別居治療 離婚 廃太子

天皇陛下の級友が進言!
別居治療 離婚 廃太子
(週刊朝日 2009年07月17日号配信掲載) 2009年7月8日(水)配信

いずれの日か、皇太子さまが即位し、雅子さまが皇后となる。
しかし、雅子さまは「病」の中にある。果たして、皇后の激務がこなせるのか。
天皇の級友である橋本明氏が新著『平成皇室論』を上梓し、
そのなかで皇太子夫妻に、三つの選択肢を進言している。その大胆な内容とは──。

宮内庁が雅子さまの病を「適応障害」と発表して5年がたった。
「雅子さまは適応障害という病が完全に癒えてはおらず、まだ治療の途中です。
回復がならないまま雅子さまが皇后になったときに、皇室のありようが変わってしまうことはないだろうか。
天皇と美智子さまは、それまでの天皇像とは全く異なる価値観で、
二人三脚、手探りで道を切り開いてこられました。
それは『国民と共にある』皇室です。皇太子ご夫妻に、果たしてその道を受け継いでいけるのでしょうか」
天皇の級友の橋本明氏は、そう危惧する。
橋本氏は天皇と美智子さまが二人で築き上げてきた皇室の姿を、
7日に発売になった新著『平成皇室論 次の御代へむけて』(朝日新聞出版)のまえがきで、こう記している。

〈(お二人が)試行錯誤を繰り返しながら到達したところは、
悲しみに沈む人、苦しみにあえぐ人、絶望に呻吟する人々、
災害で家・財産を失った人々、身障者などに「心を寄せる」あり方だったと私は思う〉

本文にはこんな記述もある。

〈お二人の根本にある心は「皇室は祈りでありたい」という精神であろう。
しかもこの言葉が美智子皇后から発せられた事実に私は粛然となる〉

神格化されていた昭和天皇が、戦後、象徴天皇になったのだが、
本当の意味で「象徴天皇」としてのあり方をつくりあげてきたのは、現天皇だと橋本氏は言う。
そして美智子さまの果たしてきた役割も大きかったとみる。
初の民間出身の美智子さまとともに、現天皇は皇太子時代、公務の大きな柱を打ち立てた。
それが「身障者」と「沖縄」への思いだったと指摘する。
沖縄への「慰霊の旅」は、近年のサイパン島訪問でのバンザイクリフ行きへとつながる。
平成になって以後のお二人は、地方への行幸啓の姿も変えた。それは被災地訪問である。
1991年の雲仙普賢岳噴火災害に始まり、阪神・淡路大震災、新潟県中越地震……。

〈両陛下は被災地に飛び、膝を屈して年寄りや女性らの目を真正面から見つめて、
心から励ます無私の行為に身を包んでいく。平成流の凄味を覚えたのは私だけではあるまい〉

二人三脚で歩んできたお二人を思うにつけ、橋本氏は皇太子さまの単独公務の多さが心配でならないという。
「美智子さまは『太陽』のように輝いている方です。雅子さまにもそのような存在であっていただきたい。
そのためには、まず健康を回復していただくことだと、切に思う」
皇后の公務は多岐にわたる。歌会始や新年参賀、行幸啓などの公式行事に加え、国賓接遇など多忙を極める。
さらに、天皇のつとめる祭祀とも無関係ではない。橋本氏は新著のなかで、美智子さまの詠んだ歌を紹介し、
天皇が祭祀をつとめるときを共有している美智子さまのありようをつまびらかにしていく。
それはこんな歌だ。

 去年(こぞ)の星宿せる空に年明けて歳旦祭に君いでたまふ

 神まつる昔の手ぶり守らむと旬祭(しゅんさい)に発(た)たす君をかしこむ

 やがて出づる日を待ちをればこの年の序章のごとく空は明けゆく

 新嘗(しんじょう)のみ祭果てて還ります君のみ衣夜気冷えびえし

橋本氏は、学習院初等科以来の天皇の同級生だ。ジャーナリストとしても、皇室を長く見つめてきた。
そのような立場から懸念するのは、病にある雅子さまと、雅子さまを支えようと努力する皇太子さまの姿から、
お二人の結婚そのものを失敗ととらえる勢力が台頭することだという。
さらにその理論が、「民間立妃」そのものが失敗だったというところに行き着くことになるのではないか、
と橋本氏はおそれている。
それは、「いかに象徴となるべきか」と苦悩し、努力を続けてきた天皇と美智子さまの歩んできた道そのものの
否定にもつながりかねないからだ。
だからこそ橋本氏は、新著のなかで皇太子夫妻への三つの選択肢を挙げることを決意したという。
その選択肢の一つ目は雅子さまが治療に専念するため、皇太子夫妻が「別居」するというものだ。
橋本氏はこう指摘する。

天皇陛下の級友が進言!
「そもそも今の治療方法に疑問があります。雅子さまが病ゆえに公務を突然キャンセルすることが続き、
公務の回数を減らしましたが、よくなったという朗報が国民に届かない。
東宮職医師団が説明した、アメリカの学会の基準によると、
適応障害はストレス因子がなくなれば半年ほどで治るといいますが、そうなっていない。
今は電話でのカウンセリングが中心と聞いていますが、それでいいのでしょうか。
何より公的な存在としての皇太子妃、そして妻、母という三つの役割を同時に果たす
今の状況での治療は中途半端です。一度すべてから離れたほうがいいのではないでしょうか。
この状況は、雅子さまにとっても、そして国家にとっても大きな損失だと思います」

