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新天皇の大嘗祭、ご即位と同一年 平安期の宮中儀式踏襲
2019.1.5 08:30
皇太子さまが新天皇に即位されることに伴う一連の儀式は、
前天皇の崩御の服喪期間を挟んだ明治以降と異なり、新元号元年に行われる。
一世一度の重要祭祀(さいし)である「大嘗祭(だいじょうさい)」も平安期からの前例にならい、
ご即位と同一年に営まれる。
今回の大嘗祭は、5月1日に新天皇に即位した皇太子さまが同8日、
皇居・宮中三殿でまつる先祖や神々に儀式の期日を奉告されることから始まり、
「亀卜(きぼく)」により、神前に供える新穀を収穫する水田(斎田(さいでん))の地域を決める
同13日の「斎田点定(てんてい)の儀」へと続く。
新天皇が神前に新穀を供えて自らも食し、五穀豊穣(ほうじょう)と
国家・国民の安寧を祈る主要儀式の「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」は、
皇居・東御苑に新設される「大嘗宮」で11月14日と15日に営まれる。
宮内庁によると、平安期の宮中儀式などを編纂(へんさん)したとされる
「貞観(じょうがん)儀式」や「延喜(えんぎ)式」などでは、
譲位に伴う即位が7月以前であれば、その年のうちに大嘗祭を行うと定めており、
5月即位の今回も千年以上にわたる前例を踏襲する。
直近の譲位例である江戸後期の光格天皇の後を継いだ仁孝天皇は、
1817年9月に即位。翌年4月に「文政」に改元、11月21日に大嘗祭を営んでいた。
一方、新旧の皇室典範で天皇の譲位を認めていない明治以降の大嘗祭は、
明治4年、大正4年、昭和3年、平成2年のそれぞれ11月に挙行。
前天皇の崩御で喪に服すなどしたため、新天皇即位の翌年以降にずれ込む形となった。
https://www.sankei.com/life/news/190105/lif1901050005-n1.html

天皇陛下、退位の儀式は4月30日夕に 政府決定
天皇退位 政治 社会2019/1/17 10:45
政府は17日午前、皇位継承に伴う一連の儀式を検討する「式典委員会」(委員長・安倍晋三首相)の
第3回会合を首相官邸で開いた。
天皇陛下が退位する4月30日の儀式を午後5時から開くと決めた。
参列者は三権の長や地方自治体の代表者ら330人程度を想定する。
皇位継承の証しを引き継ぐ「剣璽等承継の儀」は5月1日午前10時半からとする。
退位の儀式は1817年の光格天皇以来約200年ぶり。
「退位礼正殿の儀」は陛下が国民に感謝の意などの「お言葉」を伝える最後の場となる。
儀式は約10分間。皇居・宮殿「松の間」で開く。
天皇の政治関与を禁じる憲法に抵触しないよう自ら天皇の地位を退く趣旨は述べない。
天皇のお言葉に先立ち首相が陛下の退位を宣言する。
退位礼正殿の儀を午後5時に設定したのは、夕刻に陛下の公務が終わることを考慮したためだ。
皇位継承式典事務局は「当日も在位しており、早すぎない時間帯にすべきだと考えた」と説明する。
参列者は新天皇が三権の長らを前に即位後初のお言葉を述べる5月1日の「即位後朝見の儀」と同様で、
配偶者を含め338人とする。
即位日の剣璽等承継の儀は皇位継承の証しとして歴代天皇に伝わる三種の神器のうち剣と璽(じ=まがたま)、
天皇が公務に使う印章の御璽、国の印の国璽を引き継ぐ儀式だ。
首相や閣僚、衆参両院議長、最高裁長官らが参列する。
皇族は成年男性に限定し、女性皇族や秋篠宮家の長男悠仁さまは出席されない。
皇室典範は皇位継承権を男系の男子に限ると定めており、女性皇族が参加した例は現行憲法下ではない。
皇位継承権の問題とは関わりのない女性閣僚の参列は認める方針だ。
新天皇、皇后が10月22日に皇居周辺をパレードする
「祝賀御列の儀」で用いるオープンカーはトヨタ自動車の「センチュリー」を採用する。
提案は日産自動車、ホンダ、英ロールス・ロイス、独メルセデス・ベンツを含め計5社からあった。
国内で入手可能で安全面や環境面の性能など式典委員会が定めた要件を踏まえトヨタ車に決めた。
10月23日に外国首脳らを招いて開く首相主催の晩さん会会場は都内のホテルニューオータニを指定する。
前日の10月22日には新天皇が国内外に即位を宣明する「即位礼正殿の儀」を開く。
晩さん会は即位礼正殿の儀に参列する賓客を招く。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40103880X10C19A1MM0000/

日本会議が首相に「遺憾」 新元号事前公表へ不満
2019.2.3 02:00
保守系団体「日本会議」が、皇位継承に伴う新元号を4月1日に事前公表する首相方針に
「遺憾の意」を示す見解を機関誌に掲載したことが2日、分かった。
天皇代替わり前の公表は「歴史上なかった」として、先例としないことも求めた。
見解は機関誌「日本の息吹」2月号に掲載された。歴代天皇が即位後に改元してきた「代始改元」の伝統と、
天皇一代に一つの元号とする明治以来の「一世一元」の制度を踏まえ、
新天皇即位後の新元号決定と公布が「本来の在り方だ」と批判した。
https://www.sankei.com/politics/news/190203/plt1902030002-n1.html

