起こった。アメリカに門戸を閉められ、
海外での成功に賭ける日本の民力は官僚や軍の力を巻き込み、捌け口を中国に向けた。
列強は既に富の収奪を中国に求めていた。北満州はロシアが牛耳った。
日清、日露両役を経て日本は南満州に利権を確立した。台湾から後藤新平が抜擢されて、
満州経営の実務機関、南満州鉄道株式会社の初代総裁に就任した。満鉄である。
軍部は勝手に動き出す。第一次上海事変を経て盧溝橋事件へ、
関東軍はさらに勝手気ままな行動を重ね、「天皇の御意」という形容語を冠していく。

第二の「逸脱」は二・二六事件である。
昭和11(1936)年2月26日、首都東京でクーデターが発生した。
岡田啓介首相の安否が一時不明となった。義弟松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりとなって死亡、
岡田は女中部屋に逃れて難を避けたのだが、首相秘書官迫水久常から受けた無事との通報後も
事態掌握に動いたのが昭和天皇だった。岡田が生存しているとわかると天皇は、
(1)真崎甚三郎を首班とする暫定内閣拒否(2)叛乱軍の即時討伐―を決意し、
最後までこの方針を堅持して一切の妨害や哀訴を受け付けなかった。
弘前師団の連隊大隊長として北にあった秩父宮は皇道派に近い軍人として上京、
天皇に意見を述べようとしたが、天皇は弟宮に会わなかった。天皇はいつも現にその職に
ある者を尊重し、かかわりがない人物の意見はもとめない。決起部隊うぃ叛乱軍として切り捨て、事件を収めた。
「今回のことは精神の如何を問わず甚だ不本意なり。国体の精華を傷つくるものと認める」との
陸相に与えたお言葉(侍従武官長本庄繁の『本庄日記』が生々しく記録されている。
下剋上を嫌うご性格は二・二六事件を「わが国の歴史を汚すもの」と厳しく評価し、
本庄には「陸軍は私の首を真綿で締め上げてくる」と不快感をあらわにされた。
故岡部長章侍従が私に語ったところによると、天皇は「岡部、どうも陸軍では真崎、
荒木(貞夫大将)というのはよくないんだよ。海軍では末次(信正大将)がよくないんだよ」と
発言され、皇道派を下剋上として排除する措置を断固としてとった姿勢が明らかである。
こうした天皇の決断をたどってみると、昭和初年代の「朝香宮奏上事件」をきわめて遺憾とされた
昭和天皇の意思こそ、ご性格の底にある価値観を表していることに気づく。
朝香宮鳩彦(やすひこ)王は御前に出て満州の措置案について軍事上の意見を具申したのだった。
陛下は陸軍が朝香宮を利用して天皇の反応を見ようとしていると看破され、朝香宮の
考えを拒絶した。岡部は「そういう不快なことをご存知なので、近衛文麿と謀って京都にて
法門に入らせるという大東亜戦争末期の和平工作を奏上しようとした高松宮に参内を
実現させず、従って宮が兄陛下に話をされることは未然に防がれた」と私に明かした。
これらを通じて天皇は天皇家の家長としての権威を確立されたとも彼は説明していた。
いずれにせよ天皇は古典的定義となっていたプロシアの軍人クラウゼビッツの言葉
「将帥たる者は強い意志と勇気を備え、あらゆる作戦を明瞭かつ単一な思想で指導せねばならない」を
身につけていたと、岡部は解説したのだ。
二・二六事件における天皇の主導を理解するうえで一つのカギとなり得る挿話である。
軍部が居丈高になったころ、美濃部達吉博士の天皇機関説が攻撃の標的となった。
天皇主権説に対置する憲法学上の一学説で、「国家は法学上法人とみなされる」とする
イェリネックの国家法人説が源流だ。つまり天皇を法人である国家の一機関(但し最高機関)
とみなす考え。いわば政党政治の育成と発達に寄与した学説なのだが、軍部はまず国体明徴と
称して政党政治を排撃し、美濃部博士から貴族院議員の資格を奪い、著書の発売を禁止した。
昭和10(1935)年の議会で紛糾。背後に軍部が控える右翼団体の反対運動に、野党だった
政友会が同調し、最後には政府もこの考えに与した。国論を議論するはずの帝国議会で
「問答無用」と叫ぶ風潮はこのころから明確になっていく。ダイアローグのない日本社会が出現していった。
一方で昭和天皇は立憲君主制の憲法規定を遵守するならば、内閣が決めた事項に
天皇が反対意見を述べることは絶対に控えねば…と考えを固めていた。
二・二六事件後、ときの田中首相の辞職を招くような発言を甚く反省した天皇は
昭和16年冬の対米戦争開始をこうした反省から許諾してしまう。大臣らが天皇に負う
輔弼責任を尊重した結果だった。ただ心の中で不本意であるとの意思は覗かせた。
明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を
二度にわたってつぶやいたのだった。
日本が先の大戦に突き進み国内外に多くの犠牲を出すに至った要因として、
軍部や政府が皇室史観一色に日本歴史を統合したこと、天皇に輔弼責任を負う国務大臣と同列だったはずの軍部が、
天皇直属の統帥権を自己に都合よく解釈したこと、このため大元帥陛下を神聖不可侵として祭り上げ、
国民との間に距離を置いたこと、政党政治の腐敗堕落、下剋上の風潮、軍国主義、尽忠報国、
滅私奉公など個人から尊厳を引っ剥がした形での道徳心涵養があったことなどを挙げておこう。
ただし超法規的に戦争終結を実現した経緯には若干触れておく必要がある。

