天皇皇后両陛下“ご成婚60年” 元侍従が明かす素顔とは?


両陛下ご結婚60年


天皇皇后両陛下“ご成婚60年” 元侍従が明かす素顔とは?
2019.4.10 07:00週刊朝日
「振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、
現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました」

天皇としては最後の誕生日の会見で、陛下は60年の「旅」を共にした皇后さまへの感謝の意を述べた。
夫婦として支え合った素顔の両陛下について、元侍従の多賀敏行氏が振り返った。



両陛下がご結婚されたのは1959年4月10日です。
小学3年生だった私はこの日の朝、成婚記念の切手を買いました。
おふたりの肖像をデザインしたものが額面10円(茶色)と30円(緑色)の2種類あり、
檜扇が(ひおうぎ)デザインされたものも2枚、合計4種類があり、それぞれ数枚ずつ購入しました。
敗戦から14年。日本経済も復興を遂げつつあり、皇太子殿下(当時)のご成婚で、
日本中が祝福ムードであふれていた時代でした。

それから34年後の93年、私は外務省から宮内庁に出向し、3年間、陛下の侍従を務めさせて頂いた。
両陛下はいつも、物事に対して丁寧に向き合う方たちです。
たとえば、平成6(94)年秋の欧州ご訪問で、こんな印象深い出来事がありました。

約2週間にわたるこの訪問は、広島県での地方公務から直接、立ち寄り先のドイツへ出発して
フランス、スペインを訪問する過密日程でした。
最終訪問国のスペインでは、随員やおつきの侍従や女官の疲労もピークに達していたうえ、
スペインという国は夜が遅い。夜9時に始まった晩餐会が、終わるのは0時過ぎです。

さらにこの日は、スペイン王室は、夜中からフラメンコの舞台鑑賞で歓待してくれました。
舞台が始まるとダンサーを照らすスポットライト以外、客席は暗闇に包まれました。

「Gentlemen,wake up!」

パチンと手をたたく音と同時に、ソフィア王妃の明るい声が響き渡りました。

舞台は終わっています。疲れのあまり、当時70歳近い侍従長をはじめとする、
われわれ侍従や随員は、気づかぬうちに寝入っていたのです。
慌てて両陛下の方向を見ると、ずっと起きてフラメンコを鑑賞されていたご様子。
誰よりも疲労をお感じのはずだったのに。

当時の宮内庁長官も「昭和ひと桁生まれは、どこまでも真面目に物事に取り組まれる方が多い」
と両陛下の真摯な姿勢を振り返り、「僕も昭和ひと桁世代なのだけれどね」と、
苦笑いしていたことを思い出します。

陛下はハゼの分類学に取り組む生物学者です。
そのためか、物事をあいまいなままになさらない、真面目なご性格です。
たとえば、陛下のお供で山に登ったことがあります。
数日後に、陛下の書斎にお迎えにあがった際に、
陛下の先に立って階段を下りながら
「この前の山登りのせいで、脚じゅう筋肉痛がいたしますね」と申し上げたところ、
「いま痛いのは下りるときに使う筋肉ですね。上り坂と下り坂で使う筋肉は違うからね」
と優しい口調でご指摘頂いたことがありました。

一方で、民間出身の皇后さまは、さまざまな物事に関心を示され、時にはユーモアを交えてお話しになる。
皇室では、外国訪問や訪日の賓客を接遇する機会が多々あります。
皇后さまは、静かで澄み切ったクイーンズ・イングリッシュをお話しになります。
国賓の晩餐会では、両隣の元首夫妻の間で2時間、3時間と接遇する会話力も必要です。

そうしたお立場も影響してか、言語について繊細な感覚をお持ちでした。
言葉というのは興味深いもので、個々の土地の文化的な背景と密接に関連します。

あるとき私が、お国柄によって異なる英語のアクセントについて、
実際の発音を交えながら職員仲間に笑い話をしたことがありました。

女官さんたちが、「多賀侍従がおもしろい話をしている」と、話題にしてくれたのでしょうか、
それが皇后さまのお耳に入ったようで、何かの機会に皇后さまからどんなお話かと聞かれました。
陛下も横にいらっしゃいました。

