外務省職員から皇太子妃へ

■麗しき外交官の卵
毎日新聞1986年12月6日 夕刊
今の世は、おしなべて受験ジゴクで乱塾時代。というのに私塾や家庭教師はもとより、
過酷な受験戦争も知らない海外教育子女が、今秋、名だたる外交官試験に受かった。
これには偏差値信奉の教育ママもびっくり仰天、帰国子女家庭からは大喝采が起こって……。
ブリリアントな健康優良児が恵まれた環境でスクスク育って、花の盛りを迎えたようだ。二十二歳。
昨年六月米ハーバード大学を卒業したが
「日本で九年間教育を受けていたので、アメリカ人と一緒に仕事をやっていくのは、肌が合わない」し
「米国に残ると中途半端になる」と六年間の米国生活を打ち切っての帰国。
東大法学部に学士入学して“父娘二代の外交官”をめざした。
父、恒氏は外務省条約局長。
試験前の二カ月間、独学で毎日十時間の短期集中型勉強。ハーバードできたえられた
「漠然とした問題を論理的にうまくまとめ上げる書く訓練」が難問突破にきいたのかも。
幼児をモスクワ、ニューヨークで過ごし、小学一年で帰国。
東京の私立女子中時代はプロ野球に熱中、ソフトボール部まで結成するほどの“野球狂”の少女
高校一年でボストンのハイスクールに転校してからも、
仲の良い友達作りや大学受験にもソフトボールが役立った。
「課外授業やリーダーシップが大学入試では評価されますから」
未来の国際国家、ニッポンにこそ似合いそうな、才気と気品を秘めた麗しい外交官の卵の誕生だ。


■花の同期がネットワーク 「霞が関」87年入省の女性たち
朝日新聞 1987年12月25日 朝刊
小和田雅子さん 仕事を持つのは当然、結婚と両立させたい
外交官の父を持ち、幼いころから外国暮らしが長かった。外交官に、とはっきり決意したのは、
アメリカ・ハーバード大学を卒業後、帰国するか、それともアメリカに残ってキャリアを積むか、の
選択を迫られた時だった。
「アメリカに残ると根なし草になるような気がしたんです」 仕事を持って生きる、ということに迷いはない。
「ハーバードでは、女性でも仕事をもつのが当たり前でしたから」
「ただ、いよいよ外務省から内定をもらった時、
これで自分は結婚できないかもしれない……。両立させたいですね」
今は、週3回の語学研修に汗を流しながら、連日深夜まで働いている。
担当しているのは、経済協力開発機構(OECD)の環境委員会。会議に備えた資料の準備や、
会議での日本政府の見解の調整をする役目である。
「夜2時に帰宅したら、母にきょうは早いわね、と言われちゃいました」
来秋からは2年間の計画でイギリスの大学に留学し、英語や学問にますます磨きをかける予定だ。
ただ一つ、感じることは--。「日本では、女性というだけで珍しがられたり、
外見のことを言われたりするのが、ちょっぴり残念です」
おわだ・まさこ
外務省経済局国際機関2課。米ハーバード大経済学部卒、東大法学部中退の24歳。


■週刊新潮1988年3月3日号
「頂上が見えた」というご発言で絞られる浩宮妃候補
女友達に、「プロポーズもされてないのに何でこんなに騒がれなくちゃいけないの」といったという。
「それにしては、何回も東宮へ行くのはどういうわけ?」 と聞かれると、
雅子さん答えていわく、「好奇心よ」

「小和田さんは“プロポーズもされてないのに、云々”と女友達に話したっていいますが、
これまで東宮へ招待された女性の、ほとんどは一回で二度と行きません。
本人が行きたくても、東宮で呼んでくれないケースも無論ありますが、
浩宮様や皇太子ご夫妻が気に入られても女性の方で二度目の招待をお断りするわけです。
それがお妃候補から外して欲しいという一つの意思表示になる。
ところが小和田さんは少なくともこれまでに四回は浩宮様にお会いしています。
いくら“好奇心”からだといっても、お相手が今どういう立場にいる人か承知しているわけですから、
彼女の方にまったくその気がなければ出かけませんでしょう」