雅子さまは、宮内庁が病状を「適応障害」と発表する半年前、
03年12月から帯状疱疹を患い入院した。翌1月に自らの静養について、心境を文書で公表した。

《十年余前の結婚以来、慣れない環境の中での大きなプレッシャーのもとで、
これまで私なりに一生懸命努力してきたつもりでございましたが、
その間の心身の疲労が蓄積されていたことの結果であったのではないかと感じます》

その数カ月後に、皇太子さまが「雅子の人格を否定するような動きがあった」と発言して、波紋を広げた。

「皇太子妃には男児を産まないといけないという重大な仕事があります。これは女性にとっては大きな圧力でしょう。
雅子さまが愛子さまを産んだことで、次は男の子を産めるはずだと期待も高まりましたが、そうはなりませんでした。
そうすると『子どもが産めるのに、なぜ産まないのか』と言う人も出てきたのでしょう」(橋本氏) 
こうしたお世継ぎに関する雅子さまのプレッシャーを承知したうえで、橋本氏はこうも語る。
「雅子さまは『慣れない環境』と言いますが、それは皇室という『家風』に合わないという意味だと、
われわれ国民は理解します。
となると、皇室を構成する皇族のなかで、最も近い存在は他の誰でもない、皇太子さま自身です。
それを美智子さまによる『嫁いびり』だなどと曲解する向きもありましたが、
雅子さまが一人で両陛下にお会いになるのは、雅子さまのお誕生日の年1回だけ。
現実的に嫁いびりは考えられません。
皇太子さまは、雅子さまに対し、
『好きな外交という道をあきらめて、皇室にきてもらった』という意識が強すぎるのかもしれません」
橋本氏が挙げた皇太子夫妻の「別居」は、皇室にとって前例がないことではない。
新著ではこう指摘する。

〈(三笠宮)信子妃が軽井沢にこもられて久しいときがあった。
なるべく人前に出なくてすむようにとの配慮だったという。
親王は東京で別居生活を保っておられた。その後、赤坂御用地内に別棟を建てて妃殿下を住まわせておられるが、
二人の女王はご自分の膝下から離さず、信子妃は一人の状況に置かれている〉

さらに二つ目の選択肢として、橋本氏が挙げたのが、「離婚」である。

〈皇太子が雅子妃を愛し、守り続ける覚悟に今後も生きるとすれば離婚はもとより問題外となる。
仲睦まじいいまのお二人の姿からも、離婚などという事態は想像し難い。
だが、論理の上で検討しておく必要はあると私は思う〉

英国王室では、チャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚が有名だが、
日本の皇室で離婚などありうるのか。橋本氏はこう話す。

「現行の皇室典範では、理論上も無理でしょう。皇室典範には『離婚手続規定』などありません。
だが、皇室会議を経て結婚が認められるように、離婚という議論が行われてもいいはずです」

そして、橋本氏が三つ目の選択肢として挙げるのが「廃太子」である。
あまり耳にしない言葉だが、皇太子がその地位を廃することである。新著でこう記す。

〈自分はあくまでも雅子妃と愛子内親王と共に暮らして一家庭という単位で人間として幸福を追求する。
ただし、この形態のまま践祚(せんそ)・即位した場合、皇室のあるべき運営に不都合をきたす。
よって天皇にはならない──。このように考えた場合は、(中略)
その立場を廃するという道も選択肢のひとつとして考えられる〉

現状でいえば、秋篠宮さまに皇太子の座を譲ることを意味している。
その場合でも、皇太子さまは「親王位」となるだけで、皇族としての立場に変わりはない。
ただ、皇位継承順位が、秋篠宮さま、悠仁さまの次になるという。
橋本氏はその理由をこう説明する。
「今の状況下では、これがいちばん現実味があるのではないかと思います。
しかし、皇室典範には、『譲位』という規定はないのです。
皇室典範はもっと柔軟に変えていっていいのではないでしょうか。
そのためにも皇室会議に皇族の長である天皇が入られたらどうか。
現在、内閣総理大臣や最高裁判所の裁判官など10人で構成されていますが、皇族はたった2人ですから」
橋本氏はこの本がきっかけになって、これからの皇室のあり方について国民的議論が起こることを願っているという。
同時に期待するのが、皇太子さまをはじめごきょうだいでの話し合いだ。

「ごきょうだいは3人ともすごく仲がいいんです。
清子さまも皇室を離れたとはいえ、聡明で2人のよき相談相手でもあります。
第三者ではなく、きょうだいでよく話し合って自主的に取り組むのがいいのではないでしょうか」

橋本氏が進言する「別居治療」か「離婚」か「廃太子」か。
次代の天皇、皇后となる皇太子夫妻がそれを受け止め、決断をする日が来ることはあるのだろうか。
はしもと・あきら 1933年生まれ。学習院大学政経学部卒。共同通信社では社会部、
外信部、海外支局勤務を経て役員待遇。著書に『平成の天皇』『美智子さまの恋文』など
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090708-01/1.htm


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「平成皇室論」 次の御代へむけて 橋本明 朝日新聞出版
34ページ
昨今の東宮ご一家の外出は、あまりにも気楽な日常めいていて、
我々の悪餓鬼時代に敢行された銀座事件と異なるように見える。
むろん、外食や観光、実家の親族とのふれあいと言った息抜きぐらいはいいでないか、
という意見もあろうが、私には違和感がある。
中略
さらに近年の東宮ご一家については、第一位皇位継承者を擁するとはいえ過剰ともいえる警備が完璧に行われる、
東京ミッドタウン 六本木ヒルズ 青山・表参道 丸の内、
恵比寿ガーデンプレイス、東京ディズニーランド(池田礼子さんも同行)
上野動物園(両陛下の三宅島視察の前日に)
オランダ静養(発表が沖縄慰霊祭の日)

