意外に多かった皇族・華族の戦没者

2019.12.27
【太平洋戦争秘史】意外に多かった皇族・華族の戦没者
高貴なる者の責務を果たした若者たち
神立 尚紀
カメラマン・ノンフィクション作家

皇族、そして、明治維新以降の身分制度の上位者であった華族は、戦前まで、様々な特権を与えられていた。

権力者への忖度が常識となった現代日本の感覚からすれば、彼らには、戦時中、
戦場に出ることを回避する特権が与えられていたと思うかもしれない。
だが、実際には、彼らは軍人となり、先頭に立って戦うことを求められていた。
海軍兵学校や陸軍士官学校で共に学び、最前線で共に戦った者たちの証言から見えてきたのは、
彼らの、権力者の傲慢さとは無縁の、清廉で勇猛な戦いぶりだった。

皇族男子はすべからく軍人たるべし

「昭和9(1934)年、海軍兵学校に入校した弟のために、
一斗缶にいっぱいの煎餅を詰めて送ったことがありました。田舎の、どこにでもある煎餅です。
そしたら弟の同期生に徳川家の若殿様がいて、そんな庶民的なお菓子は召し上がったことがないのか、
うまい、うまいと全部食べてしまわれたって」
と、宮崎その(1909-2009)は語った。そのは旧姓宮野。
「弟」は、大阪府立八尾中学校(旧制)から一年浪人し、
広島県江田島の海軍兵学校に六十五期生として進んだ宮野善治郎で、
「徳川家の若殿様」とは、十五代将軍徳川慶喜の孫・徳川熈(ひろむ)のこと。
徳川熈の名は、学習院海軍出身者の集いであった「水櫻會」(現在の水泳部OB会の「水桜会」とは別)の回想録や
インターネット上では「煕」と、異体字で記されることが多いが、
当時の海軍辞令公報や本人の署名で確認でき、墓石にも刻まれている字は「熈」である。
宮野善治郎(1915-1943)は、のちに零戦隊の指揮官となって活躍するが、
大阪府中河内郡龍華町(現在の大阪府八尾市)に生まれた生粋の庶民で、幼くして父親をスペイン風邪で亡くし、
6歳年上の姉・そのが切り盛りする小さな和菓子屋を手伝いながら中学校を卒業した苦労人である。
海軍の奉職履歴の「族称」欄には「平民」と記されている。

クラスメートとなった徳川熈(1916-1943)は、
征夷大将軍を退き公爵となった徳川慶喜の九男・男爵徳川誠の長男として東京に生まれ、
横浜正金銀行勤務の父の仕事の関係で、アメリカ、フランスで幼少期を過ごす。
母・霽子(さえこ)は、南北朝時代の南朝の忠臣・名和長年の子孫、男爵名和長憲の長女である。
帰国後は学習院初等科、中等科を経て海軍兵学校に入校した。
昭和8(1933)年から16年までの長きにわたって軍令部長/軍令部総長を務めた
元帥海軍大将伏見宮博恭王は父方の伯父、高松宮妃喜久子は従姉にあたる。
――生まれながらの貴族と言っていい。

学習院は、現在は私立学校だが、当時は文部省ではなく宮内省が所管する官立学校で、
主に皇族、華族のための教育機関だった。
海軍兵学校(海兵)は、将校たる海軍士官(士官のうち軍隊指揮権を持つ者のみを「将校」と呼んだ。
主計科や軍医科の士官は「将校」ではない)を養成するエリート校で、
当時、一高、陸軍士官学校(陸士)と並ぶ天下の難関校とされていた。

大元帥として陸海軍を統べる明治天皇の、
「皇族男子はすべからく軍人たるべし」との方針(皇族海陸軍従事の令。明治6年)のもと、
戦前の皇族男子のほとんどは海兵、陸士のいずれかに進み、旧大名や公卿、明治以降の勲功者などからなる、
当時の貴族である華族たちの多くも、それに倣った。

大名や武士階級出身の華族にとっては、軍人への道に進むのは武門の流れを正しく継承するものであったし、
明治以降に日本にも伝えられた「ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige=高貴なる者の責務)という、
西洋流の道徳律を実践するものでもあっただろう。

