三笠宮家 母子の確執?

寛仁親王妃信子さま 深まる娘たちとの溝 “ヒゲの殿下”逝去後の思惑
(更新 2014/12/12 07:00)
故ヒゲの殿下の妃である信子さまは9年ほど前から長期療養生活中だ。
ところが最近、宮中晩餐会や園遊会で姿をお見かけするようになった。
突然のご公務復帰に、関係者は戸惑いを隠せない。
12月20日に33歳の誕生日を迎える長女の彬子さま、次女の瑶子さまの胸中は――。
寛仁さま逝去後も「別邸暮らし」を続ける信子さまの日常に変化が現れたのは、
寛仁さまが亡くなって1年数カ月が過ぎたころだった。
13年11月、福島県伊達市を公的に訪れ、小学校でクラシックコンサートを鑑賞した。
信子さまは06年1月の新年祝賀行事に顔を出したのを最後に公務に姿を見せたことがなかったため、
実に7年10カ月ぶりの復帰となった。
13年10月、伊達市の食材を生かした料理本『思い出の先にはいつも家庭料理』(マガジンハウス刊)を出版。
紹介しているのは麻生家の思い出の料理だ。
そして今年10月に入ってから、信子さまは精力的に公務をこなすようになっている。
12日に松山市で開かれた「日本青年会議所第63回全国大会松山大会」を皮切りに、
29日のオランダ国王夫妻を迎えた宮中晩餐会、11月6日の園遊会……。
宮中晩餐会は11年ぶり、園遊会は10年半ぶりだ。
園遊会翌日には再び伊達市を訪れ、原発事故で避難生活を続ける飯舘村民らと交流した。
園遊会でも出席者に積極的に話しかけていた信子さまだが、
その“慣れないお仕事ぶり”に周りが肝を冷やすシーンがあった。
両陛下や皇族方が池の周りを回るなか、信子さまだけが出席者との会話に夢中になって立ち止まってしまい、
後に続く皇族方が前に進めなかったという。
それだけではない。寛仁さまの逝去後も寛仁親王家の当主が決まらず、
信子さま、彬子さま、瑶子さまは寛仁さまの両親の三笠宮家に合流している。
公務復帰するのなら当主である三笠宮さまと百合子さまご夫妻にあいさつするのが礼儀だが、
それを避け続けているのだ。
「電話にも出ず、職員が百合子さまの手紙をお渡ししようとしても拒否したそうです」(宮内庁関係者)
信子さまは、三笠宮ご夫妻と面会できない理由について、
慶応大病院の担当医による書面をご夫妻の元に送ってきたという。
その内容は以下のようなものだ。

<寛仁親王殿下に生前、DVを受けた。その傷が癒えず、
三笠宮ご夫妻にお会いすると当時を思い出してしまうので会えない>

だが宮家に仕えた職員らがそうした言動を見聞きしたことはなく、DVがあった事実も確認されていない。
さらに娘の彬子さまや瑶子さまとの溝も相変わらず埋まらないようで、
母としての信頼を取り戻すまでには至らないようだ。
「娘たちが私を宮邸から遠ざけている」
「話し合いにも応じようとしない」
そんな話を信子さまから聞いたという人は少なくないが、複数の皇室関係者によると、
彬子さまや瑶子さまから話し合いの場を何度か設定しようとしたが、信子さま側が拒んだという。
信子さまが暮らす旧長官公邸は国有財産だ。皇族妃が生活するのは異例の措置といえる。
本誌は信子さまに取材を試みたが、果たせなかった。
母と娘たちが歩み寄り、宮邸で一緒に暮らす日はいつになるのか。
信子さまは「これからもどんどん公務をこなしていきたい」と意欲を燃やしているというが、
宮内庁幹部は頭を悩ませている。
※週刊朝日  2014年12月19日号より抜粋
http://dot.asahi.com/wa/2014121000075.html


寛仁親王妃信子さま なぜ今、公務に復帰?