長野国体フィギュアスケート観戦もドタキャン
皇太子が視察を終え、雅子妃を迎えて長野駅到着が発車間際という際どさ
那須静養は貴賓室へ通じる通路入り口に車横付け
送迎の人々は駅前広場のはるか後方からご一家に向けて歓声を上げることしか許されない
記者たちによれば、ご静養のたびに集まる人々の数が減っていると実感できるそうだ。

72ページ
私はご成婚後、赤坂御用地内の東宮仮御所を訪れお祝の記帳を済ませた。そのとき気にかかる噂を耳にした。
「東宮妃のお目覚めが遅く、そのため、お出かけになる殿下を玄関にお見送りできないこともある」
ならば朝食はそれぞれ別なのだろうか…。今上陛下の東宮時代には考えられない風景だと気がかりではあった。

81ページ
人格否定発言
外交官の延長のように外国訪問を望む雅子妃に対しては、むしろ古巣の外務省関係者から疑問の声が上がっていた。
外交とは国益を守るために政治家や官僚が行う交渉ごとであり、
生々しく政治的な色合いを帯びる。皇族の国際親善とは示現が違うのである。
殿下は雅子妃の「人格否定」を訴えた記者会見の中で「雅子のキャリア」という表現を使っている。
カタカナ語でキャリアとは、専門における長き道のりを現す。
外務省に入省してほどない一外交官の卵に冠するには「経歴」とされるべきであった。
殿下には折角の道を手折ってきてくれた、という思い入れが強すぎるのかも知れない。

87ページ
軽井沢篭城
「皇室も時代と共に存在し、各時代、伝統を継承しつつも変化しつつ、今日に至っていると思います。
この変化の尺度を量れるのは、皇位の継承に連ねる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています。
伝統がそれぞれの時代に息づいて存続し続けるよう、
各時代の天皇が願われ、御心をくだいて・・・」(1994年、皇后陛下誕生日文書)
私は、「配偶者や家族であってはならない」という強い判断に注目する。
ご自分について解くならば、家族とは「正田家の人々」をも指すであろう。
「それぞれの時代」とは昭和天皇・香淳皇后から連綿と遡る天皇家の事跡であろう。
こうした考えの下、美智子皇后がご実家との間のけじめを定められてこられた経緯が
改めて納得できる言葉として印象深い。
妻の立場で天皇のご方針については余計な口出しをせず、
常に発言を慎むよう厳しく申し渡したお言葉と私は解釈している。

4月にあったNHKスペシャルに渡辺氏が前長官という立場で出演したことと
「協力宮内庁」と銘打ったこの特集に病の皇太子妃が一切顔を見せなかったことと
東宮殿下も幼児期にほぼ限られていた。
前日は馬場で乗馬していたのに、翌日の湯浅氏、羽毛田氏の新旧宮内庁長官が挨拶に来るも雅子妃は同席せず。
英国人歌手サラ・ブライトマンのコンサートに直前キャンセル

101ページ
雅子妃のご不例に始まり、長年にわたり天皇家に親王の誕生がなかったことから女性女系天皇論議が勃興して以来、
一部皇族、一部旧皇族、宗教関係者や旧華族らお濠を取り巻く守旧派の反発は再び強まっていったように感じられる。
皇籍離脱した旧男性皇族の皇籍復帰など、男系による皇統を繋ぐ提案が相次いだ。
現役皇族の三笠宮寛仁親王は自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報誌「ざ・とど」などを通じて
旧皇族の皇籍復帰を提案し、側室制度の復活にまで言及された。
また旧勢力と同質ではないにしても、民間女性では東宮妃は務まらないという絶望感を源として
保守派知識人が意見を発し始めるなど、平成皇室に対する攻撃は日本社会の水面下で伸長しているのだ。
いうなれば、人間性に基づくお妃選びが二度にわたって行われたことを俎上に載せる勢力が、
次第に賛同者を集め始めたのだった。
私なりに分析するならば宮中祭祀も務められない妃を戴き、
親王の誕生へむけても前向きな姿勢が見受けられない東宮家に
皇室の将来を託すわけにはいかないという声の増大である。
東宮を批判するだけでなく、彼らの矛先は親である両陛下にも向けられてくる。
極端な場合は、ご成婚そのものを有害視し、乳母制度を廃し
同じ屋根の下で育てたからあのような東宮が出現したのだ、とまで言い募る。
陛下はこうした表面下の動きを察知し、危機感を募らせてこられたのである。
なぜ私の苦衷が察せられないのか、という思いは確かに長男徳仁親王に向けられた素直な感情でもある。
ことは建国の支柱である象徴天皇制度に関わるから、事態は深刻である。

125ページ
カルロス国王来日より前に行われた宮内参与会
両陛下は普段より踏み込んで胸中にうずく思いを吐露される。
皇后陛下は「心の痛み」を明らかにし、陛下は皇室が直面している危機を説明し、
対応の困難さを訴えつつ今後の宮内庁の方針をご下問になったと言われる。
談論はこのとき凍結し全員が口を閉ざした。
健康を慮って東宮殿下の健康診断をより密にと祈られるお姿もあったようである。
中略

断片的に橋本氏の耳に入ってきた情報
1.雅子妃の病気の原因が皇室の内部に存するストレス因子によるという見方に大変に傷ついている
2. 前後の皇室は皇族が一致して結束を固め、協力して運営されるべきなのに、
一部の皇族、旧皇族を源流とする皇室問題の立論が天皇皇后の足下をすくう方向で行われている。その危険性

