皇居・賢所で行われている皇室の祭祀とは

25年前「結婚の儀」リハーサルで微笑んだ小和田雅子さん
皇居・賢所で行われている皇室の祭祀とは
三木 善明
2018.09.24
皇居の西にある半蔵門は、天皇皇后両陛下と皇太子ご一家が主にお使いになる「格」の高い門だ。
宮内庁職員であっても、通行を許可された者だけが、半蔵門の小扉(しょうひ)を通り、
皇居内へ入ることができる。皇室の祭祀を司る部署である「掌典(しょうてん)職」の一員として、
28年間仕えた三木(そうぎ)善明氏もその一人だった。
今も変わらずに続く宮中の祈りと、昭和の大喪と平成の即位の大礼、
皇太子同妃両殿下の結婚儀式などを知る三木氏が、
平成の終わりを目前に控え、これまでの経験と出会った人々との思い出をあらためて語った。

皇居内にあった2つの「机」
神社の家に生まれた私は、ご縁があって京都御所に出仕していたところ、東京の皇居内で働くことになりました。
掌典職の職員、その中でも唯一公務員の立場である掌典補(しょうてんほ)として、
お堀の中へ出勤していたのです。
宮内庁の組織図の中では「式部(しきぶ)職」に属していました。

私には、2つの「机」がありました。1つは坂下門を入ってすぐの宮内庁庁舎。
2階の部屋にある「掌典職」の机です。宮内記者クラブと近い部屋で、
当時はまだ記者クラブにも麻雀に興じる人たちがいて、とてもにぎやかでした。
もう1つは半蔵門から入った皇居の森の奥に位置する「賢所(けんしょ)」の中。
毎朝、千鳥ヶ淵の三番町宿舎から20分ほど歩いて出勤する時は、
半蔵門を通り賢所へ直接向かうことが多かったですね。
賢所はとても広いところで、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)から職員がひかえる部屋まで
全てが一つ屋根の下にあります。掌典補の詰所(つめしょ)にも、私の机がありました。
公務員でありながら、神様にご奉仕するという立場だったからこそ、
知ることのできた内実が多くあったように思います。

祭祀を司る部署である掌典職は、宮内庁の組織ではなく、内廷(天皇の私的機関)に属しています。
掌典長以下、掌典次長、掌典までが管理職。
そして、祭祀の実務を担当する女性の内掌典(ないしょうてん)と掌典補からなります。
先述した通り、例外は私たち掌典補で、公務員として採用され、宮内庁の式部職に属していました。
歌会始に関する事務、儀式に関する事柄などもあわせて担当していたのです。

皇太子同妃両殿下のご婚儀のリハーサルで
私が掌典補としてお仕えしたのは、昭和48年(1973年)から平成13年(2001年)までの28年間のこと。
最も忘れがたい経験と言えば、昭和天皇の御大喪と今上陛下の御大礼です
(「知られざる『掌典職』の世界 儀礼担当者が語る『平成の大礼』の舞台裏」)。
また、平成5年(1993年)の皇太子同妃両殿下のご婚儀に際して、数日前に行われた習礼(しゅらい)、
すなわちリハーサルの時に、皇太子妃殿下の先導をさせていただきました。
お車で賢所へお着きになった皇太子妃殿下は大変緊張されたご様子だったのですが、
私から「おめでとうございます」と申し上げたところ、「ありがとうございます」とおっしゃいました。
まだその時は、小和田雅子さんという民間の方ですから、「ありがとう」とはおっしゃらなかった。
その時にニコッと微笑まれた笑顔を拝見して、実にチャーミングな方だということが伝わってきました。
習礼が終わりお車へ戻られる頃には、ほっと安堵したご表情をなさっていましたね。

賢所の一日 朝5時から夜9時まで
平時の場合、掌典補は6日に1回が当直の日に当たり、朝は5時45分に起きます。
御殿を開けてお掃除をして、それから神様のお食事(神饌)を用意してお供えすると、
8時30分には、御上(天皇陛下)の代わりに当直の侍従さんが毎朝御代拝に参られます。
その後、神様のお食事をお下げして片付けをして、事務仕事に戻ります。
そして夕方に御殿の扉を閉めて、21時30分頃には夜の御用を終えるという日々でした。
毎日の御用のほかに、年間60回ほどの御祭(宮中祭祀)などがあります。
賢所は厳かで尊い場所ですが、お客様の来訪などもあり、
一般の人が想像されるよりはにぎやかなところだと思います。

私にとって幸せであったのは、内掌典さんのすぐ横でご奉仕をさせていただいて、
尊敬できる方がたくさんおられたことです。私がお仕えしていた当時は、
未婚の女性が4~5人おつとめされていました。
短大や大学を卒業してまだ間もないような20代前半の方であっても、
自分には決してできないことをやっておられる。そういった意味で、みなさんを尊敬できました。
内掌典は心身共に清浄であるため、神事を第一として実に大変なことをされているんだな、と。

