明仁上皇が作り上げた「平成の天皇像」は令和に引き継がれるか

2019.05.01
明仁上皇が作り上げた「平成の天皇像」は令和に引き継がれるか
改元を機に考える「象徴とは何か」
原 武史

平成から令和への改元が行われた。ともすれば祝福ムードに覆い隠されそうだが、
およそ200年ぶりの「天皇の退位・譲位」は、
日本国民に「天皇と皇室のあり方」について重い問いを突きつけてもいる。
新たな令和の時代、「象徴天皇」の未来を考えるうえで重要なのは、
明仁上皇・美智子上皇后が築いた「平成の天皇像」の本質を知ることだ。
新著『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)、
『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』(潮新書)でも鋭い天皇論を展開する、
放送大学教授・原武史氏の緊急インタビュー。
(取材・構成/伊藤達也)


天皇を語れなくなった危機感
今回の代替わりのきっかけとなったのが、もとを辿れば、
明仁上皇が退位の意向を明らかにしたことだったのは、皆さんも記憶に新しいと思います。
2016(平成28)年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」
(以下、「おことば」)についてはその後、様々な議論が行われてきました。
しかしながら、それらの議論は本質を外れたものに終始していたと私は感じます。
ある人は「天皇の第二の人間宣言だ」と言い、ある人は「現政権への不満を明らかにするものだ」と言い、
著名な憲法学者ですら、天皇の「やむにやまれぬ希望の表明」であると評価した。
また一般の国民は概して、高齢の天皇への労りや敬意、感謝の気持ちを抱くにとどまった印象があります。
はっきり言って、こうした反応に私は失望しました。
「おことば」が発せられた背景にある権力構造も、読み解くべき内容についても、
まったく深い洞察が行われず、「天皇とは何か」「象徴とは何か」という議論も起こらなかった。
それはおそらく、平成の30年間が、いかに「天皇」が
リアリティを失った時代であったかの証左だったと言えるでしょう。
私には、日本人が「天皇」を語る言葉や分析の枠組みを失ったまま、
令和を迎えてしまうことへの危機感があります。
今回の退位そのものが端的に表しているように、いま皇室は多くの課題を抱えています。
これから始まる新たな時代には、変わってゆくであろう新たな天皇のあり方、
皇室のあり方について、国民ひとりひとりがしっかりと自覚し、考えてゆかねばなりません。
その前提として、まずは令和という時代の起点となった、
前述の「おことば」の本質について、振り返っておきましょう。


「おことば」が持っていた強大な権力
「おことば」は、高齢となって「象徴としての務め」が果たせなくなった天皇の「人間宣言」である――
という解釈が一般的になっています。
しかし私は、「おことば」には政治的なニュアンスがきわめて色濃くにじんでいると見ています。
天皇が持つ、強力な「政治性」や「権力性」の発露が「おことば」であった、と考えるべきです。
天皇自らが、国民全体に対して肉声を発することは、
明治から昭和初期、つまり大日本帝国時代の言葉で言えば「勅語」や「詔書」に相当します。
かつて発せられたものの中には、平成の「おことば」と類比できるものがあります。
それは1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇によって発せられた「終戦の詔書」、
つまり「玉音放送」です。言うまでもなく、太平洋戦争を終結に導いた「玉音放送」は、
天皇の持つ強大な権力が端的に現れたものでした。
明仁上皇と美智子上皇后が築いてきた「平成流」の象徴天皇のあり方は、
こうした「不特定多数の国民(臣民)に対して、一方的にメッセージを発する」というものではありませんでした。
ふたりは日本中をくまなく訪ね歩き、災害があればすぐに被災者のもとに駆けつけ、
時には膝をついて国民の目線に立ち、一人一人の顔を見ながら自らの思いを語りかけてきました。
北海道の宗谷岬から沖縄県の与那国島まで、日本全国津々浦々への「旅」が、
「平成の天皇像」を形作ってきたと言えるでしょう。
戦後に作られた日本国憲法によって、法律上は天皇が政治権力を持つことはなくなりました。
また平成の時代には、もはや戦争の影も薄れてきます。
そのような時代に、いかにして「日本国民統合の象徴」となるか。
「平成流」を考え抜いた結果が、明仁上皇自身の「おことば」から引くならば、
「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、
大切なものと感じて来ました」ということになるでしょう。


