慈愛と祈りの歳月にお供して

諸君!2008年7月号(文藝春秋)
慈愛と祈りの歳月にお供して
渡邉允(わたなべまこと) 宮内庁侍従職御用掛・前侍従長
「側近中の側近」が初めて明かす、知られざる日常、祭祀への真摯な取り組み、そして若き世代への思い
(一部)

■侍従長拝命まで
平成六年、両陛下は、夏にアメリカ、秋にフランス、スペインをご訪問。
そのとき、私は、外務省の儀典長として全面的にかかわりました。
アメリカでは、すでに退任されていたレーガン大統領を訪ねられ、長時間にわたってご懇談、
フランスでは、体調のすぐれないミッテラン大統領が飛行場まで自ら出迎え、丁重なおもてなしをされました。
印象的なのは、両陛下に対する好意が、両首脳の表情にはっきりとあらわれていたことです。
両陛下は、レーガン、ミッテラン両氏のような年長者に対しては、とりわけ謙虚な態度で接しられます。
失礼ないいかたかもしれませんが、とても感じがいいのです。
一方で、高齢の国家元首たちも両陛下との関係をとても大切にする。
そういう間柄が築かれるんです。これは海外要人に対してだけの話ではありません。
例えば、文化勲章受章者は宮殿でのお茶に招かれ両陛下に拝謁するならわしになっていますが、高齢の受賞者に対して、
陛下が「どうぞお座りになりませんか」と何度もお声をかけられる。常にそういう気遣いをされる方々なのです。

■陛下の秘書官
現在、宮内庁の組織図では、侍従長の下に侍従次長がひとり、さらに侍従が七人います。
それぞれが担当を持っていて、侍従長は全体を取り仕切っているというかたちです。
侍従長の仕事について、以前、新聞のインタビューに答えて、「天皇家の三太夫」と表現したことがありますが、
これは入江相政元侍従長の言われたことで、ひらたくいえば、執事や番頭といったところでしょうか。
たとえば、各方面から、両陛下にご臨席を賜りたいとか、
拝謁をお願いしたいという申し出は、たくさん寄せられます。
それをお受けするか否か、担当部局と一緒に交通整理をするのも、ひとつの役目です。
さらに調整がついて日程が決まり、細かい手はずを検討する段になると、
両陛下のお立場に立って、事務方や主催者側と一緒に固めていくことになります。
両陛下が式典などで述べられる「お言葉」の原案を考えるというのも、大事な役目です。
多くの場合、主催者側の希望を基本にして、その内容を陛下の普段のお考えや、
これまでのお言葉と比較し、元となる案を作成します。
また、外国の王室や、内外のお知り合いの方々との非公式なお手紙のお取次ぎなども受け持ちます。
侍従職のなかには、女官長をトップとした「女官」がいます。皇后陛下の秘書役を含めて、
日常生活の大部分はこの女性たちが中心となって担当しています。
掃除、洗濯などは、「女儒(にょじゅ)」、「雑士(ざっし)」が担当します。
ほかに、陛下の担当として「内舎人(うどねり)」と呼ばれる若い男子職員がいて、
陛下の服装などのお世話をしています。
ほかに「侍医」と呼ばれる医師が侍医長以下四名ほどおります。
お食事を担当するのは「大膳」です。五月七日、来日中の胡錦濤・中国国家主席を招いて、
宮中晩餐会がひらかれましたが、こういった公式のお食事も、両陛下の日常のお食事も、大膳が受け持ちます。

■日々のタイムテーブルは
宮中祭祀はとくに苦労した分野です。
たとえば新嘗祭で、侍従長としての所作があるのですが、宮内庁内に他に経験者はいません。
祭りを担当する掌典長にも、古参の侍従にもわからない。
結局、祭祀の専門家として掌典職に居られた御用掛の鎌田純一さんに相談にのっていただいたのです。
たとえば、両陛下に、ある著者から本が献上されたとしましょう。
まず、お受けしていいかどうか検討し、お受けするとなれば、どういう経緯で送られてきた本なのか、
メモを添えて、両陛下に差し上げる。そして、著者に「たしかにお渡ししました」と伝える。
すると、しばらくして両陛下から著者にご伝言のある場合がある。それをまた著者にお伝えする。
そういう緩やかな流れのなかで、一件が完結するまで二、三週間はかかります。
著書の献上だけでなく、こういったことが、常に、大小無数にあるわけです。
私自身の心構えとして、自分の好みや優先順位というものは、絶対にあってはならないと考えていました。
常に両陛下のプライオリティーに添って考え、処理しなくてはいけない、と。
また、ルール、原則に従って判断するということが非常に重要になってきます。
たとえば、例外はありますが、お会いになったことのない方からの著書献上は受けられない、といったルールです。
私の勝手な判断で、「この著者はいい人だから」と、本をお渡しするようなことは、厳に慎んできました。

