彬子女王 瑞穂のくに 日本がたり

(瑞穂のくに 日本がたり)神々が授けた稲作の恵み
彬子女王 2016年5月13日19時00分
https://www.asahi.com/articles/ASJ4T6X25J4TUTIL091.html

1:お米と日本
 豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)。
特集:皇室とっておき
 「葦(あし)が生い茂って、千年も万年も穀物が豊かに実る国」という意味のこの言葉。
神々の住まう高天原、死後の世界である黄泉の国、その間にある素戔嗚尊が治める世界、
つまり「日本」という国を示している。
京都に住まいし、もうすぐ7年になろうとしている。
普段から新幹線で移動することが多いのだけれど、車窓からぼんやり外の景色を眺めているのが好きだ。
富士山が見えた、見えないで一喜一憂することもあれば、桜前線の北上の様子に心浮き立つこともある。
たった数日で景色が変わり、季節の移ろいを感じられるのが車窓の旅の醍醐味(だいごみ)だなぁといつも思う。
なかでも、その変化を気付くとつい目で追っているのが田んぼの景色である。
トラクターが田んぼに入り、田起こしが始まると、冬が終わったことを感じる。
若々しい苗が一面に植えられ、水鏡となった田んぼの姿が私はいちばん好きかもしれない。
これから育っていく苗代の瑞々(みずみず)しい生命力に満たされた様子を見ていると、なんだか気持ちがすっとする。
日に日に背丈が伸びていく稲の成長を見守り、稲穂が重そうにこうべを垂れた黄金田に
赤とんぼが舞い飛ぶ時期を迎えると、ああ、日本に生まれてよかったとしみじみ幸せな気持ちになる。
やはり田んぼのある景色は、日本の原風景だと思うのである。
海外で長い間暮らしているなかで、なだらかに広がる丘陵地帯で日がな草を食(は)んでいる羊の群れや、
どこまでも続く壮大な麦畑に心動かされることはあった。
でも、日本の田んぼを見ているときのように、心に直接訴えかけてくるような感動はなかった。
これはやはり、日本人のDNAに刻み込まれた「なにか」なのだと思う。
この「なにか」とはなんなのか。それはきっと、日本という国のはじまりに由来するものだ。
日本では、古来お米は神様からの「授かりもの」と考えられてきた。
天照大神(あまてらすおおみかみ)から地上世界の統治を託された、
天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は三種の神器とともに、稲穂を授けられ、高千穂峰に降り立たれる。
高天原の神聖な田で実った稲を地上でも植え、実り豊かな国、
つまり豊葦原千五百秋瑞穂国を作りなさい、と命じられたのである。
瓊瓊杵尊の神名自体も、「稲穂がにぎにぎしく実る」という意味。
穀物の神様の手によって、お米は日本にもたらされ、瑞穂の国の歴史が始まるのである。
神々の国の恵みを地上世界に再現すること。それが、天照大神の意に適(かな)うこと。
以来、日本人はお米を作り続けてきた。お米が神々の世界と日本という国をつないでいるのである。
ご飯を三角形や俵型に握ったものが、「おむすび」といわれるのも、お米が神様と人のご縁をむすぶから。
日本という国のものがたりは、お米を抜きにしては語れないのである。
……とここまで書いてきたけれど、私がお米の魅力と奥深さに気付いたのは、実は最近であったりする。
英国に留学するまで、私はずっとパン党だった。朝食はいつもパン。
ご飯ももちろん嫌いではないけれど、パンのほうが断然好きだったのだ。
でも、留学して毎日洋食の生活になり、ああ、ご飯が食べたい……と思うようになった。
そして、どうにかありあわせの材料でご飯とお味噌(みそ)汁を作って食べたとき、
なんだか嚙(か)んでいるそばから身体に浸透していくような感覚があった。
心の底からほっとしたのだ。ああ、自分は日本人なんだと思った。
お米を毎日食べられるということが、どれだけしあわせなことなのかを実感した。
この海外でのお米との邂逅(かいこう)を経て、私はお米と日本という国のつながりについて少しずつ考えるようになった。
お米が紡ぐ日本のものがたりをこれから紐解(ひもと)いていくことにしよう。(彬子女王)


連載2~10

(瑞穂のくに 日本がたり)田植えが伝えてくれること
彬子女王 2016年6月8日15時50分
https://www.asahi.com/articles/ASJ5V5VQBJ5VUTIL03X.html

