2007年1月-5月雑誌記事

週刊ポスト2007年1月1・5日号
11月11日着袴の偽の後の両陛下へのご挨拶が、予定で15分しか組まれていなかった。
この15分という数字は海外の賓客に接見するのとほぼ同じ時間、
つまり儀礼的な挨拶という意味合いでしかないということで、
親子が親密な会話を交わすための時間設定ではないということ。
それを設定したのが東宮側。

選択2007年2月号
崩れた夫妻一体の公務スタイル
元旦の恒例行事「新年祝賀の儀」
「日嗣の皇子」は皇室でも特別の処遇を受ける存在でその位置は重く、大きい。
しかし雅子妃は「祝賀の儀」だけで帰り、三権の長、外交使節団の祝賀は皇太子だけの出席となった。
皇室行事で「東宮妃の不在」はもはや見慣れた光景になっている。
天皇は「国民とともにある皇室」を目指し、日常の活動の中で実践してきた。
皇后とともに災害地を訪れ、ジャンパー姿で被災住民の避難先に行き膝をついて語り、励ます。
皇后は半歩下がって行動をともにしながら細やかな言葉かけをしてきた。
国民も、天皇夫妻が一体となって社会的弱者を励ます姿に皇室の表徴をごく自然に感じてきた。
皇太子夫妻はどうか。地方訪問に限って言えば、公務としてはこの三年間にわずか三回。
夫妻が一体となって公務に当たるスタイルは既に崩れている。

勤労奉仕団に会わず
雅子妃は03年秋の秋季皇霊祭以来、一度も宮中祭祀に出席していない。
また、皇族は外国訪問のときはかならず宮中三殿に参拝し、時には天皇陵にも赴き、
渡航の報告と「旅の平安」と皇祖皇宗の「ご加護」を祈るが、オランダ訪問時に雅子妃は参拝していない。
単独公務、祭祀不参加は「適応障害のため」と説明されている。
典範改正問題の際、国論を二分しかねない状態に天皇は心を痛め、側近によると「眠れない日々が続いた」という。
天皇は自分の時代に皇位継承の問題が、将来への展望が開けるような形で決着することを強く望んでいる。
世俗的関心や利害を超越した公正無私の姿勢、誰に対しても同じような態度で接する一視同仁、
そして国家国民の平安と世の中の平和を静かに祈り続ける、これが皇室の発信し続けてきた普遍的価値
東宮の動きは時代の気分にあわせた前向きの変容なのか、それともまったく変質した形に向かおうとしているのか。
今月47歳を迎える皇太子は、次代の皇室を担う立場として自らのベクトルを指し示す時期に来ている。

女性セブン2月15日号
冬季群馬国体・東宮職
「雅子さまが出席されることを考慮に入れて、行啓日程がご負担にならないようにと、
いままでにないほど緩やかなものにしたのです。」
1月26日 午後1時過ぎ東宮御所出発 その日は泊まるだけ
1月27日 開会式御臨席 フィギュアスケートご観覧。
「今回、スケジュールを緩やかにすれば、雅子さまのご出席がかなうかもしれないと、
東宮職は望みを託したのかもしれません。
しかし、残念ながら雅子さまのご出席はかなわず皇太子様おひとりでの行啓となりました」
宮内庁関係者
「側近も雅子さまの状況が把握しきれぬ状況の下、どこまでご公務をおすすめしていいのか、
お休みになっていただくべきなのか、その判断に苦慮している。
その中で愛子さまの春休み中にはご家族でスキー旅行の計画もあり、
これからどのように対応すべきか戸惑いを隠せないようだ」
「当初はご欠席の予定でも、ご体調次第では突然の御出席も可能なような柔軟な対応も考えている」
東宮職は雅子さまのとても繊細で、何か事があると、緊張されるタイプという性格を考えて、
ご家族のプライベートな外出を増やしている。
「皇太子様が愛子さまの送り迎えをされるようになり、多いときは週3日ということも。
さらに、幼稚園の電話連絡も皇太子様がなさることが度々という」