東宮妃の直面している病気、妃殿下を支えようと努力を傾注している皇太子。
苦悩を深めるお二人からご結婚そのものを失敗ととらえる勢力が台頭している。
このように見立てると、この勢力が目指す論点は「民間立妃」の失敗にゆきつく。
さらに二度続いた「民間立妃」という事実に彼らは戦後皇室の本質を見詰める。
「失敗は先代にあり」と結論を導きだすのは容易であろう。
「いかに象徴となるべきか」とこれまで日夜苦悩を刻み、積み上げてきた平成時代のお二人の努力が否定され、
水泡に帰するような危機感を感知しておられるのが両陛下だと私はとらえている。


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識者が考える「平成皇室論」
(週刊朝日 2009年07月24日号配信掲載) 2009年7月15日(水)配信
病のなかにある雅子さまに皇后の立場が務まるのか。
今こそ「別居治療」「離婚」そして「廃太子」、この三つの選択肢を考えるべき時ではないか──。

天皇陛下(75)の級友でジャーナリストの橋本明さんが7月7日に上梓した
『平成皇室論』(朝日新聞出版)が話題を呼んでいる。識者たちはこの提言をどう見るのか。

『平成皇室論』3つの提案の要旨
神格化されていた昭和天皇は戦後、象徴天皇になった。
しかし、本当の意味で「象徴天皇」をつくりあげたのは今上天皇と美智子さまである。
二人三脚で、戦死者らへの追悼に心を砕き、悲しみや苦しみにあえぐ人々に心を寄せてこられた。
しかし、いずれの日か、皇太子殿下が即位し、雅子さまが皇后になられる日が来る。
現在、病のなかにある雅子さまが皇后としての激務をこなせるのか。
皇室のあるべき運営に不都合をきたす可能性が高いのではないか。
今こそ、①雅子さまが別居して治療に専念する、②離婚できるよう皇室典範を改正する、
さらに③皇太子殿下が秋篠宮さまに皇太子の座をゆずる廃太子、という
三つの選択肢を考えるべき時にきているのではないか──。

3つの提案に隠された 天皇陛下からの「信号」
評論家、電気通信大学名誉教授 西尾幹二
橋本さんは、よくぞ発言なさったと思います。「級友」という天皇に近いと察せられる立場にいる方が、
皇太子ご夫妻の進退に思い切って三つの選択肢を提言されたことに、ある種の「信号」が隠されていると思います。
昨年12月、羽毛田信吾宮内庁長官が記者会見で、
「雅子さまの適応障害で、皇室そのものがストレスであり、やりがいのある公務が快復への鍵だといった論があるが、
皇室の伝統を受け継ぎ、時代の要請に応えてきた両陛下は深く傷つかれた」とおっしゃった。
私はこれは天皇から皇太子に対して「今後の二人のあり方を真剣に考えよ」という最初の信号だったと見ています。

ある一定の年齢になれば、自分の体に不安を覚えます。
天皇という立場ならなおさらでしょう。天皇は今後の皇室を憂えて、級友である橋本さんの新著を通して
皇太子ご夫妻に新たな決断を促しているような気がしてなりません。
私もかねて、皇太子さまと雅子さまに次期天皇皇后としてのご自覚が欠けているのではないか、と指摘してきました。
「民を思う心」など「公」の姿勢をお二人には感じません。
皇太子さまは「新しい公務」のあり方を唱えていらっしゃいますが、公務の質が大幅に変わり、
祭祀が軽んじられるようなことがあるとすれば、国民は納得できません。
橋本さんは、雅子さまの問題が、「民間立妃そのものが失敗だった」という議論になり、
美智子さまに非難が及ぶことを危惧されているようですが、それは心配に及びません。
もし、民間立妃が問題ならば、美智子さまや紀子さまに対しても同じような議論があってもおかしくないからです。
そのような議論がない、ということは、ひとえに雅子さまのパーソナリティが問題だと見ていいと思います。
著書には雅子さまの行状について、私的外出や公務の直前のキャンセルなど系統立てて細かく記されています。
オブラートに包んで書かれてはいますが、最後に三つの提言をされたということは、
要は雅子さまは皇室にそぐわないという事実上の「皇后失格宣言」を述べておられるのです。
私は、雅子さま自身と同様に小和田家にも問題があると思っています。
雅子さまとご家族が頻繁にお会いになることもそうですが、結婚後の家族の姿勢が正田家とは全く違う。
美智子さまのお父さまは、美智子さまが結婚されてからは政治家の出席するパーティーや
報道される可能性のある会合への出席を避けたといいます。
一方、雅子さまのお父さまは国連大使などを経て、今は国際司法裁判所所長を務めておられます。
皇太子妃の父親として、国際トラブルの最前線に立つような仕事に就かれるべきではありません。
このような雅子さまと小和田家に対する国民の「不信感」が、橋本さんの著書に表現されたのではないでしょうか。
私は、別居、離婚、廃太子という三つの提言では、橋本さん同様、廃太子がいちばん現実味があると思います。
この点で「けじめ」をつけられる実行者は天皇のほかにいない、
と橋本さんが最後に明言しているのが印象的で、共感します。
実際、この深刻な問題を解決できるのは天皇しかいないのです。


