友納尚子文



文藝春秋2004年7月号
雅子妃は細かい検査を何度も受け、その結果が正常だとわかると安堵して
「検査の苦しさよりも私が子供を生める身体だと、
両陛下にご理解をいただいてほっといたしました」とおっしゃったと聞いています。


文藝春秋2006年3月号
(2005年、雅子さまが天皇陛下誕生日の食事会を3時間近く中座したことについて)
雅子妃はそこで愛子さまを落ち着かせながら、皇居に残った東宮職員に、
あらかじめ定められた連絡順にしたがって、何度も携帯電話をかけ、もう少し時間がかかる旨を告げようとした。
しかし樹木が生い茂った皇居は電波状況が悪く結局連絡が取れないまま、急いで皇居に戻られたという。


文藝春秋2006年4月号
ニュージーランド訪問の帰国の際ねぎらいの言葉がなかった。
「次のこと(第2子)はお分かりですね」と念押しされた。
体調は優れなかったが、完全な休養は聞き入れてもらえなかった。
帯状疱疹の入院は、無理して行事中に倒れられたら大変になるため。
また、長期静養のレール作りだった。
2004年の皇太子誕生日の映像で、カメラマンが愛子さまをにこやかにさせるために
カエルのパペットをはめて動かしたが、愛子さまは驚いて体が堅くなってしまった。
取り直すべきだったと、雅子さまは漏らした。
奥志賀のスキーは前年から体力面からの治療の一環として検討されていた。
紀宮さま披露宴の「スーツ事件」は、披露宴での着物は負担が大きく、
万が一にも体調不良で退席することはあってはならないと、医師からの勧めで着た。
乗馬は2年前から木曜と決まっている。
雅子妃の乗馬の日に歌会始が重なってしまった。
行事を優先して休むと治療が遅れ、復帰が遅れるのでおこなった。
TDLで礼子さんたちが来たのは、医師のすすめ。
乳児院にいる難しい境遇の子供たちを前にすると、その悲しい境遇と
自分の置かれている状況が重なって見えて、悲しくて仕方が無く、訪問が難しい。
人格否定発言以降皇太子夫妻が皇居に説明にいこうとしても、拒否された。
お后教育のときは、ノート数十冊ほど書き込むほど勉強した。紀子さまの倍の時間だった。
■紀子さまご懐妊について
この日、朝からご体調が良かった雅子妃は、愛子内親王とともに過ごされていた。
「皇太子殿下は、愛子さまに聞こえないようにしながら、ご懐妊のことを雅子妃にお話になったそうです。
妃殿下は『えっ』と一言おっしゃり、たいへん驚かれたご様子だったといいます」(宮内庁関係者)
一瞬、全身の力が抜けられたようなご様子で、周囲は、
もしやバッシング報道を知ったときのようにふさぎこまれるのではないかとも心配した。
だが雅子妃は特に取り乱されることはなかった。
皇太子からそっと視線を外し、近頃とみに洞察力が増してきた愛子内親王を
心配させまいとするかのように、微笑みかけられたという。
「どちらかといえば皇太子殿下のほうが、ご病気の雅子妃殿下を気遣うあまり緊張されていたようですが、
雅子妃のご様子に安心なさったのではないでしょうか。妃殿下は紀子妃殿下のご懐妊を心から喜ばれ、
愛子さまと三人でご散策するなどしてお過ごしになりました」