■両陛下のお人柄と日常
まず、大変に規則正しい生活をされているとうことですね。朝はかならず六時に起床。
変更されることはまずありません。
一方、夜、当直の侍従や女官は原則として午後十時半には寝てもよいことになっていますが、
両陛下がその時間にお休みになるかといえば、そういうわけでもありません。
昼間は公務でご多忙ですから、読まなくてはいけない本や書類、書かなくてはいけない手紙などは
次第にたまっていきます。夜遅くまで起きて、机に向かわれる日も少なくないようです。
何時にお休みになっているかは、じつのところ、われわれにも分からないのです。
ただ、どんなにお疲れになっていてもお昼寝などはされません。
そして、もうひとつ驚かされるのは、ぼんやりとしておられる時間がまったくないということです。
週末に式典などの公務が入ることもありますし、とくに祝日は、新嘗祭をはじめとする宮中祭祀が目白押しです。

御用邸のご滞在はいつも短くなってしまうし、ぼんやりされることがない。
かならず人にお会いになったり、どこかを訪ねたりなさる。
その中には、農家をお訪ねになったりするお仕事が入ってしまうといった具合なのです。
御用邸ではご静養いただき、お仕事はなさらない建て前ですから、通常は侍従長や女官長は滞在しません。
お供するのは担当の侍従、女官だけです。ただ、御用邸に滞在なさる場合、
初日に、その県の知事が県政概要のご説明をニ十分ほどします。
それには、侍従長、女官長が陪席することになっているので、結果的に往路だけはお供することになります。
葉山、須崎の御用邸には、侍従長になって間もないころ、宿泊したことがあります。
陛下から「一度泊まってみるように」とお声をかけていただいたためです。
那須には毎年夏に一泊します。
昭和天皇の時代から、この季節に、両陛下が宮内記者会とニ十分ほど非公式にお会いになるならわしがあり、
これに立ち会うためです。両陛下がキジなどを放鳥なさるために外出された折り、
たまたま御用邸の中の東屋で記者団と会って、立ち話をなさる、そういう不思議な設定になっています(笑)。
その前夜、侍従長が記者団と一杯飲むのも、昭和時代以来の慣習です。
栃木県那須は温泉地として有名ですが、御用邸のなかにも近くの泉源から湯がひかれています。
これがとにかく熱い(笑)。初めて宿泊したとき、とても浴槽にはいれず、
お湯をくみ出して水で薄めて体にかけたりしていた。
その後、陛下から「侍従長も温泉に入ったか」とお尋ねがあった。
「いえ、どうにも熱くて…」と申し上げると、「それは、自分でうめるのだよ」と(笑)。
たしかにそのとおりで、冷水の蛇口もちゃんとありました。
テレビは時折は観ておられると思いますが、ご日程が立てこんでいて、
毎週、きまった時間にドラマをご覧になったりするのは難しいと思います。
陛下は、自然についての番組がお好きで、内舎人に録画を頼んで、
空いている時間にご覧になっているのではないかと思います。

とくに食べものの好みはおっしゃいません。大膳の作った食事を喜んで召し上がる。
朝は朝食、昼夜は和、洋、中をバランスよく回しておられるようです。
ふだんは、どちらかといえば〝粗食〟ですね。美食への関心はとくにお持ちではない。
地方にいらしても「宿舎で出せる普通の食事を」と。
ご希望は、「地元のものを」というだけです。
「自分たちのために特別なことをしないでほしい」と、口癖のようにおっしゃいます。
われわれが行幸啓先の方々にお願いするのは、特に、量が多くなりがちな外国などで、
お食事の量を少なめに、ということだけです。両陛下は、食事をけっして残されない。
皿に料理が残っていると、ホスト側に〝お口に合わなかったのでは〟という心配をさせてしまう。
すべてを召し上がるのはその点へのご配慮です。
ですから、大盛りの料理はかえってご負担をおかけすることになりかねません。
ときどき、私もご相伴の機会がありますが、ふだんの両陛下は小食です。おかずは多くて二、三品という感じ。
お昼には、カレーライスなども喜んで召し上がります。

