皇太子さまと雅子さまのご結婚に侍従長が放った沈痛な一言

皇太子さまと雅子さまのご結婚に侍従長が放った沈痛な一言
2018.10.16 07:00
「平成」の終わりまであと半年。『宮中取材余話 皇室の風』(講談社)の著者で、
朝日新聞元編集委員の岩井克己氏が、30年の皇室取材で見た秘話を明かす。
──温厚なイメージの天皇ですが、違う顔もある。

昭和天皇もそうだったのですが、現天皇は端然としたたたずまいと温顔ばかり知られていますが、
実は内に頑固で激しい性格を秘めている面もある。
もちろん表に出すことは絶対にないが、長年取材していると、
側近らの蒼白(そうはく)な表情から垣間見えたのです。

1986年春、美智子さまの子宮筋腫に東宮侍医たちが気づくのが遅れたとき、
病状取材で退庁時に追いかけた東宮侍医は、電車を乗り継ぎ自宅に帰るまで、
終始沈痛な顔で物思いにふけり、とうとう話しかけることもできなかったのを思い出します。
97(平成9)年、ブラジル・アルゼンチン訪問で、
過密日程で皇后が体調を崩し、帰国後にヘルペスにかかったときです。
事前の記者説明の際に私が過密さを指摘すると「そうは思わない」と発言した幹部がいて、
相棒の記者がその発言を書いた。
天皇陛下はその発言を問題にし、当時の鎌倉節・宮内庁長官があいまいな答えをすると、
「真実はひとつです」と、報道の訂正を求められて進退きわまったこともありました。
いずれも皇后が深刻な体調不良におちいったときでした。
長官がお召しで御所に行き、蒼白な顔で戻ってきたことも何度かありました。
皇室典範論争の際に長官が以前の発言と違うことを言うと厳しく問い詰められたと聞きました。

昭和天皇が張作霖爆殺事件で田中義一首相の食言を叱責(しっせき)したエピソードは有名ですが、
これを連想したものです。

南北朝時代、北朝初代光厳天皇が詠んだ歌がある。

 ことの葉のかずかず神の見そなはばのちの世までのしるべともなれ

「綸言汗のごとし」と言われるように、天皇はうそやごまかしは絶対にできない立場で、
歴代がおのずから帯びる冷厳さなのでしょう。
これを私は「天皇のリゴリズム(修道者的な厳格主義)」と名づけています。

──侍従長や宮内庁長官をはじめ、多くの人々が皇室に仕え、支えています。

天皇が幼少のころから東宮傅育官として仕えた東園基文氏。
代替わりを取り仕切った藤森昭一・宮内庁長官。
後任の鎌倉節・宮内庁長官。そして、93年に声を失った皇后を支え、
その後も皇室医務主管として天皇の心臓のバイパス手術などを支えた金澤一郎氏。
それぞれ生半可でない覚悟で、皇室を支えていました。

昭和と平成の「二君に仕えた」山本悟侍従長も、印象深い人でした。

一本気で、ときには激烈な言葉を吐く。憲法論議をすると、
「オレなんか現行憲法の下で一刻も呼吸したくないんだよ」と挑発され語り合ったこともあった。

天皇の代替わりの難しい時期に、半世紀あまり仕えた徳川義寛侍従長から、後を引き継いだ。
本人は固辞していたが、宮家筋には「いいじゃないか」と推す声もあった。
昭和天皇の戦前からの“権威”に親しんだ旧世代には、新天皇、皇后の民主的な持ち味や公務ぶりに危惧を覚え、
歯にきぬ着せぬ剛直な性格の山本侍従長にお目付け役を期待する向きもあったかもしれません。

でも、本人には、つらい役まわりでした。

代替わり後、旧東宮職スタッフが新侍従として皇居に乗り込みました。
新天皇、皇后は昭和の旧慣を改め、一般国民とひざ詰めで語らい、積極的に外国を訪問しました。
山本侍従長が腕を振るう機会は、限られていたようでした。