2:田植えの季節
「田植えが始まると、お米の味が落ちるんです」
そんなことを教わったのは、確か一昨年の今時分のことだった。
私の友人に、お米をこよなく愛している人がいる。
その人のおかげで私はお米が好きになったと言っても過言ではないくらいだ。
彼女はとにかく白米至上主義で、ご飯をおかずにご飯が食べられる人。
だから、ご飯に何かが混ざっていたり、かかっていたりするのが許せないらしい。
丼物やチャーハンは食べないし、カレーライスは、ルーをきっちり食べ終わってからご飯を食べるのである。
先日、海上自衛隊の実習幹部の人たちが遠洋練習航海に出る際、野菜などは現地調達するけれど、
お米だけは日数分日本から積んで持って行くという話を聞き、
300人×160日分のお米ってどのくらいの量になるんでしょうね?と彼女に聞いてみた。
すると、「やはり自衛隊の方はたくさん召し上がるでしょうから、
我が家の1日分に1合分足して、1・5キロ×160×300で、72トン!」と返ってきた。
最初何げなく聞き流したのだが、はたと気付いた。1・5キロと言ったら一升である。
いくら食べ盛りの若者たちとはいえ、1日一升というのはさすがに無理ではあるまいか。
ちょっと多すぎませんか?と言ってみると、彼女の返事は早かった。
「私は今朝ほど3合いただきましたが、何か?」と。私がそのあと反論しなかったのは言うまでもない。
そんな彼女が教えてくれたのが、冒頭の田植えとお米の味のお話である。
お宅に伺うと、いつもぴかぴかに輝く炊き立ての白いご飯が出てくるのに、その日はなぜか炊き込みご飯だったのだ。
理由を聞いてみるとそういうことで、「たくさん頂こうと思うと、
どうしても味をつけたくなってしまうんですよね」とのこと。
この時期は彼女でも白米を食べる量が減るのだそうだ。
言われてみると確かに、ついこの間まで食べていたお米と比べて、味に力がない。
お米屋さんがいつものように精米して、数日前に持ってきてくれたお米。
それなのに、なんだか気が抜けてしまったとでもいうのだろうか、がくんと味が変わっているように感じた。
昨今はお米を保管する技術が高まり、新米のみずみずしい輝きと味は言わずもがなだけれど、
収穫から時間がたっても、その鮮度と味が長期間保たれるようになってきている。
でも、田植えの時期のお米は、その技術をもってしても防ぐことができない味の変化が出てくるものらしい。
これは、収穫されたお米から人間への何かのメッセージなのだろうか。
お米好きの友人いわく、田植えの時期までは、新しく採れたお米をおいしくいただく期間。
そこから収穫までは、秋に実るお米のことを思いながら、去年のお米に感謝する期間なのだそうだ。
彼女に出会うまで、私はお米をそんなに味わって食べたことがなかったような気がする。
好きなお米の品種など考えたこともなかった。
彼女の炊いてくれるお米への愛にあふれたご飯を食べ慣れるにつれ、
料理に合わせてご飯の炊き方を変えていることや、最初に出てきたご飯と、
おかわりのご飯のお米の品種が違うことに気付くようになった。
新しいお米の命が始まる時期に、去年のお米の命に感謝をする。
そうすると、なんだか心が豊かになり、味が落ちたと思ったお米も滋味が感じられるようになるのが不思議である。
今年もまた、田植えの季節。お米を軸に回る彼女の1年が始まったようだ。
(彬子女王)


(瑞穂のくに 日本がたり)神様のお米作り 夢かなう
彬子女王 2016年7月1日16時00分
https://www.asahi.com/articles/ASJ6R012QJ6QUTIL079.html

