昭和天皇三つの「逸脱」

昭和天皇三つの「逸脱」
明治帝から数えて三代目、立憲君主制の道を歩んだ昭和天皇は敗戦の憂き目を味わった。
英国のジョージ五世に「君臨すれども統治せず」の姿勢を学んだ昭和帝も、
ご生涯の中で三度だけ、ご自身の政治的意思を貫く場面があった。

第一の「逸脱」は昭和3(1928)年6月の「張作霖事件」である。
蒋介石の国民革命軍と戦っていた北軍総司令張作霖は奉天に向かう途次、列車が爆破され将軍は死んだ。
関東軍所属河本大作大佐が首謀者だった。
事件から半年後真相が判明し、軍の関係者に厳罰を期待した天皇の意向に反して
若槻礼次郎内閣の後首相となった陸軍大将田中義一は処罰をしなかった。
怒りを込めて天皇は「お前の顔は見たくない」と田中首相に辞職を迫る。
田中は辞職し、心労からか程なくして死んだ。天皇は後に言いすぎたと反省しているが、
これが自らが考える立憲君主の立場を逸脱した昭和天皇第一の行為である。
天皇が軍部を抑えきれなくなった背景には様々な要因が挙げられるが、
アメリカにおける排日移民法の成立を契機として日本の眼が中国大陸に振り向けられたことも
大きいといえるだろう。低賃金・悪環境下でも勤勉に働く日本移民の姿が、
先住白人たちの脅威となり「黄禍論」が起こった。アメリカに門戸を閉められ、
海外での成功に賭ける日本の民力は官僚や軍の力を巻き込み、捌け口を中国に向けた。
列強は既に富の収奪を中国に求めていた。北満州はロシアが牛耳った。
日清、日露両役を経て日本は南満州に利権を確立した。台湾から後藤新平が抜擢されて、
満州経営の実務機関、南満州鉄道株式会社の初代総裁に就任した。満鉄である。
軍部は勝手に動き出す。第一次上海事変を経て盧溝橋事件へ、
関東軍はさらに勝手気ままな行動を重ね、「天皇の御意」という形容語を冠していく。

第二の「逸脱」は二・二六事件である。
昭和11(1936)年2月26日、首都東京でクーデターが発生した。
岡田啓介首相の安否が一時不明となった。義弟松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりとなって死亡、
岡田は女中部屋に逃れて難を避けたのだが、首相秘書官迫水久常から受けた無事との通報後も
事態掌握に動いたのが昭和天皇だった。岡田が生存しているとわかると天皇は、
(1)真崎甚三郎を首班とする暫定内閣拒否(2)叛乱軍の即時討伐―を決意し、
最後までこの方針を堅持して一切の妨害や哀訴を受け付けなかった。
弘前師団の連隊大隊長として北にあった秩父宮は皇道派に近い軍人として上京、
天皇に意見を述べようとしたが、天皇は弟宮に会わなかった。天皇はいつも現にその職に
ある者を尊重し、かかわりがない人物の意見はもとめない。決起部隊うぃ叛乱軍として切り捨て、事件を収めた。
「今回のことは精神の如何を問わず甚だ不本意なり。国体の精華を傷つくるものと認める」との
陸相に与えたお言葉(侍従武官長本庄繁の『本庄日記』が生々しく記録されている。
下剋上を嫌うご性格は二・二六事件を「わが国の歴史を汚すもの」と厳しく評価し、
本庄には「陸軍は私の首を真綿で締め上げてくる」と不快感をあらわにされた。
故岡部長章侍従が私に語ったところによると、天皇は「岡部、どうも陸軍では真崎、
荒木(貞夫大将)というのはよくないんだよ。海軍では末次(信正大将)がよくないんだよ」と
発言され、皇道派を下剋上として排除する措置を断固としてとった姿勢が明らかである。
こうした天皇の決断をたどってみると、昭和初年代の「朝香宮奏上事件」をきわめて遺憾とされた
昭和天皇の意思こそ、ご性格の底にある価値観を表していることに気づく。
朝香宮鳩彦(やすひこ)王は御前に出て満州の措置案について軍事上の意見を具申したのだった。
陛下は陸軍が朝香宮を利用して天皇の反応を見ようとしていると看破され、朝香宮の
考えを拒絶した。岡部は「そういう不快なことをご存知なので、近衛文麿と謀って京都にて
法門に入らせるという大東亜戦争末期の和平工作を奏上しようとした高松宮に参内を
実現させず、従って宮が兄陛下に話をされることは未然に防がれた」と私に明かした。
これらを通じて天皇は天皇家の家長としての権威を確立されたとも彼は説明していた。
いずれにせよ天皇は古典的定義となっていたプロシアの軍人クラウゼビッツの言葉
「将帥たる者は強い意志と勇気を備え、あらゆる作戦を明瞭かつ単一な思想で指導せねばならない」を
身につけていたと、岡部は解説したのだ。
二・二六事件における天皇の主導を理解するうえで一つのカギとなり得る挿話である。
軍部が居丈高になったころ、美濃部達吉博士の天皇機関説が攻撃の標的となった。
天皇主権説に対置する憲法学上の一学説で、「国家は法学上法人とみなされる」とする
イェリネックの国家法人説が源流だ。つまり天皇を法人である国家の一機関(但し最高機関)
とみなす考え。いわば政党政治の育成と発達に寄与した学説なのだが、軍部はまず国体明徴と
称して政党政治を排撃し、美濃部博士から貴族院議員の資格を奪い、著書の発売を禁止した。
昭和10(1935)年の議会で紛糾。背後に軍部が控える右翼団体の反対運動に、野党だった
政友会が同調し、最後には政府もこの考えに与した。国論を議論するはずの帝国議会で
「問答無用」と叫ぶ風潮はこのころから明確になっていく。ダイアローグのない日本社会が出現していった。
一方で昭和天皇は立憲君主制の憲法規定を遵守するならば、内閣が決めた事項に
天皇が反対意見を述べることは絶対に控えねば…と考えを固めていた。
二・二六事件後、ときの田中首相の辞職を招くような発言を甚く反省した天皇は
昭和16年冬の対米戦争開始をこうした反省から許諾してしまう。大臣らが天皇に負う
輔弼責任を尊重した結果だった。ただ心の中で不本意であるとの意思は覗かせた。
明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を
二度にわたってつぶやいたのだった。
日本が先の大戦に突き進み国内外に多くの犠牲を出すに至った要因として、
軍部や政府が皇室史観一色に日本歴史を統合したこと、天皇に輔弼責任を負う国務大臣と同列だったはずの軍部が、
天皇直属の統帥権を自己に都合よく解釈したこと、このため大元帥陛下を神聖不可侵として祭り上げ、
国民との間に距離を置いたこと、政党政治の腐敗堕落、下剋上の風潮、軍国主義、尽忠報国、
滅私奉公など個人から尊厳を引っ剥がした形での道徳心涵養があったことなどを挙げておこう。
ただし超法規的に戦争終結を実現した経緯には若干触れておく必要がある。