昭和天皇がご生涯三度目の「逸脱」をやってのけたのは昭和20年8月9日深夜から10日にかけて
宮中防空壕内での一室で開かれた御前会議の席上である。
鈴木貫太郎首相、米内光政海相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、梅津美治郎陸軍参謀総長、
豊田福武海軍軍令部総長、平沼騏一郎枢相、幹事役の陸海軍軍務局長、総合計画局長官、
迫水久常内閣書記官長が出席した。迫水がポツダム宣言を読み上げた。
次いで外相から意見を述べて行く。受諾説の皮切りであった。陸相が反対し徹底抗戦を主張、
海相は受諾賛成、平沼枢密院議長も賛成、参謀総長と軍令部総長は反対した。
三対三である。鈴木首相は「聖断を拝して本会議の結論としたい」旨を宣言し、玉座前に進み出た。
このとき天皇はご自身の意思を明確に述べられた。
「私は外務大臣の意見に同意である」
さらに理由を戦争継続は日本国を滅亡させ、世界人類を一層不幸にするからだとされた。
日本のポツダム宣言受諾は
「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおざることの了解の下に」と条件を付けて
在スイス、スウェーデン日本公使館から米英中ソ四カ国に通知した。
バーンズ米国務長官から「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官の
制限の下に置かれる。最終的な日本国政府の形態はポツダム宣言にしたがい、
日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」という返事が届いた。
このような回答では国体が護持されるかどうか曖昧、と内閣などで反対論が続出したため、
8月14日再度駄目押しの御前会議が開かれた。陛下の姿勢は不変であった。
「私自身は如何になろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。このうえ戦争を続けては、
結局我が国はまったく焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、私としては忍びない。
少しでも種が残りさえすれば、また復興という光明も考えられる」
さらに国民に説明責任を果たすとの考慮から、玉音放送用の録音盤二枚を作成し、
8月15日正午JOAKラジオ第一放送局から全国に天皇詔書が流れた。
詔書は御前会議における昭和天皇のお言葉をもとに内閣書記官長迫水久常が草案を書き、
従来から親しい陽明学者安岡正篤の構成を得て前夜九時ごろ完成、天皇に届けられている。

平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月より

大正天皇


明治四十五(1912)年七月二十九日、明治天皇は崩御され、昭宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王は践祚した。
新たな元号は大正と決まった。
大正天皇はいつも病にとりつかれていた。本当に成人できるか、明治天皇は悩み続けた。
二十四年間の皇太子時代に公爵九条道孝四女節子(さだこ)と結婚したが、健康がおぼつかないため
明治三十二(1899)年八月の内定から発表はしばらく伏せられ、結婚は翌年春五月となった。
明治天皇のご大喪儀は東京・青山葬場殿で挙行された。
日露戦争下、旅順郊外の二百三高地であまたの兵士を失った陸軍大将乃木希典は八瀬童子五十人が
轜車(じしゃ)に寄り添う葬列が宮城を離れたころ、自宅にて礼装をまとい軍刀で割腹し、
頸部を貫いて殉死した。妻静子も左胸を短刀で刺し貫いて夫の後を追った。
(中略)
明治天皇の亡骸を納めた霊柩車は九月十四日特別列車で京都び運ばれ、祭場殿で葬送の全てを終えた。
大正天皇と貞明皇后は宮中の側室制度を実質上、廃した。
百姓家で健康増進を図り黒姫さまとまでいわれた貞明皇后が頑健な体を信じ、恃みとした現れだったかもしれない。
幼時病気がちだった大正天皇だが、乗馬を良くし、相撲に興じた。
皇子にも恵まれ、皇太子時代には明治三十四(1901)年四月二十九日ご誕生の皇孫裕仁親王を筆頭に
秩父宮雍仁(やすひと)、高松宮宣仁の三皇子が、即位後には三笠宮崇仁(たかひと)親王が生まれた。
大正天皇は皇子と遊ぶのが大好きだったという。
皇太子時代に韓国訪問ができたほど健康だった天皇が、具合が悪くなったのはその後である。