陛下は式典のお言葉や記者会見のための原稿をご自分で書かれたり、
われわれが上げた文案に、ご自身で手を入れたりなさることがよくあります。
で、私のところに下ろされてきた陛下の原稿を拝見すると、
かならず一度使った書類の裏側にプリントされているのです。

ワープロとしての機能をお使いで、インターネットはされていないと思います。
長い原稿はまず鉛筆で認め、入力は内舎人に任せられることもありますが、
短い直しなどについては、ご自分でパソコンに向かわれる。
マウスの操作も非常にお上手ですよ(笑)。
そのパソコン机の引き出しに、片面使用済みの紙がたくさん入っている。
プリンタも、つい最近まで、ギーコギーコと音がする、印字が遅い、
古いタイプのものをお使いになっていた。
さすがにこれでは時間がもったいないということで、われわれからお願いして新しいものに替えていただきました。

お使いになるのは、ホンダの「インテグラ」といいう車種で、車体の色はグレー。
平成三年製造で、これもずいぶん古い。
皇太子時代は、軽井沢の公道でも運転されていたようです。もちろん運転免許も持っていられます。
昨年、免許更新のために高齢者講習を受けられました。
シミュレーターによるテストは、警視庁に頼み、機器を御所に持ち込んで行いました。
実地訓練も東御苑に道路標識を設置して行い、無事、免許は更新されました。
ふだん運転されるのは、御所から宮殿に移動されるときや、テニスコートにむかわれるときです。
人もほとんど通っていなければ、対向車も滅多にきませんが、運転はきちっと法令遵守でなさいます。
皇居のなかの制限速度は二十五キロから三十キロと決められていますが、それを守られる。
四つ角ではかならず一時停止、曲がるときは相当前からウインカーを出される。
慎重なご性格そのものの模範的な安全運転です。
皇后陛下が助手席に乗られるときには、後部座席に、侍従、女官、皇宮警察官が三人乗っています。

陛下は、必要以上に自動車の台数を増やそうとなさらない。
皇居外にでるときも同様で、たいていは二台、非公式な外出では、車一台で移動されます。
人や車を増やしましょうと申し上げても、なかなか「うん」とはおっしゃらない。
無駄をしないということに加えて、車列が長くなると、
それだけ一般の交通の妨げになることを心配されているんです。

■ご病気も包み隠さず
前立腺ガンに関しては、手術後も四週に一回のペースで、ホルモン療法のため注射を受けられています。
その副作用で筋肉や骨が弱くなり、骨粗鬆症になるおそれもあるという状態。
その対策としては運動がいちばんという医師の意見に従って、
ご公務の合間、テニスや水中歩行などを励行されています。陛下は、医師の指示を一生懸命に守ろうとされる。
手術の後のご入院中も、まだ点滴などの管がついている時から、
医師から「これだけ歩いてください」といわれると、それより少し多いくらい歩かれる。
ですから、回復は順調でした。担当医も「本当に模範的な患者でいらっしゃる。
ふつうは痛いのを嫌って、サボったりするものですが」と話していました。
皇后陛下は、長いあいだに蓄積した心身のお疲れが、腸出血や首の痛みなどにあらわれているよに思います。
両陛下は、ご自身の健康については、包み隠さず、すべて発表してほしいというのが平素からのお考えで、
前立腺ガンのときも、われわれはお言葉通りにしました。当然ながら、発表前、いわゆる「告知」も受けていられます。
両陛下には、ご自身の健康は、プライベートな問題ではないというお考えがあるのでしょう。
国民全体の関心事であり、病気で公務を休めば、たくさんの人に影響がでる。
そうした責任感から、規則正しい日常を過ごし、節制につとめておいでなのです。
皇后さまは、陛下のご健康を気遣い、運動の種類や量、栄養面などで、
医師や大膳とつねに入念な相談をされています。