現代2007年1月20日号
雅子妃新年にかける決意ードキュメントー 友納尚子
一日も早く公務に復帰されたいと願われているのだが、
逆にそればかり考えてしまうと精神的に負担になってしまうというジレンマがある。
そのために、私的な楽しみも行うという治療をされているのだ。
オランダご静養は、現地に到着されるまで、フラッシュバックの症状があったという。
フラッシュバックとは、精神的負担を招いた体験が思い起こされるものだが、
外国に行くことが出来なかった療養中のことを思い出され、苦しまれたのだった。

女性セブン2007年1月18・25日号
雅子さま苦しみの背景私の不安は的中した!-25年来家政婦決意の告白 
小和田家元家政婦
雅子さまは昔から朝起きてこない。
小和田家は合理的で冷蔵庫にほとんど何も入っていない(外食が多い)。
恒さんは部屋の電気を消して回る。
一家団欒はなく、食事も黙々と食べ食べ終わったらそれぞれすぐ自室へ。
エレナ王女レセプションは当日優美子さんが雅子さまに行くように勧めた。
「雅子は前々から決まってる用事だと、当日になって気分が変ってしまうことがよくあるので、
あの場に連れ出すのは本当に大変でした。敢えて当日まで何も言わず、
さりげなく『こんな催しがあるけど行かない?』と当日になってさりげなく聞いて、連れ出す事ができました」
雅子さまは言葉は少ないかわりにはっきり話す。
家政婦の話に対して『●●さん、それは××という意味でしょう?』とまとめられる。
そのあたりは欧米風というのでしょうか。
愛子さま1才9ケ月の里帰り時、江頭夫妻は大喜び。
だが愛子さまは雅子さまの傍に座ったきり一点を見つめたままじっと動かない。
雅子さまは二階の自室でしばらく休んだ。
木造2階建ての江頭邸が改築されて現在の小和田邸になったのは86年。

アエラ2007年2月5日号
「皇太子夫妻「本当の仲」
東宮ご夫妻はチグハグ
お相撲観戦のとき、退去する際、皇太子さまがまだ手を振っている中、
雅子妃は愛子さまの手を引いて退出しようとしていた。
塩原駅でも同様に、出迎えの人に手を振る皇太子さまに対し、
一刻も早く立ち去りたい風情の雅子妃は先に車へ歩き始める仕草。
雅子妃は7,8cmのヒールを履きかさ高いセミロングの髪の毛にして、
皇太子さまより「肩の高さだけでも10cmほど違う」映像が出回る。
近年、ご夫妻とプライベートな場で会った人の証言 
雅子妃は皇太子さまに対し仰々しい敬語を使うことはなく、
「(雅子妃が皇太子さまに)素っ気無い感じがする」
皇太子さまはいてくれることに感謝
静養に入って3年間に皇太子さまの家族への心遣いが知られるようになった。
人格否定発言から愛子さまの送り迎え・・・
お2人の生活時間の「ずれ」
雅子妃は夜型生活パターン。皇太子さまは新婚当時から一人で朝食。
国連大学に通うようになってからは深夜まで資料を読みふけることもある。寝室も別
皇太子さまの会見で愛子さまが「雅子妃の寝室」にケーキを持って行ったというエピから推測。
「外国訪問ができなくて 適応に努力が必要だった」発言はまずかった。

週刊朝日2007年3月2日号
「哀しき皇太子 雅子様への視線と姿勢」
象徴天皇制確立に尽力された昭和帝、慰霊と平和を祈る今上帝に対し皇太子の天皇としてのあり方が未定
森暢平「雅子さまを幸せにするというテーマがあってもいいのではないでしょうか」
「公」に使命を求め難い状況だからこそ「家族を幸せにする」ことが命題となるとして
「皇族だけが社会の価値観と無縁に生きることはありえない」
橋本明
「皇太子夫妻は水俣を訪れるべきなんです」
「海外にばかり目を向けるのではなく、足元の負の歴史とまず向き合ってみてはどうか」
142~145ページ
雅子さまは修士論文を終えられなかった。
皇太子さまも修士論文を取れたのはオックスフォードを去ってから更に3年後。
しかも他の研究者4人からかなり手伝ってもらった。