文藝春秋2008年3月号
(皇太子一家の参内が少ないという)長官発言が伝えられた時、
皇太子は黙ってうなずかれ雅子妃はたちすくんだままだった。
○終戦記念日に子どもパーティー
終戦記念日であることを踏まえ、両殿下はほとんどお出ましにならず、
黙祷のための時間帯などは避けるように指示された。こうした日の持つ意味は充分に伝えると同時に、
子どもたちが遊ぶことができる平和に感謝するというお考えなのではないだろうか。
「陛下は終戦記念日、広島、長崎の原爆記念日、沖縄戦の四つの『忘れてはならない日』を
とても大切にされています。この日はご家族で静かにお過ごしになる。
殿下にもお小さい時から教えてこられたものの、
昨年に続き今年も愛子さまのお友達を呼ばれた。」(宮内庁関係者)
○皇后陛下が楽しみにしていた餅つきをドタキャンしてロオジエへ
餅つきは、新年に東宮でもやるため、二回もやるのは雅子さまが疲れてしまうと千代田に伝えたところ
そんなに負担なら中止しようということになって、予定が空いたためにロオジエに行けることになった。
皇太子ご夫妻が行くんだから、そこらのレストランというわけにはいかない
記者が張っているとの情報があり、混乱を避けるため出発を遅らせていたので、結局深夜の御帰還となってしまった。
(昨年の)夏頃の雅子妃は比較的元気だった。
葉山御用邸で両陛下と合流できず、その《ショック》で夏休み明けからの公務ドタキャン、
外務省との会食、ご進講キャンセル
例年ならば、元日の夕方は、愛子内親王は着物を着て皇居へ祝賀のご挨拶にうかがっていた。
両陛下は三権の長や各国大使をはじめとして一日中祝賀を受けられ、
最後に未就学皇族、つまり愛子内親王と悠仁親王にお会いになる。
しかし翌日にも一般参賀と午餐、お茶会、夕餐などで皇族方は顔を合わせる。
連日では大変だろうという両陛下のお心遣いから、
今年は愛子内親王と悠仁親王の新年のご挨拶は二日に変更された。
そのため、元日の夕方に東宮御所に皇太子ご一家がおられたのだ。
結果的に、愛子内親王は両陛下よりも先に小和田家の祖父母と会われたことになった。
これを知った両陛下の周囲は、せっかくのご配慮を無視されたと憤り、それが記事につながったという。
だが驚くべきことに東宮側には全く違うニュアンスが伝わっていた。
「ご静養のときと同じく両陛下のご都合で元日のご挨拶をお断りされたと思って、
両殿下にどのようにお伝えしたら傷つかれないだろうかと考えていたといいます。」(宮内庁関係者)

2005年12月に東宮医師団の見解で適応障害が慢性的に存在するため
治療が難しいと説明され、治療方針が示された
朝日の懐妊の兆候スクープは夫妻が周囲の冷たさに決定的な不信感も持つ事になったので悲劇
香淳皇后の葬儀は「夏バテのようなもの」ではなくて精神的に強く落ち込んでいたから。
オーストラリア訪問の前から不眠、朝起きられないと訴えたが、皇太子以外は誰も取り合ってくれなくて、
オーストラリア訪問という海外は雅子妃の肉体にとって辛いものとなっていた
治療は第一段階が乗馬で体力作り、第二段階は国連大学、愛子さま関連の外出、
第三段階は小和田家や友人との外食、長野冬季国体、愛子さまの連日の看病の為疲れが残り
フィギュアの時は体に力が入らず立ってられなくてドタキャン
軽井沢静養突入当初は出歩けない、立てない、危機的状況だった。


文藝春秋2008年4月号
核心レポート 雅子妃 悲運と中傷の渦の中で
それよりも彼女にとって堪えがたかったのは古色蒼然たる宮中祭祀だった。
近代的な教養を積んだ彼女は、神事に参加しているとアレルギー反応に似た発作に襲われるのである。


文藝春秋2008年8月号
千代田側の幹部の一人はお見送りの様子を見て、「愛子さまのご教育が心配だ」と嘆いたという。
なかには、環境に適応できなければ「小和田家が引き取るべきだ」とまで
吹聴する人物もいるという報道もあった。
他には「ご自覚が足りない」「仮病では」という声もある。
ご成婚3年目が過ぎたころ、カメラマンから
「雅子妃を撮影しようとすると皇太子が盾になってまるで写させないようにしているかのようだ」
という不満が出るようになった。
ベルギー皇太子結婚式に出席された頃には、宮内庁幹部に取材すると
「雅子妃はあらゆる意味で頑なだ」というばかりに口をつぐむ。
後に取材でこの頃からお世継ぎのことでもっとも悩まれ、
「皇太子妃の自覚がない」という心無い言葉に傷つかれた時期だと判った。
香淳皇后の「斂葬の儀」雅子さまが夏バテのようなもので欠席した際、宮内庁関係者に取材を行うと
「何かに傷つかれたご様子で、東宮職員が話しかけても応えない。
時には引きこもりのような感じて部屋から出てこないことがある」という。