(皇后陛下は)
普通の主婦と変わらないご苦労もありますね。
例えば、なにかの献上があると、お礼をどうするかは、大体、皇后様が具体的にお考えになる。
一般家庭でも、誰かに招ばれたときなど、奥さんがお礼状を出しますよね。同じことなんです。
御所に誰かを非公式にお招きになる際、どんな料理をお出しするか、これを決めるのも皇后様のお仕事です。
公のお仕事に加えて、日々沢山ある細々とした事柄に、このような心遣いをされるのは、大変なことだと思います。
さらに、お母さま、お祖母さまというお立場からなさること、なさらねばならないこともある。
侍従や女官など、宮内庁職員へのご配慮も濃やかです。年末、御所で行われるお餅つきは有名になりましたが、
侍従、女官から皇宮警察にいたる側近の職員をみな集め、
両陛下も一緒になって二つの臼で、お正月用のお餅をつく。
似たような行事は、年に数回あって、秋には吹上にある大きなイチョウの木の下で皆で銀杏拾いをしたあと、
小さい袋に分けて、ご下賜があります。
このようなお心遣いは、職員にとって、このうえなく嬉しいことですが、
それだけご負担をおかけしているのではないかと心苦しい。

■宮中祭祀の重いご負担
象徴的なのは、陛下の一年が祭祀で始まるということです。元旦の午前五時半、あたりは真っ暗で、寒い。
神嘉伝での四方拝から始まり、つづいて宮中三殿での歳旦祭。賢所、皇霊殿、神殿と順番にお祈りをされる。
陛下のお話では「皇霊殿」に行くころになると、少し明るくなってくる」とのことです。
明けの明星を見る時刻、東の空が段々に明るくなる。
とても清々しい身の引き締まる瞬間ですね。
宮中祭祀は年間三十回以上」。明治時代に制定された「皇室祭祀令」の定めたもの、
毎日一日に行われる旬祭、歴代天皇の式年祭など、多岐にわたります。
宮中祭祀のなかでも、最も重いのが新嘗祭。
11月23日、午後6時から8時までの「夕の儀」と、11時から翌日午前1時までの「暁の儀」の二回があり、
基本的には同じ内容を繰り返します。
お米をはじめ、山の幸、海の幸を神様にお供えし、五穀豊穣に対するお礼をなさる儀式です。
陛下が神嘉殿でお祭りをされ、「御告文(おつげぶみ)」をお読みになる。
その後、皇太子殿下のご拝礼があり、皇族様方以下、総理大臣、宮内庁関係者などが順に拝礼します。
そのあいだ、侍従長と東宮侍従長は、外廊下で二時間、正座して待っています。なかの様子は外からは見えません。
儀式が終わると、掌典長が先導、剣を持った侍従、陛下、そして璽を持った侍従があとにつづきます。
私は平伏したままこの列を見送り、スッと立ち上がってあとにつづきます。
その時は、それこそ必死の思いで立ち上がります。
陛下も儀式のあいだはずっと正座なのですが、
「自分は、二時間のあいだ、お供えをしたり、『御告文』を読んだりして多少の動きがあるからまだいい、
侍従長はただじっと座っていなければならないから大変だろうね」と、
ねぎらいの言葉をかけていただいたこともあります。
私は、夏を過ぎたころから、少しずつ正座に脚を慣らすようにしていましたが、
陛下も同じだったようで、「テレビを見ながら座るといい。何々の番組はちょうど四十五分だから、
そのくらいからはじめるのが適当」と、有益なご助言を下さったこともありました。

宮中祭祀の服装に関していえば、御所で潔斎をされてから、まずモーニングに着替えられる。
さらに、賢所の綾綺殿(りょうきでん)で侍従ふたりが前後について、祭服に着替えられます。
もちろんボタンでとめるのではなく、紐で体を締めつける装束です。
皇后様の場合は、さらに鬘を整え、お化粧もなさる。
両陛下とも、精神的に緊張なさるのは拝見していて分かるし、正座、平伏などの動作もおありになる。
宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の「私的な活動」ということにならざるをえませんが、
陛下は、国民の幸せと世のなかの平穏のため、私心を去り、一心に取り組んでおられます。
常に国民の幸せを祈るというお気持ちをかたちにしたものとして祭祀がある。私はそう解釈しています。

昭和天皇の例では、今の陛下のご年齢よりもだいぶ前から毎月の旬祭を年二回にされ、
六十九歳になられたころからは、いくつかの祭祀を御代拝によって行われたりした。
私も在任中、両陛下のお体にさわることがあってはならないと、ご負担の軽減を何度もお勧めしましたが、
陛下は「いや、まだできるから」と、まともに取り合おうとはなさいませんでした。