新元号選定は平成改元を踏襲 4月1日公布
2019.2.8 11:42
政府は8日、5月1日の皇太子さまの新天皇即位に伴う新元号選定について、
平成改元時の手続きを踏襲すると正式に決めた。
有識者懇談会などに原案を示して意見聴取し、閣議で新元号を決める。
菅義偉(すが・よしひで)官房長官は記者会見で、新元号の改元政令は4月1日に閣議決定し、
同日中に公布する方針を明らかにした。
菅氏を議長とする元号選定手続きの検討会議を持ち回りで開き、平成改元時の踏襲を確認した。
政府は今後、選定手続きを本格化させる。
菅氏は「新元号が広く国民に受け入れられ、日本人の生活に根ざすものとなるようにしたい。
準備に万全を期す」と述べた。
新元号の選定に当たっては、まず首相が専門家を数人選び、それぞれ2~5の候補の考案を委嘱。
その後、官房長官が新元号の原案として数個に絞り込む。
さらに、4月1日に開く有識者懇談会で意見を求め、衆参両院の正副議長から意見聴取した後、
閣議で改元政令を決める。
有識者懇談会のメンバーは、平成改元時はメディアや教育界などから起用したが、
菅氏は「時代が変わっており、必ずしも同じではない」と語った。
新元号の基準は(1)国民の理想としてふさわしい(2)漢字2文字(3)書きやすい
(4)読みやすい(5)過去に元号やおくり名として使用されていない
(6)俗用されていない-の6項目を掲げた。
元号の選定手続きは昭和54年の元号法成立を受けて定められた。
平成改元の際には、有識者懇談会の開催を新たに加えている。
https://www.sankei.com/life/news/190208/lif1902080026-n1.html

昭和からの改元日5案 逝去前に政府検討
毎日新聞2019年2月10日 00時00分(最終更新 2月10日 00時38分)
昭和天皇が逝去した時に元号をいつ改めるかについて、政府が事前に五つの案を検討していたことが、
内閣法制局が毎日新聞の情報公開請求に基づいて開示した当時の内部文書で判明した。
案の中には、昭和天皇が1988(昭和63)年末に逝去した場合は
翌89年元日から新元号を施行する「踰年(ゆねん)改元」なども含まれていた。
実際は、昭和天皇は89年1月7日に逝去し、翌8日から平成に改元された。【野口武則】
文書は「改元政令案の内容と問題点」と題し、内閣法制局の内部での検討経緯が記されている。
作成・取得日が89年1月7日のファイルに保存されている。
改元の手続きは、元号を改める政令を閣議決定した後、天皇が政令に署名して国民に周知する公布を行う。
新元号の施行日は、政府が決めて政令に書き込む。当時、政府内で検討された改元のタイミングは
(1)逝去日の午前0時やその年の元日などにさかのぼる(2)改元政令の公布時
(3)翌日(4)翌月1日(5)翌年元日――の5案。
このうち、昭和天皇が大量吐血後の88年9月下旬の段階で、
(3)が元号担当の内閣官房内政審議室(現内閣官房副長官補室)の案とされ、
内閣法制局も「(3)を基本的立場とすることが了解されていた」とした。
ただし天皇逝去の時期によっては(4)(5)も検討された。
昭和改元時は、大正天皇が逝去した26年12月25日に「昭和」へ改元している。
これを参考に、88年12月25日以前に昭和天皇逝去の場合は「既定方針どおり」の翌日改元とし、
26日以降の年末の場合は「崩御が現実のものとなる直前にいかにすべきかを決する」と判断を保留した。
文書では「その『現実』がまだ生じないうちに昭和63年が暮れた」と記している。
一方、(1)は、例えば公布日の同日午前0時に新元号の適用をさかのぼると、
「政令の公布文に付すべき日付が(前の元号になり)書けない等の根本的な論理矛盾あり」、
(2)の場合は公布の時点を境に1日が二つの元号に分かれ、
「法律生活上の事実の特定表記(例、戸籍簿等)に混乱を生ずる」と退けた。
今回の改元では、自民党内外の保守派が、新天皇が5月1日の即位後に改元政令に署名、公布するよう求め、
同日から新元号の施行も可能だと主張した。
これに対し、内閣法制局は前回に(1)(2)を退けたのと同じ理由で、保守派の主張を採用しなかった。
https://mainichi.jp/articles/20190209/k00/00m/040/227000c

献上品上限撤廃

即位祝う献上品で閣議決定=600万円超も譲り受け可能に 
2019年06月07日08時31分
政府は7日、10月に即位の礼が行われるのを機に、天皇陛下の即位を祝う献上品について、
600万円を超える場合でも皇室が譲り受けることができるとの議決案を閣議決定した。
議決案は今後、国会に提出される。
皇室が600万円を超える物品を譲り受ける場合は、憲法8条の規定などに基づき国会の議決が必要となる。
平成の代替わりの際には、国会、内閣、裁判所や都道府県、
海外邦人団体などから58件の献上品があり、国会の議決がされた。
宮内庁によると、今回も関係団体から、即位を祝う献上品を贈りたいとの申し出があるという。
議決案では、譲り受けができる期間は10月11日から11月29日までとなっている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019060700247&g=pol

皇室への「祝い品」上限額を撤廃へ 即位の礼に向け 閣議決定
毎日新聞2019年6月7日 13時49分(最終更新 6月7日 14時43分)
政府は7日、今秋の天皇陛下の即位の礼に向け、
天皇家が自治体などから祝いの物品を受け取ることを可能とする議決案を閣議決定した。
今国会での議決を求める。
皇室経済法などは天皇と内廷皇族が受け取れる贈り物の上限を年間600万円と規定しているが、
平成の代替わり時を踏襲し、50日間に限って規定額に算入しない。
議決案は、即位礼正殿の儀の11日前である10月11日から11月29日の間に限り、
内閣が定める基準に基づき物品を譲り受けられるとしている。
宮内庁は贈り物で年間600万円を超える可能性が高いとみている。
内閣の基準は、前回と同様に衆参両院や都道府県、海外の日系人団体などに限定する見通し。
一方、皇室経済法などは天皇家などが私的な財産から譲渡できる金額の上限を1800万円と定めている。
前回はこの上限も期限を区切って、社会福祉事業に1億円以内で寄付できるように国会で議決した。
政府は今回も同趣旨の議決案を検討している。【高島博之】
https://mainichi.jp/articles/20190607/k00/00m/040/104000c

