両陛下ご成婚関連

 ※文中の皇太子殿下とは両陛下のこと

昭和54年刊「ご成婚20周年記念写真集」時事通信社/より
故・黒木従達東宮侍従長の回想
皇太子殿下のご結婚は、ご自分のご意志と皇室関係者の選択が一致したまことにお幸せな例であった。(中略)
お会いになったときから、殿下が妃殿下にと心を決められたようになっているが、それは違う。(中略)
国の象徴となられるご自身の責任はもとよりのこと、妃殿下となられる方も立派な日本人であり、
国際人であって欲しい。
同時にまた、国家への献身を果たされたジョージ六世が常に憩われた、その背後のご家庭のような
温かく愛情に満ちた家庭を築く優しい忍耐強い人であってほしいこと。
それを妃殿下とのテニスの試合で、いら立たない辛抱強いご性格と穏やかでつつましい態度に見出され、
ご自身の中に芽生えた気持ちが許されるものか否かを第三者の客観的調査に待たれた。

求婚を受け入れた時の心境について美智子さまは
「殿下はただの一度もご自身のお立場への苦情をお述べになったことはおありになりませんでした。
またどんな時にも皇太子と遊ばしての義務は最優先であり、
私事はそれに次ぐものとはっきり仰せでした」と語ったという。


皇太子様 ご婚約(今上陛下)
昭和33年(1958年)11月27日(木)
朝日新聞(夕刊)

「両殿下、まず“ご賛成” 皇室会議」
皇太子妃は二十七日、皇室会議のなごやかな、温かいフンイキに包まれて決まった。
午前十時キッカリ岸議長が開会を宣した。十人の議員の前に議案が配布され
「皇太子の婚姻に関する件――皇太子明仁親王殿下と正田美智子と婚姻されることについて
皇室典範第十条の規定にもとづき皇室会議の議決をもとめる」と
並木秘書課長が美濃紙に書いた議案を朗読した。
つづいて宇佐美長官から説明が行われた。皇太子の婚約について六年前にさかのぼった経緯のあらまし、
正田美智子さんの家系、血統、人柄、家庭の模様、学歴、親族の略歴などが述べられてゆく。
家系図に記載された人々の一人一人についても細かい紹介がなされた。
「民間から皇太子妃が選ばれたことは歴史上からみても前例があり、必ずしも異例ではない」と宇佐美長官。
また「正田嬢とはテニスコートで数回、皇太子がお会いになったことはあります。
しかし世上で一部にウワサされたような恋愛関係はない」とも説明され、議員たちは明るくうなずきあった。
「何か質問はありませんか」との岸議長の言葉にしばらく沈黙が続いた。
議長はみんなの顔をひとわたり見渡したのち「では私からひとつ質問いたします」といった。
「正田家はキリスト教と聞くが、皇室は神道です。この関係はどうですか」。
宇佐美長官が答えた。
「確かに正田家はクリスチャンで、美智子嬢の学校もカトリックだが、美智子嬢は洗礼を受けていません。
宗教的な問題があるとするのは世間の思い過ごしで、そのような心配は少しもない」と述べた。
秩父宮妃殿下と高松宮殿下は「そんな心配はない」といいたげな表情だったという。
会議の雰囲気は明るくおだやかだ。
「それでは採決をいたします。賛成の方はご起立願います」の議長の声に
秩父宮妃殿下と高松宮殿下がまず立ちあがった。
一人の反対者もなく、厳粛に十人が起立、十時四十二分全員一致で皇太子妃がきまった。
記事録に毛筆で署名の持回りがあったのち、美智子嬢のアルバムが回覧された。
赤ちゃん時代のはだかン坊で砂遊びをしている写真や少女時代のページがめくられる度に
「いいお妃さまだなあ」という笑い声や「来年の春か秋ごろに結婚式ですね」という話題にはずんだ。


「テニスコートの恋」の真相 皇太子さまご結婚は「お見合い」か
元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」