3:田植えをして
子どもたちに本物の日本文化を伝えていくために、「心游舎(しんゆうしゃ)」という団体を創設し、
活動を始めてから5年目になった。
かつては文化の発信拠点であった寺社を舞台に、和菓子作りや煎茶、神話の地である出雲でのキャンプなど、
日本文化を生活に取り入れるきっかけとなるようなワークショップを開催している。
心游舎の活動をしていく中で、むくむくとふくらんできた夢が私にはあった。
それは、神様が召し上がるお米を自分たちの手で作りたい、というもの。
今までも、お米の大切さを知ってもらうために、おくどさん(かまど)でお米を炊いたり、
自分で作った飯碗(わん)でご飯を食べたりと、お米をテーマにしたワークショップは開催してきた。
でも、使うお米は自分たちのお米ではない。神様にお供えするお米を作り、お供えして、そのおさがりをいただく。
これ以上の幸せがあるだろうか。「『心游舎米』を作りたいですね」という話を、
みなで集まるときに幾度となくしていたのだった。
やはり、「言霊」というのはあるのだろう。言葉にしているうちに、いつしか本物になることが。
去年、御縁あって訪れた新潟の地で、素敵(すてき)な農家の方たちとの出会いがあり、
心游舎米の話をしたら、「ぜひ協力させてください」と言ってくださったのだ。
そこからはとんとん拍子に話が進み、国学院大学の学生さんの協力のもと、
心游舎米作りのプロジェクトが本年スタートする運びとなったのである。
1回目の田植えが行われたのが、6月5日。関東地方が梅雨入りした日でもあり、
お天気が心配されたけれど、雨も降らず、かんかん照りでもなく、絶好の田植え日和となった。
私が到着したときには、もう学生や地元の子どもたちが手足や顔を泥だらけにして、田植えに興じていた。
前日に、協力してくださる農家の方たちから新潟の米作りについて学び、交流していた学生たちは、
地元の人たちとわいわい楽しそうに話しながら作業をしている。
私の思い描いていた理想の風景に、心がほんわかとあたたかくなった。
私もさっそく裸足になって田んぼの中へ。少し冷たい、でも、じんわりとあたたかい泥の感触が気持ちがいい。
昔ながらの木の枠を転がし、学生たちが協力してつけてくれた線の上に、数束ずつ苗を植えていく。
数年来の夢が叶(かな)った瞬間。本当に幸せだと思った。
田植えが終わってから、みなで反省会をした。一人一人が今日の感想と反省点を述べる中で、
「今回私は、田んぼには神様がいるんだよ、だから、神様の田んぼには苗を植えるんじゃない、
つけるんだと教わりました」と報告してくれた人がいた。神様のお心にそうように、そっと苗をそえる。
米作りの意味がすとんと腑(ふ)に落ちた気がした。
「私は虫が大嫌いで、今日は虫を見たときに、どうやったら声を上げずにできるかと悩んでいたのですが、
田んぼに入ったらなんとも思わなくて。これが田んぼの魔力なのかなと思いました」と、
はにかみながら語ってくれた学生さんもいた。それぞれが、田植えを通して自然と「何か」を感じてくれたようだ。
田植えが終わっての帰り道、受け入れ先の農園の宮尾浩史さんが私に言った。
「今回、この日しか無理だって、彬子さん、言われたでしょ? 
いつもより遅いから大丈夫かと思ってたんだけど、
調べたら今日、新月だったんだよ。田植えに一番いい日。完璧」と。
やはり田んぼに神様はおられるのだ。そう確信した日だった。
(彬子女王)


(瑞穂のくに 日本がたり)二十四節気、身近なものに
彬子女王 2016年8月5日22時00分
https://www.asahi.com/articles/ASJ7W5W36J7WUTIL04R.html

4:神々とお米
本格的な夏の暑さがやってきた。今はちょうど大暑。1年の中で、最も暑い時期である。
でも、これが過ぎれば、暦の上では秋になる。
ここからまただんだんと日は短くなり、冬に向かって歩みを始めることになる。
大暑というのは、二十四節気の区分のひとつ。
二十四節気は、太陰暦を使っていた時代に、季節のずれを調整するための指標として生み出されたもので、
一太陽年を24に等分し、その区切りと区切られた区間につけられた名称である。
テレビのニュースなどでも「暦の上ではもう夏」なんて言われたりするので、
立夏、秋分、冬至といった言葉にはなじみがある。
でも、雨水や寒露と言ってピンとくる方はあまり多くはないのではないだろうか。
実際私もそうだったし、ほとんど気に留めることもなかったように思う。
それががらりと変わったのは、一昨年の秋のある出会いがきっかけだった。
宮城県南三陸町の上山八幡宮を訪れた時のこと。
社務所の2階の壁に、かわいらしい絵の描かれたカレンダーのようなものがかけられていた。
近寄ってみると、それは手作りの二十四節気カレンダー。
ご自身も小学生のお子さんがおられる禰宜(ねぎ)さんが、
子どもたちにもわかりやすく二十四節気の意味を伝えられるようにと、
絵も詞書(ことばがき)も考えて作られたものだった。
「実はこれ、半永久的に使えるんですよ」と、カレンダーをめくりながら、
うれしそうにいろいろなことを教えてくださった。
二十四節気にまつわる神様がおられ、節気ごとに空から降りてこられること。
立春のころには、若年神(わかとしのかみ)という若い稲の神様が自ら種まきを始めること。
冬の足音が聞こえてくる小雪には、庭髙津姫神(にわたかつひのかみ)が、
庭に干してある収穫した稲束を明るく照らすこと。
「年」というのは、もともと稲の稔(みの)りを表す言葉。
ほとんどの神様が稲作にかかわっていて、米が無事に育つように見守っておられ、
その神様のお役目通りに、その節目は晴れたり、雨が降ったり、台風を受け止めたりする。
神様の世界でも分業制なんですね、とほほえまれた。
台風の時期である秋分のころには、久久年神(くくとしのかみ)が実った稲穂をぐぐっと支える。
この話を聞いた時、ある年のニュースの映像を思い出した。
大風が吹いて、一面なぎ倒されてしまった田んぼ。
そんな痛々しい風景の中で、凜(りん)と立っていた稲の姿に心打たれたことを。
なぜか数束だけ倒れずに残っていた稲。きっとこの神様のおかげに違いない。
すべてが脳内でピピピとつながり、心の底から感動してしまった。
人も環境もめまぐるしく変わり続けてきた歴史の流れの中で、古代から変わらないものがある。
神々とお米。お米と日本人の生活。四季のうつろい。変わらないものというのは美しいなと思った。
以来、二十四節気は、私の生活の中で生きる身近なものになったのだった。
神代の昔から変わらずに作り続けられてきたお米。
神棚へのお供えでも、神社のお祭りの御神饌(ごしんせん)でも、いつもお米が一番に御神前に上げられる。
これは、お米が神々の世界と人間の世界を仲立ちするものであり、
御霊代(みたましろ)でもあるからなのだろう。
米という漢字は、ばらばらにすると八十八になる。
お米が作られ、我々の口に入るまでに八十八の工程があるからだと言われている。
だからお米には八十八の神様が宿っておられる。
神様の世界も分業制という言葉の意味が、よくわかった気がした。
(彬子女王)