秋篠宮が天皇になる前に 考えるべき2つのこと
ノンフィクション作家 保阪正康
私は「文藝春秋」(09年2月号)で「秋篠宮が天皇になる日」という論文を書きました。
しかし、これは皇位継承第2位である弟君ゆえの苦労を書いたもので
「皇太子は廃太子すべきだ」という論ではありません。
雅子さまのご病状について、宮内庁から「適応障害」であるという以外まったく情報が出ていない以上、
推測や憶測で「離婚」「廃太子」などと言うことは私の立場ではできません。
大正天皇が体調を崩された際、当時の宮内大臣だった牧野伸顕は克明に病状を発表しました。
そういった状況であれば別ですが、漏れ伝わってくる情報だけで
軽々に結論を出すことは無責任な暴論になってしまいます。
しかし、私は橋本氏とはまったく異なる理由で、皇太子は天皇のいる東京を離れ、一定の期間、
京都に本拠地を移すべきだと考えています。現在、皇太子は「皇位を継ぐ」という立場ですが、
本来は天皇とはまったく異なる役割を担うべきだと考えるからです。
東京にいる限り、天皇、皇后と同一の空間、人間関係からは離れられない。
天皇は政治や経済の中心である東京で、皇太子は京都で文化や伝統を継承する、というように
役割分担をするべきではないでしょうか。
今上天皇は民主主義下でまったく新しい皇室像をつくりあげました。
それは、父である昭和天皇の時代に起きた戦争について、追悼、慰霊を含めての歴史的清算を試みるというものでした。
象徴的なのが、沖縄戦の終結した6月23日、広島に原爆が投下された8月6日、長崎に原爆が落とされた9日、
終戦を迎えた8月15日のこの「四つの日」には、皇太子時代からご一家で、
必ず慰霊の気持ちを示されているということです。
今上天皇に比べ、皇太子は「皇太子とはどうあるべきか」というビジョンをまだお持ちでないように見うけられます。
そういった大きな状況を考える以前に雅子さまのご病気というご心痛があるからでしょう。
さらに、今上天皇の皇太子時代には小泉信三という適切な助言役がいて、
「象徴天皇とはいかにあるべきか」ということについてアドバイスしていました。
現在の皇太子には小泉のような存在がいない。これはとても不幸なことだと思います。
グローバリズムで、世界との距離が縮まっているなか、
求められる皇太子像は今上天皇の皇太子時代とは違ってきているはずです。
信頼できる助言役を得て、新たな皇室像をつくり、
国民や宮内庁とコミュニケーションをとることが重要ではないでしょうか。


「廃太子」は諫言ならず 皇室を傷つけることになる
「一水会」代表 木村三浩
橋本さんの論文は、皇室の行く末を「憂えている」という名分を翳しながら、
皇太子さま、雅子さま、ひいては皇室全体を傷つける内容になっています。
第三者が上辺だけのことで、あれこれ詮索するのはいかがなものか。
皇室という歴史的な空間と存在に、軽々しく、廃太子などと語ってはいけません。
そもそも「廃太子」とされた例は、歴史的にみると奈良時代にありましたが、
それは千年以上も昔のこと。現実的ではありません。
橋本さんは、天皇、皇后両陛下がつくり上げてきた「平成の皇室像」を皇太子ご夫妻が継いでいけるのか、
ということを危惧しているようですが、その点では全く心配することはないと思っています。
天皇と美智子さまの根本にあるのは「皇室は祈りでありたい」という精神、具体的には、陛下が執り行う祭祀です。
天皇は祭祀を非常に大切にされていますが、皇太子殿下も同様にその重要性を感じておられます。
今年1月に昭和天皇ご逝去20年にあたって宮中三殿で行われた「皇霊殿の儀」では、
皇太子ご夫妻は天皇と美智子さまの「名代」として拝礼されています。
極論すれば、皇太子さまは祭祀さえ執り行えば、「廃太子」などと言われる筋合いではない。
雅子さまもしかりです。
私は、このような提言の内容もそうですが、提言を公にしたこと自体にも、問題があると思っています。
橋本さんのような立場なら、事前に内々に進言する「内奏」をする機会もあったはず。
いきなり刊行では、治療を進めている雅子さまの病状に塩を塗りこむことになりかねない。
橋本さんは、2004年5月の皇太子さまの「人格否定発言」の本質をわかっているのでしょうか。
皇太子さまは雅子さまをお守りするために、そのような発言をされたわけですが、
何が原因でそう言わざるを得なかったのかを忖度しなければならない。
もちろん、皇太子さまは、国民の安寧もお祈りになられている。だがしかし……ということでしょう。
今は、雅子さまの病状を見守るべきです。
仮に、雅子さまが皇后になられても病状が芳しくない場合は、そのときに考えればいいのです。
皇室典範を改正して、祭祀など重要度の高い公務をしていただければいい。前向きな議論が必要です。