私は、海外の著名な人物のスピーチなどを引用しながら、
クセや発音のお国柄での違いについて、ご説明しました。
印象的だったのは、皇后さまは、しばしば笑いながら聴き入ってくださる一方で、
陛下は、「そんなにおもしろいことなのだろうか」といった表情をなさっていたことです。

では、陛下はどのようなときに楽しそうな表情をお見せになるのでしょうか。
記憶に残っているのは、ハゼに関する古文書を研究されていたときのお話です。
欄外の注の記述が別の箇所の記述と混同して書かれていることを発見。
「こんなことがわかった。推理小説のようだ」と、それは楽しそうに、私たちへご説明くださる。
文献の中の小さな不整合に気づき、それから分析、推論して大きな発見をされるといった学者的な思考、
推論に、おもしろさをお感じになっていました。
当時お聞きして、私にもじんわりおもしろさが伝わってきたことを思い出します。
今、もっと具体的に思い出せないのが残念です。

おふた方は、それぞれ独自のユーモア感覚をお持ちなのだと妙に感心したものです。

ちょっとした会話から、陛下の素顔を垣間見るような場面もありました。

関西への行幸啓にお供したときのことです。
新幹線の列車が愛知・岐阜・三重県の濃尾平野を流れる木曽三川の木曽川に差しかかると、
陛下は年配の侍従である八木貞二侍従を呼んでこうお聞きになりました。

「三つの川の順番はどうでしたか」

すると八木侍従は、「さあ、いかがだったでございましょうか」と、とても困った表情でお答えする。

1年ほど経て同じ場所を列車で通過した際も、陛下と八木侍従は、まったく同じ会話をなさる。
木曽三川とは(東から西に向かって)木曽川、長良川、揖斐川のことで、
私は三重の生まれなので、よく知っており、博識な陛下もご存じないわけがありません。
八木侍従もさすがに三つの川の順番は覚えていたに違いありません。

八木侍従は、陛下が皇太子時代の64年から99年まで長年お仕えした人で
(新米侍従であった私はいろいろ教えて頂きました)、陛下にとっては気を許せる側近のお一人であったはずです。
この場所に来るといつも繰り返されるこのやり取りは、「儀式」、あるいは一幕の芝居のようなもので、
陛下は八木侍従とこの芝居を演じることを楽しんでおられたのではないかと、いま振り返って思います。
横から私がおふたりの会話に入って三つの川の順番を得意げに言わなくて良かったと思います。

両陛下が婚約中だった60年前。皇太子だった陛下は、
美智子さまに「家庭を持つまでは絶対に死んではいけないと思いました」と、話されたと伝わっています。
そのとおり、両陛下のご家族へのまなざしは、とてもやわらかなものでした。

両陛下は、長女の黒田清子さんのことを、「サヤコちゃん」と優しくお呼びになっていました。

あるとき、陛下は檜扇菖蒲(あやめ)の花を指して、
「これは紀子ちゃんのお印(皇族方が身の回りの品につけるシンボルマーク)です」と、
私に教えてくださったこともありました。そのとおり、相手の名前を優しく呼ぶ様子からは、
両陛下が築き上げてこられた、「家庭」に流れる温かな空気が伝わってくるかのようでした。

侍従を離れて外務省に戻ったあとも、お誕生日のお茶会などで両陛下にお会いする機会を頂きました。
いまは報道で拝見するばかりですが、退位なさったあとは、おふたりでゆっくりとお過ごしになって頂きたいと思います。
※週刊朝日  2019年4月19日号
(聞き手/本誌・永井貴子)
https://dot.asahi.com/wa/2019040900014.html?page=1