陛下は筋の通らないことは本当にお嫌いです。なにかをしていただくにも、逆におやめいただくにも、そうなんです。
ただ、そのとき「来年は在位二十年になるから、来年には考えよう」ともおっしゃった。
そこで、宮内庁は、やっと方針を発表できたのです。

■戦没者慰霊への尽きせぬ想い
平成17年のサイパン訪問にお供したことが、強く印象に残っています。
戦後60年の節目になにをすべきか、ご自身でお考えになり、
行き着いた答えがサイパンへの慰霊の旅だったのだろうと思います。
いまや終戦直後に生まれた人でさえ還暦を越え、現役世代のほとんどは戦争を知りません。
陛下はそこを心配なさっている。
戦争がいかに悲惨なものか、平和がいかに尊いものかを、国民に分かってもらうために何をすればいいのか。
陛下にしかできない大きなお仕事が、ここにありました。
サイパンにある慰霊碑は、日本の軍人、民間人のためのものだけではありません。
アメリカの軍人、現地住民、さらには朝鮮出身者、沖縄出身者の慰霊碑もあります。
大勢の人が身を投げた「バンザイクリフ」もあります。
陛下はご自分の意思で、そのすべてを回られた。
自分が慰めるべきは、あの戦争にかかわるすべての人の魂である、そういう思いからでしょう。
平成10年のイギリスご訪問、平成12年のオランダご訪問の際、かつて旧日本軍の捕虜になった人々や、
日本軍に抑留された人々が抗議行動を起こしました。
イギリスで陛下は「戦争により人々の受けた傷を思う時、深い心の痛みを覚えますが、
この度の訪問に当たっても私どもはこうしたことを心にとどめ、
滞在の日々を過ごしたいと思っています」と述べられました。
また、同じイギリス訪問の折、皇后陛下は「旅の日に」として、次の歌を詠まれた。
「語らざる悲しみもてる人あらむ 母国は青き梅実る頃」
イギリスで元捕虜たちの抗議の声を耳にされながら、ふり返って、
捕虜となった経験を持つ旧日本海軍兵士の悲しみを思われた。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の故に、じっと悲しみに耐えて、
寡黙に戦後の日々を生きるほかなかったこれらの人々の心中をお察しになっての御歌で感動しました。
陛下は、物心ついてから終戦まで、戦争のないときはなかった、としばしばおっしゃる。
疎開して、東京に帰ってみればあたりは一面の焼野原。
何百万人という人が亡くなった。これは本当に衝撃だったでしょう。
そして戦後、陛下は戦争のことや昭和天皇のご苦労について心をこめて勉強された。
それらのことから、戦争で亡くなった人々の霊を慰め、
同時に遺族を慰めつづけることこそご自身の課題であると、思いさだめておられるのではないかと思います。
毎年8月15日、武道館で「全国戦没者追悼式」が行われます。
関係者の高齢化はとめどなく進み、戦没者の親世代はもとより、妻の世代もいなくなりつつある。
出席者の多くは、子ども、孫です。しかし、その人たちがいる限り、陛下の慰霊はつづく。
さらに、この人たちの戦争と平和への思いは、国民すべてが共有しなければばらない、
そう感じておられるのだと思います。

沖縄は日本で唯一、地上戦があった土地。戦火に巻き込まれ、地元住民がおおぜい亡くなった。
しかも、戦争が終わり、講和条約が結ばれたあとも、
長くアメリカの施政権下に取り残された。そんな苦難の歴史があったにもかかわらず、
住民は日本に復帰したいという気持ちを持ちづつけてきた。
だからこそ、迎える側としては、その歴史を十分理解し、共有しなくてはいけない、それが陛下のお考えです。
沖縄の文化を熱心に研究され、琉歌を詠んだりされるのも、その延長でしょう。
平成6年の訪米の折、サンフランシスコに立ち寄られたのは、沖縄慰霊の日である6月23日でした。
陛下は、皇太子時代、日本人が覚えていなければならない四つの日として、
8月6日広島原爆記念日、9日長崎原爆記念日、15日終戦記念日、
そして、沖縄慰霊の日をあげられています。たとえ外国ご訪問中であっても、
それらの日に慰霊の意を表するのを怠られることはありません。
出発前、陛下は、沖縄で追悼式典が何時に行われるか、時間を調べるようにお命じになった。
それはちょうどサンフランシスコ市長が主催する晩餐会がはじまる時刻とかさなっていました。
陛下は、晩餐会の開始を少し遅らせてもらうよう市長に頼んでほしいとおっしゃり、
その時刻、両陛下お二人でホテルの部屋で黙禱を捧げられました。