出自を問わず平等に鍛えられる

いっぽうで、海兵、陸士は、学費が国費からまかなわれ、軍人としての将来が約束されていることから、
家庭の経済的な事情で高等学校への進学をあきらめざるを得ない、宮野善治郎のような庶民も、多くが入校を目指した。
学校内では、出自や家庭環境などの個人の背景はいっさい抜きにして、
平等に鍛えられる(皇族だけは御附武官がつき、課業以外では特別扱いとなる)。

「弟の善治郎は、きょうだい思いで手のかからないええ子でした。
徳川の若殿様も、弟を通じて親しみを感じていましたが、
二人とも大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死してしまいました……」

宮崎そのから煎餅のエピソードを聞き、徳川熈に興味を持った筆者は、当時の特権階級ともいえる皇族や華族、
そして爵位は持たなくとも国家に勲功があって貴族院議員に任じられた「勅任議員」たちや
その子弟の軍人のことを調べてみた。
すると、意外にもそんな「貴族」のなかからも、多くの人が戦場に赴き、戦没していることがわかった。

昭和12(1937)年7月7日に始まった支那事変(日中戦争)以降だけでも、
皇族・元皇族は昭和15(1940)年9月4日、演習中に不時着してきた飛行機に衝突され殉職した
北白川宮永久王(陸軍大尉、薨去後陸軍少佐)をはじめ、昭和18(1943)年8月21日、
セレベス島上空で輸送機に搭乗中、敵機と交戦、撃墜されて戦死した海軍大尉伯爵伏見博英
(元皇族伏見宮博英王。海軍少尉任官後、臣籍降下。戦死後少佐)、
昭和19(1944)年2月6日、クェゼリンで玉砕した海軍大尉侯爵音羽正彦
(元皇族朝香宮正彦王。海軍少尉任官後、臣籍降下。戦死後少佐)の3名。
華族は、海軍については、「水櫻會」の調べで、学習院出身の戦没者37名がいたことが判明している。

陸軍については、昭和17(1942)年9月5日、ボルネオ島(現カリマンタン島)沖で
搭乗していた飛行機が遭難、戦没した旧加賀藩主前田家第十六代当主・陸軍中将侯爵前田利為(戦死後大将)や、
昭和20(1945)年3月22日(推定)、硫黄島で戦死した、
1932年ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリストでもある陸軍中佐男爵西竹一(戦死後大佐)、
内閣総理大臣を務めた公爵近衛文麿の長男で、戦後、昭和31(1956)年10月29日、
抑留先のソ連で病死した陸軍中尉近衛文隆など、著名人も少なくないが、全体像は判然としないという。
ここでは、筆者が直接、その人を知る人物からエピソードを聞くことができた、
徳川熈大尉、伏見博英大尉、音羽正彦大尉(いずれも戦死後少佐)の3名を軸に、その人となりと戦いを振り返る。

上級生の鉄拳、容赦なく…

宮崎そのが、海軍兵学校の弟・宮野善治郎に送った煎餅を、徳川熈が、
「美味い、本当に美味い。こんなに美味い菓子は食ったことがない」
と、一人でパリパリポリポリ、あっという間に平らげてしまったことは、
本村哲郎、萩原一男(いずれものち少佐)ら、クラスメートの何人かも記憶していた。
宮野は姉から送られてきた煎餅を、日曜日、倶楽部(生徒が休日を過ごすため、校外に用意された施設。
通常、民間の好意で一般家屋を利用する)でみんなに配ろうとしたのだが、
徳川が食ってしまったので他の者の口に入らなかったのだ。

色白で貴公子然とした徳川は、クラスの中でもひときわ目立つ存在だった。
海軍兵学校では(ことの善悪をこんにちの価値観で測るべきではないが)、
「鉄拳制裁」と称して最上級生が最下級生を、何かにつけ殴って鍛える習わしがある。
皇族生徒は別格として、徳川将軍家の孫といえども最上級生による鉄拳制裁は容赦なく浴びせられ、
慣れない事態にしばらくは目を白黒させていたという。