「舅の嫁いびり」 高齢者に 敬遠されるキャリアウーマン
精神科医 香山リカ
橋本さんの提言は、皇室論という体裁をとっていますが、
私には、いわゆる「舅の嫁いびり」のようにしか見えません。
「家風になじめないなら、別居か離婚か廃太子から選べ」と迫っているようです。
橋本さんは著書の中で、「仕事を捨てて皇室に入った」という雅子さまへの同情論は、
同世代のキャリアウーマンに多いとし、〈一般庶民が皇室を平準化するのは畏れ多い〉と言っています。
それはご高齢の方特有の、現代のキャリアウーマンに対しての否定的な見方ではないでしょうか。
自己実現のために「上」に従おうとしない、というイメージなのだと思います。美智子さまを見習い、
公務をきちんとこなされている紀子さまのほうが、年配の方には「理想の嫁」に見えるのでしょう。
ですが、雅子さまは、美智子さまと全く同じである必要はありません。
時代も違えば、状況も違います。皇太子さまはかねて「公務の見直し」を公言されています。
今年2月の会見でも、「今まで行われてきている公務を否定する考えでは全くなく、時代の流れに沿って
公務のニーズについてもおのずと新しい考えが生まれてくる」とおっしゃっています。
天皇と美智子さまが「平成の皇室像」をつくられたように、
皇太子さまと雅子さまも新たな皇室像を考えておられるのだと思います。
例えば、愛子さまの教育方針一つとっても、それがうかがえます。東京ディズニーリゾートに行ったり、
電車に乗ったり、「普通の子どもと同じような体験をさせたい」と、いろいろなところへ足を運んでいます。
いくら「私的外出が多い」などと批判されても、それを貫いています。
そういう点において、お二人には「ブレ」がありません。
橋本さんは、雅子さまの治療方法に対して疑問があるようですが、
仮に別居をしたとしても、自由に買い物や学校に行ったりできるわけではありません。
国内にいる限り、「監視」されている状態で、今と何も状況は変わりません。
むしろ、皇太子さまや愛子さまと一緒にいたほうがいい。
最近は、公務も少しずつこなすようになり、地方へ行った際もカメラに手を振る姿も見られます。
皇室という制約された条件で、最善の結果が出ているでしょう。
そもそも、このような提言は、直接かかわっている人が背中を押すことはいいのですが、
第三者が口を出すことは患者にショックを与え、治療に差し支えます。
むしろ、雅子さまの努力を真っ向から否定するものです。このまま雅子さまのご回復を期待しましょう。

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橋本明『平成皇室論』について (2009/7/14)
西尾幹二インターネット日録より
(部分抜粋)
以上のような、三つの選択肢を考えるべき時が来ているという
思い切って論理的に整理された内容の提言を行った。
誰でもこのくらいのことはすでに考えているし、驚くほど新鮮な内容ではないが、
たゞ公開の文書で妃殿下の行状を詳しく述べ立てた後でのこの三提案だから、
事実上の「皇后失格宣言」といってもいい
http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=857

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Will2009年9月号
P30~P41
「別居」「離婚」「廃太子」を国民的議論に  橋本明 
カナダ訪問の前日に本の見本が上がったので陛下はまだ読んでいない。
陛下が読んで、「よくぞここまで~」と仰るか「この野郎」と仰るかわからない。
皇太子さまはお一人で
両陛下は2人で築いてきたが皇太子はひとりで責任を果たしている。

■皇太子さまが別人に 
皇太子「ビオラは全体の音を聴ける」エピから天皇の資質ありと見たが、変わった。
雅子妃に影響された。宮内官『殿下自身が硬く殻に閉じこもってしまわれた。
誰かがこじあけて殿下を外にださなければならない事態だった』
オクに入ると雅子妃の判断・常識・主張になり、そうなると皇太子は別人になる。
■東宮侍従長は7人にも
成婚後10年の東宮職人事を点検。東宮大夫だけでも4人、侍従職では10人
東宮侍従長もH.14までに7人も変わっている。林田氏と会うが皇太子との面会は断られる。
末綱氏と会う、野村一成氏も同伴。
『野村氏と末綱氏は非常に気が合うようでした。週刊誌では犬猿の仲とされているようですがウソです。
良いコンビを組んでやっていたと言われてました。そ
の時、野村氏に「妃殿下は一体なんの病気ですか」と尋ねたら
はっきり「精神疾患」だと答えました。「適応障害」でなく「精神疾患」だと言うわけです。
今はいい状態のお姿しか外には出していない。よくない時の妃殿下は一切外に出していないともいう。
「よくない時の妃殿下のお姿を外に出したら大変なことになる」とも言っていました。』

林田氏と橋本氏が会食(陛下もご存じ)したときの話
羽毛田長官(当時)からの林田氏への電話で、橋本の言うことだけを聞け、お前は黙っているとの指示があった。
氏が林田氏に人格否定発言を責め、皇太子殿下にお会いしたいと願ったがそれは叶わず
林田氏「今、わたしがやめたら東宮さまがおひとりになってしまう」
野村氏はけじめをつけて小和田恒氏とは会っていない
大野氏の診断に強い力あり、一時、侍従のような立場であった。

近年の東宮ご一家については、第一位皇位継承者を擁するとはいえ、過剰とも思える警備が完璧に行われる。
東宮ご一家のお出かけ先は、東京ミッドタウンや六本木ヒルズ、青山・表参道や丸の内、
恵比寿ガーデンプレイスでのクリスマスイルミネーション見物など
華やかな観光新名所が多いので、場合によっては居合わせた人たちに迷惑をかけることになるのです。

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共感と違和感と話題の書「平成天皇論」と「天皇論」を読む
東京大学名誉教授 小堀桂一郎

著者は女系天皇の出現が即ち無血革命の仮面をつけた易姓革命を意味するのだといふ
論理的連関に気がつかないわけではあるまい。
あれだけ明瞭に易姓革命に対する嫌悪を表明しておきながら、
最後の大詰の場で易姓革命を肯定する見解を表明する、
この自已矛盾はこの好著の全体としての論理の破綻を意味する。
白壁の微暇と執成しておきたいところだがこれは決して「微」ではない。
むしろ『天皇論』といふ千丈の堤も蟻の一穴から崩れる、その一穴だとでも言つておかうか。