宮殿で陛下とお話ししている最中、都心が中程度の地震に見舞われたことがあります。
われわれなら、すぐに自分の家の無事をたしかめようとアタフタしますが、
陛下はご自分のことは委細かまわず、すぐにテレビのスイッチを入れ、
速報のテロップをじっとご覧になり、「これくらいなら、さほど大きな被害はない」と安心なさって、
話に戻られたことがありました。
自然災害は、いつでも、また、どんな小さなものでも被災者のことを心配なさる。
災害の程度によっては、侍従長が都道府県知事に電話をします。
両陛下の犠牲者に対するお気持ちと、救援活動にあたる人々へのお励ましをお伝えするためです。
両陛下からのお見舞金を出すケースもあります。
そうした方針を決めるにあたって、いちばん初めにご相談を受けるのは侍従長ということになります。
私がお見舞いに同行したのは、平成16年の新潟県中越地震のとき。
自衛隊のヘリコプターやマイクロバスで長岡市、小千谷市を回られました。
日帰りで、大変ハードなスケジュールでした。最後の川口町の中学校に着いたころには、あたりはもう真っ暗。
お昼には、救援活動の人々と同じコンビニ弁当のようなものを召し上がりました。
両陛下は、早く現地に行って被災者を慰めたいと願われる一方、
お見舞いに行くとかえって迷惑になるのではないかということを、絶えず気にされます。
人手が両陛下への対応に割かれることで、救援活動や復旧活動が滞ってはいけない。
両陛下としては一刻も早く行きたいお気持ちでも、
宮内庁長官が現地と相談して、タイミングをはからなければなりません。

■きっぱりとした新妻・清子さま
香淳皇后は、5月ごろまで、ずっと安定したご体調で過ごされていました。
ところが、急にご容態が変化して、崩御はあっという間という感じでした。
両陛下は、長い間、しばしばお見舞いにいらしていましたし、崩御には強い喪失感を感じられたと思います。
皇太后崩御は、昭和26年の貞明皇后以来ですから、ご葬儀をどうするかが、大変でした。
前例はあっても、戦争直後と今とは全くちがう時代のころ。
今日の状況にあわせてひとつひとつ検討し直して、決めていただかなくてはなりません。
両陛下も疲労困憊されたと思います。
葬儀の期間、何度も八王子の武蔵野東陵に行かれましたが、
ある時、車が中央高速道にはいると、驚いたことに、両陛下とも居眠りを始められました。
十年以上お仕えして、両陛下が居眠りをなさるお姿を拝見したのは、あのときだけです。
それだけ、心身ともにお疲れだったのだと思います。
平成14年11月、高円宮殿下が若くして薨去。平成16年12月には高松宮妃喜久子さまが薨去されました。
高松宮妃は、紀宮さまのご結婚をなによりも心待ちにされていました。
亡くなられたのはご婚約発表直前のことで、残念なことでした。

紀宮さまは、本当に立派な内親王でいらした。
お幸せになっていただきたいというのが、われわれすべての願いでした。
ただ、内親王のご結婚は、おいそれと決まるものではありません。
まだ具体的な経緯はお話しできませんが、秋篠宮さまのお力が大きかった。
紀宮さまは、お相手として誰かの名があがり、マスコミの取材が殺到したりすることを大変恐れておられた。
「人に迷惑をかけるくらいなら、私のことはもう結構です」というお気持ちから、
消極的になられることがとても心配なことでした。
ご結婚が決まってからは大忙しでした。内親王の結婚は、昭和の島津貴子さま以来。
昭和天皇の三人の皇女は、いずれも高輪にあった光輪閣で挙式されていますが、
その建物は取り壊され、いまはありません。
会場から新たに探さなくてはならず、その他実に沢山のことがありました。
ほとんど紀宮さまと黒田慶樹さんが相談され、お決めになりましたが、
放っておくと、あのお二人ですから、ただただ遠慮がちな地味なものになってしまいかねません(笑)。
披露宴のやりかたも含めて、両陛下、とくに皇后陛下は細やかに気を配っていらっしゃいました。
いろいろ苦労もありましたが、楽しい思い出です。