出自の高貴さゆえか成績にこだわらない鷹揚さがあり、
兵学校を卒業したときの成績は全187名のうち下から2番、というのもご愛嬌だった。
「宮野の煎餅、また食いたいなあ」という徳川の所望もあって、
そのは、その後もしばしば、菓子を一斗缶に詰めて兵学校に送った。

今では死後に追贈されるのみで、栄典制度としては残っても形骸化した感があるが、
戦争が終わるまでは、律令制の流れを引く「位階」が実際に幅を利かせていた。
これは、天皇の臣民としての位を表すもので、宮中行事や式典に列席するときなどは、
軍人としての階級よりもそちらの序列が優先された。

通常の海軍兵学校出身者の場合、少尉任官とほぼ同時に「正八位」に叙せられ、
以後、概ね進級するごとに「従七位」「正七位」「従六位」「正六位」……と上っていくが、
男爵家の長男である徳川は、満20歳になった兵学校在校中の昭和11(1936)年2月から、
大佐クラスに匹敵する従五位に叙せられていた。
昭和11年10月27日、天皇の江田島行幸のさいも、徳川は並居る教官たちより一歩前に立ち、
単独で陛下に敬礼している。
これは、宮中に関する行事だけでなく、少尉任官を祝う、初めての料亭での宴席
(昭和13〔1938〕年11月15日、呉・岩越――通称ロック)でも、
「徳川君の前が急ににぎやかになり、芸者たちが次々と押し掛けてくる。
それまではクラスメートの一人として誰も差を感じていなかった私たちも、
このような形で家柄を見せつけられようとは思いもよらなかった。
得意満面だった新正八位のわれわれは、生徒の頃からの従五位の存在に影が薄れてしまったわけです」
と、同期の岡野勇三が回想するように、その威光は歴然だった。クラスメートたちは、
「日本が危急のとき、先頭に立って国を守るのは、俺たち平民ではなく、彼らだろう」
と囁きあったという。

徳川は、戦艦「日向」、重巡洋艦「妙高」、伊号第五十五潜水艦、伊号第二十四潜水艦乗組を経て、
軽巡洋艦「北上」通信長だった昭和16(1941)年5月28日、
会津松平家第十二代当主・海軍少将子爵松平保男の五女・順子(よりこ)と結婚、翌年、女児を授かった。
そして伊号第九潜水艦通信長となり、横須賀鎮守府附のとき日米開戦を迎える。
開戦後は軽巡「多摩」通信長、潜水学校特修科学生、呂号第六十三潜水艦乗組と配置を渡り歩き、
昭和17(1942)年12月、呂号第百一潜水艦(呂百一潜)水雷長となった。
呂百一潜は、水上排水量601トン。局地戦、または離島防御のために建造された、
就役後間もない小型の潜水艦で、53センチ魚雷発射管4門を装備している。
徳川が乗艦してほどなく、昭和18(1943)年1月、呂百一潜は南太平洋に向け出撃。
ラバウルを拠点に、ニューギニア、ソロモン諸島沖の海中に潜伏し、連合軍の輸送路を遮断する作戦にあたった。
同年2月に日本軍はガダルカナル島から撤退、すでにソロモン海の制海権は敵に握られている。
そんななか、呂百一潜も、潜航中、敵艦からの爆雷攻撃で損傷を受けるなど苦しい戦いを続けた。
7月12日、ガダルカナル島失陥後の日本軍の最前線拠点だったニュージョージア島ムンダと
コロンバンガラ島に来襲した米軍艦船を攻撃するため、両島にはさまれたクラ湾に浮上したまま進入した呂百一潜は、
激しいスコールのなか、突然現れた敵の哨戒艦から猛烈な銃砲撃を受けた。
哨戒直に立っていた徳川が、「急速潜航!」と叫ぶ。その号令に、艦は即座に潜航、危うく難を逃れたが、
最後に艦内に退避した徳川は腰と左胸とに敵弾を受けていて、間もなく絶命したという。