週刊文春2009年5月7日14日ゴールデンウィーク特大号
渾身の真相リポート 皇太子と雅子さま病と修羅を越えて
雅子妃はプライベートな悩みを打ち明けても
それがすぐに千代田側に伝わってしまうことに(東宮職に)不信感を抱くようになった。
香淳皇后の斂葬の儀欠席は妊娠の兆候があったから。
しかも化学的流産で断念したのにそれを理解してもらえなかった。
「だがこの時も実は、体温の上昇などごく初期の懐妊の兆候が見られたため、
両陛下のお許しを得て欠席されたのだった」
ご懐妊の兆候があったのにもかかわらず、外国に行きたい雅子妃が周囲の反対を押し切って、
十二月初旬のベルギー訪問を決行したなどという報道もあった。
だが事実は違う。実は、ベルギー出発当日の朝、基礎体温などから懐妊の可能性があると判断されたのだ。
もし妊娠していれば、気圧の変化や渡航のお疲れが胎児にどんな影響を及ぼすか分からない。
だが、皇室と関係の深いベルギー皇太子の結婚式を突然キャンセルするには、あまりに不確定な段階である。
(ベルギー出発当日妊娠の可能性が認められて)皇太子は判断しかねた。
雅子妃は周囲の判断に委ねると言われ、医師や両陛下の意見をふまえてベルギーへ出発されたのである
「欠席すれば妊娠をマスコミに察知される可能性があることも追い風となった」
機内での皇太子の雅子妃への気遣われ方は相当なものでした
現地に着いてからはヒールを低い靴に変えるなど努力はしていた。
愛子さまが生まれてからの雅子妃は産後の肥立ちが悪くてなかなか起きられなかったり
不安を止めどもなく口にするなど不安定になった。
部屋で一人泣き続ける雅子妃の背中をさすり、皇太子はある決意をされた。
人格否定発言に宮内庁は震撼し「皇太子の乱」とまで言われた。
これまで何度かレポートしてきたが、この発言の真意は
雅子妃の現状を国民に訴えることによって専門医の治療を受けることだった。
たしかに(人格否定発言の)効果はあった。翌月、天皇皇后のお力添えもあり
ようやく主治医(大野裕慶応大教授)が着任し「適応障害と診断され治療が始まったのである。
が、千代田周辺からの東宮家に対する反発は凄まじかった。
前出の「お世継ぎがなかった」などというバッシングもその一環として出たものである。
覚悟の上の「人格否定発言だったが予想以上の反応に戸惑われた。
皇太子を知る人物によればかつては天真爛漫で疑うことなどなかった皇太子がどこか身構えるようになったという。
両陛下に迷惑を掛けたが、説明を求められてもそれをしなかったのは、
例え無責任とそしられても沈黙を守ることで言うべきことは言ったという思い。
皇太子が美智子さまの手を取って泣き出したという話があるがこれは間違い。そんなことをするはずがない。
愛子さまが授かるまで8年、病に倒れてから6年。二人は手を取り合って修羅の道を乗り越えた。