もちろん家事はひと通り習っていらっしゃるけれども、あまり実地のご経験はないわけです。
前例では、嫁がれた内親王には、一定期間、宮内庁の職員がお手伝いに行っていたようです。
ところが、紀宮さまは「お手伝いはいりません。私は最初から自分でやります」とおっしゃる。
慣れないスーパーマーケットでのお買い物に、若い女性の元出仕がお手伝いしたこともありましたが、
基本的にはすべてご自身でやってこられました。
購入予定に新築マンションが贅沢すぎるのではないかと真剣に悩まれたのは、
じつに紀宮さまらしいエピソードでした。
宮内庁職員が、「いまの世のなか、この程度はけっして贅沢のうちにはいりません」と説得申し上げ、
やっと納得していただきました。
ただ、紀宮さま、いや黒田清子さまは、意外な思いきりの良さを持ちあわせていらっしゃる。
これまで内親王として、さまざまな団体とかかわってこられ、
顧問のようなかたちでの継続を望む団体も少なくなかったのですが、
「私には当面、そのようなことをする余裕はありません」と、すべて辞退されました。
侍従職がなにかお世話をしようとしても、「私は、もう侍従職のお世話になる立場にはありません」とおっしゃり、
御所に来られるときの車の手配さえ遠慮されます。
あんなにやさしく穏やかな清子さまの、どこからあのようなきっぱりしたものがでてくるのかと、
感心せずにはいられません。

■愛子さま、悠仁さまへのまなざし
どちらのときも、両陛下はたいそうお喜びでした。
愛子さまご誕生のとき、両陛下は地方にお出かけになっている可能性がありました。
いつお生まれになるか分かりませんから、いざという時のご報告の仕方をめぐって、
宮内庁の中でいろいろ机上の演習をしたこともありました。
幸い、お誕生の時は御所に居られ、ご報告に駆けつけたことを思い出します。
悠仁さまが誕生されたときは、両陛下は国際学会で札幌にいらした。
帝王切開のため、お生まれになる時間はあらかじめ分かっており、
ホテルの部屋で秋篠宮さまから報告の電話を受けられました。
直後の国際学会では、主催者からお祝いの発言があり、満場の拍手があったのを受けて、
陛下がアドリブで「みなさんにお祝いしていただいたことを、深く感謝しております。
どうもありがとう」とおっしゃったのには、陛下の素直な喜びが感じられ、胸が一杯になりました。

百二十五代にわたる伝統を背負っておられる陛下にとって、皇位継承問題の重み、
ご自身の御世の間にしっかりと後に繋げていかねばならないというお気持ちの強さは、
われわれの想像を絶するものがあると思います。
東宮家にお子さまがなかなかお生まれにならなかった時期、深く心配されたことは疑うべきもありません。
しかし、そこに愛子さまがお生まれになったんです。
そうすると、今度は皇室典範改定をめぐって、賛否の議論が起こり、国論がはげしく二分された。
この事態が、また、陛下のお心を深くお悩ませすることになってしまいました。
皇室にかかわることで、国論が二分する事態だけが避けなければならないというのは、
陛下の基本的なお考えだと思います。

(皇太子殿下の人格否定発言について)
大きな騒ぎになり、陛下のご心配もひとかたならぬものでした。皇太子殿下は、発言直後に欧州訪問に出かけられ、
陛下は「あらためてその内容について説明しないと国民も心配しているであろう」とおっしゃった。
マスコミは、憶測記事の大洪水になりました。すべてを否定すればそれがまた騒ぎになる、
一部を打ち消せばほかは正しいのかということになりかねない。
宮内庁は、さながら立往生の様相でした。
そんなとき、両陛下は「報道の多くが家族のなかの問題に関する憶測であるならば、
その一つ一つに釈明することが国のためになるとは思われない。
宮内庁はほかにやるべき仕事があるのだから、一つ一つの釈明に労を費やすことは望まず、
今は沈黙を守ってくれて構わない」とおっしゃいました。

--その年の12月、天皇誕生日の会見で、
陛下は「皇太子の発言の内容については、その後、何回か皇太子からも話を聞いたのですが、
まだ私に十分に理解しきれないところがあり、
こうした段階での細かい言及は控えたいと思います」と発言されています。