軽井沢のテニスコートで始まった皇太子さま(現天皇陛下)と美智子さま(現皇后陛下)の恋……
漠然とそんなイメージを抱いている人も多そうだ。しかし、お妃選びが最終局面を迎える
1958年当時に「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)は、
「お2人のご成婚が単純な恋愛結婚だった、というイメージは事実と異なる」と考えている。
(以下、呼称は当時のものです)
佐伯さんに話を聞く第2部は、皇太子さまと美智子さまのご成婚について、
「世間のイメージ通りの恋愛結婚だったのか、それとも周囲によりお膳立てされた
『調整された結婚』だったのか」をめぐる佐伯さんによる分析・推理を紹介する。
2002年に出版された本で明らかになった当時のお妃選考首脳の日記資料などを踏まえ、
当時の取材経験に照らしながら比較的最近になって佐伯さんがたどりついた結論だ。
第2部初回は、皇太子さまの「恋愛結婚」が、当時の国会で問題にされた状況について語ってもらう。

宮内庁長官が国会で「恋愛説」否定
皇太子さまと美智子さまのご成婚に関して、「軽井沢のテニスコートで芽生えた恋」という
イメージが定着しているようです。しかし、皇太子さまご婚約の発表(1958年11月)から、
しばらくたった1959年2月6日の衆院内閣委員会で、宇佐美毅・宮内庁長官は、
はっきり「恋愛説」を否定しています。
ご成婚(59年4月)の2か月前のことです。
宇佐美長官は、自民党の平井義一議員の質問に対し、「世上で一昨年(57年)あたりから軽井沢で
恋愛が始まったというようなことが伝えられますが、その事実は全くございません」と答えています。
1957年に軽井沢でテニスをしたのは事実だと認めた上で、皇太子さまについて、
「世上伝わるような浮ついた御態度というものは、(略)全然お認めすることはできません」と
「恋愛説」そのものを否定しています。
なぜ「恋愛説」を否定したかというと、当時はまだ、世間一般の感覚としても、
まだ「良家の子女はお見合い結婚が当たり前」という空気が濃厚に残っていた時代だったのです。

「そんなはしたないことは許さない」という守旧勢力
先の平井議員は、「殿下が軽井沢のテニスコートで見初めて、自分がいいというようなことを言うたならば、
ここにおられる代議士さんの子どもと変わりない」「これが果たして民族の象徴と言い得るかどうか(略)」
などと質問しています。皇室の尊厳の問題について強く懸念している質問となっています。
「恋愛結婚」説をめぐる推理に入る前に、1958年11月のご婚約発表に至るまでの
当時の雰囲気を紹介しておきましょう。
宮内庁幹部らによるお妃選びが本格化したのは、ご婚約の3年前の1955年からとみられます。
55年当時、皇太子さまは21歳でした。
当時は、「皇太子さまの恋愛結婚など、そんなはしたないことは許さない」という守旧勢力がいました。
「皇太子妃になる人は、皇族か旧華族、それも家柄の格の高い旧華族の者で、
厳密に選考された人でなければ」という発想で、
「民間からのお妃」や「恋愛結婚」なんてとんでもない、という人たちです。
例えば、学習院女子中・高等科出身者でつくる「常磐会」の主流派。
当時の皇族の宮妃殿下や旧華族の奥さんらが多くいました。
宮中の女官らもおり、隠然たる発言力をもっていたのです。

お妃選びは旧華族のお嬢さん中心に進んでいた
常磐会の当時の会長が、秩父宮妃殿下の母、松平信子さんでした。皇太子さまの教育係を務めたこともあり、
かなりの発言権と影響力をもっていました。また、(昭和天皇の)皇后陛下もそうしたご意向だとみられていました。
女性ばかりではなく、宮内庁の旧華族出身職員らなど、少なからず同様の意見をもっていました。
こうした空気を背景に、当初は旧華族のお嬢さんらを中心にお妃選びの選考が進んでいました。
しかし、旧華族といっても、経済的に没落しているところも結構多くて、
さすがに倒産したところの娘さんは無理だ、というケースもあったようです。
ほかにも、親族の病歴などでもはじかれていました。逆に宮内庁側が断られることもあり、
ご婚約の前年、1957年の4月にはある旧華族とみられる家から、お妃選考首脳が
「拝辞(へりくだった辞退)」されたことも分かっています。
旧華族のリストだけでは手持ちの数が心もとなくなってきたのでしょう、1957年秋ごろからは
民間の女性まで対象に広げる必要がある、と一部の選考首脳らは考え始めたようです。

