皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます

WiLL-2008年5月号 
西尾幹二 「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」より

天皇家に嫁する者も、周辺にあってそこに関係する者も、遠くからこれを敬愛し眺める者も、
国民はここに自分たちと同じ尺度、同じ価値、同じ社会意識を持ち込むべきではない。
歴史は個人の自由を超えている。天皇にも自由意志はない。
それを無言で教えているのが近代史の届かない処にある王朝の歴史である。
歴史の短い民族は欲してもこれが得られない。日本民族には稀有な天与の宝が授けられているといっていい。
天皇は神ではない。神を祭る祭祀継承者あり、いわば神主の代表である。
天皇は伝統を所有しているのではなく、伝統に所有されている。
天皇とその一族は国民の代表として伝統に対する謙虚な番人でなくてはならない。
天皇制度と天皇(及びその家族)との関係は、比喩でいえば船と乗客との関係である。
乗客はいまたまたま船に乗っているが、船主ではない。
天皇家は一時的に船をお預かりしている立場である。
今上陛下そのことをよくお弁えになっておられるように思える。
歴史に対する敬虔さ、国民に対する仁愛、祭祀の尊重と遵守にそれはにじみ出ている。
皇太子殿下と妃殿下にその自覚がはたしておありになるのか否か
皇室は平等の理念にも、競争の原理にも無関係で、次元を異にした存在でありつづけた。
当然である。皇室は自由や民主主義の尺度の外にある。
そのことは永い間ほとんど自明のはなしであり、誰ひとり疑問とする者はいなかった。
旧華族という別の秩序が存在し、天皇家を無言の裡に支えつづけていると信じられていたからである。
ところがいつの間にか局面が変わっていた。天皇家の婚姻が学歴主義とクロスした。悲劇はここに胚胎している。
平成十六年(2004年)五月十日、皇太子殿下が記者会見で、
雅子妃の「キャリアと人格を否定するような動きがあった」と挑発的ともとれるようなご発言をなされた。
例のないことだった。
ほどなく皇太子殿下は自らの発言の真意を不十分とはいえ、敢えて説明する文書を公表された。
その中で予想されたとおり、殿下は皇室の環境に対する妃殿下の適応への努力を弁護し、
彼女が「その経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動を行って欲しい」という、
皇室の伝統に逆らうお言葉を述べられた。
「人格の否定」の具体的内容に対する言及はなかった。
雅子妃の「キャリアと人格を否定する動き」への皇太子殿下の強い抗議は、
ヨーロッパの王族の自由度の広い生活を比較の視野に入れてのことであったろう。
しかし困ったことに、ここには錯覚がある。妃殿下が日本の皇室をヨーロッパの王家と同じようなものだと想像して
天皇家に嫁がれたとしても--多分そうなのだろう--希望表明されている「皇室外交」は願望にとどまり、
日本では考えられない。否、ヨーロッパだって、王家に格別の「外交」を期待している国はない。
「王室外交」なんてシリアスな意味では存在しない。
ただいかにも賑やかな「社交」があり、それが日本から見て自由度のたっぷりした、
抑圧のない、開かれた、明るい世界にみえるだけであろう。
それが錯覚だと妃殿下にお教えするにはどうしたらよいか。
ヨーロッパと日本の歴史に関するありふれた通念を変えることをまずお勧めする。 
日本は一つの文明圏であり、それに対応しているのはイギリスやオランダや
スウェーデンやデンマークなどの各国なのではなく、
ヨーロッパ全体なのである。これが問題を解く鍵である。
各王家は日本でいえば大名家に相当する。だから相互婚姻関係があり得る。そう考えるべきである。
しかも各王家の誕生はたかだか中世末か近世である。日本のように古代とつながっている例はない。
日本の皇室は歴史の長さが全然違う。
日本の天皇の系譜は神話によって根拠づけられ、神話と王権は連結しているのである。
そして神話につながるということは、自然万物につながるという意味でもある。
日本の天皇の場合が唯一そうで、世界の他の王権に類例を見ない。
中国の皇帝は天の概念の介在によって神話の世界とは切れている。
ヨーロッパでは神話の世界とつながっているのは教会であって、王家は神格ではない。
日本人は自然に開かれ、全自然の中にわれわれとつながる生きた命を見、そこにカミが宿る世界を見る。
天皇がカミだという意味はわずかにそういう意味であって、
キリスト教的な意味での絶対伸でもないし、中国皇帝のような政治的絶対者でもない。
巨樹にしめ縄をはって神様のようにして祈る日本人の宗教観念にどこかで関わるのが天皇の存在である。
