喪中ではない

秋篠宮さま 
江森敬治著 毎日新聞 1998年

ご結婚について
結婚前後、いろいろな批判報道も現れた。
皇太子さまより先に結婚するのはおかしいではないかという記事もその一つだった。
しかし、宮内庁関係者は、高円宮さまも兄の桂宮さまより先に結婚されている。
また、昭和天皇の喪中に婚約を発表したという批判があるが、
宮さまの場合には、昭和天皇崩御から八ヵ月後に皇室会議の決定として発表されたのに対し、
昭和の時代には池田厚子さん(天皇陛下の姉)の婚約が貞明皇后崩御から二ヶ月たらずで、
昭和天皇の御裁下により発表されており、いずれも先例があると、話す。
宮さまも一九八九年九月の婚約会見で昭和天皇の喪中や自身の留学中に婚約されたことについて、
「ここ一、二年、川嶋家の方に問い合わせなどが多くなり、早い時期に公にしたいと判断しました。
宮内庁も異議はなく、また両陛下からも反対はございませんでした」と答えられた。


参考
秋篠宮様結婚まで
昭和64年=平成元年(1989年)1月7日 昭和天皇崩御
服喪150日→平成元年(1989年)6月6日に礼宮様喪が明ける(皇室服喪令)
平成元年(1989年)8月26日 礼宮と川嶋紀子嬢との婚約発表。(朝日のリーク)
天皇皇后両陛下もご婚姻に関する皇室会議などの手続きを進めるよう、
同日、藤森昭一宮内庁長官に指示された。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_89082601.htm


宮内庁サイトより
平成元年(1989年)9月12日 皇室会議で決議
平成2年(1990年)1月12日 納采の儀=正式に婚約
平成2年(1990年)6月29日 結婚の儀
※昭和帝が父母にあたる今上陛下は服喪期間が1年だが、祖父母にあたる秋篠宮様は150日。

皇室服喪令
第一章 総則
第一条 父、母、夫ノ喪ハ一年トス
第二条 祖父母、父ノ父母、妻ノ喪ハ百五十日トス

両陛下の喪明けは平成2年1月7日。正式な婚約はそれ以降のこと
婚約会見等に至った理由はマスコミの川嶋家への問い合わせが殺到し
生活に支障をきたさないようにとの配慮で検討され、公表された。

正式な儀式は全て喪があけた後(両陛下の喪も)
成婚に至っては昭和天皇崩御から2年以上経っていた。
公表はせめて1年経ってからという意見もあるだろうが、「喪中」ではない。

順宮(池田厚子さん)の婚約は貞明皇后の崩御から2ヵ月たらずで、
昭和天皇の裁下により発表されている。
皇太子殿下も昭和天皇が亡くなってすぐの平成元年2月には
「雅子さんではだめでしょうか?」と宮内庁に打診している。


毎日新聞 1989年9月12日
天皇陛下 4年前から見守られ  宮内庁幹部らに「前向きに検討を」
天皇陛下は四年前に、礼宮さまと紀子さんのおつきあいを認め、
紀子さんをお妃の候補者として前向きに検討するよう宮内庁に伝えられていた。
同庁によると、礼宮さまが紀子さんを知ったのは、紀子さんが学習院大に進学した昭和六十年四月。
同大構内の書店「成文堂学習院店」で、一緒になり、
店長の阿部俊郎さんが礼宮さまに「川嶋教授のお嬢さんです」と紀子さんを紹介した、という。
二カ月後の六月に礼宮さま主宰の「パレスヒルズテニスクラブ」、
同十二月にやはり宮さまが会長のサークル「自然文化研究会」がそれぞれ発足。
紀子さんは両方に入会し、その活動を通じてお二人は交際を深めていった。
同年十二月に両陛下と礼宮さまが神奈川県・葉山御用邸でご静養の際、川嶋家も葉山に滞在していた。
両陛下が海岸を散策された時や、油壺のマリンパークでご昼食の時などに、
礼宮さまは紀子さんを誘い、さりげなくご両親へ紹介の機会をつくられた。
両陛下は紀子さんのことをすでにご存じだったが、
こうした機会は礼宮さまが「恋人」としての紀子さんを改めてご紹介したかったため、と側近は推測している。
この結果、天皇陛下は同月下旬、同庁幹部に「前向きに二人のことについて検討してほしい」と話された、という。