「正田美智子さんという方を覚えておられますか」、
そう言って「黒木東宮侍従」が皇太子さまに水を向けた
「旧華族」が次々リストから消えていった
前回、ご婚約が決まる1958年の前年、57年の秋ごろから、お妃選考首脳の一部がお妃候補の選考対象を、
従来の旧華族から民間にも広げようと考え始めた、というところまで話しました。
「選考首脳の一部」とは、中心メンバーといってよい5人のうち、
宇佐美毅・宮内庁長官と黒木従達・東宮侍従の2人だとぼくはにらんでいます。間違いないでしょう。
1957年秋当時、少なくとも表面的にはあくまで旧華族のお嬢さんの線で選考を進めていました。
うかつに「民間」の話がもれようものなら、守旧派から大反発をくらうことは明白だからです。
しかし、1955年からお妃選びを本格化させ、旧華族のお嬢さんらが次々とリストから消えていく中、
宇佐美長官らは民間にも選考対象を広げる必要を感じたのでしょう。
また、皇太子さまご本人も、はっきりとはしないが、
「民間」からのお妃がいいのでは、とのお考えをお持ちのようだ、という認識もあったようです。

美智子さんに対する推薦の言葉は、絶賛というに近いもの
民間にも調査対象を広げたことが分かる一端は、1957年9月から聖心女子大などの女子大数校と
複数の名門女子高校に、極秘で推薦依頼を宮内庁首脳が行っていることです。
学校側はほどなく回答しており、聖心の場合、推薦の筆頭が正田美智子さんでした。
ぼくたち取材班は翌58年の5月には、こうした事実をつかんでいました。
美智子さんに対する推薦の言葉は、絶賛というに近いものでした。また他校から寄せられたものを含めて
推薦候補の中で断トツに評価が高かったのですから、
最初にそれを読んだ黒木侍従は強く心を動かされたに違いありません。
約1か月前の1957年8月に軽井沢で皇太子さまチームと偶然テニスをした正田美智子さんと同一人だと気がついて、
運命的なものをも感じたことでしょう。ただちに美智子さんについて、入念な独自調査に取りかかりました。
この有名な「1957年8月19日の軽井沢テニス」については、
皇太子さまがこのテニス場で試合をしたのは初めてで、後で説明しますが、
美智子さまとの出会いは偶然でした。お妃選考首脳らのお膳立てがあったわけではありません。

まだ「気にはなっている」くらい
また、一般にイメージが広がっているように、このときにお2人が恋に落ちた、というわけでもありません。
なぜぼくがそう考えるのか。
まず、皇太子さまが美智子さんと2回目に一緒にテニスをするのは、「軽井沢での初テニス」と同じ年の
10月27日、東京・調布でのことです。皇太子さまが学友を通じて美智子さんをお誘いするのですが、
8月の初テニスから2か月以上も間が空いているのは、恋に落ちたにしては、時間が長く空きすぎだと思います。
「気にはなっている」というくらいだったのでしょう。
さらに、皇太子さまがこの「2回目テニスへのお誘い」をする直前には、黒木侍従が皇太子さまに
「8月にテニスをした正田美智子さんという方は覚えておられますか」と、
10月の調布テニスへお誘いするよう水を向けたとみられます。
皇太子さまが8月の軽井沢テニスの後、学友に美智子さんのことを
「すごく(テニスが)強い女性だ」と言ったことを黒木侍従は、学友を通じて知っていて、
皇太子さまが美智子さんのことを「気にはなっている」のを確認していました。
黒木侍従は、皇太子さまの学友とは常に連絡を取っていたのです。

「田島日記」にも「軽井沢テニス」は全く出てこない
ご婚約が決まる1958年(11月)の前年、57年10月の東京・調布でのテニスに皇太子さまが学友を通じて
美智子さんをお誘いになった段階では、皇太子さまはまだ「恋に落ちた」わけではなく、
「気にはなっている」段階だ、という推理を前回話しました。
一方の美智子さんは、1957年9月にあった聖心女子大の同窓会で、
8月の軽井沢での皇太子さまとの初テニスのときに家族の知人から撮ってもらった写真を持参し、
「(皇太子さまを試合で)負かしちゃったわ」と話しています。
仮にすでに恋愛感情が芽生えていたとすれば、こんな場所で写真を友人らに見せびらかしたりするはずがありません。
以上のような点から「1957年8月軽井沢テニス」が2人の恋の出発点、という説は否定できると思っています。
また「1957年8月軽井沢テニス」は、お妃選考首脳らによるお膳立てではなく、偶然だと考える理由は次の通りです。
第1部でも登場した選考首脳のひとりで、前宮内庁長官だった田島道治さんがつけていた「田島日記」にも
「1957年8月の軽井沢テニス」は全く出てこないし、
後の回顧文で「偶然だった」と書いた別の選考首脳もいます。
偶然とみるべきでしょう。