「神さまのことは研究してはいけない」
今年5月に、内掌典であった高谷朝子さんが93歳で亡くなられました。
高谷さんは昭和18年(1943年)に内掌典に上がられてから、57年にわたり奉仕された方です。
ご著書『宮中賢所物語 五十七年間皇居に暮らして』(ビジネス社刊、のちに加筆・修正のうえ
『皇室の祭祀と生きて 内掌典57年の日々』として河出文庫から刊行)からは、
内掌典がご奉仕する御祭と御用などについて、その一端を知ることができます。
高谷さんは私に対しても、実にさまざまなことをお教えくださいました。

「神様は研究してはいけない」。このことは、高谷朝子さんが「当時、上の方には
『神さまのことは研究してはいけない。ただ素直に御用をさせていただくように。
研究をすると神さまに御縁がなくなるのですよ』と教えていただきました」と
インタビューでもお話しになっていました(「祖国と青年」平成18年2月号)。
神様は神様であって、例えばここにどういう神様がいらっしゃるか、
神様とはなんぞや、ということは考える必要がない。
自分の身も心も清めてご奉仕するもの、というのが内掌典なのです。

夜の御用を終えた後、候所で宴会を行ったことも
内掌典と、その他の職員がお話をする機会は、思いのほかたくさんありました。
毎日21時頃に内掌典は「おひけ」と言って、夜の御用を終えて候所に戻ります。
当直の掌典補は皇宮警察の人と最終的な点検をするので、私が当直の日は内掌典候所の前を通った時に、
「おやすみなさい」とお声をかけますと、少しお話をすることもありましたね。
高谷朝子さんがお頭さん(上席、一番長くおつとめをする内掌典)になられた後は、
候所で宴会をやったこともありました。若い人の中には、ワインが好きな人もいて、
日本酒はもちろん、ビールなどのお酒も多少は召し上がっていたようです。
男性の職員も一緒になってお話しできる機会でもあり、
日々の楽しみの一つになっていたのではないかと思います。
候所にはテレビもありました。

たまの息抜きはありますが、内掌典はさまざまなしきたりを守って、
基本的には365日、賢所で生活を送っています。
プライベートな時間は、内掌典候所で過ごし、時間がある時には、身の回りのこと、
例えば手紙を書いたり、読書をしたり、若い人であれば3日に一度髪を結い直したりしているようです。

内掌典の食事は、雑仕(ざっし)が作ります。内掌典の手足は、神様のためだけに使われないといけない。
自分のために使ってはいけないので、炊事・洗濯は雑仕の仕事です。
食事の内容は魚と野菜が中心で、鶏肉以外の肉類や、
バター、牛乳、肉のエキスが入った加工品などは食べません。
豆乳やマーガリンなどはOKです。

最初の試練は「髪上げ」
賢所での生活は常に着物で、洋服は外出する時も着ません。候所をはじめとして全てが畳の間です。
眠る時は、髪が崩れないように箱枕を使うそうです。
時々、時代劇では箱枕に仰向けになって寝ている場合がありますが、それは間違い。
顔を横に向けて寝るものなんですね。

賢所での生活を始めたばかりの内掌典の姿を見ていて、最初の試練として特に心に残っているのは
「髪上げ」ができないことで四苦八苦していたことです。
内掌典を拝命し、賢所での生活を始めた翌日は「おさえ」という髪型に上げます。
まず内掌典の次席の人が新人の髪を上げるのに、4時間もかかるそうです。
3回目くらいまでは先輩のお姉さんが新人を助けるのですが、そのあとからは自分でやるのです。
そうすると10時間以上かけても、髪が上がらない。一日中髪上げです。
髪を上げられないと御用ができません。
髪を上げる時には「びんつけ油」を付けますので、舞妓さんや芸妓さんと同じような甘い香りがしますね。
内掌典は、採用が決まった時から髪を切らずに伸ばすのだそうです。

最も重要かつ基本的な「次清」のこと
賢所での生活の中で、大切なことが「次(ツギ)」、「清(キヨ)」という概念です。
「御殿での次清」、「候所での次清」が、最も重要かつ基本的なしきたりです。
とても厳しいものだと思います。
清浄ではないことを「次」、清浄なことを「清」と区別して、どんなに細かなことでも厳格に区別しています。
社寺に参拝する前などのように「手水」をすると、手が綺麗になり、清められますね。
これは「清」の状態です。一方で、体の下半身に触れたり、
履物やお金、賢所の外から届いた郵便物を扱ったりした時などは
手が「次」の状態になっている、という次第です。