(更新 2014/12/12 07:00)
皇居内の「宮中三殿」で10月2日午前、結婚式を控えた高円宮家の次女、
典子さま(26)=現・千家典子さん=が皇室の祖神などに別れを告げる
「賢所皇霊殿神殿に謁(えっ)するの儀」が執り行われた。
静粛な雰囲気の儀式には、常陸宮妃華子さま(74)や高円宮妃久子さま(61)ら
女性皇族方が立ち会っていたが、めでたいはずの席にそぐわない光景が見受けられた。
三笠宮家の彬子さま(32)は伏し目がちで今にも倒れんばかり。
その右腕を、隣に座る妹の瑶子さま(31)がずっとつかんでいる。
まるで、体調不調の姉を支えるかのように。儀式に立ち会った宮内庁関係者が振り返る。
「彬子さまは涙を流されていたんです。それを励ますように、瑶子さまが声をかけていました」
実は、彬子さまの左隣には母である寛仁親王妃信子さま(59)の姿があった。
だが、信子さまは、うつむく娘を気にするそぶりをまったく見せなかった。
涙を流していたことさえ気づいていたのかもわからない。
彬子さまの異変を察した華子さまや久子さまが
心配そうな表情を浮かべて気づかっていたのとは対照的だった。
なぜ母と娘たちはぎこちなく見えたのか。その理由について関係者が口をそろえるのが、信子さまの存在だ。
長く「ストレス性ぜんそく」で療養中だが、この日は久々に儀式に出席した。別の宮内庁関係者がいう。
「信子さまは宮家のことは娘たちに任せきりで、寛仁親王殿下の闘病や葬儀にもかかわらなかったんです。
にもかかわらず何事もなかったかのように今回は姿を現した。首をかしげた出席者は少なくないでしょう」
信子さまは、明治の元勲である大久保利通を親戚に持ち、九州財界を代表する名家に生まれ育った。
兄は麻生太郎財務相だ。1980年11月に“ヒゲの殿下”と親しまれた故寛仁さまと結婚。
当時「長年好意を寄せ続け寛仁さまが8年越しの恋を実らせた」と、熱愛ぶりが話題になった。
だが十数年で破綻した。
その一因と思われるエピソードがある。信子さまは、まだ娘たちが幼かったころから、
「自分は他の皇族から嫌がらせを受けている」と家族や友人らに漏らしていたというのだ。
寛仁親王家と長年交流のある人物が明かす。
「実際そうした事実はなかったようですが、当時の寛仁さまや彬子さま、瑶子さまは、
信子さまの言葉を素直に信じ、他の皇族方に警戒心を抱いてしまったようです。
年齢が近い高円宮家の3人の女王さまとは、ほとんど交流をしていないようでした」
結果、寛仁親王家は宮家のなかで孤立していく。
そのうち、こうした状況に違和感を抱いた寛仁さまが、信子さまに不信感を募らせることになった。
寛仁さまは親しい人たちに「『どうしても』とお願いして結婚したのに裏切られた思いだ」と
悲痛な表情で漏らした。妻との不仲は、寛仁さまがアルコールに依存する原因の一つにもなった。
なぜ信子さまは家族を混乱させたのか。それは「自己顕示欲の表れ」と見る人も多い。
95年の阪神・淡路大震災からさほど時間の経っていないころ、皇族が集まる晩餐会があった。
出席する女性皇族たちは時勢を鑑み、服装はグレーなど地味な色で、と事前に示し合わせていた。
ところが会場に現れた信子さまは、フリルが華やかなデザインの真っ赤なドレス姿。
居合わせた人々は啞然としたという。
寛仁さま、信子さまご夫妻と長年付き合いのあった人物は、その背景を分析する。
「信子妃殿下は、ご自分が主役でいたいという思いがとても強い。
周りの関心を集めるために、目立つ行動や飛躍した話をしていたのではないでしょうか」
※週刊朝日  2014年12月19日号より抜粋
http://dot.asahi.com/news/domestic/2014121000072.html


「佳子さま」デビュー以上の衝撃は「三笠宮家信子さま」一般参賀のお出まし
皇居ではさる2日、恒例の一般参賀が催されていた。
年末に成年された秋篠宮家の次女・佳子さまが晴れて“デビュー”とあって、
今年は一層の賑わいを呈したのだが、それに勝るとも劣らぬ“衝撃”が――。