「玉音放送」に酷似している
しかし一方で、この「おことば」の形式は、前述したように「玉音放送」に酷似していました。
「8月8日の15時から」と放送日時を指定した上で、天皇自らビデオメッセージで10分間にわたって、
政府や議会を通さずに「天皇が国民に直接語りかける」――。
「おことば」の内容の面でも、明仁天皇が昭和天皇の玉音放送を意識していたことは明らかです。
例えば、終戦の詔書には、「常ニ爾臣民ト共ニ在リ」
「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」といった言葉がありました。
「おことば」にも、「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり」
「国民の理解を得られることを、切に願っています」という、これらときわめてよく似た言い回しがあります。
論理構造も似通っています。終戦の詔書では、大戦の趨勢が枢軸国にだんだん不利になってゆき、
イタリアやドイツが降伏し、ついに日本も降伏せざるを得なくなったことについて、
昭和天皇は、「世界ノ大勢」「時運ノ趨ク所」と述べています。
同様に「おことば」では、国王や女王の生前退位が国際的にも増え、
自らもそうした世界情勢、時代の流れの中で退位するということを、
明仁天皇は「日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、
いきいきとして社会に内在し人々の期待に応えていくか」という言葉で表現したのです。
この「おことば」に対する世論の反応は、天皇の「決断」を温かく受け入れようとか、
天皇自身が語りかける姿を見てテレビの前で「厳粛な気持ちになった」というものがほとんどで、
垣間見えた「天皇の権力」「天皇の政治性」について、日本人はあまりにも無頓着でした。


天皇の意向を「忖度する」日本人
天皇が自ら、政府も議会も通さず全国民へのメッセージを発表する事態に、
現代の日本社会は「例外」をもって対処するほかありませんでした。
政府は有識者会議を開いて、退位を「一代限りの例外」として認め、
「おことば」と天皇の意思を追認することになりました。
国民も、「高齢だから仕方ない」といった「ふわっとした民意」でそれを受け止めた。
要するに、「おことば」が発せられた後から、国民は上から下まで
「そうそう、実は私たちもそう思っていたんですよ」と、
「おことば」が「民意」の反映であるかのように振る舞ったわけです。
「本来ならば、このような事態に至る前に、皇室制度や天皇のあり方について国民の側で
きちんと議論しておくべきではなかったのか」という反省すらありませんでした。
さらに踏み込んだことを言えば、日本国憲法の規定に反して
「天皇が政治性を発揮すること」に無警戒になっているのです。
国民の中には近年、天皇の意向を忖度し、天皇を「政権の横暴を抑制する、もうひとつの権力」などと
称揚する向きさえありますが、そのような考え方はかつて「皇道派」と呼ばれたことを理解しているのでしょうか。
特に、いわゆる「リベラル」を自認する人々がそのような主張をするのは、大いなる矛盾と言えるでしょう。
なぜ、大きな権力の発露であった「おことば」が、平成の日本で無抵抗に受け入れられたのか。
なぜ私たちは、天皇から「ボールが投げられた」にもかかわらず、
その中身を主権者として吟味することもなかったのか。
国民の無知や無反省ももちろんですが、おそらくは、かねてから退位を視野に入れていた、
明仁天皇の「戦略」が奏功した面もあったと思います。


「災害の時代」平成がもたらしたもの
2016(平成28年)8月の「おことば」に至る過程において、
見逃せない明仁天皇の「おことば」が、実はもうひとつあります。
それは、2011年3月11日の東日本大震災直後に発せられたメッセージです。
震災発生から5日後の3月16日16時35分、明仁天皇が読み上げる
「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」がテレビで放映されました。
震災と原発事故の影響を憂い、また被災者、防災関係者を励ますメッセージは、
かつてないほど大きな不安におびえる国民の心に強く響きました。
一部には、この時「平成の玉音放送」と指摘する向きもありました。
しかし、その後7週間にわたって天皇皇后が被災地を訪問し続け、
被災者の前でひざまずく姿が盛んに報道されると、
「この国に天皇陛下がいてくれてよかった」というような、
極めて好意的なリアクションが増えてきたと記憶しています。
それは被災地で罵声を浴びた当時の菅直人首相とは、きわめて対照的でした。
実は、当時東京都知事だった石原慎太郎が
「若い人(つまり、皇太子や秋篠宮)を名代にしては」と進言したところ、
明仁天皇はそれを断り、自らの強い意志で被災地に赴いたといいます。
実際には皇太子や秋篠宮も被災地を訪れましたし、政治家や宗教者も訪れたにもかかわらず、
真っ先に訪れた天皇と皇后の存在感ばかりが強調されたのです。
そのイメージは、強く国民に記憶されることになりました。
この震災後の「おことば」があったからこそ、そして平成を通じて築き上げた
「国民と共にある」象徴天皇像がしっかりと国民に浸透していると感じたからこそ、
明仁天皇は、退位の意向をビデオメッセージで国民に伝えようとしたのではないでしょうか。
平成は、東日本大震災に限らず、雲仙普賢岳の大火砕流、北海道南西沖地震や阪神・淡路大震災、
中越地震、各地の水害など、大災害が頻発した時代でした。
そして大災害が起きるたびに被災者に寄り添うことで、
明仁天皇と美智子皇后は「平成流の天皇像」を確固たるものにしたとも言えます。