昭和天皇がご生涯三度目の「逸脱」をやってのけたのは昭和20年8月9日深夜から10日にかけて
宮中防空壕内での一室で開かれた御前会議の席上である。
鈴木貫太郎首相、米内光政海相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、梅津美治郎陸軍参謀総長、
豊田福武海軍軍令部総長、平沼騏一郎枢相、幹事役の陸海軍軍務局長、総合計画局長官、
迫水久常内閣書記官長が出席した。迫水がポツダム宣言を読み上げた。
次いで外相から意見を述べて行く。受諾説の皮切りであった。陸相が反対し徹底抗戦を主張、
海相は受諾賛成、平沼枢密院議長も賛成、参謀総長と軍令部総長は反対した。
三対三である。鈴木首相は「聖断を拝して本会議の結論としたい」旨を宣言し、玉座前に進み出た。
このとき天皇はご自身の意思を明確に述べられた。
「私は外務大臣の意見に同意である」
さらに理由を戦争継続は日本国を滅亡させ、世界人類を一層不幸にするからだとされた。
日本のポツダム宣言受諾は
「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおざることの了解の下に」と条件を付けて
在スイス、スウェーデン日本公使館から米英中ソ四カ国に通知した。
バーンズ米国務長官から「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官の
制限の下に置かれる。最終的な日本国政府の形態はポツダム宣言にしたがい、
日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」という返事が届いた。
このような回答では国体が護持されるかどうか曖昧、と内閣などで反対論が続出したため、
8月14日再度駄目押しの御前会議が開かれた。陛下の姿勢は不変であった。
「私自身は如何になろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。このうえ戦争を続けては、
結局我が国はまったく焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、私としては忍びない。
少しでも種が残りさえすれば、また復興という光明も考えられる」
さらに国民に説明責任を果たすとの考慮から、玉音放送用の録音盤二枚を作成し、
8月15日正午JOAKラジオ第一放送局から全国に天皇詔書が流れた。
詔書は御前会議における昭和天皇のお言葉をもとに内閣書記官長迫水久常が草案を書き、
従来から親しい陽明学者安岡正篤の構成を得て前夜九時ごろ完成、天皇に届けられている。

平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月より