93年6月、皇太子さまと小和田雅子さんが結婚しました。
それから半年も経たないころ、ひどく面食らう出来事がありました。

「皇太子妃もだいぶ皇室に慣れてこられたのではないですか」と話しかけたときのことです。
しばしの沈黙のあと、山本侍従長はこう答えたのです。
「この結婚は、失敗だった」
まだ新婚の時期だっただけに仰天しました。
山本侍従長は、何も説明しませんでした。

そのあと雅子妃の「適応障害」や「千代田と赤坂の溝」が取りざたされました。
あの絞り出すような、悲痛な声は今も耳に残ります。
山本侍従長は96(平成8)年、故・秩父宮妃の一周年祭のあと倒れ、
脳梗塞(こうそく)で身体の自由を失いました。

2000年7月、豊島岡墓地で営まれた香淳皇后の葬儀には、車椅子で参列。
葬場殿で、起立して柩に拝礼しようと何度も何度も懸命にもがくも、果たせず倒れ込み、
悲痛な表情で天を仰いだ姿は忘れられません。
カミナリおやじみたいに懐かしい人でありました。

──16(平成28)年。天皇陛下は退位の意向を示し、
岩井さんは、天皇陛下の生前退位を検討する政府の有識者会議の
専門家ヒアリングのメンバーとして、意見を述べました。

幼少のころから、歴代天皇の足跡について考え続けてきた天皇の考えに、
政治家も国民も追いつけなかった、という思いはあります。

守旧派の人たちは退位に反対し、天皇は高齢になっても「存在するだけでよい」と言わんばかりでした。
先述の加地氏は、今度は「退位するとは何事か」と書きました。
天皇が高齢となれば、平成の皇室が幅広く紡いできた「人々との絆」が細り途切れてしまう。
「そうなってはいけない」というのが天皇、皇后の思いでしょう。
そしてその思いに国民の9割が共感したのだと思います。
現天皇、皇后が大きく翼を広げて展開してきた、気が遠くなるほどの国民との絆。
これを次の世代がどう受け継ぐか。新天皇、皇后が直面するわけです。

08(平成20)年12月。当時の羽毛田信吾宮内庁長官は、
「将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室に関わるもろもろの問題をご憂慮のご様子」と、
天皇の心労を明らかにしました。
そのなかで、公務や祭祀(さいし)については天皇、皇后は担当者と考え続けているが、
公務見直しを求める皇太子からはいまだに具体的な提案がない、とも述べました。
あれから10年。皇太子ご夫妻はあと半年で天皇、皇后となります。
しかし、雅子さまの「適応障害」はまだ完治せず、
ご夫妻が新しい皇室をどうつくるのか、よく見えないままです。
そして、皇室が抱える課題も難しい。男系男子という皇統観念にどう向き合うか。
皇位継承の先細りをどのように乗り越えるか。皇室側も国民も来年の代替わりで、
いわば漂流の時代に入る覚悟をしなければいけないかもしれない。長年見てきた記者の予感です。

平成は来年4月30日をもって終わり、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が施行されます。
秋篠宮は「皇嗣」となり、対外的には「クラウン・プリンス」の称号となります。
皇太子にのみ許される、「黄丹(おうに)」の袍を着用し、「立皇嗣の礼」で、
皇太子の証しである壺切御剣(つぼきりのぎょけん)も授与されます。
新嘗祭(にいなめさい)など宮中祭祀でも、皇太子と同様に古装束姿で賢所の殿上で皇祖神に向かう。

秋篠宮とその長男の悠仁親王が継承者として法的に確定するわけです。
そのうえで、「過去」の象徴である上皇と上皇后。
「現在」の象徴である新天皇、皇后。そして「未来を担う」皇嗣家。
その三重奏あるいは三本の矢で、危機を乗り越えていくことになるのだと思います。

(構成/本誌・永井貴子)

※週刊朝日 2018年10月19日号より抜粋
https://dot.asahi.com/wa/2018101200025.html?page=1