(瑞穂のくに 日本がたり)草取りで見えた 田んぼの力
彬子女王 2016年9月3日01時48分
https://www.asahi.com/articles/ASJ8Y5G46J8YUULB005.html

5:足音で育つ稲
青々とした稲が一面に広がり、風に揺られる景色に元気をもらえる季節である。
先日、4階建ての建物の上から、何げなく眼下に広がる田んぼを眺めていたら、田んぼに風の道ができていた。
風が微妙に方向を変えながら、稲の上を一気に吹き抜ける。
あるときは強く、あるときはやさしく。風に吹かれては傾き、戻ってくる稲。
風の神様と稲が戯れているように見え、
なんだか目が離せなくなって、ずっとその風の道を見つめていた。
その田んぼの力を初めて実感したのは、去年の夏のことだった。
大学時代のゼミの先輩が、新潟のご実家に帰られて、自然栽培の農家をされているという話を聞き、
先生たちと連れ立って夏休みに訪問することになったのである。
先輩に連れられて訪れたのが、同じ自然栽培仲間の宮尾農園。
そこで「せっかくだから、役に立つことをして頂こうと思って!」と、
宮尾浩史さんが笑顔で我々に出された課題が「田んぼの草取り」だった。
宮尾さんによると、肥料も農薬も使わない自然栽培の田んぼでは、雑草は共生していくもの。
田んぼに栄養を供給する微生物の働きを助けたり、土の乾燥を防いだり、水はけを良くしたり、
稲の成長を支えてくれるものなのだそうだ。イボクサという植物だけは、稲に沿って伸びてしまい、
刈り取りの時に引っかかるので、それだけ取ってください、と教えられ、田んぼに向かった。
初めて足を踏み入れた田んぼ。顔を土のほうに近づけてみると、そこには宇宙が広がっていた。
バッタやコオロギ、ミミズなど、たくさんの虫がいる。イボクサ以外の草もいろいろ生えている。
でも、なんだかそこには彼らの世界があり、生き生きとして本当に楽しそうに見えたのだ。
草取りをしながら、宮尾さんがいろいろなことを教えてくれた。
草が邪魔ものだと思っていたときは、草が暴れて、ずっといらいらしながら草取りに躍起になっていたけれど、
あるときふと、草は草で役割があるのだから、どうしても困るものだけ取り除こう、と思ったのだそうだ。
そのときから、不思議と草が暴れなくなったのだとか。その言葉の通り、宮尾さんの田んぼはとても美しい。
人の心はきちんと植物に伝わるのだと思った。
宮尾さんはおばあさまから、「稲は人の足音を聞いて育つ」と教わったという。
毎日田んぼに足を運び、稲に声をかけ、大事に面倒をみれば、必ず応えてくれる、と。
農薬を使って虫と雑草を除去してしまえば、たとえ1日くらい様子を見に行かなくてもあまり問題はないけれど、
自然栽培の場合は、たった1日で状況が変わることがある。
おかしな病気になっていないか、悪い虫がついていないか……そんなことが心配で、毎日様子を見に行く。
「今日はたくさんの人が来てくれたから、稲もすごく喜んでると思うよ!」と満面の笑みで言われた。
こんな人に育てられているお米は幸せだろうなと思った。
そんな心地よい労働をした翌朝、体の異変に気付いた。
一瞬起き上がれないかと思うほど、全身が筋肉痛に襲われていたのである。
日ごろから歩くのが好きで、千段の階段を上っても筋肉痛なんてならなかったのに、
2時間の草取りでこのありさま。
日ごろどれだけの苦労を農家の方たちがしてくださっているのかを身をもって実感した。
それから、私はお米の話をするときにいつもいう。
「草取りを経験せずして、米作りを語ることなかれ」と。
(彬子女王)


(瑞穂のくに 日本がたり)豊かな秋の恵み 漆の器で
彬子女王 2016年10月10日01時58分
https://www.asahi.com/articles/ASJB15QV8JB1UULB006.html