何と、三笠宮家の信子妃(59)が、19年ぶりにお姿をみせたのである。
***
「両陛下をはじめ皇室ご一家は、午前3回と午後2回、宮殿・長和殿のベランダにお出ましになります。
今年は、平成に入って3番目の多さとなる計8万1030人が皇居を訪れました」とは、宮内庁担当記者。
「注目の佳子さまはピンクのドレス姿。10時過ぎからの1回目では、最初こそぎごちないご様子でしたが、
徐々に慣れたようで、途中からは笑みを湛えて盛んに手を振られていました」
そのベランダにはもう一人、これまでお見かけすることのなかった皇族がお出ましだった。
2012年6月に薨去(こうきょ)された“ヒゲの殿下”こと寛仁親王の妃、信子さまである。
「長らく療養生活を送られていた信子さまが一般参賀に出席なさるのは、実に19年ぶりのことです。
この日はグレーのドレス姿で、先月に白寿を迎えられた三笠宮さまの歩みをお支えする場面も見られました」(同)
ヒゲの殿下のみならず、娘である彬子さま(33)・揺子さま(31)両女王とも折り合いの悪い信子妃は、
「ストレス性ぜんそく」と診断され、08年暮れに入院。退院後も宮邸には戻らず、都心に一人で住まわれている。
殿下の葬儀でも、ご遺志により彬子さまが喪主を務めるなど、不和は解消されないまま今に至る。
薨去から1年後の13年6月。信子妃は関係がこじれた宮内庁を介さず、お気持ちをしたためた手紙を直接、
記者クラブへ送られた。そこには“微力ながら復興支援などに尽力させていただきたく”と綴られていた。
■住まいはどうなる
「やはり、ご自身なりの“復帰宣言”だったのでしょう」
そう振り返るのは、さる宮内庁関係者である。実際に13年10月、料理本の出版を皮切りに、
翌月には福島県伊達市を見舞われ、7年10カ月ぶりに公務復帰されたのだった。
「昨秋にはオランダ国王夫妻を迎えた宮中晩餐会、そして園遊会と、
いずれも10年以上ブランクのあるご公務を果たされ、着実に復帰を遂げていかれました」(同)
元日も2人の娘とともに、皇居での「新年祝賀の儀」に臨まれたばかりだった。
皇室ジャーナリストの神田秀一氏は、
「新年、国民の前に初めて姿を現す一般参賀に出られたことには、
“自分の元気な姿を見せることが、国民の期待に応えることになる”とのお考えが表れています。
信子妃は今年、より公務に力を注がれる気持ちをお持ちなのだと思います」としながら、
「病気療養中であることが、ご家族との別居理由だったわけですが、今後、本格的に公務復帰された場合、
今のままでは国民の理解を得るのは難しいでしょう」
皇室ジャーナリストの山下晋司氏も、こう懸念する。
「母娘の関係は、今なおギクシャクしているようです。信子妃殿下のお振舞いに反発され、
かえって彬子・揺子両女王殿下のお出ましが減るようなことにならなければいいのですが……」
あちらを立てればこちらが立たず、である。
※「週刊新潮」2015年1月15日迎春増大号
http://www.gruri.jp/article/2015/01140830/


「ヒゲの殿下」長女彬子さまが「異例」手記 「別居」の母に望む「二つのこと」とは
2015/6/10 18:48
「ヒゲの殿下」として親しまれ、2012年に亡くなられた三笠宮寛仁さまの長女・彬子さまが、
月刊誌「文藝春秋」(15年7月号)に特別手記を寄せられた。
父への思いをつづる一方、週刊誌などで家族との確執がうわさされていた母・信子さまについて、
「私自身も10年以上きちんと母と話をすることができていない」と明かす、異例の内容だった。
手記は「文藝春秋」(15年7月号)に掲載された
■家族内の「確執」明かす
手記は、寛仁さまが亡くなって2015年6月6日で3年がたったことに合わせて寄せられた。
父に代わって行われている公務のことや、喪主を務めた葬儀の際に皇室の方々に支えられたことなど、
この3年間を振り返り、父への思いや感謝がつづられている。
