両陛下批判記事について

「皇室の危機」論争―「菊のカーテン」の内側からの証言はどう読まれたか?
宝島30編集部編、宝島社1993年11月発行
「菊のカーテン」の内側からの証言 大内糺(おおうちただす/仮名・宮内庁勤務)
側近の話によると、両陛下は食べ物のお好みも激しいという。
日々の食事についても、担当の大膳(だいぜん)では
とくに皇后陛下のご意見を承ったうえで献立を考えているほどなのである。
それでも時々、大膳が不得手な中華料理を召し上がるために、
お忍びで霞ヶ関ビルにある霞開館などに出掛けられたりもしている。
何もかも先帝陛下とは趣を異にするお二人だが、お側で仕えているものにとって大変なのは、
夜、お休みになられるのが遅いことだという。
もともと「宵っ張り」のご性格のようなのだが、
赤坂御所にしばしばお友達などを呼ばれて、深夜までお話をはずまされる。
そこで、侍従や女官はもとより仕人(つこうど)や女嬬(じょじゅ)、
大膳らは来客がお帰りになるまで、サービスに努めたり、待機していなくてはならない。
ネクタイを締め、制服を着ていなければならないので、
横になることもできず「辛い、辛い」とこぼしている人もいるほどである。
午前一時、二時になってからも、「インスタントラーメンを作って下さい」
「リンゴを剥いて」といったご下命があったりするというから、
当直勤務の職員たちも気を許すことが出来ない。
とくに、先帝陛下のもとで働いていた人たちにとっては、
急にハードワークになったために体調を崩した人も出ているという。

女性自身2007年5月8日・15日号
(略)また昭和64年、昭和天皇が崩御され元号が平成に変わってすぐのことだった。
浜尾さんのもとに『週刊朝日』から、新しい天皇陛下に期待することを書いてほしいという依頼があった。
浜尾さんは日ごろから感じていたことを話し、それが記事となった。
《元東宮侍従、浜尾実氏の苦言『新天皇陛下、災害現場へもお飛びください』》
それは昭和60年夏の日航ジャンボジェット機の墜落事故や、61年の三原由噴火のとき、
両陛下が軽井沢でご静養なさっていたり、横浜でテニスを楽しまれていたことを挙げ、
両陛下にはそんなときこそ被災地に向かわれていただきたいという趣旨の苦言だった。
もちろん、浜尾さんはこの記事が掲載される前に、誤謬のないようにと同じ内容を便箋8枚にしたため、
侍従を通じて天皇陛下に届けていた。
「お返事などいただけるとは思ってもいませんでしたが、翌日、侍従を通じて
“陛下が浜尾さんにお礼を申し上げてほしいとおっしゃっている”という電話をいただいたときは、
陛下がおわかりくださったのだと恐縮、感激の思いを昧わったものです」が、
宮内庁の反応は冷ややかなものだったという。
それまで毎年、浩宮さまのお誕生日のお祝いのお茶会に、旧奉仕者の一人として招かれていた浜尾さんに、
あるときからお招きの知らせがぷっつりと途絶えたのである。

平成皇室論 橋本明
(大内糺の皇后批判の記事について)
…真相はどうやら宮内庁職員らの、証明もされない噂話や感想を拾って書き飛ばしたものである。
真相究明に力を貸してくれと重田保夫侍従次長から頼まれて動いていたところ、
「もういいや、大体わかった。これ以上つつくとヤブヘビになる恐れもある」と当人から調査打ち切りを告げられたのである。



「自然林丸坊主」の記事について
週刊文春1993年9月23日号
『美智子皇后のご希望で、昭和天皇の愛した皇居自然林が丸坊主』
皇居の森が丸坊主になったという記事の問題では宮内庁の宮尾次長が皇居を空中撮影した写真を持ってきた。
「これこの通り緑がいっぱいではないか。どこが丸坊主なのだ」
「まさか皇居の森全体が伐採されたら大問題になるでしょう。昭和天皇が愛した吹上げの自然林、
かつてはゴルフ練習場だった場所に、昭和天皇がゴルフをおやりにならないのでほっておいたら草が生え、
やがて林になった。あの林を昭和天皇が亡くなられたとたんに伐って、その後に新宮殿が建ったのは事実でしょう」
「花田さん、あなたの頭に円形脱毛症ができたとしましょう。そうしたら花田さんの頭は丸坊主になったと言いますか?」


週刊新潮1993年11月11日号
美智子皇后さま「批判再考」曾野綾子
「吹上の自然林を丸坊主」の件に関しては八木侍従は次のように説明する。
「新御所の建設は基本的なことはすべて宮内庁長官を中心に関係部局長などが相談して決めたことです。
どこに建てるとか、誰が設計するか、ということも、
両陛下は全くご意向をおっしゃっておられません。これは長官もご存じです」
新御所の場所は、昔、昭和天皇がゴルフ場になさるために、森を切り開かれた所だった。
しかし盧溝橋事件あたりから、国民と苦楽をともにされるということを念願とされた昭和天皇は、
ゴルフを止めてしまわれた。
それ以後そこには、二次林というべきか三次林というべきかわからないが、再び林が出現して今日に至っていた。