6:新米の季節
青空の色がいつの間にか秋の色になっている。
日に日に高くなっていく空と、真っ白なうろこ雲のコントラストが美しい時季である。
そして、車窓から外の景色を眺めていると、そこかしこで黄金色の稲穂が重そうにこうべを垂れている。
お米屋さんの店先でも「新米入荷しました」の貼り紙を見かけるようになった。
いよいよ実りの秋。食欲の秋の到来である。
これから先は、お米の一番おいしい季節。つやつやと輝く新米が食卓に並ぶと、
日本という国に生まれてよかったととても幸せな気持ちになるものだ。
さて、みなさんはそのご飯を、何を使って召し上がるだろうか。
おそらく、多くの方の答えは、「お箸」と「お茶碗(ちゃわん)」だろう。
でも、このことにふとした違和感を覚える方はおられないだろうか。なぜご飯を「茶碗」で食べるのか、と。
そもそも、茶碗は「茶」を飲むときに用いる「ワン」である。
お抹茶や煎茶を飲むときにも、もちろん「茶碗」を使う。
でも、お茶を飲むときの茶碗と、ご飯を食べるときの茶碗は違うもの。
ご飯を食べる茶碗を「ご飯茶碗」と区別して言ったりもする。
なぜ別の用途に使うものを同じ名称で呼ぶのだろう。
ご飯を食べるときに用いる「ワン」には、「飯椀(めしわん)」という言葉が別にある。
それなのに、なぜ「飯椀」を使わないのだろうか。
ここで注目したいのは、「ワン」の字の偏。茶碗のワンは石偏。飯椀のワンは木偏。茶碗と飯椀。
実は作られている素材が違うということが、漢字からわかるのである。
茶碗は陶磁器製のものがほとんど。つまり、石の粉(陶器は土)でできているので、石偏の碗を使う。
陶磁器というのは、熱伝導率が高い素材である。
あつあつのお湯を注いでも、すぐに熱が逃げるので、口元に持ってくるころには、ちょうどいい温度に冷めている。
お抹茶であれば、三口半で飲みきってしまうので、長時間保温する必要もない。
そのため、陶磁器というのがお茶を飲むには一番適した素材なのである。
では、飯椀はどうだろう。ご飯というのは、本来漆の器で食すものであった。
木地の椀に、漆を塗り重ねて作られた器。木でできているので、木偏の椀である。
木は陶磁器とは逆に熱伝導率の低い素材。ふたをすれば、さらに保温性が上がる。
ご飯やおみそ汁は食事の最後まで冷めてほしくないもの。
漆器であれば、温かい料理を入れても、やわらかくその温度を保ってくれる。
汁椀がいまだに漆器で定着しているのも、このような理由があるからなのである。
こんなに適した素材なのに、なぜ飯椀は使われなくなってしまったのだろう。
その変化が起こったのが、おそらく江戸時代の中期ごろ。
「瀬戸物」という言葉もある通り、安価な陶磁器が市場に出回るようになった。
高価で、手入れも面倒(だと思われているだけで、本当はそんなことないのだけれど)な漆器の飯椀ではなく、
似たような形状の陶磁器の茶碗で代用しようと考えた人がいたらしい。
それが全国的に広まり、現在のように、「茶碗でご飯を食べる」ことが市民権を得てしまった、ということのようだ。
でも、やはり漆の器でいただくご飯は格別である。
真珠色につやめくほかほかのご飯と、深い深い漆黒の器が、やわらかく手に収まるとき、
ご飯を「椀」で食べる意味を心から実感できる。
この新米の季節、飯椀でおいしいご飯を召し上がってみてはいかがだろうか。
(彬子女王)


(瑞穂のくに 日本がたり)11月23日神様に収穫感謝
彬子女王 2016年12月9日16時08分
https://www.asahi.com/articles/ASJD474RFJD4UULB003.html