艦上での戦死者は水葬で送られるのが通例だが、
乗組員たちのたっての願いで徳川の遺体は水葬はされずにラバウルに帰還し、7月14日、そこで荼毘にふされた。
16日、現地で海軍葬が営まれ、徳川の遺骨は、潜水艦乗組の戦死者としてはめずらしく内地に帰り、
上野・寛永寺谷中墓地の徳川家墓所に葬られた。戦死後、海軍少佐に任じられ、
勲五等双光旭日章と功五級金鵄勲章(金鵄勲章=抜群の勲功を挙げた将兵にのみ与えられる勲章。
太平洋戦争敗戦とともに廃止)を授与されている。享年27。

呂百一潜艦長折田善次少佐は、弔辞のなかで、
「君は名門に生まれ、資性きわめて天真爛漫、人に接するにつねに温顔にして信義に富み、
部下を愛することきわめて厚し。(中略)君が壮烈なる戦死の瞬時まで艦内に叫びし
号令はよく呂号第百一潜水艦および乗員の危地を救いたるものにして、ここに至上の責任観念の発露を見るなり」
と述べ、その死を悼んだ。

仲の良かった同期生・宮野善治郎大尉は、徳川に先立つこと約1ヵ月、
昭和18(1943)年6月16日、第二〇四海軍航空隊飛行隊長として零戦隊を率い、
ガダルカナル島上空で敵戦闘機と激戦の末、戦死している。
徳川熈の思い出を筆者に語ってくれた宮野の姉・宮崎そのは、
平成21(2009)年、百歳の天寿を全うするまで、若くして戦火に斃れた弟や徳川熈の冥福を祈り続けた。

史上最も気性の荒い「2人の殿下」

海軍兵学校の気風は、クラスによってまったく別、と言っていいほどの差がある。
それは、戦後半世紀以上がたっても、クラス会に出れば、部外者にも肌で伝わってくるぐらいのものだった。
徳川熈が、鉄拳制裁の洗礼を受けて目を白黒させたときの最上級生、六十二期生は、
伏見宮博英王と、朝香宮正彦(ただひこ)王の二人の皇族がいる、いわゆる「殿下クラス」だが、
殿下自ら率先して鉄拳を振るう、海軍兵学校史上まれにみるほど気性の荒いクラスだったという。

「私は、両殿下ともに親しくしていただきましたが、お二人の個性はまったくタイプの異なるものでした。
伏見宮は、いかにも貴公子で、宮様然とした坊ちゃんタイプ、しかし、下級生への鉄拳は容赦ない。
朝香宮は鷹揚なさばけた人で、親しみのもてる人柄でした」
と語るのは、同期生だった志賀淑雄(旧姓四元。1914-2005。少佐。戦闘機隊指揮官)である。
「ただ、食事のときは、そんな印象とはちょっと違った嗜好もみせました」
志賀は続ける。
「兵学校の朝食は午前7時、半斤のパンと白砂糖、それに味噌汁というメニューでしたが、
パンは切り方によって、焼き皮の厚いところとそうでないところがある。
パンの周囲の焦げたところを『アーマー』(装甲)と称し、歯ごたえがある上に密度が高く、
実質的な量が多いので、生徒たちの多くは、そこの部分があたると喜んだものです。
伏見宮はこの部分を好んで食べたのに対し、朝香宮は、白い部分だけを手でちぎって食べ、
アーマーは決して口にしようとはしなかった」
殿下といえども海軍士官の卵だから、雑用の当番も平等に割り当てられる。
あるとき、伏見宮と一緒に掃除当番となった志賀は、連れだって水を汲みに出た。

「水汲み場に着くと、すでに先客が何人か並んでいる。
すると、そのなかの一人が、殿下の姿をみとめて、お先にどうぞ、と順番を譲ろうとした。
皇族であってもこんな場合、特別あつかいはしないことになっているから、
私は、『殿下、いけません』とお止めしたんですが、殿下は『いいよね』と前に割り込んでしまった。
頭にきて私は、ツカツカと歩み寄ると、殿下のバケツを蹴っ飛ばした。それが思いのほか、大きな音がしたんです。