旧華族のK嬢の線で進めていることを強調
では、1957年10月の東京・調布でのテニスの段階で、
美智子さんをお誘いするよう水を向けた黒木侍従はどう感じていたか。
美智子さんについて、かなりの手応えを感じ、良い鉱脈を掘り当てたと思っていたはずです。
しかし、当時は守旧派の「常磐会」松平信子会長の推薦で、Kという旧華族のお嬢さんについて検討していました。
そのため、黒木侍従は、「開明派」ともいえる宇佐美毅・宮内庁長官ら一部の選考首脳には
自分の考えや情報を伝えつつ、「守旧派」の松平会長らとパイプがある田島さんらには、
あくまで旧華族のK嬢の線で進めていることを強調していたのでしょう。
すぐに情報が伝わってしまい、「民間なんてとんでもない」と大騒ぎになることが目に見えているからです。
田島さんも、薄々そういう気配は感じていたかもしれませんが、「うまく利用されてやろう」と
大きく構えていたのではないでしょうか。
「開明派」に理解がある小泉信三さんには、やや遅れて11月ごろには
黒木侍従らが事情を説明しただろうとみています。
その後、年が明けて1958年の1月25日、事実上「Kはダメ」という流れが選考首脳らの間で固まりました。

相次ぎ同じテニスクラブへ入会
この流れを受けたかのようなタイミングで、黒木侍従は2月に入り、動きを加速させます。
皇太子さまに美智子さまの写真(1957年10月の調布テニスの際に皇太子さまが撮影)を
美智子さんに送ったらどうかと勧めたようです。ほどなく皇太子さまは、写真を美智子さんへ送っています。
また、黒木侍従は皇太子さまに「正田さんを調べてみるよう(選考首脳の)
小泉信三さんにお願いしたらどうですか」とも
助言したようです。これも2月中のことでしょう。皇太子さまは実際に、小泉さんに要請をされました。
さらに、同じ2月には小泉さんの勧めで皇太子さまが、
小泉邸近くにある南麻布の東京ローンテニスクラブに入会し、
3月には、皇太子さまの学友の紹介で美智子さんが同じクラブに入会しています。
以降、お2人はかなりの頻度でテニスを同クラブを中心に一緒にする間柄になっていきます。
このあたりの段取りは、小泉さんらによるお膳立てとみてよいでしょう。
では、この時期の1958年2月、3月あたりで美智子さんが形式的にもお妃候補の本命になったのかというと、
まだそうではないのです。

「皇太子さまのご意向もお酌みして…」 こう言ってお妃候補の中に入れる
「皇太子さまのご意向もお酌みして…」――。お妃選考首脳らは、
こう言って巧みに「民間」の美智子さまをお妃候補の中に入れることに成功した。
「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に皇太子さまがたの
「『テニスコートの恋』をめぐる虚実」に関する推理を聞くインタビュー第2部の4回目は、
「皇太子さまに恋をして頂く」必要性をめぐる選考首脳らの思いについて語ってもらう。
候補に加えることをさりげなく提案した
前回、ご婚約が11月に決まる年の1958年の2、3月あたりに、皇太子さまと美智子さんとをめぐり、
同じテニスクラブ入会などの動きが出始めたものの、お妃選考として、まだ形式的には美智子さんが
本命になっていたわけではない、というところまで話しました。
1958年1月に旧華族のK嬢がほぼダメとなった後、今度は松平信子・常磐会会長が、
やはり旧華族のH嬢を検討するよう提案します。
宮内庁幹部らお妃選び首脳も、発言力がある松平会長の意向は無視できないのです。松平会長の提案を受け、
3月3日の小泉邸首脳会議で、K嬢断念の正式決定とH嬢を調べることが決まりました。
実は、この3月3日の会議の終わりの方で、(選考首脳の)小泉信三さんが
美智子さんも候補に加えることにしたらどうでしょうとさりげなく提案し、そして何となく了承されたようです。
これは大きな節目です。小泉さんは、2月に皇太子さまから美智子さんのことを調べてみるよう言われたことを受け、
3月3日の提案の際に「皇太子さまのご意向もお酌みして」とつけ加えています。これが重要な点です。