7:新嘗祭
「新米」というのは、収穫した年の12月31日までに精米され、包装されたお米のことをいう。
最近は9月ごろから新米が出回るようになっているけれど、
本来は新米を食していいのはある日を過ぎてから、と決まっていた。
その日というのが、11月23日。現在は「勤労感謝の日」と呼ばれる日のこと。
「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」目的の日であるが、
この日が「勤労を感謝する」日になったのには理由がある。
天皇が、その年に収穫された新穀を天神地祇(てんじんちぎ)にお供えになり、
自らもそれを食されて、収穫に感謝するお祭り、新嘗祭(にいなめさい)が行われる日であるからである。
新嘗祭は、古くは陰暦11月の2度目の卯(う)の日に行われていたお祭りで、
明治6(1873)年以降は新暦の11月23日に行われるようになった。
宮中三殿の神嘉殿(しんかでん)で行われる男性皇族しか参列を許されない特別なお祭り。
潔斎(けっさい)をされ、モーニングに身を包まれて、
深夜にまで及ぶ儀式に出かけていかれる父の後ろ姿は、
子ども心にも「なんだかいつもと違う」ことを十二分に感じさせるものだった。
翌日、「今年は寒かった」とか、「今年の白酒(しろき)は去年より出来がいい気がする」
などというお話を聞きながら、私が一生見ることはない幽玄なお祭りの様子に思いをはせたものである。
新嘗祭のときには、その年の新米で醸造された白酒と黒酒(くろき)がお供えされる。
白酒は、甘酒のような白濁したお酒で、それにクサギという植物を焼いた灰を混ぜたものが黒酒である。
神様にお供えされ、陛下も召し上がった後は、臣下にも賜りがある。
直会(なおらい)の席で殿下方もお召し上がりになり、
お下がりで頂いた白酒と黒酒が厨房(ちゅうぼう)に恭しく並んでいたのを、少しだけお味見してみたことがある。
記憶の片隅にある味の感想は、「うわっ、酸っぱい……」であったような気がする。
いわゆるどぶろくに近いような、昔ながらの製法で造るお酒なので、
刻一刻と発酵が進み、味が変わるものであるらしい。
お酒があまり得意でない私は、それから二度と頂くことはなかったのだけれど、
これが神様のお酒というものなのか、と思ったことは、そのかすかな味の記憶とともに心に残っている。
そういえば、ぐい呑(の)みというものができたのは、かなり時代が下ってからだ、という話を最近聞いた。
昔のお酒はぐびぐびと大量に飲めるものではないので、ちびりちびりと小さな杯で飲んでいたはずだけれど、
醸造の技術が進み、雑味の少ないお酒が造れるようになったので、
ぐいっと一気に飲める大きな酒器の需要ができ、生まれたものなのだ、と。
その話を聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、新嘗祭のお酒のことだった。
ぐびぐびと飲めないお酒。あのときのお酒の味がようやく理解できた気がした。
お酒というのは、やはり神様の飲み物なのだろう。
少しずつ飲むことで、それを口にできることの喜びを昔の人は感じていたのかもしれない。
新嘗祭では、神様が召し上がった新米とお酒を陛下もお召し上がりになる。
神様が食されるより先に人間が新米を食すのは恐れ多いこととされ、
今でも神社の方たちは、新嘗祭が終わるまでは新米は食べない、という方が多い。
おいしいものをいち早く食べたいと思うのは人間の性(さが)。
でも、一歩立ち止まって、神様のために作られるお米の意味を考えてみるのもよいのではないだろうか。
(彬子女王)


(瑞穂のくに 日本がたり)「お鏡さん」供えて年迎え
彬子女王 2017年1月13日16時02分
https://www.asahi.com/articles/ASK185J2VK18UULB003.html

8:お餅つき
「もち肌」という言葉がある。つきたてのお餅のように、きめ細かくてなめらかな白い肌のことだ。
例年、年の瀬にはお世話になっているお寺のお餅つきに参加させていただいている。
京都に来てからほとんど毎年。参加できないとなんだかもやもやする、私の年末の恒例行事である。
最初の年は、のんきにお餅を1、2度ぺったんぺったんつかせていただくくらいのつもりで行ったのだが、
「はい、丸め隊は奥の座敷に座って~!」と、いつの間にか丸め隊に組み込まれ、
休む間もなくお餅をひたすら丸め続けるという役を担うことになってしまった。
1回目のお餅がつきあがった。ひと臼分のお餅を大小に分け、
丸めてご本尊にお供えする大きな「お鏡さん(鏡餅)」を作る。
初めて触れたお餅のなめらかさと言ったらどうだろう。
やわやわと温かく、ずっと触っていたくなるほど気持ちがいい。
ああ、これがほんまもんのもち肌なのかと幸せな気持ちになっていたら、
「すぐへたるし、上から下に手を入れるようにして丸めて! 
なるべくたこ(高く)作らなあかんし!」と厳しいご指導が……。
我に返って、そこからは粉だらけになりながら、ひたすらお餅を丸める作業に徹することとなった。
お寺のお餅つきは重労働である。毎年だいたい10~11臼つく。もち米も20キロほど用意される。
ご本尊へのお鏡さんを皮切りに、各部屋の仏様やご先祖様にお供えする小さいお鏡さんを
4分の1や8分の1の量で作っていく。それが終わると、お世話になった方たちにお配りする小餅を大量に作る。
私が最初想像していた、幼稚園や町内会の行事でするような優雅なお餅つきとは別物である。
これが京都のお寺の年迎えの準備。お正月を迎えるというのはどういうことなのかをようやく実感することができた。
お昼ごろまで手を動かし続け、おねぎらいの辛み餅や納豆餅を皆で頂けたときには、
心地よい疲労感と達成感に包まれ、とても満ち足りた気持ちになった。
お正月には、歳神(としがみ)様が一年の良運と「年玉」という年齢を授けに来られると言われている。
お鏡さんは、歳神様のお御霊(みたま)が宿る鏡であり、お供え物。
そして、歳神様から頂くのが年玉という名の小餅(これがお年玉の原点である)。
歳神様に宿っていただくお餅を用意し、そして、歳神様からお餅を頂く。
このお餅を頂くことで、歳神様と同じお餅を食し、歳神様のお力を頂くことになる。
お寺では、このお餅を仏様もお召し上がりになるのだから、さらなるお力が加わるのかもしれない。
この神聖なお餅を自分たちの手で作れるというのは、本当にありがたいことだと毎年思う。
このお餅つきに、私と同じように毎年参加している姉妹がいる。
友人のお孫さんで、初めて会ったときは、2人とも小学校に上がる前だっただろうか。
お餅をついているお父さんを応援したり、お餅を小さくこねこねしたりするので精いっぱいだった2人が、
今ではすっかり主戦力でせっせとお餅を丸めている。
「あれ、りんちゃん、丸めるの上手になったね!」と声をかけると、
「彬子お姉さんの手のまねしてるの!」とにこっと笑顔で答えてくれた。
最初の年には丸め方の指導をされていた私が、いつのまにか指導をできるようになっていたらしい。
年を重ねるというのはこういうことかと思った。これがまさに私にとっての「年玉」なのかもしれない。
(彬子女王)