このときはそれだけのことでしたが、この話には尾ひれがついて、
いつのまにか私が殿下をぶん殴ったことになってたらしい。
のちに結婚のとき、身元調査でこのことが相手に伝わって、
『君、殿下を殴ったんだって?』と言われたことがありました」

しかしほどなく、志賀は、伏見宮の仕返しを受けることになる。
夏季休暇のさいに交際のはじまった広島の女学生の写真の裏に「My Angel」と書いて、
自習時間に取り出してはそれを眺めていたが、机を並べていた伏見宮が、それを教官に言いつけたのである。
「男女七歳にして席を同じうせず」と言われ、現代とは男女交際の感覚そのものがちがった時代、
志賀はたっぷりと教官の説教を聞くこととなった。
「しかし、その後、私の祖父が死んだとき、帰ってよろしいと休暇を与えられ、郷里に帰ることができたのは、
伏見宮の口添えによるものだったとあとで知りました」

こうして、喧嘩をしながらも友情がはぐくまれてゆく。
皇族とともに学び、鍛えられた経験をもつ志賀のような海軍士官は、
ずっとのちになっても、国粋主義者や陸軍の一部勢力が唱えたような、
神がかりでフィクショナルな天皇観にはついていけなかった。

「でもそれは、軍人としての立憲君主に対する忠誠心とはまったく別の問題でした」
と、志賀は回想している。

特別扱いを拒否、一般戦没者として葬送

意外なところで、朝香宮の思い出を語ってくれた女性もいた。
朝香宮より兵学校で2期先輩の戦闘機乗り・山下政雄(少佐・1910-1999)の妻・佐知である。

佐知は17歳で結婚したが、戦前は海軍の雰囲気も比較的緩やかで、
夫のクラスメートで同じく戦闘機乗りの進藤三郎(少佐・1911-2000)が、
「結婚祝いに、奥さんにいいものを見せてあげましょう」と、
佐知一人のために九六式艦上戦闘機3機の編隊アクロバット飛行を披露してくれたこともあるという。
夫が勤務する空母や航空隊へも、しばしば面会に訪れた。

「主人が乗っていた空母『赤城』が横須賀にいるとき、日曜日に面会に行ったら、
朝香宮様(当時は音羽侯爵)が士官室で新聞を読んでおられました。
大きなおフネですから、主人を呼んでもらっても来るまでに時間がかかります。
朝香宮様は、『山下大尉は飛行甲板でしょう。戻ってくるまでここで待ってるといい』と、
気さくに声をかけてくださって。宮様とお話するなんて初めてですから緊張してしまって……
何をお話したか憶えてませんけど、上品でいいお方だなあ、と思いました」

海軍辞令公報を見ると、山下政雄と音羽侯爵が「赤城」で一緒に勤務したのは
昭和13(1938)年12月から14(1939)年11月までの約1年。
山下は戦闘機、音羽侯爵は砲術科の、それぞれ分隊長だった。
佐知の回想はおそらく、「赤城」が横須賀に在泊していた14年夏頃のことだろう。
伏見博英伯爵(1912-1943)は、のちに元帥海軍大将となる伏見宮博恭王の第四王子・伏見宮博英王として、
東京・芝区の三田御殿に生まれた。母・経子妃は公爵徳川慶喜の九女で、博英王は徳川熈とは従兄弟同士にあたる。

学習院中等科を経て昭和6(1931)年、海軍兵学校に六十二期生として入校。
最上級生のときは、ノーブルな雰囲気ながらも下級生が何かヘマをやろうものなら
「待て! 貴様!」と鉄拳をふるう、やや御気性の荒っぽい宮様だったという。

昭和9(1934)年、海兵卒業。オーストラリアへの遠洋航海、重巡「愛宕」乗組を経て
昭和11(1936)年4月1日、少尉任官と同時に「宮内省告示第六号」により臣籍降下(皇籍離脱)、
伏見の姓を賜り、華族(伯爵)に列せられた。同時に、従四位に叙せられている(昭和17年、正四位)。
同年11月、伯爵柳沢保承(郡山藩主柳沢家七代当主)の次女豊子と結婚、二人の女子が生まれるが、
豊子は昭和14年、22歳の若さで亡くなり、昭和16年1月、
男爵黒田長和(福岡藩最後の藩主・黒田長知の四男)の長女定子を継室として迎え、さらに二人の女子をもうけた。