「皇太子さまに恋をして頂く」必要性
皇太子さまの「ご意向」もなく、やみくもに小泉さんらが民間人の候補入りを提言すれば、
「旧華族のお妃」にこだわる松平会長らの耳にほどなく入り、反対されることが目に見えているからです。
また将来、旧華族からではなく、民間からお妃を選ぶことになるとすれば、反対派を突破する糸口として、
「皇太子さまに恋をして頂く」必要性が生じてくると、当時の選考首脳らは考えたはずです。
それはなぜか。皇太子さまのご結婚には「皇室会議を経る」必要があると皇室典範に定められています。
皇室会議は、首相や衆参議長のほか皇族も入った10人で構成されます。
当時の皇室会議には、民間お妃には否定的とみられていた秩父宮妃も入っており、
仮に会議前の面談や会議の場で反対されると、賛成派の人の考えにも影響が出かねない事態が想定されます。
お妃選考首脳らだけでは、とても皇族の方々を説得はできないであろうことを、
首脳らが念頭に置いていたとしても不思議ではありません。

民間から皇室に入るのは想像もできないほど敷居の高いこと
そうすると、皇太子さまご本人が強い情熱をもって、反対する皇族の方々を説得されなければならなくなります。
その際、その説得の原動力になるよう「皇太子さまに恋愛して頂く」必要性がある、
と首脳らは考えたのではないでしょうか。
実際、皇太子さまは後に、ご婚約が決まることになる1958年11月27日の皇室会議の前、11月12日に3時間半かけて
秩父宮妃らに説明なさることになるのですが。
さらには、民間から皇室に入るということは、
今では想像もできないほど敷居の高いことだと当時は考えられていたので、
お妃候補になる人への説得も、選考首脳らだけでなく、皇太子さまご本人からの働きかけが不可欠で、
その働きかけの情熱の原動力としても、やはり「恋愛」が重要だ、と首脳らはみていたのでしょう。
この1958年3月3日の小泉邸首脳会議の後、4月の初旬には、理由ははっきりしませんが、
旧華族で候補だったH嬢が選考からはずれたことが首脳らの間で確認されました。
以降、民間候補の美智子さんに意見を集約する方向で選考首脳らは動いていきます。
5月2日の宇佐美毅・宮内庁長官邸での会議では、ほぼ美智子さんへの候補一本化が決まります。

「ご成婚は単純な恋愛結婚ではない」 恋愛感情になったのはしばらくしてから?
1958年5月2日の会議で「ほぼ一本化」
ご婚約が発表される約半年前の1958年5月2日にあった宇佐美毅・宮内庁長官邸での会議で、
美智子さんへのお妃候補一本化がほぼ決まりました。
この5月の半ばごろまでには、皇太子さまと美智子さんは「恋に落ちて」いて、
7月ごろまでには少なくとも皇太子さま側はかなり良い感じになっていたとみています。
皇太子さまは後に、美智子さんについて学友に「初めは伴侶にふさわしい人か、
と冷静に観察しているつもりだった。恋愛感情になったのは後になってからだ」
という趣旨のことをもらされたようです。
もっとも、学友によっては、「自由恋愛とみられることに皇太子さまは納得がいっていない様子だった」
と話す人もいました。
最後まで「未来の皇后としてふさわしいか」という視点で冷静に判断した、ということでしょうか。
以降の流れは、1部のインタビューの後半で触れた通りです。9月18日に黒木従達・東宮侍従が、
美智子さんの実家の正田家へ皇太子さまによる求婚のご意思を伝え、正田家はほどなくお断りをします。
その頃、美智子さんは「お妃選びにもみくちゃ」にされることを避けるため、実家の意向で外遊中でした。
10月26日に美智子さんが帰国後、皇太子さまへお断りの手紙を美智子さんは書いて送ります。
しかし、学友の仲介で皇太子さまは連日のように美智子さんと電話で話をされます。
恐らく数日のうちに、お2人の間では、ご結婚への合意ができたのではないかと推測しています。