大礼服ご着装を好まれた大正天皇は大隈重信(外相・首相・早大総長)を寵臣として遇するあまり、
元老山県有朋を慨嘆させたことで知られる。天皇としての激務が合わなかったのか、
帝国議会開院式で勅書を巻いて望遠鏡として議場を眺めたとの風評が広がるなど奇矯のお振る舞いが多くなり、
やがて栃木県日光に建てた田母澤御用邸にひきこもるなど療養生活に入っていく。
大正三(1914)年、裕仁親王のために東宮御学問所が開かれた。総裁は東郷平八郎海軍元帥、
御用掛となった杉浦重剛は常にフロックコートを着用して週二回倫理学を講じた。
御学問所は高輪東宮仮御所内に設けられ、東宮大夫浜尾新(前東京帝大総長)が副総裁、
四人の評議員、幹事、御用掛という構成だった。
当時、皇太子に関する事務を行う部局は東宮職と呼ばれ、側近として東宮大夫、東宮侍従長、
東宮侍従、東宮武官長などが仕えていた。また東宮御所詰に侍医、武官がいた。
御学問所開設期に学習院初等科を修了した四十二人から松平直国、久松完孝、南部信鎮(のちの松平直鎮)、
大迫寅彦(のちの永積寅彦)、堤経長の五人が選ばれて裕仁親王と起居をともにした。
中等科一年生に相当し、学籍を学習院に置く形だった。こういう方々を「ご学友」と呼ぶ。
宮家でいうと雍仁親王(秩父宮)、宣仁親王(高松宮)にもこういう「ご学友」がおられ、
崇仁親王(三笠宮)にご学友はいない。単に学習院で机を並べたわれわれは「同級生」に過ぎず、
マスコミが勝手にご学友と呼んできただけだ。
いずれにしても明治天皇がいかに皇孫殿下に期待をかけたか、御学問所開設は物語っているといえよう。

大正四(1915)年十一月十日、戦時下の即位大礼が京都で挙げられた。
明治42(1909)年に公布された皇室令第一号登極令に基づく初めての大典だった。
紫宸殿に設置された高御座の東に御帳台を置き、皇后が参列する様式は従来にない新例であった。
但し貞明皇后は三笠宮出産を翌月に控えており、京都にはいらっしゃらなかった。
大正天皇の即位は昭憲皇太后崩御のためまるまる一年遅れたことを追記しておこう。
両陛下おそろいならばこうなるはず…という形式を重んじたもので、
明治天皇に続いて大正天皇もお一人で即位大礼に臨まれた。

大正九(1920)年ごろになると天皇の病勢が進み執政がいよいよ困難となり、大正十(1921)年
六カ月の外遊を果たして帰国した皇太子裕仁親王が十一月二十五日摂政の地位に就く。
この後、大正十二(1923)年九月一日午前十一時五十八分、関東大震災が南関東圏を襲った。
死者行方不明者十万人以上、二十万以上の住宅が焼失した。
このとき裕仁親王は摂政として表宮殿で執務されていた。
加藤友三郎首相が八月二十四日に急逝し、首相の座は不在だった。
したがって当面した仕事は首班指名した山本権兵衛海軍大将による第二次山本内閣の組閣の進捗を見守ることだった。
同年十二月二十七日、帝国議会開院式当日、摂政宮座乗の車が虎の門を通過中に狙撃されるという事件が起きた。
犯人難波大助は死刑となったが、ソ連政府の出現とドイツ帝政の崩壊に刺激され、
社会主義、無政府主義の思考に傾き、罪を犯したものである。
虎の門事件の発生は、大正時代という特異なルーズ感覚あふれる世相を反映した無警備状態の犯罪といわれる。
当時の宮内省には皇族と国民との距離を縮め警備を軽微に抑える方針があったように思われる。
しかしこうしたデモクラティックな皇室戦略も一時的なもので、虎の門事件によって再び警備は厳しくなる。
第一次世界大戦後、世界列強に並んだという意識が天皇の地位を国及び国民の長、
神聖不可侵とする方向に後押ししたともいえるだろう。
大正十五(1926)年十二月二十五日、大正天皇は葉山御用邸で亡くなった。
四十七歳という若さだった。摂政として日本の頂点に立って五年、経験を積んだ裕仁親王は御用邸で即時践祚した。
昭和天皇の即位の礼は昭和三(1928)年十一月十日、また大嘗祭が十四日京都御所で行われた。

(平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月)