海軍では、「愛宕」に続いて戦艦「山城」、軽巡「神通」、重巡「足柄」、戦艦「長門」、軽巡「木曽」、
潜水母艦「長鯨」などの艦に乗組み、主に通信の分野で、一般の士官と変わるところのない激務に従事する。
開戦時は軍令部第三部勤務で、対外情報を担当していた。

昭和17(1942)年12月、海軍通信学校高等科学生となり、同校の過程を終えたのち、
昭和18(1943)年7月15日、第三聯合通信隊司令部附兼南西方面司令部附に発令され、
同23日、ジャワ島スラバヤの任地に着任。専門分野を生かして、最前線の基地を巡って通信指導にあたったが、
着任から1ヵ月も経たない8月21日、アンボンからセレベス島(現スラウェシ島)ケンダリー基地を経て
スラバヤの司令部に戻る途中、搭乗する輸送機が、セレベス島ボニ湾上空で米軍爆撃機2機と遭遇、
撃墜され、伏見大尉は同乗者、搭乗員20名とともに戦死した。
敵機の攻撃から身を守るすべをもたない輸送機での、無念の最期だった。

伏見伯爵家には爵位を継ぐべき男児がいなかったので、継嗣子が決まるまでは戦死認定は控えられた。
実兄である海軍中佐侯爵華頂博信の次男・博孝を養嗣子に迎え、戦死が認定されたのは8月26日、
一般に公表されたのは9月4日のことである。死後、海軍少佐に進級、功五級金鵄勲章を授けられた。享年30。

9月23日、横須賀鎮守府で挙行された戦没者の合同海軍葬では、皇族として成人のさい、
勲一等旭日桐花大綬章を授与されている伏見伯爵を、「英霊の筆頭として安置すべき」との意見を
父・伏見宮博恭王が退け、特別扱いされることなく、一般の戦没者とともに葬送された。
27日、青山斎場で神式の儀式ののち青山の御墓所で埋柩、土掛之儀、墓前祭が行われている。
このとき、伏見伯爵の英霊奉持の役目を務めたのが、海兵のクラスメートでもある音羽正彦侯爵だった。

玉砕必至の島に着任した音羽候

音羽正彦侯爵(1914-1944)は、陸軍大将・朝香宮鳩彦(やすひこ)王の第二王子・朝香宮正彦王として
芝区高輪南町の御殿で生まれた。母は明治天皇の第八皇女・富美宮允子内親王である。
学習院初等科、中等科を経て、昭和6年、海軍兵学校に入校。
伏見宮博英王より学齢は1年若いが、海兵では同期になった。
海兵卒業、オーストラリアへの遠洋航海、戦艦「榛名」乗組を経て、伏見宮と同じく
昭和11(1936)年4月1日、少尉任官と同時に「宮内省告示第六号」により臣籍降下(皇籍離脱)。
音羽の姓を賜り、華族(侯爵)に列せられ、従四位に叙せられた(昭和16年、正四位)。

伏見伯爵の専門が通信だったのに対し、音羽侯爵は砲術である。
重巡「羽黒」、軽巡「五十鈴」、戦艦「長門」乗組を経て、昭和13(1938)年8月には上海海軍特別陸戦隊に配属。
折からの武漢攻略戦に砲隊中隊長として参加、〈幾度かの激戦で軍服もぼろぼろになつた音羽侯の颯爽たる勇姿〉
(昭和19年2月26日付朝日新聞の追悼記事)と、その戦いぶりが伝えられている。

同年12月、空母「赤城」分隊長となり、約1年にわたって勤務。
その間にも、艦から派遣された陸戦隊徒歩部隊(陸軍の歩兵にあたる)の中隊長として、
海南島攻略作戦の最前線で陣頭指揮を執った。昭和14(1939)年11月、戦艦「山城」分隊長、
15(1940)年11月には戦艦「陸奥」分隊長となり、
この月、第一次近衛内閣で拓務大臣を務めた貴族院議員・
大谷尊由(西本願寺二十一世門主・伯爵大谷光尊の四男)の次女・益子と結婚する。