兄も父も納得せざるを得ない「お言葉」
そして11月3日に正田家は箱根のホテルで家族会議を開きます。美智子さんは、反対していた兄巌さんと
父英三郎さんの意見が変わらなくとも結婚を貫こうと決めていたようです。当日に現地のホテルで、
家族会議後に1人だけ取材ができたぼくに、直接的な表現ではないものの、結婚への「決意」を話してくれました。
ご本人の決断にもかかわらず、兄巌さんと父英三郎さんの(当時としては無理もない)深刻な懸念から
正田家の意思決定は、こう着状態に陥ります。それを打開するために11月3日夜から4日にかけ、
その懸念を皇太子さまへお伝えしようと、水面下で母冨美さんの苦心の働きがあったに違いない、
とぼくはみています。
それに見事に対応して皇太子さまは11月5日の夜遅く、黒木侍従を正田家に派遣し、
誠意に満ちたお言葉を伝えさせました。
兄も父も納得せざるを得ない委曲を尽くしたもので、
ここで正田家として事実上申し込みをお受けする旨をお答えしたのです。
11月8日には、宇佐美毅・宮内庁長官が天皇陛下にその旨、報告申し上げたのです。さらに11月13日、
正田家が形式上、選考首脳の小泉信三さんに正式に受諾を伝え、11月27日にご婚約が発表されます。
ご成婚は翌1959年4月10日です。
ぼくの推理をまとめると、最初の1957年8月の軽井沢テニスコートでの出会いは偶然で、
皇太子さまは、美智子さまについて少し気になる程度で、そのとき恋に落ちたわけではない。
2度目の東京・調布でのテニス(1957年10月)は、
皇太子さまのお気持ちも考えながら黒木侍従が背中を押したふしがあり、
皇太子さまと美智子さまの同じ東京のテニスクラブ入りもお妃選考首脳によるお膳立てがあった。

綱渡りのように慎重にうまく話を進めた結果
そして、旧華族のお妃候補の線が実質的には消えた3月上旬以降、
お2人は急速に東京のテニスクラブを中心に出会いを重ね、恋愛されるに至った。
お2人のご婚約(1958年11月27日)とご成婚(59年4月10日)は、
多くの人がイメージしているような単純な恋愛結婚でもなく、逆に単純な調整された結婚でもない
、「責任をもって調整、アレンジされた恋愛結婚だ」というのがぼくの結論です。
民間お妃が誕生する場合、単純な恋愛結婚でも、単純な調整された結婚でも事態はうまく動かない。
しかも民間お妃誕生には反対勢力がいる、という微妙な情勢の中、お妃選考首脳らが、
皇太子さまのご意向も踏まえながら綱渡りのように慎重にうまく話を進めた結果
がお2人のご婚約・ご成婚だと考えます。
そうした「単純な恋愛ではない」という意味で、第2部1回目で話した宇佐美毅・宮内庁長官による
国会での「恋愛否定」答弁にはウソはありません。
こうした微妙な情勢を乗り越えることができたのは、
田島さんたちのような選考首脳の無私の働きがあったからだと、私はある種の感動を覚えずにはいられません。
皇太子さまのご成婚を単純な「軽井沢テニスの恋」物語で語ることは、
こうした歴史の裏舞台で真摯に活動してきた当時のお妃選考首脳の人たちを
埋もれさせることになっていると感じています。
もっと彼らの活躍に光があたり、若い人たちの間でも少しでも語られ続けるといいなと思っています。
<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>

<佐伯晋さんプロフィール>
1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、
同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。
95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。
http:// www.j-cast.com/2012/05/10128633.html?p=all


週刊女性天皇即位記念号 1990年12月3日増刊

ご成婚の一週間前に美智子さまが、毎日新聞記者清水一郎氏に宛てた手紙。

今ではこの木(白樺)がおしるしになったことを心から喜んでおります。
毎日新聞の記事から、思わぬ「白樺論争」などという言葉まで生まれましたが、
「論争」の理由は、決して好みが白樺と野菊に分かれたのではなく、
葉山のご静養の間にも私のおしるしのことをお考え下さった皇后様のお優しさを
いつまでも身近なしるしの中に大事に頂いておきたかったことと、
野と菊に象徴されるものに心ひかれてこの花を推したこと、
私も、白樺は木の中で一番好きなので、それだけによけいややこしい議論になったのかもそれません。
(昭和34年4月4日)