美智子上皇后の「大きな役割」
ふたりは目線を国民に近づけ、国民の安寧を祈ってきました。
かつての行幸啓につきものだった在来線の「お召し列車」はめったに使わなくなり、
新幹線や飛行機、自動車で移動し、列車に乗るときには窓から手を振って歓声に応えた。
スーツとドレスではなく、ワイシャツを腕まくりし、作業服を身にまとって被災地に入るようになった。
こうした天皇皇后の旅は、実のところ皇太子の時代から始まっていました。
その過程において、皇太子妃・美智子の果たした役割は非常に大きかったと言えます。
1958(昭和33)年の婚約発表をきっかけとして東京を中心に湧きおこり、
60年代の皇太子夫妻の行啓とともに地方へと拡散した「ミッチーブーム」が、
同時代の昭和天皇と香淳皇后の行幸啓を上回る人出を各地で集める要因となったことは間違いありません。
戦争体験とその真摯な反省でつながるふたりは、平成30年間だけでなく、
成婚からの60年にわたって「旅」をしてきたのであり、
それは近年取り組んでいる、海外の戦没者慰霊の旅にも通じています。
退位した明仁上皇、そして美智子上皇后の「親しみやすさ」は、
こうした長年にわたる行幸啓によって醸成されてきたということです。
このような「旅」が、明仁上皇が考える「象徴としての務め」の核心に置かれていることは、
2016(平成28)年の「おことば」の中にも明記されています。
「象徴天皇制」とは言うものの、そもそも日本国憲法第一条には
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるだけで、
「象徴」の内実については何ら具体的な定義がありません。
この「象徴」について、明仁上皇が自ら定義を示したのが、「おことば」であったと言うことができます。


明仁上皇が考える「象徴とは何か」
明仁上皇は「おことば」の中で、「天皇の務め」あるいは「象徴的行為」として、
「国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、
思いに寄り添うこと」を二つの大きな柱として位置づけました。
すなわち、前者は宮中祭祀であり、後者は行幸啓を指しています。
宮中三殿ないしそれに付属する神嘉殿、宮殿で定期的に行われている儀式が宮中祭祀。
行幸啓は、これまで論じてきたような全国への訪問、「旅」のことです。
行幸啓を繰り返すのは、「常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる」ために
重要であるからだ、とも述べています。
この二つの「象徴的行為」に関して、先にも少し触れた通り、美智子上皇后が非常に重要な役割を果たしました。
美智子上皇后は、宮中祭祀や行幸啓に積極的で、ある面では天皇以上に熱心に祈り続けてきました。
詳しくは拙著『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』でも論じましたが、
その背景には、美智子上皇后がカトリック的な家庭で育ち、
中学から大学にかけて、カトリックの学校である聖心女子学院で学んだことも影響したでしょう。
カトリックにおいては、神道以上に「祈り」に重きが置かれています。
自ら膝をついて国民と話すという方法も、カトリック的なものといえます。
事実、結婚して初めての地方視察の途上、美智子皇太子妃が老人ホームで膝をつくまで、
皇族が国民の前でひざまずくことはあり得ませんでした。
さらに美智子上皇后は、1963年に第二子を流産したときも、
1993年に失声症になったときも明仁上皇とともに地方に出かけ、手話を含む対話を重ねるなど、
ほとんど休むことがありませんでした。雅子皇太子妃が体調不良に悩まされ、
国民の前に姿を表す機会が減ったのとは対照的だったとも言えるでしょう。
そうして、明仁上皇と美智子上皇后は二人で、曖昧だった「象徴」の定義をある意味で戦略的に作り上げていった。
その「象徴」の務めを満足に果たせなくなれば、摂政を置くことや公務を縮小することで対応するのではなく、
退位するしかない――それが「おことば」におけるメッセージの核心でした。


令和は、国民の「自覚と議論」の時代に
そのような「象徴」の定義が望ましいものか否か、
また、現代日本において憲法で禁じられているはずの天皇の権力性をどう評価すべきかについては、
主権者である我々国民がもっと広く深く、少なくとも明仁上皇と同じくらいしっかりと考えぬくべきでしょう。
おそらく令和の時代に、明仁上皇と美智子上皇后は、この「象徴としての務め」を
徳仁天皇と雅子皇后に引き継いでほしいと考えているはずです。
しかし徳仁天皇と雅子皇后が、その意思や適性を持っているかどうかは未知数です。
新しい時代には、また新しい「象徴」のあり方が模索されることになると思います。
では、譲位した上皇・皇后は公務から退くとして、私的活動をどの程度行うのか。
その活動の程度によっては、権威の二重化の可能性が出てくることは否定できません。
そこにはさらに、皇嗣となる秋篠宮家の位置付けも深く関わってきます。
二重化どころか三重化する可能性すらあるのです。
令和に入り、ますます皇室をめぐる権力構造が複雑になることは間違いありません。
その時、主権者たる国民が天皇と皇室に無頓着であってはいけないのです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64406