世間の関心をあつめている問題について記者会見で訊かれた質問には、事実をそのとおりに答えなくてはならない。
そういうお気持ちから出たお言葉でしょう。
ご自身の健康問題についても隠し立てしないというのと同じことだと思います。
よく、皇太子殿下とのご関係について、
「記者会見で発言などなさらずに、直接ご本人とお話し合いになればいいのに」という感想を語る方がいます。
もちろん直接のお話し合いは何度も持たれているのです。
ただ、陛下の場合、それはそれとして、記者会見での質問に誠実に答えるというスタンスは徹底されています。
侍従長に就任して間もないころ、私は、自分の経験から、
「多少質問の趣旨とズレても、おっしゃりたいことをおっしゃればいいのでは」と、陛下に申し上げたことがあります。
しかし陛下は非常に真面目に、質問のすべてに正面からお答えになろうとする姿勢をお変えになりません。
陛下は、ご自身が昭和天皇から引き継がれたものを、今度は次の世代にきっちり引き継ぎたい、
そして、次の世代はそれをしっかりと受け止めてくれるだろうという期待を強くお持ちになっている。
だからこそある程度、厳しいこともおっしゃる。
仲違い、喧嘩ととらえるのは、全く違うと思います。
皇太子殿下はやがて百二十六代天皇になられるお立場にあります。
そのときどきの天皇のあり方は、国民との関係によって決まってくると思います。
今上陛下は皇室の伝統や憲法を重んじられる一方、国民の要請や期待に謙虚に耳を傾け、
それに応えていこうと全身全霊で努めてこられた。
ご自分の務めは国と国民のために尽くすことにあるのだと。
天皇の務めには、変わらない部分と時代とともに変わっていく部分とがある。
それをわきまえて、ほんとうに国民のためになると思うことなら、自信をもってするべきである。
それが陛下のお考えではないかと思っています。

(羽毛田長官の皇太子殿下への苦言について)
長官の発言の趣旨は、ご参内を増やしていただきたいということもさることながら、
むしろ、皇太子殿下に、ご自身の発言を大切にしていただきたいというお願いであったと理解しています。
ご参内について言えば、両陛下は、東宮時代、週に一度、お子さま方を連れて参内されていました。
そして、その折に、昭和天皇、香淳皇后から多くのことを学ばれたのだと思います。
両陛下には、子々孫々に伝えたいことがたくさんおありになる。
それは帝王学というような難しいことではなく、皇居内でやっている稲作や、
お蚕に関することであるとか、皇室の伝統的な行事に関すること、
さらには、国民の幸せ、戦争と平和のことなど、まさに数限りがないのではないでしょうか。
平成17年、両陛下が眞子さまを満州からの引き揚げ者が住む那須の千振開拓地に連れて行かれたのも、
そうした意味があってのことだったと思います。
もちろん愛子さまとのあいだにも、そういう時間をたくさんお持ちになりたい。
愛子さま、眞子さま、佳子さま、悠仁さま、いずれにも分け隔てなく、
両陛下のそうしたお気持ちは向けられていると思います。

昭和天皇は、新憲法下の天皇として戦後を生きられましたが、
やはりそれ以前に大日本帝国憲法下の天皇として在位されたことは否めないことでした。
一方、今上陛下はご即位のはじめから、現憲法下の象徴天皇であられた。
陛下は、そのような立場で何をなさるべきかを考え続け、実効し続けて今日まで来られたのだと思います。
たとえば、阪神淡路大震災のとき、両陛下は被災地の体育館の床にひざまずき、
国民と同じ目線の高さで語りかけられました。
これは昭和天皇にはなかったことでした。
ただ、そうされたのは、両陛下が「なにか新しいことをやろう」とお考えになったからではけっしてない。
国民との関係に深く思いをめぐらせ、誠心誠意、大震災に打ちのめされている人々を慰め、励まそうとされた。
その結果が、ごく自然に行動となってあらわれたのだと思います。


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天皇家の執事―侍従長の十年半 渡邉 允
文藝春秋 (2009/10)

「陛下は皇太子時代、昭和四十九年から、日本赤十字社名誉副総裁として、
毎年七月の献血運動推進全国大会に出席しておられましたが、
五十一年になって、ご自分でも希望されて献血を始められました。
献血量はその時々の赤十字の基準に従って二百ミリリットルないし四百ミリリットルでしたが、
当時の献血の制限年齢になられた平成十年まで続けられました。」