一方、ストレス性ぜんそくの治療のためご家族と別居し、確執がうわさされていた信子さまについては、
「私自身も10年以上きちんと母と話をすることができていない」と言及。
寛仁さまの逝去後に話し合いを申し込んだが、代理人を通じて拒否された、とも書かれている。
信子さまは、故・吉田茂元総理の孫で、麻生太郎・財務大臣の実の妹でもある。
これまでも、信子さまとご家族の確執は週刊誌などで、何度も取りざたされてきた。
たとえば週刊朝日(14年12月19日号)は、以前の話として、
信子さまがほかの皇族から嫌がらせを受けていると周囲にこぼしたため、寛仁親王家が宮家の中で孤立。
これが原因で寛仁さまと信子さまの間に溝が生まれたと報じた。
また女性セブン(12年6月28日号)は宮内庁関係者の証言を取り上げ、
2人の病気をめぐって衝突があったと伝えている。
サンデー毎日(12年7月8日号)は家族との溝が埋まらず、
いずれ皇室から離脱するのではないか、という憶測があると書くほどだった。
一連の報道について、彬子さまは「最近ある雑誌にも書かれていたけれど、
寛仁親王家は長い間一族の中で孤立していた」と認める。
さらに、その要因について、
「長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた」と明言されたのだ。
■母・信子さま公務復帰への思い
長らく病気療養のため、公務を控えていた信子さまだが、13年11月から少しずつ公務に復帰されている。
東日本大震災のため仮設住宅に避難する住民をねぎらった福島県伊達市への訪問は、
およそ7年10か月ぶりの公務だった。
15年6月にフィリピンのベニグノ・アキノ大統領が来日した際は、
秋篠宮家の次女・佳子さまの隣に座って宮中晩さん会に参加された。
しかし、信子さまの公務復帰に彬子さまは冷ややかだ。「母に望むことは二つだけ」として、
「公務に復帰されるのであれば、今までお見守りくださった三笠宮両殿下にきちんとお目にかかり、
ご無沙汰のお詫びとご報告をしてほしい」
「私たち皇族を支えてくださっている国民の皆様に、公務に復帰される理由をきちんと説明してほしい」
と注文。「それ以上のことは、私は何も望んでいない」とされている。
一方、週刊文春の先週発売号(6月11日号)では、信子さまの体調悪化について、
「すべての発端」は寛仁さま側にあり、信子さまが娘たちの心配をしている、とする匿名情報などを伝えている。
http://www.j-cast.com/2015/06/10237455.html


寛仁親王家母娘確執 彬子さまは「公務励んだのは自分たち…」
2015.07.03 07:00
《寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙る父と母の確執であり、
それは父の死後も続いていた。母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で
私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。
私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない》

6月10日に発売された『文藝春秋』で、こんな衝撃的な告白をされたのは、
“ヒゲの殿下”の愛称で親しまれた寬仁さま(享年66)の長女・彬子さま(33才)だ。
2012年6月に寬仁さまが亡くなられてから3年が経ったタイミングでの告白だった。
1980年11月、8年越しの恋を実らせて結婚された寬仁さまと信子さま。
1990年暮れに寬仁さまに食道がんが見つかってからは、
信子さまが献身的に看病されるなど、仲睦まじい夫婦のお姿があった。
しかし2004年4月、信子さまが胃潰瘍と更年期障害を理由に軽井沢で療養生活を送るようになると、
夫婦間の大きな溝がクローズアップされるようになった。
2年後、信子さまが寬仁親王邸に戻られてからも、おふたりが顔を合わされる機会はほとんどなく、