著者に向けての切望
思ふに小林氏が女系天皇にても可との早とちりの想念を懐いてしまつたのは、
氏の歴史的叙述の正確を達成せしめた有能な助言者高森明勅氏の影響によるものであらう。
その高森氏の見解と同列にあり、氏を支持する学説の持主に伊勢の田中卓博士、京都の所功氏がある。
『サピオ』の本年八月二十六日号「ゴーマニズム宣言・『天皇論』の反響」によれば
小林氏は高森氏の同行を得て伊勢に療養中の田中氏を訪ねた由である。
詳細はなほ入手可能と思はれる同誌該当号を見て頂きたいのだが、
そこで小林氏の得た結論は、〈わしは田中先生が女系容認ならば
安心して信じることにした〉との一行に言ひ尽くされてゐる。
ここに間題の鍵がある。
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1312570

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他 平成皇室論(一部)
橋本明 朝日新聞出版2009年7月

p211
昭和天皇は東宮教育を一旦誰某に委託すれば、その人物を尊重して
ご自分から介入しないなど、俗言をもって表現すれば「よきにはからえ」型指導者だった。
皇太子(今上陛下)は名代などで多くの国を訪問してきたが、その都度官僚が用意する挨拶文には
注意深かった。関係官庁から提出されてきた演説草稿に克明ともいえる加筆訂正を試み、元に戻す。
彼ら官僚はひそかに明仁親王を「文書課長」と呼び、煙たがった。

p238
二十世紀後半から二十一世紀にかけて崩壊の道をたどったネパール王朝の歩みは他人事ではありえない。
とくに皇太子が愛する相手を親たちに認めてもらえなかったことが王朝崩壊の引き金になった
経緯を考えるとき、われわれは皇族と共に注意深く、現在皇室を覆っている諸問題の解決に当たらねばと痛切に思う。

p249
皇太子裕仁親王殿下が軍艦香取をお召艦に横浜港を出港したのは大正十(1921)年三月三日。
沖縄、香港、シンガポール、コロンボ、カイロ、マルタ、ジブラルタル経由で英国のポーツマスに入港、
英仏両国のほかベルギー、オランダ、イタリアを訪問し、帰国すると大正天皇のご不例により摂政に就任した。
二十一発の礼砲とプリンス・オブ・ウェールズ(英国皇太子)に迎えられた殿下は
特別列車でロンドンを目指した。英国王ジョージ五世は歓迎の指揮を執り、東洋の皇太子を
その地位にふさわしい栄光と礼譲で歓待した。五日間のバッキンガム宮殿滞在中、
裕仁親王は立憲君主制とは何かをジョージ五世から直接学んだのだった。
「君臨すれども統治せず」などの言葉を思い出すまま、昭和五十四(1979)年八月、
那須御用邸で行われた記者会見で昭和天皇は「ジョージ五世はご親切に私に英国の立憲の
あり方について話をしてくれた。その伺ったことが、そのとき以来、ずっと私の頭にあり、
常に立憲君主制の君主はどうなくてはならないかを始終考えていました。
その立憲君主であることが、私の考えの根本であります」と語った。

p256
初代将軍家康、続く秀忠と二代にわたって天皇を京都御所に封じ込め、学問をし、和歌を作っていれば
足りると切り捨てた。「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)十七条を押し付けたのは
天皇から政治権限を取り除き、天皇の専権事項とされてきた官位授与、元号制定権、
大徳寺・妙心寺長老など宗教界への紫衣勅許にまで幕府の同意を求めるよう仕向けた
武家の企みだった。著名な紫衣事件とは後水尾天皇が長老に与えた紫衣を幕府が奪い返し、
該当僧侶を配流した横槍を指している。
後水尾天皇が東福門院との間にもうけた興子内親王ににわかに譲位し、第百九代明正天皇を立てた行為は
徳川二代将軍秀忠に対する不快表明であり、譲位断行をもって幕府にもの申した天皇側の報復だったと解される。
お気持ちをこめて歌われた短歌を紹介しておこう。
 おもふことなきだにそむく世の中に あはれすててもをしからぬ身は

p257
慶応四(1968)年
この年は名実ともに明治期の始まりの年だった。
孝明天皇の喪に服した一年が明け、ようやく一月十五日睦仁親王は元服した。
三月十四日には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」など五箇条の御誓文を発布した。
間髪をいれず大坂に「親征」を行い、京都を離れた。帰京したのは四月七日。
明治天皇はこの年の八月二十七日即位礼を挙げた。辰の刻というから午前八時頃から
始まった様子である。元号を明治に変えたのは九月八日だった。
同時に新天皇は「一世一元」を宣布し、在位元号を「明治」一つに絞り込んだ。
京都御所紫宸殿で挙行された即位礼について絵図一幅が旧宮内省お貸し下げ写真として残っている。
孝明帝ご使用の高御座(たかみくら)は安政の大火で焼失し、作り替える時間がなかったため
御帳台を高御座として使っている。それまでは中国式に裾長、大袖だった服式も束帯に
代えられている。旛ははためかず、幣旗と呼ばれた榊が立てられ、大地球儀が据えられた。
参列者は武者も文官も和式で統一されていた。明治天皇は当時まだ独身であったため、
皇后陛下不在の即位礼だった。
明治天皇のもとに嫁ぐことになった美子の入内の儀は京都市中の不穏な情勢、さらには
美子の兄實良の死亡で遅れ、十二月二十八日に行われた。女御宣下があり、ただちに皇后に冊立された。
明治二(1869)年三月七日、事実上の遷都に伴い陛下は東京に向かって旅立たれている。
東京到着、入城とともに江戸城は東京城と改名された。
同四(1871)年睦仁天皇は東京で大嘗祭を挙げた。