私が掌典補としてお仕えした頃、内掌典の仕事のうち、簡単なところの手伝いをしたことがありました。
例えば、「おすべし」。これは神様のお食事を下げるという仕事ですが、一つひとつ、
今自分の手がどの状態なのか意識していないと、本当に分からなくなってしまいます。
また、内掌典の場合、「御内陣」という神様がいらっしゃる場所で御用をする時や、
しつらえてある物を持つ時は、手が「清い」以上の状態、「もったいない手」になっています。
平常に戻す――「次める」と言いますが――ということもやらないといけない。
清いと思っていたはずが、次になっている。これは大変なことですが、
間違いを指摘された時は素直に自らの振る舞いを顧みるのだそうです。

上下が入れちがうということは、あってはならない
一般の人が畳の上で寝る時、布団を畳んで押し入れに入れてまた出して、としている間に、
ひょっとしたら布団の頭と足の位置が逆になっていることもあるでしょう。これもいけません。
上半身は「清」。下半身は「次」なので、上下が入れちがうということはあってはならないのです。

また、入浴の時は湯船に肩まで浸かるのではなく、大たらいを使って行水するようです。
これも「次」と「清」の関係ですね。バスタオルで体をふくのではなく、
浴衣を着て水分を拭き取るそうです。
浴衣の語源は「ゆかたびら」と言って、「かたびら」は薄い着物のことを指します。
お湯で使うので、「ゆ・かたびら」。それが短くなって「ゆかた」。
バスローブのような役割を果たしているのですね。
あらゆる生活の所作の中に、「次」と「清」があるんですよ。

心が変わることによって、形が変わる
「手抜きがない」というのは、賢所の伝統だと思います。
よく「形は変わっても心は変わらない」ということが言われますね。私は、そうではないと思うんです。
心が変わることによって、形が変わるんですよ。
もちろん、自分の技量が足りないという問題が、最初はあるかもしれません。
それでも、色々と突き詰めてやっていくのが普通なんです。
形を変えて、上辺だけでやってしまうと駄目なんですね。私たち掌典補も神様のお食事をこしらえる時、
例えば鯛を薄切りにして円筒状に形作る場合、「できるだけきれいに」と心を込めてこしらえます。
そこで、「ここまでやる必要があるのだろうか」と思って手抜きをすれば、心が変わってしまっている。
あるいは「ちょっと、この鯛は高価すぎるのではないか」と感じてしまうこともあるのですが、
神様に対して「ぜいたく」はないんですよ。

私がご奉仕させていただくようになってから、大正年間に内掌典として賢所へ入っておられた
ある内掌典がいらっしゃいました。京都で執り行われた昭和天皇の御大礼も経験された方です。
退職される時に、貯金がどれくらいあるのか伺ったら、思いもよらないほど少ない額でした。
何十年もおられて、倹約した生活をなさっているのに、と非常に驚いたのです。
戦後直後の一時期は、物資が不足していたために、神様にお供えするものが粗末になってしまった。
その方は、少なくとも自分が頂く以上のものを神様にお供えしたい、
そういう思いで、ご自分の持ち出しもあって、神様のお食事を用意されていた。
歴代の内掌典の方々には、妥協する心や「まあいいか」という姿勢が全くありません。
本当にすごいことだと思います。

絶えたことのない「御燈」
賢所には、「御燈(ごとう)」という絶えたことのない火があります。
朝夕には土器に菜種油を注ぎ足して、消えることがないようお守りするのも内掌典の仕事です。
油が多すぎても少なすぎてもいけませんし、煤がたまってしまうと
火が大きく燃え盛った後に消えてしまうことが考えられるので、適度に煤を払います。
地震があった時などは、真夜中でも内掌典が火の無事を確かめるそうです。
また平時の御用や宮中祭祀など、すべての作法は口伝(くでん)で伝えられ、
記録として書き残されているものはありません。こうして、現代に受け継がれてきた伝統なのです。

今上陛下がお持ちになっている宮中祭祀へのお気持ち、これは物凄いものだと思います。
皇后陛下も同じです。昭和天皇に勝るとも劣らないと、私は思っています。
ご自分がお参りできるものは、どんなことがあってもお参りされる。
宮中祭祀を一番になさってこられましたよね。それは昭和天皇も同じご姿勢でした。
今上陛下がお父さまの後姿をご覧になってやってこられたからこそ、
平成という時代がここまで続いてきたのだと、30年を振り返りあらためて思っています。

そうぎ・よしあき 1948年京都府生まれ。
1973年、宮内庁京都事務所から掌典職に異動。昭和天皇大喪儀、
今上陛下の即位・大嘗祭を担当、伊勢神宮の式年遷宮も二度務める。
2014年より御香宮神社権禰宜。
http://bunshun.jp/articles/-/9046