(瑞穂のくに 日本がたり)白銀の奥出雲、伝承に学ぶ
彬子女王 2017年2月3日14時30分
https://www.asahi.com/articles/ASK2152T5K21UTIL01D.html

9:神話めぐり
出雲という地には、不思議な力があると思う。なんだかとても「懐かしい」気がするのだ。
この地に降り立つと、いつもほっと肩の力が抜ける。
東京で生まれ育ち、故郷と呼べるところはない私だけれど、
「ただいま」と言って帰りたくなってしまう場所が、私にとっての出雲である。
出雲といえば、言わずと知れた出雲神話の舞台となった場所。
力持ちの八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が、新羅から余った土地を出雲まで引き寄せてきて、
流れていかないように綱を括(くく)り付けた杭になったという三瓶(さんべ)山、
天照大神より国譲りの指令を受けた建御雷神(たけみかずちのかみ)が、
大国主神と対面した場所である稲佐の浜など、神話にゆかりのある場所がそこかしこに存在する。
そんな場所を改めて自分の目で見たくなり、先月久しぶりに出雲の地を訪れた。
神話めぐりの旅が始まったのは、雪深い奥出雲。
何度も足を運んでいるところだけれど、こんなに美しい白銀の奥出雲は初めてである。
静かに降り続く雪を眺めながら、心がすーっと穏やかになっていくのを感じた。
今回訪れたのは、斐伊川上流の八岐大蛇(やまたのおろち)のすみかといわれる天が淵。
木々が生い茂り、確かに大蛇がすんでいそうな空気が流れている。
案内してくれた万九千(まんくせん)神社の宮司の錦田剛志さんは、
「神話を学ぶのか、神話に学ぶのかをきちんと考えてみることが大切」という。
斐伊川は、その昔、暴れ川として有名で、しばしば氾濫(はんらん)しては人々を困らせていたそうだ。
八岐大蛇の「ほおずきのように赤い目」というのは、
この地で昔から操業されていたたたら製鉄の赤い炎ではないかと錦田さんはいう。
「その暴れる大蛇(斐伊川)を制圧した時に、その体内から三種の神器のひとつとなる草薙の剣(鉄)を
得られるということなのではないか」と。
この斐伊川の流域には、大蛇退治の後、
素戔嗚尊(すさのをのみこと)の妻となった櫛名田比賣(くしなだひめ)(奇稲田姫)が、
両親のアシナヅチ・テナヅチと共に住んでいたといわれる住居の跡地もあるのだという話をしながら、
錦田さんがこう続けた。「このアシナヅチ、テナヅチというのは、『足を撫(な)づ』『手を撫づ』で、
両親が娘の手足を撫でて慈しむという説が有力なんですが、自分は足を使い、
手を使って一所懸命働いたら、美しい田んぼ、つまり、
神秘的な稲田の女神(奇し稲田姫)が生まれるっていう意味じゃないかと思っているんです」と。
この説明に、目からうろこが落ちたような気がした。これが「神話に学ぶ」ということなのだ。
伝えられてきたことには必ず理由がある。
その理由を考えてみることで、なぜそれを伝えなければいけなかったのかを理解することができるのである。
『出雲国風土記』によると、奥出雲、仁多のあたりは、「是は爾多(にた)しき小国なり」と言われ、
古くから肥沃(ひよく)でうるおいのあるお米のよくとれる土地として知られている。
そして、たたら製鉄の砂鉄を得るために、山を切り崩し、水路に流す「鉄穴(かんな)流し」によって、
平地になった土地を使って棚田が作られた。
その田んぼからできたお米が、たたらに携わる人々の食糧となったのである。
仁多は、水田が標高の高いところにあるため、昼夜の温度差が大きく、
冬は雪に覆われて田んぼの虫が死滅するので、今もここでは、仁多米というおいしいお米がとれる。
手足を使って働いている人たちがたくさんいる証拠だ。
一面の雪に覆われた棚田を見ながら、今年の稲田姫の誕生を心待ちにしたのだった。
(彬子女王)