「陸奥」では副砲長も務め、この艦での勤務は昭和18(1943)年4月まで、2年半にもおよんだ。
「陸奥」は、音羽侯爵が去った直後の6月8日、瀬戸内海柱島沖で火薬庫の爆発のため沈没、
乗員1474名の8割近い1121名が殉職している。

大尉となった音羽侯爵はその後、横須賀海軍砲術学校高等科学生を経て、
昭和18年10月15日、中部太平洋マーシャル諸島クェゼリン島の第六根拠地隊司令部附を命ぜられた。
すでにマーシャルには米海軍の機動部隊が来襲していて、いずれ敵が上陸してくることは必至の状況である。
このような時期に、臣籍降下したとはいえ、元宮様の侯爵が、現地部隊の一指揮官として送り込まれたのだ。

クェゼリンに着任した音羽大尉は、さらに第六十五警備隊副長となり、
2ヵ月間、絶海の孤島ともいえるウェーク島に赴く。
この頃の様子について、ウェーク島で軍医長を務めていた宮崎二郎軍医大尉の手記が残っている。
宮崎軍医大尉はかつて、音羽大尉がまだ朝香宮で少尉候補生だった頃、
練習艦隊の遠洋航海をともにした旧知の間柄だった。

〈十一月に入ってから間もなく、思わぬ「珍客」が、この島に空路到来した。
侯爵音羽(元朝香宮)正彦海軍大尉その人である。(中略)
孤立無援となったウェーク島の士気を鼓舞するためにも、臣籍降下されたとはいえ、
もとは金枝玉葉の身である音羽侯を、はるばる差し向けたのに違いなかった。〉

〈音羽大尉が着任してから、島は、心なしかのびやかに落ち着いた。おれたちは見棄てられたのではない。
その証拠に、これほど尊い方が、われわれと危難をともにしてくれるではないか――
そんな心理効果が、目に見えた。(中略)そんな「かたじけなさ」扱いを音羽大尉は嫌った。
静かな性格で、遠慮深いたちであったが、こうと思ったことは、なかなかきかなかったし、
副長としての職も、テキパキと片づけた。〉

〈テニスも一流の腕前だった。「軍医長、聴診器ばかり振り回さずに、たまにはラケットでも振ってみろ」
とうとう、私も引っ張り出された。打ち込んできた球は、本格的な硬球であった。
私は剣道五段の腕にものいわせて、思い切り打ち返した。
「野球じゃないよ、軍医長。いくらホームラン打ったって、点数は稼げないんだ。
もっとやわらかく、そう、スマートに打ちたまえ」〉

〈音羽副長は、第六根拠地隊司令部附参謀となって、クェゼリンへ去らねばならなかった。
「よほど勤務成績が悪かったらしい。私は、前線の指揮官として、向かないものとみえる」
音羽大尉は例によって、はにかむように、かぼそい白い歯を、私に見せた。
(中略)島はひといきにうら枯れて、わびしくなった。〉

昭和18(1943)年12月20日、音羽大尉は第六根拠地隊参謀としてクェゼリンに戻った。
もはや、米軍の来攻は目前に迫っていた。激しい空襲と周辺の島々の制圧ののち、
米軍部隊がクェゼリン島と、その北東に位置するルオット島に上陸してきたのは、
昭和19(1944)年2月2日のことである。

ルオット島の日本軍将兵は約2900名、しかしそのほとんどが航空隊要員で、地上戦の兵力は約400名に過ぎない。
敵上陸に先立ち、艦砲射撃によって総指揮官・山田道行海軍少将が戦死したルオット島守備隊は、
一部が激しく抵抗したものの、翌日までに全滅した。