平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月
ご成婚へ

今上陛下は旧皇族旧華族で構成された「皇室の藩屏」を妃供給源とみなさなかった初めての皇太子だった。
自らの即位の大礼には旧登極令やその附則で定められていた様式に息吹を与え、平成の大礼を創りあげたが、
旧皇室典範など一連の皇室法が定めていた立妃条件を頭から無視した。
「これからの皇室を背負っていくにはお姫さまでは駄目だ。自分で考え、
判断し、行動する力を持っていないと…」と旧基準を否定した。
従来の供給源だった学習院に聖心がとって代わった。
思えば昭和32(1957)年8月19日の軽井沢会ABCDトーナメントで
正田美智子とアメリカ人少年のペアに出会ったのが、運命的出会いだった。
誰が仕組んだものでもない、自然なトーナメントでの第四回戦。
あのとき殿下が、美智子が、出場していなかったならば、今日に及ぶ二人の存在はありえない。
この年の夏、軽井沢・千ケ滝で避暑生活を送っていた殿下を妹の清宮貴子内親王が訪れた。
コーチの石井小一郎が軽井沢会ABCDトーナメントにお出になるよう、と伝言を持って。
石井は中等科学生時代には皇太子のテニスコーチだった人。
出場者の力が均衡するようペアを決めて通知しておき、
自分たちの出番が来るとコートに現れる従来のしきたり通り殿下も旧軽コートに顔を出した。
相手は早大生石塚研二といった。軽井沢会テニスクラブ所属の青年である。
「優勝は皇太子組に間違いないだろう」
前評判が立った通り、一方のグループで勝ち進み四回戦を迎えた。
他グループで駒を進めてきたのが正田美智子と少年のペア。
たまたまそのころ、友人の別荘に来ていた手塚英臣(のちの侍従次長、掌典長)が網越しに観戦を始めた。
「最初は調子よかったんですがねえ、あまりの不甲斐なさ、弱さにあきれてかえってしまった」
苦笑いする手塚は学習院で陛下の一年下になる。正田美智子がどのような球も拾って拾い抜くため、
皇太子ら男性はイライラが嵩じて強打に出てはミスを連発したらしい。負けてしまう。
しかし皇太子は意外とさっぱりしていた。女性の粘り強さ、的確さ、
試合を捨てない芯の強さ、明るさなどに瞠目し、心中深く印象をとどめてしまう。
皇太子は黒木従達東宮侍従にお妃候補に入れるよう話をつける。
これを受けて小泉信三が調べを開始すると、なるほど、かつてないほど心を揺るがせる素晴らしい女性だった。
かつてヴァイニング夫人と語り合い一致を見た女性そのものだったのである。
明仁親王が元気に満ち溢れ、新たな気概に満ち、頭をもたげて堂々と前進し始めたのはご成婚からだったと感じている。
親王にとって最も信をおける伴侶美智子妃と手を携えたときが、
象徴天皇への道筋をきわめて行く出発点だったと私は受け止めている。
その手始めとなるようなエピソードが私の古い取材ノートから見つかった。
いつ誰からとは明記していないのでいささか出典に自信はないが、
調布市にあった日本郵船株式会社の飛田給テニスコートにまつわるメモである。
…軽井沢にもう一つ栄えたのが千ケ滝トーナメント。
それらの日々を思い起こして軽井沢族が集まるテニスが東京では飛田給を場に行われ、
東宮、正田美智子などテニス仲間が楽しんでいた。
このコートで明仁親王が撮影した正田美智子の写真を昭和32(1957)年10月27日、
美智子は聖心女子大学のブリット学長にそっと見せた。
「チョッ、チョッ、チョ。気をつけなさい。もし皇太子に結婚を申し込まれたら、どうなるの」
ブリット学長が発した言葉にはリアリティーがこめられている。
実際、33(1958)年春になると宮内庁から皇太子妃候補をリストアップするよう
聖心女子大学、東京女子大学、学習院に依頼があった。
その年の3月に東宮から小泉信三に「正田美智子さんを調べよ」との申し入れがあり、
聖心がリストアップした中に正田美智子の名が書き連ねてあった。
取材メモに従うと、7月23日、小泉と宇佐美毅宮内庁長官が連れ立って葉山御用邸に行き、
両陛下に皇太子妃選考のあらましを報告した。
これに先立つ5月、イラン皇弟来訪のとき正田美智子はテニスの試合に招かれ、
義宮正仁親王と組んで皇太子組と対戦している。