(瑞穂のくに 日本がたり)黄金色の稲穂に感謝
彬子女王 2017年3月3日15時49分
https://www.asahi.com/articles/ASK2V73DLK2VUTIL024.html

10:神様のお米
この一年ほど、お米と真摯(しんし)に向き合った年はなかったような気がする。
国学院大学の学生さんたちと、新潟市の大月集落の農家さんたちのご協力を得て、
神様にお供えするお米を作らせていただいた。
みなで田植えをし、草取りをし、収穫して、
越後の国一宮である弥彦神社に奉納させていただくまでの約半年にわたり、
本当にたくさんのことを学んだ。
このプロジェクトを始めるときにお願いしたのは、大変なのはわかっているけれど、
「できるだけ自分たちの手を使いたい」ということだった。
田植えも、稲刈りも、脱穀も、乾燥も全部機械でできてしまう時代。
でも、神様のお米を作るのだから、そこはできるだけこだわりたかった。
農家のみなさんも「実は俺たちもやったことないんだけどさ~」と言いながら、快く引き受けてくださった。
田植え、草取りと、自分たちの手で植えた稲がすくすくと成長していく様子を見守った。
そして、いよいよ10月。収穫のときを迎え、夕日に照らされて黄金色の光を放っている田んぼを見たときは、
なんだか涙が出そうになるくらい感動した。
たくさんの方たちのご協力を頂けたからこそ見ることのできたこの一面の稲穂の輝き。
本当にありがたいなと感謝の気持ちが心からあふれてくるようだった。
翌朝、みな腰に藁(わら)をくくりつけ、鎌で一株一株丁寧に稲を刈り取った。
ある程度まとまったら、それを束にして「まるける」。
要するに、稲を藁で束ねて縛るという作業なのだが、単純そうに見えてなかなか難しい。
子どもの頃に、親御さんが作業されるのを手伝っていたという年配の農家さんは、
「意外と体が覚えてるもんだねぇ」と、得意げに手をくるりと返し、
上手に稲束を作っていかれる。その職人技は目にも鮮やかだった。
稲束は、4段の稲架(はさ)にびっしりとかかり、その日の作業は無事終了した。
腰が少し痛くなったけれど、心地よい疲れと充実感でいっぱいになった。
でも、そこでふと気づいたのだ。20人で約2時間半作業して、
1反の田んぼの半分の刈り取りも終わっていないことに。
「ちなみに機械だとどれくらいかかるんですか?」と聞いてみると、
30分くらいで1反分は余裕で終わると言われ、がくぜんとした。
機械の発明がどれだけ農家の人の暮らしを楽にしたかがよくわかった。
でも、機械がなかった時代のことを考えてみる。田植えも稲刈りも、村総出の一大行事だったはずだ。
今日は鈴木家、明日は田中家……と1日がかりで、2週間くらい来る日も来る日も稲刈りをしていたという。
乾燥も、天日干しだと2週間かかるけれど、機械では一晩。今は、脱穀も刈り取りしながら機械がやってくれる。
人間は欲が深い生き物である。人間が早く新米を食べたいから、早生(わせ)の品種が改良され、
人間の農作業をなるべく効率的にするために様々な農業機械が開発された。
それはとてもすばらしいことなのだけれど、本来の日本の暦とは合わなくなってしまうのが実情である。
でも、手作業でお米を作ってみると、自然と暦通り、新嘗祭(にいなめさい)の前にお米が干しあがるようになる。
これが人間のためにお米を作るのではなく、神様のためにお米を作るということなのだと実感した。
なるべく自然に逆らわずに生きること。日本人が忘れてはいけないことはここにあるのかもしれない。
(彬子女王)

  ◇
あきこじょおう 1981年、故・寛仁(ともひと)さまの長女としてご誕生。
学習院大を卒業後、英国オックスフォード大マートン・コレッジで日本美術史を専攻し、
女性皇族初の博士号を取得した。
公務に精力的に取り組むほか、子どもたちに日本文化を伝える「心游舎(しんゆうしゃ)」を創設し、
全国各地で活動している。
学生たちと新潟市で稲作に取り組むことになった。
京都産業大日本文化研究所研究員、国学院大特別招聘(しょうへい)教授などを兼務。
詳細は心游舎のウェブサイト(http://shinyusha.jp/別ウインドウで開きます)で。
(※略歴のみ第一回と第十回を合わせて編集しています。)