さらに2009年10月からは“病気療養”という理由で、
信子さまは旧宮内庁長官公邸でおひとりでの生活を送られることに。
結局、亡くなられるまで寬仁さまとお会いすることはなかった。
そのため、彬子さまが寬仁さまの葬儀の喪主を務められたのだが、
この直後に浮上したのが寬仁親王家の当主問題だった。
「生前、寬仁さまも彬子さまが跡を継がれることを望んでいられたため、
宮内庁は信子さまが長期の病気療養中という理由で、
彬子さまが当主になられることを特例で認めるスタンスだったそうです。
しかし、信子さまが“慣例では親王妃だった私が当主になることになっています”と主張されたため、
当主が決まらず、結果として寬仁親王家は廃止となり、信子さま、彬子さま、
そして次女・瑶子さま(31才)は三笠宮家に合流されることとなったのです」(皇室記者)
これをきっかけに“母娘の確執”は激しくなっていく。
2013年6月、信子さまは宮内記者会に対して、こんな手紙を送られたのだった。

《これからは療養の経験を人生の糧と感謝し両陛下の御意向のもと、
微力ながら復興支援などに尽力させていただきたく存じます》
異例の“復活宣言”をされ、その後、信子さまの活動は徐々に活発になっていかれた。
「寬仁さまが亡くなられてからの信子さまの行動には、彬子さまは複雑な思いがおありになったはずです。
“病に伏せる父を支えながら、寬仁親王家を守るため、公務に励んだのは自分たちだ”という
自負が彬子さまにはあったはずですから…」(前出・宮内庁関係者)
一部では彬子さまが信子さまを三笠宮家から追放する“クーデター”を計画しているという報道が出るほど、
おふたりの溝は深い。前述の『文藝春秋』で、彬子さまは母に対して、こんな苦言まで呈されている。

《私が今、母に望むことは二つだけだ。(中略)公務に復帰されるのであれば、
今までお見守りくださった三笠宮両殿下にきちんとお目にかかり、ご無沙汰のお詫びとご報告をしてほしい。
そして、私たち皇族を支えてくださっている国民の皆様に、公務に復帰される理由をきちんと説明してほしい》
※女性セブン2015年7月16日号
http://www.news-postseven.com/archives/20150703_332339.html


2015.7.19 06:00更新
【花田紀凱の週刊誌ウォッチング〈523〉】
先週はあえて取り上げなかった『週刊新潮』(7月16日号)、
工藤美代子さん(ノンフィクション作家)の寄稿
「『三笠宮彬子女王』が初めて語った! 『寛仁殿下』が『信子妃』に家庭内暴力というひどい嘘」。
今週、『週刊文春』(7月23日号)が
「三笠宮彬子女王の威を借りて『週刊新潮』のひどい嘘」と真っ向から反論。
『新潮』がリードで〈スクープと誤報はしばしば紙一重である〉と
『文春』を批判したのに対し『文春』も、リードで、
〈彬子女王を証言者として引っ張り出し、「寛仁殿下のDVはなかった」として本誌報道を「ひどい嘘」と
決めつけた週刊新潮。だが(中略)裏取りもロクに行わず、本誌編集部への確認取材もナシ。
まさに皇族の威を借る新潮記事のひどい嘘を指弾する!〉
事態はまさに『文春』と『新潮』の代理戦争の様相を呈してきた。
そもそもの発端は、故寛仁殿下と信子妃の不仲、信子妃の長い療養生活の原因は
寛仁殿下のDVだったという『文春』(6月11日号)のスクープ。
もっともこの記事「信子さまの現状を知る人物」という匿名証言が中心だった。
『新潮』は彬子女王が実名で証言。
にわかにどちらの言い分が正しいとは判断できないが…。
『文春』(7月23日号)によると信子妃の兄、麻生太郎副総理は、
〈「最優先しなければならないのは、皇室の名誉と尊厳を守ることだ」と語っているという〉
まさにその通りだ。
http://www.sankei.com/premium/news/150719/prm1507190019-n1.html


三笠宮東邸で“侵入”騒動! 皇室で起きた母子愛憎劇が深刻化?