週刊ポスト2007年3月23日号
美智子皇后「覚悟の公務」で湧き上がる「摂政」待望論
現在の皇室典範では摂政を起用する条件・就任順位を定めているが、
「摂政を置く条件が、『身体の重患』というのは長寿社会に適していないのでは」との声あり。
■摂政について
「皇太子殿下が摂政の第1候補だが、雅子妃の回復がままならない場合、
秋篠宮殿下が就任してもいい」と言及する声が宮内庁職員の間にある。
法改正してでも弾力的な運用が求められるのでは。
皇族が心労を訴えたり体調を崩したりするとすぐにマスコミ報道のせいにするのは宮内庁の悪しき伝統。
「事なかれ主義の役人が多すぎる」

アエラ2007年3月19日号
雅子さまと愛子さまの仲-東宮家の子育ては今
愛子さまは笑顔が少なく人見知り、挨拶ができない。雅子さまと視線を合わせない。 
雅子さまはなんでも先回りして手出しをしてしまう、知識偏重教育。
渡辺みどり「愛子さまのペースにあわせてゆっくりと話をお聞きになる
お父様のほうが波長が合うような気がするのです」
秋篠宮さまの方が、皇太子ご夫妻より子ども扱いに優れている。
天皇ご一家写真撮影で、カメラに視線を向けない愛子さまを
秋篠宮さまが誘導してカメラに視線を向けさせた。

文藝春秋2007年4月号
櫻井よしこ氏
「”雅子さんのことは一生僕がお守りします”という私的な発言を、
婚約の記者会見で明かしたのは残念でした」
静岡福祉大学の高橋紘氏「全くです。言質を取ったと言わんばかりに」

女性セブン2007年3月29日号
去年の2月に計画されていた奥志賀スキー中止が決まったのは出発の2週間前
今年は1月から県警はじめ関係者は連日準備
皇太子一家のホテルは、同行の宮内庁関係者、皇宮護衛官が泊まりワンフロア貸切り
長野県警の警備員(警察官)は、スキー場周辺のペンションで待機、宿泊
ドタキャンしてもキャンセル料は無し。去年もドタキャンだったが 
「キャンセル料を頂戴するわけにもいかないし・・・」(地元の関係者)

SAPIO年5月9日号
皇室典範から雅子妃問題まで これでいいのか!「皇室の危機」
現在、皇太子ご夫妻よりも秋篠宮ご夫妻のほうが、天皇皇后両陛下を深く理解し、
皇族としての強い責任感を抱き、将来の天皇、皇后にふさわしい資質を持つとの見方が広がっている。
とすれば、旧仲裁しを守る立場から、皇室典範第3条にある「重大な事故」を拡大解釈し、
皇位継承権第一位の座を皇太子殿下から秋篠宮殿下に移そうとの議論が生じてもおかしくない。
今は何よりも雅子妃のご回復を願う。だが一皇太子妃のご病状回復と歴史上連綿と続いてきた
宮中祭祀が天秤にかけられるようであれば、
離婚ないし皇位継承権の変更を想定せざるを得ない事態になると思われる。」(八木秀次)
ここが大事なことだが、開かれた、ということがヨーロッパやアラブの王様のように、
ブルジョア的なただれた生活をすることであってはならない。
日本の皇室は封建領主ではないし、私有財産もさほどあるわけではない。
また、伝統的にもあまり贅沢な生活をすることは皇室にふさわしくないと考えられてきた。
その意味で、皇室の人々が東京の富裕層の取り巻きに囲まれて、
贅沢な生活をするようなことがあってはならない。(中略)
或いは皇族が病気治療のためといえども、1億円の公費を使って海外へいかれるといったことも、
余り日本の皇室にはふさわしくないと思うのだ。」(八幡和郎)