文藝春秋2011年6月号
雅子妃、被災者とともに回復す-避難所訪問で被災者からの言葉に励まされた
3月11日、皇太子ご一家は東宮御所で過ごしていた。
2時46分。地震発生。雅子妃と愛子さまはその場に座り込む。
雅子妃は愛子さまをテーブル下へ避難させ皇太子さまの元へ。同時に別室から皇太子さまが出てくる。
二人は揺れの続く中、脅える愛子さまを宥める。
皇太子さまはいつまでも収まらない地震にただならぬ異変を感じ取った。
雅子妃にしばらく愛子さまをしっかりと抱き離れないこと、
机などの下に隠れるよう指示すると両陛下の安否を確認。
皇太子さまは70人からなる東宮御所を束ねる長としての職責がある。
周辺によれば、敏速で冷静な対応に努められたという。
東宮御所の地震による被害は、
「グラスが二、三個割れて書類や書物などが落ちた程度だった」と宮内庁関係者は語る。
皇太子さまご自身は、テレビのニュースをご覧になり、全国の被害の大きさに愕然とされたそうだ。
定例記者会見に向う途中だった野村一成・東宮大夫も急いで電話を掛けてきた。
皇太子さまは、ニュース報道以上に被害が広がっていることを心配され、
すぐにでも被災者たちが避難している場所に行く意志があることを東宮職に伝えたといわれている。
深夜になっても皇太子ご夫妻は被災地の情報をくまなくチェックする作業を続けた。
侍従達に震源地と震度を再確認し自らも活断層を調べる。
後日、関係者などから進講を受け、国民の被害状態を懸念し続けていた。
荒れ果てた地や死者行方不明者が増えていく悲惨な状況を見聞きするのは、
心の病を抱える雅子妃にとって健常な人よりショックの強いことだったのではないか。
震災直後の雅子妃は想像を絶する被害状況や度重なる余震から
抑鬱的な気分になった日があったと言われている。
震災直後から皇太子さまと一緒に避難所訪問を望んでいた。(東宮関係者)
だがこれまでの症状からすれば、訪問実現のために越えなければならない二つのハードル。
一つは被災者と至近距離で接して長時間励ますことができるか。
二つめは大きな緊張感を伴うことがある病気の性質から、大勢から突然、
しかも近くからの声かけや見られることが負担になるのではないか。
オランダ訪問の際には外国人カメラマンが声を掛けながらシャッターを押したため
リラックスした表情ができたが、日本のカメラマンは無言で撮影することが多いためストレスを生じていた。
だが東宮職から報道側に説明しておけば問題ない。御会釈・園遊会への出席が無理なのも同じ理由。
避難所訪問については主治医の大野氏に相談。
(本人は)バッシング報道などから妃殿下として人気がないと思っている。
被災者を励ますことができれば逆に自信につながるのでは。(宮内庁記者)
両陛下が迅速かつ精力的にお見舞いされているのに皇太子お夫妻が行かないという批判、
また、雅子妃が公務に行きたがらないのでは、という見方があるが明白に事実ではない。
熱意があっても千代田側の判断や受け入れ先の都合、
両陛下お見舞いの日程や場所などの兼ね合いなど順番があるため勝手に行けない。
東宮御所では昼間でも薄暗い場所があるが時間制限をしてブレーカーを落としている。
愛子様も「節電、節電」と言いながらスイッチを切ったりコンセントを抜くなど忙しい。
「昼間はほとんど電気が付いていない。両殿下は毛糸の洋服で非常に厚着をしていた」(野村東宮大夫)
3月22日 NZ地震の犠牲者へ「ご黙祷」。
漢字の成り立ちや言葉の意味に関心がある愛子さまは意味を両殿下に尋ね、4月11日には予定表に「黙祷」と書く。
雅子妃避難所訪問の発表は当日朝。到着時には緊張した様子だったが、
被災者と話し始めると迷いやためらいは感じられなかった。
予定時間をオーバーし板の間で正座し続けて励ます姿に被災者は涙した。
被災者と笑顔で(携帯電話の)写真に写る雅子妃は(公園デビュー)その頃とは別人のよう。
静養中に初めて国民と長く対話した日でもある。
取材を続けている筆者にとってここまで回復を実感したのは初めて。
雅子妃にとって愛子さまの不規則登校も気がかりだろう。
妃は教師や母親達ともコミュニケーションを取ろうと心がけている様子。
長期休みには多くの友人を招くが、去年の夏祭りには「乱暴男子」まで招いていた。
学校の指導もあり、乱暴男子達も落ち着いて仲良く過ごすように。(同級生母親)
愛子さまは2時間目の授業から出席することが目立つように。
9時台に登校し6時間目の授業をうけてから徒歩で下校することも。(女性誌記者)
愛子さまの心は想像以上に傷ついたため通常登校ができるまでに時間が掛かっており、
夫妻も焦らずに見守る考え。
だが親の子どもへの関わり方は年齢によって違ってくるという。一年以上経過した今こそ、
雅子妃が校門までは見送られても、くるりと背を向けて車に乗り込んでいただきたいとも願っている。
今回の訪問をきっかけに進講や国連大学の受講再開という話を野村氏の会見から聞けることが楽しみ。
春休みの愛子さまは節電で薄暗い室内で楽しそうに遊び、外へ出たのは雅子妃と犬の散歩に出たときくらい。
4月11日 愛子さまは夫妻と共に初めての「ご黙祷」。(義捐金や寄付が送られている中)
自分で何ができるか何日も考えて折り鶴を数羽折った。