皇室が受け取れる「ご即位祝い」基準決定 都道府県など、個人は不可
2019.7.2 11:01
政府は2日の閣議で、10月に行われる天皇陛下の「即位の礼」に際し、
皇室が祝いの物品を受け取ることのできる団体の基準を決定した。
個人が贈ることはできず、都道府県などに限られる。
対象となるのは、衆参両院、内閣または最高裁判所▽都道府県などの地方自治体▽海外の日系人団体-の3つ。
期間は「即位礼正殿の儀」の前の10月11日から11月29日までの50日間。
国会は先月、法律で定める天皇ご一家と上皇ご夫妻の財産授受の限度額600万円とは別に、
譲り受けを認めると議決していた。
https://www.sankei.com/life/news/190702/lif1907020014-n1.html

新天皇と雅子皇后、初の地方訪問が示す「皇室大変革の予感」

2019.06.01
新天皇と雅子皇后、初の地方訪問が示す「皇室大変革の予感」
二重権力、三重権力が現れる可能性
原 武史

新天皇・皇后の地方公務デビューが、6月2日に愛知県尾張旭市で開催される「第70回全国植樹祭」だ。
この行事から読み解ける「令和流」の天皇像とは、いかなるものなのか?
令和の幕開けに際し、放送大学教授・原武史氏が「象徴天皇」の過去と未来について語る特別インタビュー。
(取材・構成:伊藤達也)

早くも示された「平成流」との違い
徳仁天皇は今回、雅子皇后と共に6月1日に東海道新幹線で愛知県入りし、
あま市の伝統工芸施設を視察。翌日に全国植樹祭の式典に出席した後、
肢体不自由児などの医療・療育施設を視察し、帰京するという日程になっています。
私は改元前から、新天皇として初めての地方訪問がどのようなかたちで行われるか注目していました。
毎年5月ないし6月の植樹祭への出席は、明仁天皇が昭和天皇から引き継いでいた恒例行事ですから、
おそらくそれが初めての地方訪問になると考え、情報収集も行っていました。

その上で、前述の日程が判明したとき、以前から抱えていたある予測に確信を得ました。
つまり、新天皇は、「平成流」をそのまま引き継ぐことはしない――ということです。
まず私が得心したのは、この地方訪問が、1泊2日の日程で行われるという事実についてです。
「平成流」においては、式典への参加を目的とした天皇皇后の地方訪問は、
社会福祉施設などへの訪問とセットであり、それは令和でも引き継がれるようです。
ただし従来であれば、この日程なら2泊3日か3泊4日が通例でした。
例えば明仁天皇の最後の植樹祭訪問としてニュースになった、昨年の第69回ふくしま植樹祭への参加は、
6月9日から11日の3日間で日程が組まれていました。
このときは福島での開催ということもあり、植樹祭の前後には復興住宅への訪問や震災慰霊碑への訪問、
供花などの公務も行っています。福島ゆえに3日間だったわけではなく、
平成の間の植樹祭訪問は、平成元年の徳島開催、平成8年の東京開催、平成23年の和歌山開催を除けば、
すべて3日以上の日程が組まれています。

もちろん、平成になって初めての植樹祭訪問も1泊2日でしたので即断は避けるべきでしょうが、
今回の日程は、新天皇皇后の初めての地方訪問にして、早くも平成との違いを示しているように見えます。
宮内庁はそのことを承知しているからこそ、
5月の発表時に「皇后さまのご負担を考慮した」とわざわざ説明したのです。

明仁天皇と徳仁天皇の「性格の差」
天皇・皇后は6月1日に新幹線で愛知県に入り、2日には中部国際空港から特別機で帰京する予定になっています。
専用車で中部国際空港まで直接行き、羽田空港から再び専用車に乗り、赤坂御所に帰るとすれば、
名古屋から東京まで新幹線に乗るのと比べて、国民の目に触れる機会も自然と限られてきます。
平成に比して、国民に接する時間はきわめて短くなっていると言えるでしょう。

単純に考えれば、その違いは、美智子皇后と雅子皇后の体調面での違いに起因するでしょうし、
もちろん、良し悪しを判断すべき性質のものでもありません。
ただし、令和においては「平成流」がそのまま受け継がれるわけではないであろう、
ということは確かに言えるのです。

もうひとつ私が着目しているのは、明仁天皇と徳仁天皇との「性格の違い」です。
明仁天皇の言動は、倫理的で実直です。
「平成流」の天皇像が、国民の敬意によって裏付けられていたのは、こうした性格ゆえもあるでしょう。
ただ、ユーモアがある印象は薄い。
口数の少なかった昭和天皇ですら、園遊会で柔道家の山下泰裕氏に
「柔道は骨が折れますか」と尋ねるようなユーモアがありましたが、
明仁天皇にはそうしたエピソードがあまりありません。
また、地方訪問で国民と対話する姿が印象に残っていますが、
実はこの「天皇と国民が相対する」状況を作り上げるには、膨大な警備コストがかかっていました。
「親しみやすさ」を担保するために、その裏では厳戒態勢が敷かれていたのです。
徳仁天皇はそれに比べると、普段の言動にもユーモアが感じられます。
柏原芳恵のファン、ウルトラセブンが好き――そのようなエピソードが
このひと月あまり頻繁に報道され、徳仁天皇を身近に感じた人も多いでしょう。