(更新 2016/10/14 07:00)
東京・元赤坂にある赤坂御用地には、皇族が住む宮邸がある。この夏、その静寂を破る騒動が起きていた。
2人の女性皇族が暮らす三笠宮東邸の鍵が無理やり開けられ、荷物を持ち去られたのだ。
宮内庁幹部が極秘に伏せたこの一件、指示をしたのは意外な人物だった。
東都大学野球秋季リーグ戦が開催された9月21日、神宮球場内に始球式を告げるアナウンスが響くと、
背番号「38」をつけた国学院大学特別招聘教授、三笠宮家の彬子さまが登場した。
4年前に闘病の末に亡くなった“ヒゲの殿下”こと、寛仁親王の長女である。
きゃしゃな彼女は、えいっと投じ、歓声が沸くスタンドに笑顔で手を振った。
背番号の38は、3(み)8(や)、つまり「宮」を意味する。彬子さまがこの番号を希望したのだという。
「自分が皇族であることの意味と皇族として何をすべきかを、常に考えている」
雑誌へ寄せた手記などで、そう語る彬子さま。そんな彼女の周囲で、ある事件が起きていた。
7月末、赤坂御用地にある三笠宮東邸(旧寛仁親王邸)。
彬子さまは宮邸を空け、妹の瑶子さまも米国を訪問中だった。
そこに訪れたのは、弁護士を連れた品の良い年配の女性。玄関の呼び鈴を鳴らすのだが、
宮邸に残る職員は誰も応対しない。女性は通用口に回り、再度呼び鈴を鳴らしたが、戻ってくるのは沈黙ばかり。
女性は携帯電話を取り出すと、目の前の宮邸に電話を掛けた。だが、職員はこう繰り返すばかりだった。
「扉は開けられません」
しびれを切らしたのか、女性は同行した鍵の専門業者にささやいた。
業者はいとも簡単に通用口の鍵を開けると、邸内に入り、内側から玄関の扉を開けた。
邸内に入った女性は3時間ほどかけて荷物をまとめると、宮邸をあとにした。
宮家の事情を知る人物がこう話す。
「知らせを受けた彬子さまは、この『侵入騒動』に驚き、ぼうぜんとされるばかりでした。
警察に被害届を出すことも検討なさっています。
ただ、悩ましいのは無理やり鍵を開けて住居侵入した人物は、母親の信子妃殿下であったのです」
信子さまサイドは、「私物を送ってもらうことを拒否され、
やむを得ず鍵を開けるに至った」と主張しているという。
なぜ母と娘の間で、「侵入騒動」が起こる事態に至ったのだろうか。
信子さまは、九州財界を代表する名家の麻生家に生まれ育った。麻生太郎副総理兼財務相は兄にあたる。
1980年、故寛仁さまと熱愛の末に結婚。長女の彬子さま、次女の瑶子さまに恵まれるが、
結婚生活は十数年で破綻(はたん)した。
ある宮内庁関係者は、信子さまの不安定な言動が、夫婦仲を裂いた要因のひとつだったと話す。
「信子さまは、お嬢さま方が幼いころから、『自分は他の皇族から嫌がらせを受けている』と
家族や友人に漏らし続けていました。母親の言葉を信じた寛仁親王家は他の皇族方から孤立し、
ほぼ交流のないまま生活なさってきたのです」
信子さまの言動に不審を抱いた寛仁さまは、夫婦間の溝について周囲に漏らすようになり、
アルコールに溺れていった。
一方、2004年春に、更年期障害や胃潰瘍(かいよう)と診断された信子さまは、
軽井沢にある姉の別荘で静養生活を送る。
06年夏に宮邸に戻るが、気管支ぜんそくを発症して入退院を繰り返した。
完全別居が公になったのは09年秋のこと。退院した信子さまは、