天皇は日本人の信仰世界、神道のいわば祭祀役なのであり、
国際が行こうなどとはどうあっても関わりようがないし、関わりがあってはならないのだ。
小和田雅子さんも教養のある日本人の一人であるなら、
それくらいの常識を弁えたうえで、天皇家にお輿入れされているはずではないか。
「キャリア無視」と「人格の否定」と「海外生活のないこと」への妃殿下のご不満を耳にして、
言論誌に思い切って次のように認めた。

 私は頑迷な保守派が唱えるように、皇太子殿下にご発言をお慎み頂き、妃殿下には
 ひたすら忍苦を求めるという対応を提言する気にはなれない。
 皇室の運命の骰子はすでに投げられている。
 妃殿下には都内にオフィスとスタッフを持って、スウェーデン国王のようにSPを助手席に
 乗せるなどして、颯爽と自ら運転して出勤し、政治と思想以外の何らかの国際知的社会活動を
 展開していただく。雑誌に評論なども書くことがあっていい。
 われわれも遠慮なく自由な批判を加えてもいいことにしたい。
 開かれる皇室を望むからではない。
 もう開かれてしまっているものを閉じても、人間悲劇を生むだけだからである。
 妃殿下もそれでかえって何かを悟られるであろう。
 もとより「皇室外交」などというものは存在しないことを両殿下に肝に銘じて頂いた上での話である。
 おしそれを外交官のご父君が予め教えていないのだとしたら、小和田氏の罪である。
 (『正論』2004年8月号)

近代社会勝ち抜きの家系の学歴の高い才媛が皇室に輿入れすれば、
どなたも雅子妃のような運命に見舞われるとは決まっていない。
賢明に対処できる方もいる。ここには個人差がある。
国際社会で思い切って「知的社会活動」をしていただいたらどうかと書いたのは、
妃殿下はそれでかえって一人前の舞台をこなせる能力の不足を知り、自分の限界に気づいて、
自己主張を控えるようになり、宮中生活に落ち着きを取り戻すこともあるだろう、私はそう考えたためである。
平成20年(2008年)2月13日、おそらく天皇陛下のご意向を受けて宮内庁長官が皇太子殿下をお諫めになった。
陛下が「愛子さまに会えない」ことをご不満としているので、
殿下ご自身が参内の機会をもっとふやすと約束なさっていたお言葉を
守ってください、と長官は言ったのだが、これは表向きの表現であって、国民は一を聴いて十を悟っている。
皇太子殿下の御心が妃殿下にかかり切りになり、宮中にも、国民にも顔を向けない。これを問題としている。
落としを召された天皇皇后両陛下は最近ご健康すぐれず、
宮中祭祀の心得も、帝王学の数々もいまだ十分に陛下から伝承されていないではないですか。
皇太子殿下、もっとしっかりして下さい、責任を弁えて下さい、と、
長官が言葉どおりそう言ったかどうか分からないけれども、
まあ俗にいえばそういう発破を掛けたのではないかと思われる。
マスコミことに週刊誌の一部には言葉の端々に、根強い「雅子妃仮病説」がある。
妃殿下は本当に病気なのだろうか。
皇居に出向かないといって非難されるとあわてて参内し、
好きな所へ遊びに出掛ける前にいやいやながら一寸お務めし、我侭で、身勝手なのは計算づくである、と。
そういう猜疑の声はじつは全国津々浦々にある。イ
ンターネットを見ているとうねりをなすような国民の裏声が
それだということを、知らない人のために申し添えておきたい。
曰く”遊び歩いて都合が悪くなるとうまく体調も悪くなる”
曰く”公務しないで遊び歩いて、自分を何様だと思っているのだろう”
曰く”御所のご奉仕団にほんの一寸のお礼の挨拶もできない人が、どうしてスキーには行けるのだろう”
遠くから見ている人に「仮病」に見えるのはご本人には不当な仕打ちかもしれないが、
皇室の評価はこういう噂に左右されるものである。無視できない要素である。
誰の目にも分かる病気なら快癒を待つこともできる。
終わりのない憂鬱の雲が次の代の天皇の治世を覆い尽くすようになるのをいま看過してよいのだろうか。
雅子妃殿下は平成15年9月から宮中祭祀にはいっさいご出席ではない。
一般のご公務もとどこおりがちだが、宮中祭祀はご公務よりはるかにハードルが高いと聞く。
いつ再び可能になるか分からない。
しかも天皇家で最重要なのは、前にも述べた通り祭りである。伝統と歴史に則った密儀秘祭の主宰者であられる
天皇陛下が一番ご心配になっているのは皇太子ご夫妻へのこれの伝授である。
雅子妃の主治医がすでに五年目に入る病いの今後の見通しについて無言でいることは許されない情勢になってきた。
総理大臣が知らん顔をしていることも難しくなってきた。
宮内庁長官の昔なら切腹覚悟の今回の諫言が意味するところを、関係者は深く思い致さなくてはならない。