「軽やかな天皇」の前例
象徴的なのが、徳仁天皇の「登山好き」です。テレビでも盛んに映像が流されていましたが、
雅子妃や愛子内親王と連れ立って那須御用邸周辺の山に登り、すれ違う一般の登山客と気さくに挨拶を交わす。
上皇になってからも、厳重な警備の上での「お忍び」が報じられている明仁上皇とは、かなりの違いがあります。
天皇ともなれば、そんな気軽な言動は難しいのでは――と思われるかもしれません。

しかし、明治以降の天皇の歴史を眺めてみれば、
軽やかな「人間らしさ」を持った天皇もいたのです。
大正天皇です。
政治状況もあって在位時から「神格化」が推し進められた明治天皇に対して、
大正天皇は皇太子の時から、自由な言動を繰り返しました。
旅行好きでもあった大正天皇は、皇太子時代に沖縄県を除く全道府県と大韓帝国を回り、
それに伴って福島県の霊山や京都府の成相山、香川県の屋島や象頭山など、各地の山にも登っています。
また兵庫県では軍事演習の合間に突然旧友の家を訪問するなど、スケジュールも気にしなかった。
天皇になってからも、皇后と一緒に葉山や日光の御用邸に1ヵ月も2ヵ月も滞在し、
ヨットや馬に乗る生活を続けました。
しかしこの「大正流」は、天皇の権威を求める人々には都合が悪かった。
明治天皇と同様の天皇の役割を押し付けられた大正天皇は、次第に体調を崩してゆき、
最終的には引退させられました。
その後「大正流」が引き継がれることはなく、
昭和になると逆に天皇の神格化が図られた経緯は、ご存知のとおりです。

もし「大正流」が引き継がれていたら、天皇像は大きく変わっていたでしょうし、
もしかすると昭和の歴史も大きく違っていたかもしれません。
しかし、昭和の反省から「平成流」を徹底した明仁天皇が、「大正流」に倣ったかといえば、そうではなかった。
あくまでも自らの考えに基づいて「象徴」を定義したものの、それは大正流の「人間らしさ」とは異なるものでした。
でなければ、2016年の「おことば」を受けて
「これは天皇の人間宣言だ」などという世論の反応は生まれなかったはずですから。

「令和流」の鍵を握る雅子皇后
私には、上皇亡きあとに本格的に現れるであろう「令和流」の天皇像が、
「平成流」よりはむしろ「大正流」に近いものになるのではないかという予感があります。
「平成流」を引き継ごうにも、雅子皇后の行幸への完全同行の難しさ、
また宮中祭祀へのコミットメントの低さもあり、必ずしも平成と同じ「象徴としての務め」が果たせるとは限らない。
そうした制限の中で、新時代の「象徴天皇」を自分で作り上げるという意識が、
徳仁天皇にはあるのではないかと思うのです。

その意味で、今後の地方訪問、宮中祭祀には注目しています。
今回の植樹祭に続いて注目すべきは、新天皇・新皇后として初めての定例の宮中祭祀となる、
6月16日の香淳皇后例祭です。
代替わりはしたものの、宮中祭祀の体系は平成と基本的に変わらないようですが、
皇太子妃から皇后へ立場が変われば、祭服も変わるなど、負担も違ってきます。
ここに雅子皇后が出席するか、そしてどう祭祀と向き合うか。
より突っ込んだ議論をするのであれば――
むしろこうした歴史的事実がここまでないがしろにされていることのほうが問題なのですが――
宮中祭祀の中には、皇室に代々受け継がれてきた伝統ではなく、明治以降の「作られた伝統」も少なからずあります。

例えば神武天皇祭は、歴史上は実在しない神武天皇の命日である4月3日と定められている。
歴史学者でもある徳仁天皇や、外務省のキャリア官僚だった雅子皇后が、
そこに疑問を呈してゆく可能性も考えられます。
「良妻賢母」の役割を担い続けた美智子上皇后と、キャリア官僚を経て皇太子妃となり、
皇室に入ったあと「適応障害」に苦しんだ雅子皇后とでは、考え方や人生観も大きく異なるはずです。
それに、女性の権利向上がこれほど叫ばれる時代に、世の女性たちや世論がこの先も黙っているでしょうか。
この論点は、これから徳仁天皇と雅子皇后がどのような「令和流」を打ち出すか、ということとも関係してきます。

グローバル化と登山
まず想定されるのは、皇室のグローバル化です。
まだ体調の問題があるとはいえ、元外交官という雅子皇后の経歴から言っても、
海外訪問はいずれ行いたい行事の一つでしょう。
明仁天皇と美智子皇后は、太平洋戦争末期に米国と戦って敗れた南方の島々への
「慰霊の旅」を戦略的に行ってきましたが、こうした点でも違いを出してくるかもしれません。

例えば地方訪問に合わせて、式典や施設訪問の合間に登山の予定を入れ、
そこで一般国民と交流を行えば、「平成流」との違いは明らかになります。
こうした「平成流」との違いがどのようなタイミングで打ち出され、またどのような世論の反応を生むのか。
ここでひとつ懸念されるのは、徳仁天皇が登山した場合、保守派に利用されるかもしれないことです。

一見すると登山はカジュアルな趣味に見えますが、天皇が行う場合は「国見」、
つまり「高い所から国土を望み見る」という古代天皇の行為になぞらえることもできるからです。
歴史や素朴な信仰が絡み合って、保守派の期待を裏付けるような論説も今後出てくるかもしれません。
もちろん、新天皇が築いてゆくであろう令和の新たな「象徴天皇」像をどう評価するかは、国民にかかっています。
ただ、正しい評価をするためには、「平成流」を作り上げた明仁上皇・美智子上皇后の足跡や意図、
また明治以降の天皇の歴史について今一度振り返り、考察を深める必要があります。