宮邸に戻らず宮内庁分庁舎として使われていた旧宮内庁長官公邸(東京都千代田区)で暮らし始めた。
宮内庁は、「宮邸にお戻りになると、ストレス性ぜんそくが再発する恐れがある」という主治医の見解を公表。
寛仁親王家は、寛仁さまと彬子さま、瑶子さまの3人で暮らすようになる。
「この時期、寛仁さまは信子さまとの離婚を望み、弁護士を通じて話し合いを試みました」(宮内庁幹部)
寛仁さまは12年6月に逝去した。遺書には「信子妃殿下は臣籍降下させる」といった内容が書かれていたともいう。
葬儀の喪主は、寛仁さまの意向により、彬子さまが務めた。
寛仁親王家は、寛仁さまが亡くなって1年経ても当主が決まらず消滅。母娘3方は三笠宮家に合流した。
「寛仁親王家の消滅は、御三方に金銭的なご負担を強いる結果になりました」(別の宮内庁関係者)
皇室経済法の規定で、当主となる皇族には年間3050万円が支給される。
だが、親王家の消滅により、信子さまは親王の妃として1525万円、
彬子さまと瑶子さまは640.5万円ずつで計2806万円にとどまる。先の宮内庁関係者が続ける。
「三笠宮東邸や信子さまが生活する旧長官公邸での生活には、さまざまな支出が伴います。
私的に雇用するスタッフには1人あたり年間数百万円の給与が発生します。
各宮家の宮務官の口座に振り込まれた皇族費から諸経費を支払えば、
ご本人たちの手元に残る金額はギリギリでしょう」
信子さまは、ご自身に年間1525万円支給されている皇族費を、月額10万円しか受け取っていないと訴え続け、
日常の費用は、三笠宮東邸に請求しているという。
宮家の事情を知る人物は、今回の「侵入騒動」についてこう話す。
「信子妃殿下としては、『月額10万円では、新しい物品をそろえることができない。
自分の荷物を取るために鍵を開けざるを得なかった』と正当性を主張なさっています。
ただ、宮内庁としても長年にわたる宮家内の愛憎劇に頭を悩ませているようです」
母娘の溝が埋まらない原因のひとつに、信子さまがまだ、
三笠宮両殿下にご挨拶(あいさつ)ができていないことが挙げられる。
寛仁さまの逝去後、信子さまの活動は活発となり、13年秋には寛仁親王妃信子の名前で、
料理本『思い出の先にはいつも家庭料理』を出版。
翌14年からは公務や宮殿行事、園遊会にも元気な姿を見せている。
彬子さまら三笠宮家は、公務に復帰する前に、三笠宮両殿下へご挨拶をするのが筋である、と考えるが、
「信子妃殿下は『両殿下にお会いしたり宮邸に近づくと、フラッシュバックが起き、
ストレス性ぜんそくが再発する』とする医師の見解を前面に出し、いまだ両者の歩み寄りはかないません」
(前出の宮内庁幹部)
もっとも、信子さまは1カ月ほど前に、三笠宮崇仁殿下が入院中の聖路加国際病院を訪ねたが、
体調の面から面会はかなわなかった。この一件も、「面会できない状況だとご存じのはず」と
三笠宮家側の不信感を募らせるだけとなった。
本誌は三笠宮東邸の鍵を強制的に開けた理由などを確認したいと、
信子さまの代理人を務める弁護士に質問状を送ったが、「お話しすることはできない」と答えるのみ。
母娘の愛憎劇に、体調を崩している三笠宮両殿下もさぞかし胸を痛めているに違いない。
※週刊朝日 2016年10月21日号
https://dot.asahi.com/wa/2016101200188.html