8月3日、美智子は軽井沢南丘の別荘に入った。同月15日葉山御用邸で二度目の会議が開かれ、
昭和天皇のご裁断が出た。
明仁親王と正田美智子の結婚に同意されたのだった。
昭和天皇のご承諾を賜った小泉は新聞各社社長を歴訪した。ことが洩れては大魚を逸すると事情を語り、
新聞協会会長をも説得してついに発表までは慎むという報道協定締結に漕ぎつけた。
小泉は安心して万全の体制で正田家攻略に取り掛かる。
一方、正田家は群馬県館林の祖父を筆頭に「お許しを願いたい」と固く辞する態度を貫く。
妙なもので断られると選考側は勇気百倍、逆に奥床しい家庭であると奮い立って本腰をあげたものだ。
板ばさみになった美智子は17日明仁親王からのテニスへの誘いを断って帰京。
9月に入ると3日、聖心卒業生のブリュッセル世界会議出席のために欧米へと旅立った。
10月20日美智子は二十四歳の誕生日をナイアガラで迎えた。
滝を見つめながら考えたのは、「自分に流れている血は庶民の血だ」という事実についてだった。
複数の記者が彼女の旅先で接触し、懊悩する心を聞いている。朝日の佐伯、毎日の清水…。
10月26日美智子は日本に戻った。到着するまでの間に、
海外の美智子から「お話を辞退する」を内容とした手紙が正田英三郎・富美子夫妻に届いている。
両親から小泉を経て、手紙は明仁親王の読むところとなった。
「断られたよ」
力なく告白した皇太子を励ましたのは徳川義宣、井口道生、大久保忠恒ら級友だった。
自分でじかに当たれと迫り、明仁親王は東京・五反田の正田家と東宮仮御所を結ぶ電話に最後の望みをかけ、
下級生織田和雄の仲介で電話口に出た美智子と語り合う。
11月2日、正田家は箱根・富士屋ホテルで詰めの会議を開いた。反対の線は不動であった。
しかし、最後の判断は美智子に任せるという細い戸口だけは締め切らないで会議を終えた。
度重なる電話が東宮仮御所から池田山の正田家につながっている。
11月8日、決定的とも言える二人の会話がついに実を結ぶ。美智子妃は当時の感情をこう綴った。
「『家庭を持つまでは絶対死んではいけないと思った』と、お話下さったとき、
私はいままでの自分の見聞の中にも、読みました小説の中にも、このように寂しい言葉はなかったと思いました。
そしてその中を、二十五年間お歩みになっていらした東宮さまのおために、
力をつくして、温かい家庭をお作りしたいと思いました。
そしてそれは更に考えました時、決して東宮さまのおためなどと申し上げられるものではなく、
自分のためにもどうしてもそれが必要なのだということが、分かりました」(拙著『美智子さまの恋文』)
明仁親王には、ご自身の教育が臣下に任せられた時代、親がどんなものか想像するつかなかった。
かつて学習院高等科で官能描写のため発行禁止となった『チャタレー夫人の恋人』を回し読みし、
陛下もそのひとりだったということが公になったとき、私は父から強烈な叱責を受けたことがある。
最高検察庁検事として同書の発禁を決めた父が血相変えて鎌倉の自宅へ帰宅しても私はいなかった。
葉山御用邸にいることが突きとめられ、早朝呼び出された。
「必ず戻って報告しろよ」と明仁親王に言われていたため、
鎌倉のお仕置き場から再び御用邸にうなだれて入った。
明仁親王は来着されていた義宮正仁親王を人払いして「どうだった」と問われた。
「父は薪で私を殴るつもりだったようです。一夜明けて平静をとりもどしたので助かりました。
前に座らされ、こんこんと、涙を浮かべて話してくれました。おつき合いが慣れなれしすぎるとも警告されました」
私が語り終わると、明仁親王はなんとおっしゃったか。こう言われた。
「父親って、そういうものなのか」
この一言であった。
たった一人で生活されてきた明仁親王。その人のために温かい家庭をつくる。
それは自分のためにも必要なこと―。正田美智子の心のうちは、痛いほどわかる。
箱根の会議から十日後の11月12日、正田家から宮内庁に「承諾」の意向が伝わった。
母親富美子は「結局あのヒューマンな電話が結婚を決めてしまった」と語った。
小泉は直ちに動いた。皇室会議は11月27日召集となった。ときの首相は岸信介。
冒頭質問に対し宇佐美宮内庁長官が「正田さんは聖心で受洗されていません」と答え、二人の婚約が決まった。
キリスト教とはかかわりがないことを皇室会議が承認したのであった。