さし当たり雅子妃の主治医を複数にすることを私は提言する。
現在の方とは系統や学派や年齢も異なる精神科医を希望する。精神医学は半ば哲学的解釈の領域に接するので、
決定的判断に至るのは容易ではないからだ。雅子妃ご本人の自己解釈の公開も求められよう。
この問題はいうまでもなく一人の人間の治療に最終目的はなく、
国家の安泰に本来の目的があることを忘れないでおきたい。
雅子妃問題が生じてから病気とその治療がもっぱら話題の中心になってきたが、
皇統の将来への憂慮のほうが優先されるべきである。本末転倒に陥ってはならない。
過日、宮内庁関係者から次のような言葉が飛び出したという。
「これはもう雅子妃のご両親がいけません。小和田家は『皇室の仕事ができないなら、娘を引き取ります』と
言うべきでしょう。皇后になったらそれこそ過密なご公務が待っている。
勤めが果たせないのなら引き取るのが筋です。」(『週刊現代』3月22日号)
私も同じ考えである。しかしそれにはもう一つ別の理由もある。
皇室が日本人の信仰のすみかでありつづける伝統の流れを
小和田家によって突然中断される恐れを抱いているからである。
異質のものの侵入と占拠が始まりはしないかという恐れである。
不幸や犠牲は個人の側にだけ起こるのだろうか。皇太子夫妻だけが傷ついたのだろうか。
そうではあるまい。天皇制度そのものが今度の件で傷ついている。
天皇皇后両陛下が身体をおこわしになるほどにご心配になっている事実にそれは現れている。
四年前のいわゆる「人格否定」のご発言につづいて、「時代に即した新しい公務」とか「公務見直し」とかいう
かなりきっぱりしたご意思の表明が皇太子殿下から出されたことがあった。
どちらも国民に分かるように説明しなさい、と
天皇陛下からご下命があったが、具体的な内容説明はいまだにない。
そして今回の宮内庁長官の諫言に対しても、殿下は記者会見でこの手の質問が出たらこう答えようと予め、
お決めになっていたような紋切型で「プライヴェートな事柄
」「家庭内の事柄」と二度にわたって迷いなくピシャッと門戸を鎖した。
「人格否定」から「時代に即した新しい公務」をへて「プライヴァシー」に至る言葉は
皇族のお言葉遣いの中にかつてあっただろうか。
天皇家にはなじまない。スローガンめいていて、政治的匂いさえする。
単語が繰り返されるだけで、具体的に広がりのある内容説明がなく、
現状批判のご意志だけがはっきりしている点でもスローガン的である。
失礼ながらご結婚後の殿下は妃殿下に台詞をつけられているような気がしてならない。
外から見ているわれわれのような者にはこれは痛ましく、官僚による皇室の侵害に思える。
天皇制度そのものが傷ついているのではないかと先に言ったのはこの意味である。
そしてこれらのスローガンめいた言葉から、天皇家が絶対に使ってはならないあの言葉、
最も無縁であるべきあの言葉へはあとほんの一歩である。すなわち「人権」。―
私はいつもテレビでお姿を見て疑問に思うのは、
ご長身の妃殿下があえてヒールの高い靴をお穿きになって皇太子殿下のすぐ横に立たれる余りの遠慮のなさである。
つつましさ、控え目、奥ゆかしさ、慈悲深さ―
皇族に対する私たち日本人一般の期待はここにある。
皇族のご親族、ご縁者に対しても同じ期待を抱く。
個人の自由を超えている王朝の歴史への祈りと敬意を共にしているからである。
皇后陛下のご実家の正田家のご両親がいかに謙虚で、娘に私的に会うことも可能な限り避け、
お父上はご成婚後企業の代表を退かれたのは語り草になっている。
それにひきかえ、というのは余りにも絵に描いたような話になるのだが、
小和田恆氏はご成婚の九ヵ月後に国連日本政府常駐代表特命全権大使になった。
そしてその後も官僚としての経歴の上昇を重ねている。
娘を天皇家に嫁がせた者は、そこで人生の経歴を終わらせるのでないのならば、
何らかの卑しい野心を疑われるというのが日本の歴史の教訓である。
小和田氏は日本は「普通の国家」にはなれない「ハンディキャップ国家」である、という
卑屈で奇妙な否定的日本論をかつて展開した人物である。
それによれば日本は中国に謝罪しつづけなければならない。
靖国参拝もしてはいけない。昭和六十年には土井たか子の質問に答えて東京裁判史観を肯定するようなことも言った。
日本の外務省の代表見解ともいえる、進歩主義的反日的思想の持主であることは紛れもない。
天皇制度を廃止しようとしている共産党以下の進歩派左翼は革命的なスローガンなどを
今はなにひとつ掲げようとはしていない。
そんな必要はなく、皇族の「人権」を認めよ、というのが一番スムーズに通りがいいことを知っている。
皇族を解放し、彼らの「人権」を取り戻し、一般人と同じ信仰の自由、言論の自由、
離婚や再婚の自由を与えよ、と秘かに言いつづけているし、