文藝春秋2011年12月号
宮内庁/雅子妃「ご懐妊の兆候」は一度ではなかった
最初に光明が差し込んだのは'99年12月3日、ベルギー皇太子の結婚式に参列するために出発する朝のこと。
実は出発前に懐妊の可能性があることが分かった。予想外だった。だがあくまでも『可能性』であり、
確認がとれたわけではなく、侍医も判断を出せずにいたといわれている。
雅子妃が突然の欠席となれば非礼にあたる。皇太子夫妻は出発するまで行くべきかどうか悩んでいたという。
出発まで時間がないので東宮職幹部も焦った。宮内庁幹部を通じて両陛下に報告。
情報が漏れないように外務省には知らせなかったという。
皇太子ご夫妻はいつもと変わらない笑顔で旅立った。通常は同行しない侍医も同行。
高さ6センチのハイヒールを履いていたので宮内記者たちも妊娠の兆候があるなら
そんな靴を履くはずはないと考えていたという。
真相はこのハイヒールを履いたのは結婚式に参列する衣装に替えるまでの時間がなかったから。
一般人とは違い、訪問国に失礼のないように皇族の結婚式の衣装や
それに合わせた小物を揃えるまでには時間が要る。
7日に帰国、13日に雅子妃は宮内庁病院で超音波による検査を受け、
懐妊が確認出来れば発表する予定だった。
が、直前の10日朝刊で「懐妊の兆候」と大々的に報道され、
宮内庁は13日夜に懐妊と発表できる段階ではないと発表。
後に稽留流産されたことは周知の事実。
だが懐妊の可能性は宮内庁関係者によれば「幾度もあった」という。
2000年7月、雅子妃は斂葬の儀を夏バテのような状態で欠席。
「この時も懐妊の可能性があったといいます。ベルギーご訪問の時よりもその兆しは強く
体調は思わしくなかったようです。度重なる検査や治療で酷くお疲れになって起き上がれなかったのです。
事前に儀式を欠席したいという意向を宮内庁側に伝えたところ理解されなかった。
この対応に雅子妃は精神的にも孤独感を持たれこの頃から以前のような肉声会見はおろか
笑顔まで消えていったのです」(東宮関係者)雅子妃の様子を当時の東宮職は
「新聞にリークされたことで宮内庁幹部に不信感を持ち、気分が沈みがちで部屋にこもりがち」という。
愛子さま誕生の産後の肥立ちが悪いことが引き金となり、適応障害が深刻化。
元気そうに見える時もあったので東宮職員ですらこれが病気だと気づかなかったという。
雅子妃は適切な治療を受けられなかったことから「妃殿下としての自信をなくされていた」(元東宮職)という。


友納尚子氏が週刊文春に連載していた「ザ・プリンセス雅子妃物語」は
事実と相違する事柄が多々あるものの雅子妃の異常な思考回路、精神状態を知る手がかりにはなる。 
http://seesaawiki.jp/w/dosukono/d/%a5%d7%a5%ea%a5%d0%a5%d0



雅子妃の一方的な被害妄想事例

週刊新潮2013年5月2・9日号
「2000年6月16日、皇太后さまが崩御されましたが、その際のことです」
そう振り返るのは、さる宮内庁の古参職員だ。
7月25日には豊島岡墓地で、一般の本葬にあたる「斂葬の儀」が営まれたのだが、
雅子妃はこれをご欠席。
「前日には東宮大夫の会見で、妃殿下は『暑さが続き、夏バテのような状態』で体調を崩され
『お体を大切にしていただく見地からお取り止めになった』との発表がありましたが、
案の定、懸念や批判の声が相次ぎました」(同)
これに先立ち、皇族方や宮内庁職員らが24時間交代で
お棺の側に詰める「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」が、40日間にわたって続けられていた。
実はこの時期に、今に至るまでトラウマとなっている「出来事」が、雅子妃に起きていたというのだ。
「殯宮祗候と並行し、斂葬の儀当日までは連日、さまざまな儀式が続きました。その際、妃殿下は現場で
行事におけるきまりごとについて、皇后陛下からごく簡単なアドバイスを受けたのですが…」(同)
それは、お召し物のベールの長さなど、これまで営々と続けられてきた、
しきたりに関するものであったという。が、
「妃殿下は、この皇后陛下とのやりとりを『叱責』と受け止めてしまわれたのです。
大勢の皇族方や職員の前で自分だけが咎められたのだと解釈なさり、ショックを受けてしまいました」(同)
こうした“アクシデント”もあり、斂葬の儀だけでなく、前日に吹上大宮御所で営まれた儀式なども、
雅子妃は欠席された。
実際には「叱責」の事実などなかったのだが、
「後に妃殿下はこの一件を、主治医である大野裕医師のカウンセリングを受けた際、お話しになっています。
そして、この時の体験が大きな心の傷となり、御所への参内もままならないという趣旨のご説明をされている。
御所の側にもそうした“思い込み”は漏れ伝わっており、念のため儀式に携わった人たちに
当日の様子を確かめたところ、そうした場面は一切なかったことが分かったといいます」(同)
一方的な思い込みがあらぬ誤解を生み、ご自身の中でも大きなわだかまりとして燻っているというのだ。