明治二十一(1888)年四月、憲法制定に関わる諸問題を討議するため枢密院が設置された。
総理だった伊藤博文は直ちに辞職して新たな顧問府だる枢密院の議長に就任した。
そして憲法草案を天皇に奉呈する。有名になった憲法起草趣旨演説で伊藤は
「往古に発した諸外国の憲法は宗教を機軸に据えて人心統一に役立てている。
日本に神道と仏教があるが弱い。日本人が持つ唯一の機軸は、皇室である」と述べた。
明治二十二(1889)年二月までに伊藤は、皇位継承者を男子に限る条項を
憲法に採用するなど修正を終えた。二月十一日を紀元節という。神武天皇即位の日とされた
御親祭当日、明治天皇は宮中三殿で、皇室典範および憲法制定のお告げ文を奏した。
続く憲法発布の式典は新たに完成した宮中の正殿において挙行された。
天皇から憲法が内閣総理大臣黒田清隆に授けられた。「大日本帝国は万世一系の天皇之ヲ統治ス」
「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」―立法、行政、司法三権は天皇に属した。
憲法と同時に発布された皇室典範は独立して憲法と同格だった。さらに軍部を統帥の下に置いた。
こうして政治大権を持たず文人天皇として身を処してきた江戸期天皇像は大きく軍人天皇に
変貌して再生したのだった。また立憲君主のあり方として現職大臣らが天皇に輔弼責任を負うという
天皇の恣意的行動を制約する条項を加えている。元老という顧問団に下問しない限り
首相など重要人事を勝手にできない建前である。憲法と同格の典範は昭和二十二(1947)年
五月三日新憲法の下位法となるまで特異な立場を守った。

P278
朝香宮鳩彦王、閑院宮春仁王、竹田宮恒徳王ら三人の皇族を支那派遣軍、南方軍、関東軍など
アジア各地の皇軍拠点に派遣し、整然と武装解除するよう指導したのが天皇だった。
天皇の指示に従い、一発の砲声も聞かず、争いも記録せず、海外派兵軍が祖国帰任を果たした
現象を当時の世界は奇跡あるいは七不思議のひとつに挙げたものだ。
それなのに戦後直ちに戦前の精神的よりどころを綺麗に捨て去った日本人に
ニクソンは解決しがたい魔性を見たようだ。
吉田茂が、「臣茂」と不変の態度を天皇に示していた姿勢には、言及していない。

ポツダム宣言は「最高司令官は、天皇を含む日本政府機関を通じて権限を行使する」
対日間接統治の方針を打ち出した文書だ。
鈴木貫太郎内閣が条件をつけた天皇制護持に対し「日本統治の形態は国民が決める」と回答、
GHQ指導による世論調査が実施された。結果はほぼ98%が天皇を支持するという驚くべき数字で終わった。
国民が窮地に立った天皇を「守る」という意思で救ったのだった。

キリスト教精神を堅持し、抑圧からの民衆解放を最善と見た最高司令官は日本に平和的民主主義の
徹底を図った。
戦争責任追及を回避し、東京裁判から天皇を外したのは戦後の国際情勢と米国で主流を占めた
勢力の日本観による。
昭和23(1948)年1月12日、「いまや私は一層の決意をもって万難を排し、日本の国家再建を
速やかにするため、国民と力をあわせて最善を尽くす所存である」との天皇親書が
田島道治宮内府長官で連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーに渡った。
退位中止を告げる文書だった。
この前提となる天皇と三谷隆信侍従長との会話を掲げておきたい。
天皇 私は辞めたいと思う。三谷はどう考えるか。
三谷 お上がご苦痛だと思し召すほうを、この際はお選びになるべきであります。
お上がお嫌になるほうを、ご苦痛と思われるほうを、お選びになるべきであります。
当時の政局および世界情勢を熟慮して天皇は退位を思いとどまり、「止むを得ない」と続投を決めたのだった。
これから天皇は道義的戦争責任をあいまいにして、
対日平和条約調印の昭和26(1951)年まで陰に陽に日本の中央政治を実態的に動かした。

P292
参与会が過去たびたび両陛下のお話を伺っていると私は明らかにしたが、陛下の公務のうち
新年参賀にお立ちになる回数を七回から五回に減らす、あるいは地方行幸の折に
恒例となっていたお言葉をはぶくなど健康を主体にした見直しの方針は、参与会が把握した
両陛下のお気持ちを酌んで長官が発表したものと解している。
ただし発表を控えるという長官判断もまた躾として存在するのではないか、とも私は感じている。

P297
三笠宮寛仁親王は無慮数限りない闘病生活を重ね、重度の手術を受けられながら、
旺盛な生命力に支えられて、存在感を際立たせておられる。
昔時、皇籍離脱をほのめかして当時の明仁親王自ら翻意を促したほど問題児だったが、
札幌冬季五輪組織委員会に積極的に加わり精神的にも自立され、麻生信子と結婚し、
二人の女王を儲けた。東京・築地の国立がんセンターで咽喉部手術を受けたころを
振り返って講演されるとき、主軸となった話題の主は信子妃だった。
献身的に調理に挑戦し、五度に分けて細々と栄養補給を繰り返す日々、
信子妃は病床の枕辺に立って夫に食べさせる。感謝を覚えつつ妻のこまやかな愛情に
謝意を述べる髭の殿下は聴衆から温かい拍手を浴びていた。
その信子妃が軽井沢にこもられて久しいときがあった。なるべく人前に出なくてすむようにとの
配慮だったという。親王は東京で別居生活を保っておられた。その後、赤坂御用地内に
別棟を建てて妃殿下を住まわせておられるが、二人の女王はご自分の膝下から離さず、
信子妃は一人の状況に置かれている。