どうして天皇や皇室について深く考えなければならないのか。
それは、令和の時代には、皇室内部の権力構造が大きく変化することが予想されるからです。

上皇と天皇「権力の二重性」
明仁上皇が、改元前日の4月30日に発表した天皇としての最後の「おことば」は、非常に簡潔な内容でした。

〈今日を持ち、天皇としての務めを終えることになりました。
ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
即位から30年、これまでの天皇としての務めを、
国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。
象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、
ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります〉

必要最低限の言葉を並べただけにも見えますし、世論はその簡潔さを讃えもしました。
しかし私は、この言葉には「新天皇に『象徴としての務め』を引き継いでほしい」という願いだけでなく、
「退位して上皇になっても、私は『象徴としての務め』のひとつである
『国民の安寧と幸せを祈ること』をずっと続けてゆく」という思いが込められているのではないか、とも感じます。

もし、雅子皇后が公務を十分に果たせないまま、
上皇上皇后が「祈ること」の一環として八王子市の武蔵陵墓地を参拝したり、
私的な外出を続けたりすれば、「平成」と「令和」の区別は曖昧になります。
「平成流」に慣れ親しんだ国民からは、天皇皇后に対する疑問の声があがるかもしれない。
雅子皇后にとっては、美智子上皇后と比較されるプレッシャーが、皇太子妃時代よりますます強くなる恐れもある。
こうして上皇・上皇后への敬意が高まってゆくとすれば、そこには「権力の二重性」が現れることになります。

秋篠宮とのバランス
加えて、徳仁天皇と比べても、「宮中祭祀と地方訪問」という
「平成流の象徴としての務め」に親和的なのが、皇嗣となった秋篠宮です。
秋篠宮は昨年、宮中祭祀について「大嘗祭は国費ではなく皇室の私的活動費を使うべき」と述べ、
さらにこの問題について宮内庁が皇室の意見に耳を傾けなかったことに
「すっきりしない」「非常に残念」と強調するなど、積極的に発言しています。
言うまでもなく、秋篠宮は皇位継承順位第1位の皇嗣であり、その長男である悠仁親王が同第2位です。
いまでこそ眞子内親王の件でバッシングを浴びていますが、
天皇皇后よりも「平成流」を踏襲しているように見える皇嗣皇嗣妃や、
現在のところ「未来の天皇」である悠仁親王に、しだいに国民の期待が集まってゆくという事態も予想できます。
さらに複雑なことに、ここには天皇皇后が「将来、皇室典範を改正し、
愛子内親王に天皇になってほしい」と考えるかどうか、ということも絡んできます。
つまり遠からぬ将来、「天皇・皇后」「上皇・上皇后」「皇嗣・皇嗣妃」という、
「三重権力」の構造がこの国に現れることも、十分に考えられるのです。

その時に国民は冷静な議論ができるのか。識者は質の高い論説を提供できるか。
学者ですら大半が天皇の政治性や権力という側面に目をつむり、
語ろうとしない現状はあきらかにおかしいし、危険であると私は考えています。
「お祝いムード」に浮かれるのではなく、歴史の境目にいる今こそ、
日本人は自らの天皇観を見つめ直すべきだと思うのです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64834

明仁上皇が作り上げた「平成の天皇像」は令和に引き継がれるか

2019.05.01
明仁上皇が作り上げた「平成の天皇像」は令和に引き継がれるか
改元を機に考える「象徴とは何か」
原 武史

平成から令和への改元が行われた。ともすれば祝福ムードに覆い隠されそうだが、
およそ200年ぶりの「天皇の退位・譲位」は、
日本国民に「天皇と皇室のあり方」について重い問いを突きつけてもいる。
新たな令和の時代、「象徴天皇」の未来を考えるうえで重要なのは、
明仁上皇・美智子上皇后が築いた「平成の天皇像」の本質を知ることだ。
新著『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)、
『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』(潮新書)でも鋭い天皇論を展開する、
放送大学教授・原武史氏の緊急インタビュー。
(取材・構成/伊藤達也)


天皇を語れなくなった危機感
今回の代替わりのきっかけとなったのが、もとを辿れば、
明仁上皇が退位の意向を明らかにしたことだったのは、皆さんも記憶に新しいと思います。
2016(平成28)年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」
(以下、「おことば」)についてはその後、様々な議論が行われてきました。
しかしながら、それらの議論は本質を外れたものに終始していたと私は感じます。
ある人は「天皇の第二の人間宣言だ」と言い、ある人は「現政権への不満を明らかにするものだ」と言い、
著名な憲法学者ですら、天皇の「やむにやまれぬ希望の表明」であると評価した。
また一般の国民は概して、高齢の天皇への労りや敬意、感謝の気持ちを抱くにとどまった印象があります。
はっきり言って、こうした反応に私は失望しました。
「おことば」が発せられた背景にある権力構造も、読み解くべき内容についても、
まったく深い洞察が行われず、「天皇とは何か」「象徴とは何か」という議論も起こらなかった。
それはおそらく、平成の30年間が、いかに「天皇」が
リアリティを失った時代であったかの証左だったと言えるでしょう。
私には、日本人が「天皇」を語る言葉や分析の枠組みを失ったまま、
令和を迎えてしまうことへの危機感があります。
今回の退位そのものが端的に表しているように、いま皇室は多くの課題を抱えています。
これから始まる新たな時代には、変わってゆくであろう新たな天皇のあり方、
皇室のあり方について、国民ひとりひとりがしっかりと自覚し、考えてゆかねばなりません。
その前提として、まずは令和という時代の起点となった、
前述の「おことば」の本質について、振り返っておきましょう。