■週刊朝日1990年2月23日号
小和田雅子さんはまだ本命でしょう 皇太子さま30歳のお妃選び
元東宮侍従―浜尾 実
美智子さまの時が思い出される
天皇陛下を中心としたご親族の集まりに菊栄親睦会があります。
年に一回か二回、午餐会があるのですが、そういうときに旧皇族の九邇晃子さんとか伏見朗子さん、
北白川尚子さんなどは、皇太子さまと複数でお会いになってらっしゃいます。
でも、単独で赤坂御所にあがった方はいません。
一人で赤坂御所に伺ったお嬢さん小和田雅子さんだけだと思います。
最初のお出会いは四年前の秋、日英協会のパーティーだったと思いますが、
それから三、四回は赤坂御所におみえになっています。
彼女は名簿に載ってはいなかったでしょうが、最初は、確率が非常に高かったと思います。
浩宮さまも好感を持っていらしたと思います。
彼女を結婚のお相手として考えていた時期があったことは確かです。
藤森長官の前の富田長官が二年ほど前、
「結婚が遅れているのは、浩宮さまがいまだに小和田さんにこだわっているからだと思います」と、
驚くべき発言をしているのですから。
でも、雅子さんにとってはお気の毒なことですけれど、
お祖父さまが水俣病の「チッソ」の会長さんだったことが、ひっかかるんですね。
お妃を選ぶときは三代前まで遡るわけですから。
とくに天皇陛下は環境問題に非常に関心をもっていらっしゃる方ですから、
お許しにならないのではないかという気がします。
皇太子さまの場合、「好きだからいいじゃないか」では困る。
将来の皇后さまにふさわしい方だと、大多数の国民に祝福を受けるお相手であって欲しいわけです。
私的な行為であると同時に、公的な行為なのです。


■サンデー毎日1993年6月27日号
秘話スクープ!!殿下は“いちご大福”をご存じなかった 41回のデートで交わされたお二人のやりとり
お二人のこれまでの生い立ちを話し合われるため、デートではアルバムをご覧になる機会もあった。
雅子さまは東宮御所に幼いときからの写真をお持ちになった。
中学時代に雅子さまが熱中したのは、ソフトボールだった。同好会をつくり、中学二年でクラブに昇格。
三年の夏には世田谷区大会で優勝している。雅子さまは三番でサードだった。
「私も髪が短かったんですけど、雅子さまは日に焼けてショートカットでしたから、
男の子みたいだったんです」と、ソフトボール部時代の友人は話す。
雅子さまはこの友人に、「私はボーイッシュだって言われてたけど、あなたの写真を指差して、
こっちのお友達のほうがボーイッシュよねって、殿下におうかがいしたら、そうですね、とおっしゃってたわよ」
と、皇太子さまとの打ち解けた会話の様子を話された。
ソフトボールの話題では、皇太子さまは雅子さまに宮内庁のソフトボールの親睦大会に、
ぜひ参加するようにとお誘いになったこともあるという。
その時、雅子さまは、「まさか、それだけはやめて下さい」と、苦笑されたそうだ。


■私(ノンキャリア)とキャリアが外務省を腐らせました
元外務官僚小林祐武氏・講談社(2004)
「雅子妃に傲え」P225-227
「皇太子妃に小和田雅子さん」
── 日本中が注目していたこのニュースが全国に流れたのは、93年1月6日のことだった。
皇太子殿下との出会いから6年2ヵ月にして、ついに平成のプリンセスが誕生した瞬間だった。
当時、雅子さんは外務省に勤務していた。最後の職場は北米第二課だ。
先にも触れたが、北米第二課は実質的に経済局の傘下にある。
当時の事務次官は、父親の恒氏。若いころから能吏の誉れ高かった人物だ。
そして雅子さん自身も、将来を嘱望されるエリート外交官だったが、
「お妃内定」の第一報以後、職務に就くことはできなかった。
ご成婚が決まると、早速退職の手続きに入らなければならない。
雅子さんは辞表を提出し、1月19日付で外務省を退官してしまった。
ただし、あまりに急な退官だったため、彼女は机の上の私物を整理するまもなく外務省を去ってしまった。
北米第二課でも、なかなか人員の補充ができないため、雅子さんの机はしばらくそのままの状態で置かれていた。
しかし世間はご成婚フィーバー真っ盛りである。
雅子さんが仕事をしていた事務机は、メディアの格好のネタだった。
新聞社やテレビ局のカメラが役所の中に入ってきて、彼女の机の上を撮影することも珍しくなかった。
そんなある日、その様子をブラウン管を通じて眺めていた私はハッとさせられた。
彼女の机の上には、仕事で必要な書籍が並んでいた。いずれも値の張る専門書である。
当時経済局の局庶務である私は、北米第二課の庶務班長が持ってくるさまざまな伝票を決裁する立場にあった。
こうした専門書は、職員の99・9パーセントまでが仕事上必要だからと役所に伝票を回してくる。
私はそれを認めていた。
だが、雅子さんからはその伝票が回ってきてはいなかった。
彼女は身銭を切って高価な専門書を揃え、仕事に打ち込んでいたのである。
しかも退官する際には、そうした専門書を後任にそのまま譲ってあげたのである。
テレビを見てそれに気づいたときに、公私の峻別ということを私はもっと真剣に考えるべきだったのかもしれない。
あのとき、それに気づいていれば、私も大きく道を外れることはなかったのではないだろうか。
私と同じ後悔をしないためにも、外務省に勤務する人々には、自らの行動をもう一度点検してもらいたいのである。

