戦後初、天皇陛下の全国民への語りかけ

岩井克己
2011年4月1日
【ビデオ・メッセージ】
未曽有の原発事故も伴い戦後最悪の大災害となった東日本大震災を受けて、
天皇陛下は3月16日夕、国民に向けて異例のビデオ・メッセージを発した。
行事などで読み上げる「おことば」や恒例の誕生日や外国訪問前の会見で
記者団の質問に答えているのと違って、天皇の側から全国民に直に語りかけたのは戦後初めてだ。
1945年8月15日に昭和天皇がラジオで「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げた「玉音放送」以来である。
メッセージは、(1)大災害への心痛の念と状況悪化がくい止められることへの願い
(2)犠牲者への哀悼と困苦に耐える被災者への思い(3)救護・救援関係者への激励
(4)諸外国元首からの日本国民に対する心のこもったお見舞い電報の紹介
(5)海外も注目した「日本人の秩序ある対応」や国民の連帯といたわり合いで危機が
乗り越えられることへの願い――と続き、最後に「被災者のこれからの苦難の日々を、
私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切」
「被災した人々が決して希望を捨てることなく、
身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう」と締めくくった。
被災地で関係者の修羅場が続く最中の異例の放送には
「早過ぎないか」「震災報道を遮ることにならないか」との危惧(きぐ)もあるにもかかわらず、
あえて踏み切った。
敗戦の「玉音放送」は国民が初めて聞く天皇の肉声だったのに対し、
現天皇の映像と肉声は国民には日頃から慣れ親しんだものだ。
とはいえ、昭和天皇の玉音放送が4分余りだったのに対し、今回のメッセージは6分間近くに及んだ。
現天皇が今回の事態を「国難」と捉えたことは間違いないだろう。
また、東京電力福島第一原子力発電所で次々に水蒸気爆発が起きるなど、
事態はますます深刻化することが予想されており、
発信が遅れればタイミングを失してしまうとの側近らの状況判断もあったようだ。
ことさらに会見を開いて特定時間帯の報道を“占領”するのを避けてビデオ録画の形で配布し、
「緊急警報などがあれば遠慮なく中断するように」という条件をつけて、
扱いは報道機関の判断に委ねるという配慮もみせた。16日午後4時半、
がれきと化した被災地に立ちつくす人々、避難所、原発事故の現場に“平成の玉音放送”が流れた。

【宮中の対応】
大震災が発生した3月11日(金)、天皇陛下は皇后さまとともに午前中は勤労奉仕団に会釈し、
午後は皇居内の宮内庁車馬課の厩舎で伊勢神宮に神馬として贈る「笑智号」を視察した。
そして公務のため宮殿に向かい、到着したとたんに激しい揺れに遭遇した。
宮殿の南庭に一時避難したが、揺れが収まると、予定通り宮殿の執務室「表御座所」で執務を済ませた。
その後は災害のニュースに釘付けの日々という。
13日は日曜日だったが、午前も午後も御所で執務した。
激甚災害指定の政令への署名など災害関連の執務だった。
普段の表御座所ではなく御所で執務したのは、余震などの心配もさることながら、
電力消費量の大きい宮殿を原則として閉鎖するよう同庁に指示したからだ。
被災規模は刻々拡大し、原子力発電所の状況も悪化するにつれ、天皇の週明けからの公務は
軒並み中止または延期された。14日の宮内庁部課長との昼食、警察大学校警部任用官の
拝謁、外国大使の信任状捧呈、15日の皇后さまの美術展鑑賞……。26日から29日まで
予定されていた御料牧場での静養、4月28日の両陛下主催の春の園遊会も中止された。
代わりに震災関連の説明聴取などが次々と入れられている。
15日、原子力委員会の田中俊一前委員長代理の原発の安全対策についての説明。
同日、安藤隆春警察庁長官の被災状況と救助活動についての説明。
16日、東大大学院医学系研究科の宮川清教授による放射線被曝についての説明。
17日、日本赤十字社の近衛社長の現地の救護活動についての説明。
18日、海上保安庁の鈴木久泰長官から救助・救援活動についての説明……。
また皇后さま単独でも、23日に日本看護協会の久常節子会長から救護活動について、
24日には同協会の草間朋子副会長から放射線健康管理などについて、
28日にも東大医学部附属病院の武谷雄二院長から乳児と放射線被曝について話を聞いた。
さらに天皇陛下からは宮殿閉鎖以外にも矢継ぎ早に指示が出たという。
まず計画停電が始まると、東京23区は対象外だったにもかかわらず、
御所では第一グループに合わせて自主停電へ。
寒さに体調を気遣う側近には… (続きは有料記事)

http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/2011032900008.html