機会を掴めばその声は朝日新聞やNHKを中心に一気に大きな声に高まるだろう。
雅子妃の「環境不適応」のうつ病の問題は彼らの目に絶好の好餌と映るであろう。
まさに「人権」の問題である、と。ご本人たちが「キャリア無視」だの「人格否定」だの「公務見直し」だの
「プライヴァシー」だのと不自然な声をあげているのは、天皇制度が人権を侵害していると叫んでいるようなもので、
皇太子殿下は政治的罠にはまっていることにお気づきではないように見える。
雅子妃殿下は天皇制度の内部に入ってそれを内側から少しずつ崩しているいわば獅子身中の虫とあえて言っても、
今までの流れからして暴言とは思えない。
小和田恆氏と外務省の「反日思想」がそこで小さくない役割を果たしているに違いない。
実際、得たりとばかり左翼フェミニスト上野千鶴子氏は書いている。
「戸籍も住民票もなく、参政権もなく、そして人権さえ認められていない皇族のひとたちを、
その拘束から解放してあげることだ。
住まいと移動を制限され、言論の自由もなく、プライヴァシーをあれこれ詮索され、つねに監視下に置かれている。
……失語症や適応障害になるのも無理はない。天皇制という制度を守ることで、日本国民は、皇族という人間を
犠牲にしてきたのだ。」(『朝日新聞』2005年8月17日夕刊)
ご覧のとおり雅子妃問題は敵の恰好のターゲットとして利用され、
予想以上に天皇制度の廃止論の危険の水位は上がっている。
知らぬは安心しきっている保守系のひとびとだけである。
しかし本論が示してきたとおり、今回の件は学歴能力主義と高級官僚の家系が
「反近代」の天皇家とクロスしたがゆえに
起こった例外的な災厄であって、ある意味で雅子さん個人の問題である。
秋篠宮家の紀子妃殿下には不適応病理はまったく生じていない。
天皇家の人々は天皇制度という船の乗客であって、船主ではないと私は言った。
船酔いをして乗っていられない個人は下船していただく以外にないだろう。
皇室ジャーナリストの松崎敏彌氏が「場合によっては秋篠宮への皇統の移動も視野に入れる必要がある」と
大胆に提言しているのは納得がいく。
成熟した男子である皇太子殿下にとりあえず国民が期待しているのは、
天皇ならびぬ国民に向けた謝罪のニュアンスのある言葉、
今度の事件全体を統括した他の手の影響のないご自身の言葉である。
自分たち三人家族は幸せに暮らしていますというメッセージだけではもう十分とはいえない段階で、
国家と国民を慮った、自分のファミリーの側の落ち度にも言及したお言葉が欲しい。
そうすればお言葉もバランスよく落ち着くと考えている国民は決して少なくないと私は思う。
いつも判で捺したように「雅子は徐々に快方に向かっています」というだけでは
もうあまりにも現実の要請から遠すぎる。
しかし先の医師によると、殿下がそういうお言葉をお漏らしになるとそれが報道されて、妃殿下の病気が重くなる、
だから何も言えない、そういう網にからめとられたような状況だ、というのだが、果たして本当だろうか。
それほどの事態であるのなら、このまま時間が推移していくのはさらに恐ろしいことで、やがて日本の皇室が
ものの言えない沈黙の網にからめとられていくのをわれわれ国民は黙って看過してよいのか、という別の問題が発生する。
じつは私などが一番心配しているのはこのことで、妃殿下のご病状が不透明のままに第126代の天皇陛下が誕生し、
皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい、という身勝手な、
薄明に閉ざされた異様な事態が現出することを私はひたすら恐怖している。
そしてそこに、外務省を中心とした反日の政治勢力がうろうろとうごめく。
中国の陰謀も介在してくるかもしれない。天皇家は好ましからざる反伝統主義者に乗っ取られるのである。
そして、皇族に人権を与えよ、という朝日とNHKの声は高まり、騒然とする。国民はどうなっているのか読めないし、
どうしてよいのかも分からない。ただ呆然と見ているだけである。
皇室がそうなった暁には、この私も中核から崩れ始めた国家の危険を取り除くために
天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない。
そうならないためのさし当たりの私の第二の提案は、宮内庁と東宮につとめる外務官僚の辞任を実施することである。
外務省も今のうちなら、ない腹をさぐられるよりその方がいいときっと思うだろう。

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西尾幹二 御忠言シリーズ

皇太子への御忠言第2弾!
これが最後の皇太子さまへの御忠言
もう一度だけ皇太子さまへの御忠言