「天敵」が死んだから公務出席?と言われる雅子妃

2014.10.31 17:40
鎌倉節氏、25日に死去 宮内庁発表 元宮内庁長官、警視総監
宮内庁は31日、同庁長官や警視総監を務めた鎌倉節(かまくら・さだめ)氏が
84歳で死去したのは、今月25日だったことを明らかにした。
病死とみられ、葬儀は近親者のみで執り行われたという。
昭和60年10月から63年1月に警視総監、平成8年1月から13年4月に宮内庁長官を務めた。
http://www.sankei.com/life/news/141031/lif1410310030-n1.html



週刊文春2014年11月13日号
「国際親善よりお世継ぎ」が持論。元宮内庁長官・鎌倉節氏が逝去
第七十五代警視総監で、宮内庁長官として香淳皇后の葬儀の大喪儀委員長を務めた鎌倉節(さだめ)氏が、
八十四歳で亡くなった。
警視庁担当記者が言う。「東大法学部を卒業し、1954年に警察庁入りした鎌倉さんは、
警察キャリアのエースとして王道の警備・公安畑を歩み、警視庁公安部長を経て、
警視庁の副総監、警視総監へと上り詰めました。
総監時代には、対共産圏輸出統制委員会(ココム)の協定に反して旧ソ連に軍事物資を不正輸出していた、
いわゆる『東芝機械ココム違反事件』の捜査を公安部に指示するなど、辣腕をふるいました」
警備・公安警察は、共産主義勢力やテロリストの捜査を担う一方で、皇室の警備を任務とする。
ある警察官僚OBは「鎌倉さんの皇室への尊崇の念は、ただならぬものがあった。
宮内庁長官には、なるべくしてなったと言えるでしょう」と述懐する。
警察官僚としての鎌倉氏の人物評は「もののふ(武士)」。皇室警備を担う武官という自負が強かったため、
「明治天皇に殉死した陸軍大将・乃木希典とイメージがダブる」とまで言う警察関係者もいるほどだ。
鎌倉氏が宮内庁次長に就任したのは94年のこと。皇太子が雅子妃と結婚された翌年だ。
宮内庁関係者が振り返る。
「男系男子による皇位継承を絶対視する鎌倉さんは、
なんとしても雅子さまに男の子を産んで頂きたいという意識が強かった。
だから、次長時代の皇太子ご夫妻の中東訪問にも反対だったと言われています。
長官就任後は一貫して『国際親善より男子出産が優先』というのが持論でした。
残念ながら流産となってしまいましたが、雅子さまにご懐妊の兆候があることが明らかになった99年は、
鎌倉さんの長官時代です。鎌倉さんの強いリーダーシップが、背景にあったというのが定説です」
外国生活が長く、自由な環境で育った雅子妃と鎌倉氏が、
ときに意見を対立させたであろうことは想像に難くない。
「鎌倉さんが長官を退任したのは2001年。皇太子さまの人格否定発言は04年です。
直接は何の関係もありません。ただ、退任後も『鎌倉さんの考えが正しい』という、
“鎌倉イズム”が、庁内に根強く残っていた中で、あの発言が飛び出したのは事実です」(同前)
雅子妃は鎌倉氏逝去の報に、何を感じられたのだろうか。


雅子さま11年ぶり宮中晩餐会出席は「天敵」の死の直後だった
2014.11.07 07:00
雅子さまが11年ぶりに宮中晩餐会に出席されたその2日後となる10月31日、
宮内庁はかつて警視総監や宮内庁長官を務めた鎌倉節氏(かまくら・さだめ氏/享年84)が
10月25日に亡くなっていたことを明らかにした。
2003年12月、帯状疱疹で宮内庁病院に入院されて以来、
10年以上の長きにわたり、療養生活を送られている雅子さま。
雅子さまが倒れられて半年後の2004年5月、皇太子さまは、
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」という、
いわゆる“人格否定発言”をなさる。
当時、この“人格否定”をしたひとりとして名前が上がったのが鎌倉氏だった。
鎌倉氏は警視総監を務めた後、1994年4月から宮内庁次長として入庁。
1996年1月から2001年4月までは同庁長官を務めた人物だ。
「鎌倉さんは強い皇室崇拝の念を持っていました。そのため長官になると“国体護持”を掲げ、
皇室を絶やさないためにと、当時、子供がいなかった皇太子ご夫妻のために
男児がお生まれになりやすい環境を作るという方針を打ち出し、
万が一、男児誕生が叶わなかった際に備えて、
皇室典範改正の検討などの新たな体制作りを始めました」(当時を知る皇室記者)
皇太子ご夫妻になかなかお世継ぎが誕生しないという状況もあってか、
長官となった鎌倉氏は問題点を見つめ直し、豪腕を振るった。
皇太子ご夫妻の公務旅行が多いことが、お世継ぎ誕生を停滞させていると懸念した鎌倉氏は、
「皇太子ご夫妻がなすべきことは“お世継ぎ”づくり。
そのために(1995年1月の)中東訪問を区切りとして、政治問題に巻き込まれやすい海外訪問は当分、
ご遠慮いただく」という方針を打ち出し、皇太子ご夫妻の海外訪問を“禁止”したのだった。
実際、前述の中東以降、鎌倉氏が退任後の2002年12月の豪州・ニュージーランド訪問まで、
雅子さまは8年間も海外に赴かれることはなく、“空白の期間”となった。
2001年12月、愛子さまが誕生されたが、結局、鎌倉氏の在任期間中にはお世継ぎは誕生せず、
雅子さまとの間には複雑な感情が残ることとなってしまった。
前述した、2002年の豪州・ニュージーランド出発前の会見で、雅子さまはこう語られている。
「正直を申しまして、私にとりまして、結婚以前の生活では私の育ってくる過程、
そしてまた結婚前の生活の上でも、外国に参りますことが頻繁にございまして、
そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、(妊娠、育児の2年間を除いた)6年間の間、
外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することに
なかなか大きな努力が要ったということがございます」
“海外訪問で能力を発揮したい”“皇室外交で能力を発揮したい”
──それが雅子さまの強い願いだったことが表れたお言葉だった。
「実際、皇太子さまはプロポーズされたとき、結婚を躊躇される雅子さまに対して
“外交という分野では、外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも、
国のためという意味では同じではないでしょうか”と説得されています。
ですから鎌倉氏の方針は、皇室の将来を考えたこととはいえ、
雅子さまの“皇室外交”へのお気持ちを無視したものだったため、人格否定発言が波紋を呼んだ際に、
宮内庁内部や皇室記者の間では鎌倉さんに対するさまざまな声が噴出しました」(前出・当時を知る皇室記者)
その後、雅子さまは「適応障害」と診断され、現在に至るまで、治療を続けられている。
そんないわば“天敵”とも呼べる人物の死の直後、宮中晩餐会での“皇室外交”に力を発揮された雅子さま。
なんとも不思議な運命といえよう。
※女性セブン2014年11月20日号
http://www.news-postseven.com/archives/20141107_285699.html