「おことば」が持っていた強大な権力
「おことば」は、高齢となって「象徴としての務め」が果たせなくなった天皇の「人間宣言」である――
という解釈が一般的になっています。
しかし私は、「おことば」には政治的なニュアンスがきわめて色濃くにじんでいると見ています。
天皇が持つ、強力な「政治性」や「権力性」の発露が「おことば」であった、と考えるべきです。
天皇自らが、国民全体に対して肉声を発することは、
明治から昭和初期、つまり大日本帝国時代の言葉で言えば「勅語」や「詔書」に相当します。
かつて発せられたものの中には、平成の「おことば」と類比できるものがあります。
それは1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇によって発せられた「終戦の詔書」、
つまり「玉音放送」です。言うまでもなく、太平洋戦争を終結に導いた「玉音放送」は、
天皇の持つ強大な権力が端的に現れたものでした。
明仁上皇と美智子上皇后が築いてきた「平成流」の象徴天皇のあり方は、
こうした「不特定多数の国民(臣民)に対して、一方的にメッセージを発する」というものではありませんでした。
ふたりは日本中をくまなく訪ね歩き、災害があればすぐに被災者のもとに駆けつけ、
時には膝をついて国民の目線に立ち、一人一人の顔を見ながら自らの思いを語りかけてきました。
北海道の宗谷岬から沖縄県の与那国島まで、日本全国津々浦々への「旅」が、
「平成の天皇像」を形作ってきたと言えるでしょう。
戦後に作られた日本国憲法によって、法律上は天皇が政治権力を持つことはなくなりました。
また平成の時代には、もはや戦争の影も薄れてきます。
そのような時代に、いかにして「日本国民統合の象徴」となるか。
「平成流」を考え抜いた結果が、明仁上皇自身の「おことば」から引くならば、
「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、
大切なものと感じて来ました」ということになるでしょう。


「玉音放送」に酷似している
しかし一方で、この「おことば」の形式は、前述したように「玉音放送」に酷似していました。
「8月8日の15時から」と放送日時を指定した上で、天皇自らビデオメッセージで10分間にわたって、
政府や議会を通さずに「天皇が国民に直接語りかける」――。
「おことば」の内容の面でも、明仁天皇が昭和天皇の玉音放送を意識していたことは明らかです。
例えば、終戦の詔書には、「常ニ爾臣民ト共ニ在リ」
「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」といった言葉がありました。
「おことば」にも、「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり」
「国民の理解を得られることを、切に願っています」という、これらときわめてよく似た言い回しがあります。
論理構造も似通っています。終戦の詔書では、大戦の趨勢が枢軸国にだんだん不利になってゆき、
イタリアやドイツが降伏し、ついに日本も降伏せざるを得なくなったことについて、
昭和天皇は、「世界ノ大勢」「時運ノ趨ク所」と述べています。
同様に「おことば」では、国王や女王の生前退位が国際的にも増え、
自らもそうした世界情勢、時代の流れの中で退位するということを、
明仁天皇は「日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、
いきいきとして社会に内在し人々の期待に応えていくか」という言葉で表現したのです。
この「おことば」に対する世論の反応は、天皇の「決断」を温かく受け入れようとか、
天皇自身が語りかける姿を見てテレビの前で「厳粛な気持ちになった」というものがほとんどで、
垣間見えた「天皇の権力」「天皇の政治性」について、日本人はあまりにも無頓着でした。


天皇の意向を「忖度する」日本人
天皇が自ら、政府も議会も通さず全国民へのメッセージを発表する事態に、
現代の日本社会は「例外」をもって対処するほかありませんでした。
政府は有識者会議を開いて、退位を「一代限りの例外」として認め、
「おことば」と天皇の意思を追認することになりました。
国民も、「高齢だから仕方ない」といった「ふわっとした民意」でそれを受け止めた。
要するに、「おことば」が発せられた後から、国民は上から下まで
「そうそう、実は私たちもそう思っていたんですよ」と、
「おことば」が「民意」の反映であるかのように振る舞ったわけです。
「本来ならば、このような事態に至る前に、皇室制度や天皇のあり方について国民の側で
きちんと議論しておくべきではなかったのか」という反省すらありませんでした。
さらに踏み込んだことを言えば、日本国憲法の規定に反して
「天皇が政治性を発揮すること」に無警戒になっているのです。
国民の中には近年、天皇の意向を忖度し、天皇を「政権の横暴を抑制する、もうひとつの権力」などと
称揚する向きさえありますが、そのような考え方はかつて「皇道派」と呼ばれたことを理解しているのでしょうか。
特に、いわゆる「リベラル」を自認する人々がそのような主張をするのは、大いなる矛盾と言えるでしょう。
なぜ、大きな権力の発露であった「おことば」が、平成の日本で無抵抗に受け入れられたのか。
なぜ私たちは、天皇から「ボールが投げられた」にもかかわらず、
その中身を主権者として吟味することもなかったのか。
国民の無知や無反省ももちろんですが、おそらくは、かねてから退位を視野に入れていた、
明仁天皇の「戦略」が奏功した面もあったと思います。