クェゼリン島の日本軍は、海軍約2700名、陸軍約1200名。対する米軍兵力は1万以上。
総指揮官である第六根拠地隊司令官・秋山門造海軍少将は、敵の上陸初日に、
音羽大尉を引き連れて前線視察に赴こうと防空壕を出た途端、米軍の砲弾を浴び即死。
以後の指揮は阿蘇太郎吉陸軍大佐がとるが、阿蘇大佐も、2月5日、
残存将兵を率いて敵陣に斬り込もうとしたところで銃弾を浴び、戦死した。
2月6日、クェゼリンの日本軍守備隊は全滅。この日をもって、全員が戦死したものと認定された。
通信が途絶、生存者もいないため、音羽大尉の最期の状況は不明である。

音羽大尉の葬儀は、昭和19年4月22日、横須賀鎮守府での合同海軍葬に続いて、
24日、音羽家による告別の儀が青山斎場で執り行われた。墓所は多摩墓地に新たに造られた。
戦死が公表されたのは、4月25日のことである。音羽大尉は、武漢、海南島攻略での戦功で、
すでに功五級金鵄勲章を授与されていたが、戦死後、海軍少佐に任じられ、功四級金鵄勲章を追贈された。享年30。

高貴なる戦没者も、若者たちだった

――伏見博英伯爵、音羽正彦侯爵、徳川熈、そしてはじめに名を挙げた前田利為侯爵、
西竹一男爵、近衛文隆中尉らは、戦没した「貴族」たちのほんの数例にすぎない。

海軍少将で第二代講道館長を務めた南郷次郎(加納治五郎の甥)の二人の息子、昭和13年7月18日、
戦闘機指揮官として中華民国空軍との空戦で戦死した海軍大尉南郷茂章(戦死後少佐)、
昭和19年1月23日、米軍機との空戦で戦死した陸軍大尉南郷茂男(戦死後中佐)の兄弟。

昭和19年9月12日、零戦隊指揮官としてセブ島上空の空戦で戦死した海軍大尉森井宏(戦死後少佐)。
昭和19年10月25日、戦艦「扶桑」艦長として戦死した海軍少将阪匡身(戦死後中将)。
昭和19年11月24日、戦闘機「紫電」を率いてフィリピンに散った海軍少佐白根斐夫(戦死後中佐)。
昭和20年3月19日、米軍機による呉空襲のさい、軽巡「大淀」機銃分隊長として戦死した
海軍大尉子爵濱尾誠(戦死後少佐。戦後、東宮侍従を務めた濱尾実氏の実兄)。

戦国時代、織田信長に味方して毛利水軍を破ったことで知られる九鬼水軍の末裔で、
昭和19年12月12日、駆逐艦「卯月」に乗艦、戦死した海軍主計大尉九鬼隆造(戦死後主計少佐)。
第六艦隊(潜水艦部隊)司令長官で、部下による住民弾圧事件の廉で戦後、オランダ軍に逮捕され、
昭和22年12月6日、ボルネオ島(カリマンタン島)ポンティアナックで刑死した海軍中将侯爵醍醐忠重……。

そのほかにも、枚挙にいとまがないほどの人たちが、「ノブレス・オブリージュ」を身をもって示して果てた。
戦没しなくとも、海軍中将久邇宮朝融王のように、航空隊司令として南方の第一線に立った皇族もいる。

いまの時代、出自で人を差別してはならないのは当然である。
しかしながら、戦争が終わるまで、華族制度が存在したという事実までを否定することはできない。
そして彼らの多くは、特権の上にただ胡坐をかいていたわけではなく、
一般の国民と同じように軍務につき、戦場に命を落とした。
そんな「高貴なる戦没者」の年齢層は、やはりというべきか、20歳代、30歳代前半が圧倒的に多く、
ここでも、「年寄りが始め、若者が死ぬ」という戦争の図式に変わりはない。

明治以降、終戦までの華族の総数は1000家強にすぎず、貴族院の勅任議員やそれらの家族を合わせても、
「貴族」の待遇を受けていたのは日本人のごく一握りにすぎなかった。
その一握りの人たちのなかから、当時の人口比からするとけっして少なくない犠牲があったことも、
是非善悪は別にして、歴史の一断面として記憶されていい。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69452