※小林祐武氏は2001年九州・沖縄サミットでハイヤー代を
水増し請求し公金を詐取したとして警視庁により逮捕され懲役2年6ヵ月執行猶予5年の有罪判決を受けた


■新聞記事
才女もやはり現代っ子
プリンセスの素顔

ディスコ米仕込み
職場に愛犬の写真

「踊りがうまいんですよ。小刻みに体を動かして踊るんです。
いつもはクールな人なのにびっくりした。米国仕込みなんですかね」
と話すのは雅子さんが外務省に入って最初に配属された国際機関二課時代の同僚。
同課の課内旅行で箱根に行った時、ホテルのディスコで見よう見まねで
音楽に体を合わせるだけの同僚をしり目に、雅子さんは激しく踊ったという。
職場ではプライベートな話はあまりしない雅子さんだが、犬の話は別。
同僚らとの食事の時などには自宅で飼っている愛犬「チョコラ」と遊んだ話などをよくし、
机の上に愛犬の写真をいっぱい飾っていたこともあった。

ユーモアで取材記者たちをけむにまくこともあった。
外電記事を持って事実関係を確認に来た外務省担当記者に
「I HAVE NO IDEA」(わかりません)と答えたり、
お妃取材で自宅に電話した米国人記者には流ちょうなイギリス英語で応対したこともあったという。
日米半導体交渉などハードな仕事が続いた北米二課では連日の徹夜に弱音を吐いたことはなかったが、
疲れからか、たまには昼間の会議で居眠りをすることもあったといい、
スーパーレディもやっぱり「一人の女性」だった。

修学旅行で夜更かし
「修学旅行の時、四時半まで起きていたのが忘れられない。
おかげで朝、日の出は見られなかったけれど、とても楽しかった!」
雅子さんは昭和五十一年三月、田園調布雙葉学園小学校を卒業した。
その時に文集に、雅子さんは思い出の1ページをこう書いている。

この紹介とは別に文集に載せた文の題は「クラブ」。
「六年間の思い出といえば、修学旅行、林間学校、遠足、運動会など、たくさんあります」と書き出し、
生物部のクラブ活動で「コジュケイ」のはく製を作ったことが「印象に残った」と、つづっている。
その鳥は、学校の窓ガラスにぶつかって死んだことを紹介。作製作業の過程を細かに記し、
最後に翼の一つを先生が切り落として失敗してしまい「とても残念!」と結んでいる。
冷静な目で観察し、リアルな描写は、十二歳の少女が書いた文章とは思えない。
作業の様子が一つひとつ手にとるように伝わってくる。
作文の右横余白にトランプの「クイーン」を描き、
雅子さんの頭文字の「M」が。当時は全く予想もしていなかっただろうが、
将来の「お妃」を暗示しているかのようだ。
中学三年A組の卒業文集「赤ずきんちゃんの子ども達」では、
好きな曲は「自分で三味線をひきながら歌うのが最高よ!」とおどけ、
「先生方のお好きな食べ物」を想像して列挙するなど、ちゃめっ気たっぷりに書いている。
また二、三年の二年間担任だった平井恒子先生に贈った文集では、
スキー教室に行く途中一緒に学んだ韓国語が二カ所登場。
「コーマブスムニダ!(ありがとう)」
「チョエーソングハムニダ(ごめんなさい)」と、
覚えたての言葉を交えて、感謝の気持ちをつづっている。

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