「災害の時代」平成がもたらしたもの
2016(平成28年)8月の「おことば」に至る過程において、
見逃せない明仁天皇の「おことば」が、実はもうひとつあります。
それは、2011年3月11日の東日本大震災直後に発せられたメッセージです。
震災発生から5日後の3月16日16時35分、明仁天皇が読み上げる
「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」がテレビで放映されました。
震災と原発事故の影響を憂い、また被災者、防災関係者を励ますメッセージは、
かつてないほど大きな不安におびえる国民の心に強く響きました。
一部には、この時「平成の玉音放送」と指摘する向きもありました。
しかし、その後7週間にわたって天皇皇后が被災地を訪問し続け、
被災者の前でひざまずく姿が盛んに報道されると、
「この国に天皇陛下がいてくれてよかった」というような、
極めて好意的なリアクションが増えてきたと記憶しています。
それは被災地で罵声を浴びた当時の菅直人首相とは、きわめて対照的でした。
実は、当時東京都知事だった石原慎太郎が
「若い人(つまり、皇太子や秋篠宮)を名代にしては」と進言したところ、
明仁天皇はそれを断り、自らの強い意志で被災地に赴いたといいます。
実際には皇太子や秋篠宮も被災地を訪れましたし、政治家や宗教者も訪れたにもかかわらず、
真っ先に訪れた天皇と皇后の存在感ばかりが強調されたのです。
そのイメージは、強く国民に記憶されることになりました。
この震災後の「おことば」があったからこそ、そして平成を通じて築き上げた
「国民と共にある」象徴天皇像がしっかりと国民に浸透していると感じたからこそ、
明仁天皇は、退位の意向をビデオメッセージで国民に伝えようとしたのではないでしょうか。
平成は、東日本大震災に限らず、雲仙普賢岳の大火砕流、北海道南西沖地震や阪神・淡路大震災、
中越地震、各地の水害など、大災害が頻発した時代でした。
そして大災害が起きるたびに被災者に寄り添うことで、
明仁天皇と美智子皇后は「平成流の天皇像」を確固たるものにしたとも言えます。


美智子上皇后の「大きな役割」
ふたりは目線を国民に近づけ、国民の安寧を祈ってきました。
かつての行幸啓につきものだった在来線の「お召し列車」はめったに使わなくなり、
新幹線や飛行機、自動車で移動し、列車に乗るときには窓から手を振って歓声に応えた。
スーツとドレスではなく、ワイシャツを腕まくりし、作業服を身にまとって被災地に入るようになった。
こうした天皇皇后の旅は、実のところ皇太子の時代から始まっていました。
その過程において、皇太子妃・美智子の果たした役割は非常に大きかったと言えます。
1958(昭和33)年の婚約発表をきっかけとして東京を中心に湧きおこり、
60年代の皇太子夫妻の行啓とともに地方へと拡散した「ミッチーブーム」が、
同時代の昭和天皇と香淳皇后の行幸啓を上回る人出を各地で集める要因となったことは間違いありません。
戦争体験とその真摯な反省でつながるふたりは、平成30年間だけでなく、
成婚からの60年にわたって「旅」をしてきたのであり、
それは近年取り組んでいる、海外の戦没者慰霊の旅にも通じています。
退位した明仁上皇、そして美智子上皇后の「親しみやすさ」は、
こうした長年にわたる行幸啓によって醸成されてきたということです。
このような「旅」が、明仁上皇が考える「象徴としての務め」の核心に置かれていることは、
2016(平成28)年の「おことば」の中にも明記されています。
「象徴天皇制」とは言うものの、そもそも日本国憲法第一条には
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるだけで、
「象徴」の内実については何ら具体的な定義がありません。
この「象徴」について、明仁上皇が自ら定義を示したのが、「おことば」であったと言うことができます。


明仁上皇が考える「象徴とは何か」
明仁上皇は「おことば」の中で、「天皇の務め」あるいは「象徴的行為」として、
「国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、
思いに寄り添うこと」を二つの大きな柱として位置づけました。
すなわち、前者は宮中祭祀であり、後者は行幸啓を指しています。
宮中三殿ないしそれに付属する神嘉殿、宮殿で定期的に行われている儀式が宮中祭祀。
行幸啓は、これまで論じてきたような全国への訪問、「旅」のことです。
行幸啓を繰り返すのは、「常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる」ために
重要であるからだ、とも述べています。
この二つの「象徴的行為」に関して、先にも少し触れた通り、美智子上皇后が非常に重要な役割を果たしました。
美智子上皇后は、宮中祭祀や行幸啓に積極的で、ある面では天皇以上に熱心に祈り続けてきました。
詳しくは拙著『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』でも論じましたが、
その背景には、美智子上皇后がカトリック的な家庭で育ち、
中学から大学にかけて、カトリックの学校である聖心女子学院で学んだことも影響したでしょう。
カトリックにおいては、神道以上に「祈り」に重きが置かれています。
自ら膝をついて国民と話すという方法も、カトリック的なものといえます。
事実、結婚して初めての地方視察の途上、美智子皇太子妃が老人ホームで膝をつくまで、
皇族が国民の前でひざまずくことはあり得ませんでした。
さらに美智子上皇后は、1963年に第二子を流産したときも、
1993年に失声症になったときも明仁上皇とともに地方に出かけ、手話を含む対話を重ねるなど、
ほとんど休むことがありませんでした。雅子皇太子妃が体調不良に悩まされ、
国民の前に姿を表す機会が減ったのとは対照的だったとも言えるでしょう。
そうして、明仁上皇と美智子上皇后は二人で、曖昧だった「象徴」の定義をある意味で戦略的に作り上げていった。
その「象徴」の務めを満足に果たせなくなれば、摂政を置くことや公務を縮小することで対応するのではなく、
退位するしかない――それが「おことば」におけるメッセージの核心でした。