選択2007年5月号
皇位継承順位 宙に浮いたままとは何事か
■「皇室典範改正準備室」元メンバーでキャリア官僚
1年9ヶ月に渡った山あり谷ありの転変を「ジェットコースターに乗っているような感じだった」
親王誕生ののち、典範改正が封印されたことについて
「乗っていたコースターはどこに行ったんでしょうね」
もっとも担当官僚たちは紀子妃ご懐妊の段階で早々に先送りを決めていた。
「(親王誕生の場合は)典範改正の機運は盛り上がらず、
(秋篠宮家の)内親王の適齢期を迎える7~10年後にこのままでよいのかと再び盛り上がってくる」
官僚は機を見るに敏で、「時我に利あらず」とみていた。
■凄まじかった安倍の巻き返し
ご懐妊がわかった昨年2月7日、小泉に対し、
「男子なら皇位継承権は三位、天皇125代は男系で続いてきたので正統性はこちらにある。
今、皇室典範を変えると、この子から継承順位を奪うことになる」と説得、法案提出断念に追い込んだ。
■ブレーンのひとり、八木秀次教授の持論
「神武のY染色体を持つ男性のみが皇位継承資格者」
旧皇族男子の皇室への復帰を唱えている。これに安倍もシンクロ。
国会での代表質問にたいして「慎重かつ冷静に国民各層の賛同が得られるように」と典範改正の方向を凍結した。
■悠仁親王の「帝王教育」はどうする
昨年10月、「皇室の伝統を守る国会議員の会」が発足。
超党派の議員連盟の体裁をとっているが、基調にあるのは男系男子による皇位継承。
注目すべきは即位礼や皇族教育のあり方、相続税支払い義務の是非など
宮中祭祀や皇室経済法なども視野に入れて検討を進めようとしているところ。
現典範も旧典範の一部改変、大嘗祭など儀式の詳細を定めた法律が戦後なくなり、
天皇家の家法的な位置づけで旧法に準じて営まれている。戦後の混乱期に付け焼刃的対応で摘ませた
皇室関係の法体系のトータルな確立を視野に入れている。
現典範のままでは、皇太子家に第二子以降、男子が生まれていないことを前提に皇太子が
即位した場合を想定すると、弟の秋篠宮は天皇の子である「皇子」ではないため
皇太子になれず、甥の親王も「皇太孫」とはいえず、皇太子不在が続くことになる。
秋篠宮家は現典範では一宮家としてしか位置づけられておらず、帝王教育を含めた財政的、
環境的バックアップ体制ができない状況が続く。
現在内親王は御三方、女王は御五方、いずれも15歳以上で本人の意思により、
皇室会議の儀を経て皇籍離脱が可能。寛仁親王家のご長女はじめ、結婚で離脱する内親王、
女王が近い将来相次ぐことが考えられる。そうした状況を考えれば典範改正は待ったなし。
■新井白石の「先見の明」
旧皇族の皇籍復帰や養子として皇族に迎え入れる考えにも難点多し。
復帰論の最大の難点は、悠仁親王誕生で皇統の血筋を受け継ぐ男系男子が存在する中で
敢えて血筋の遠い旧華族の男子を養子として迎え入れる必要性を、
説得力のある理論構成で説けるか、ということだ。
また、親王を名目上の皇太子家の養嗣子にすることで、
男系男子の直系長子継承の原則を踏襲する典範改正を唱える向きもある
(所功教授)が、家族のあり方として現代の日本人の心情にかなうものか。
今の天皇家は119代光格天皇の血筋、世襲親王家のひとつ、閑院宮家のご出身。
閑院宮家は1710年設立。
それまで世襲親王家は伏見、有栖川、桂の三家にかぎられていたが、
新井白石が、徳川宗家の親子継承ができなくなった(五代目綱吉)ことなどを考慮し、
新たな世襲宮家の創設を進言して誕生した。それから約70年後、後桃園天皇が内親王を残してご逝去、
仏門に入る予定だった光格天皇が急遽養子に入り、皇位を継承した。
白石の「先見の明」が皇統継承の危機を救い、今の天皇家につながっている。
先人の叡智に倣い、将来を見据えた皇室のあり方を今こそ検討すべきではないか。
政治の不作為は許されない。