令和は、国民の「自覚と議論」の時代に
そのような「象徴」の定義が望ましいものか否か、
また、現代日本において憲法で禁じられているはずの天皇の権力性をどう評価すべきかについては、
主権者である我々国民がもっと広く深く、少なくとも明仁上皇と同じくらいしっかりと考えぬくべきでしょう。
おそらく令和の時代に、明仁上皇と美智子上皇后は、この「象徴としての務め」を
徳仁天皇と雅子皇后に引き継いでほしいと考えているはずです。
しかし徳仁天皇と雅子皇后が、その意思や適性を持っているかどうかは未知数です。
新しい時代には、また新しい「象徴」のあり方が模索されることになると思います。
では、譲位した上皇・皇后は公務から退くとして、私的活動をどの程度行うのか。
その活動の程度によっては、権威の二重化の可能性が出てくることは否定できません。
そこにはさらに、皇嗣となる秋篠宮家の位置付けも深く関わってきます。
二重化どころか三重化する可能性すらあるのです。
令和に入り、ますます皇室をめぐる権力構造が複雑になることは間違いありません。
その時、主権者たる国民が天皇と皇室に無頓着であってはいけないのです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64406

令和決定関連記事

元号案、皇太子さまに事前説明 保守派配慮、違憲の声も
2019年4月30日03時00分
安倍晋三首相は「令和」を含む元号の六つの原案を、国民代表の有識者などに提示するより前に、
新天皇に即位する皇太子さまに事前説明していた。
元号の発表を3日後に控えた3月29日。首相は東宮御所で皇太子さまと一対一で向き合った。
皇太子さまが静養先から戻った当日の夜にもかかわらず面会したのは、
前日固まった元号の原案を伝えるためだった。
首相は通常、天皇に国政報告を行う内奏は行っても、皇太子に個別に会うことはない。
このため首相はまずは天皇陛下に、そのあと皇太子さまのもとへ向かった。
実は2月下旬にも同じような面会がある。
新元号決定直前の面会が際立たないよう、「実績」をつくったとみられている。
https://www.asahi.com/articles/ASM4Y727YM4YUTFK00W.html

元号案、首相指示で追加 「令和」3月下旬に中西氏提出
2019年4月30日03時00分
新元号「令和」は、安倍晋三首相の指示で政府が3月に複数の学者にさらなる考案を求め、
国文学者の中西進氏が同月下旬に追加で提出した案だったことがわかった。
首相が同29日の皇太子さまとの面会で、「令和」を含む六つの原案を示していたことも判明した。
複数の政府関係者が明らかにした。首相は2月末、「国民の理想としてふさわしいようなよい意味」
「書きやすい」「読みやすい」といった留意事項に基づき、
事務方が絞り込んだ十数案について初めて報告を受けたが、学者に追加で考案を依頼するよう指示した。
政府は3月14日付で国文、漢文、日本史、東洋史などの専門家に正式委嘱。
その前後の3月初めから下旬にかけて、国書と漢籍の複数の学者に追加の考案を打診した。
その求めに応じて提出された複数案の一つが、中西氏が3月下旬に出した「令和」だった。
首相はその後、28日の首相官邸幹部らによる協議で「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか)」
「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」「令和」を原案とする方針を決定。
政府関係者によると、首相は翌29日、皇太子さまとの一対一の面会で六つの原案を説明したという。
新元号「令和」は、4月1日の有識者による元号に関する懇談会、衆参両院正副議長への意見聴取、
全閣僚会議を経て決まったが、首相は政府がこうした国民代表に意見を聴く前に、
新天皇となる皇太子さまに元号案を説明していたことになる。
皇太子さまへの事前説明は、日本会議などの保守派が求めており、自らの支持基盤に対する政治的な配慮だった。
憲法4条は天皇の国政関与を禁じている。皇太子さまは即位を目前に控えた立場だが、
政府は「意見を求めず状況報告するだけなら、憲法上の問題は生じない」(内閣法制局幹部)としている。
これに対し、高見勝利・上智大名誉教授(憲法学)は
「皇太子への事前説明は、元号の制定を天皇から切り離した元号法の運用を誤るものだ」と指摘。
そのうえで「憲法4条は政治の側が天皇の権威を利用することも禁じている。
特定の政権支持層を意識した首相の行為は、皇太子に意見を求めたかどうかに関係なく
『新天皇の政治利用』にあたり、違憲の疑いがある」と批判している。
https://www.asahi.com/articles/ASM4Y4DGHM4YUTFK00M.html?iref=pc_extlink

元号案見た首相「うーん」 追加案依頼、看板政策重ねた
2019年4月30日03時00分
新しい元号「令和」の選定過程を検証すると、安倍晋三首相主導の強い政治色が浮かんできた。
元号を決めるまで1カ月余りに迫った2月末。元号案の絞り込みは政府の要領に基づき、
菅義偉官房長官のもとで進めることになっていたが、
菅氏は「最終的には首相が決めるんだから、首相も入れて議論しよう」と判断。
首相をトップとする作業が政府内で極秘に本格化した。
平成が始まって間もなくから内々に提出を受けてきた元号案のうち、考案者が亡くなった案などを除くと70程度。
そこから改元の実務を担う古谷一之官房副長官補らのもとで十数案まで絞り込んでいた。
絞り込む前後の案すべてを初めて見た首相は「うーん」と冴(さ)えない表情を浮かべた。
「まだ時間はある。他にも検討してみよう」
事務レベルの事前準備の段階か…(以降有料記事)
https://www.asahi.com/articles/ASM4Y5D15M4YUTFK00R.html?iref=pc_extlink

天皇陛下への事前伝達否定 新元号めぐり菅官房長官
2019.5.7 17:51
菅義偉官房長官は7日の記者会見で、
令和を含む新元号の原案を4月1日の発表前に天皇陛下に伝えていたとの見方を否定した。
「そうしたことはない」と述べた。
安倍晋三首相は3月29日、東京・元赤坂の東宮御所で、即位される前の陛下と面会した。
https://www.sankei.com/life/news/190507/lif1905070020-n1.html