二千円札「平和」に値打ち

日本経済新聞(平成21年12月28日)文化面

二千円札「平和」に値打ち
◇沖縄のシンボル守礼門描く、流通促進へ活動9年◇
湖城 英知

もうすぐお正月。子供たちが楽しみにしているお年玉は用意されただろうか。
景気のよくないこのご時世、1人に5000円や10000円は厳しいけれど
1000円だとちょっと寂しい。
そう思う方は2000円はどうだろう。せっかく二千円札があるのだから、ぜひお年玉に使っていただきたいと思う。
二千円札は沖縄の平和のシンボル、守礼門が描かれた、平和希求の意味を持つ紙幣だ。
悲惨な戦争を体験し、そして唯一の被爆国である日本にとって、この紙幣の意味は非常に大きい。
それは日本に限った話ではないはずだ。
沖縄の経済界が中心となり設立された「二千円札流通促進委員会」の委員長を務める私は、
かれこれもう9年も普及活動を続けてきた。
 
支払いのため常に携帯
私は財布にいつも二千円札を4、5枚入れている。タクシー料金も、色々な会合の会費も二千円札で払う。
観光バスの中で、二千円札に込められた平和希求の思いについて一席ぶつこともある。
二千円札が発行された2000年、私は沖縄海邦銀行の頭取をしていた。
発行直後は物珍しさもあって使われていた二千円札だが、
2、3ヶ月たつとあまり流通しなくなってしまった。
これではいかんと東京から沖縄に戻る飛行機の中で思いついたのが「1・2・3運動」。
1(沖縄)県民が、2千円札を、3枚ずつ持とう、というものだ。
ポスターを作って県民に利用を呼びかけたのが、私の運動の始まりだ。
海外にも二千円札の意義を訴えた。旅行などで海外に行けばチップとして二千円札を渡す。
02年にはモスクワに行き、ノーベル平和賞を受賞したゴルバチョフ元ソ連大統領に二千円札を贈った。
「あなたは平和を希求した指導者だが、我が国には平和希求の紙幣がある」。
そう言うと、ゴルバチョフ氏はいたく感心していた。
海外へ移民した人の多い沖縄では、5、6年に一度、
世界中から沖縄に由来のある人々が集まる「世界のウチナーンチュ(方言で沖縄人のこと)大会」が開かれる。
フィリピンなどのアジア、米州、欧州など世界中から参加者が集まる大きな催しだ。
こうした機会にも参加した人に二千円札を見せたり、記念にプレゼントしたりしてきた。
彼らが帰って、二千円札の意義を世界中に広めてくれればと願っている。
このように少しずつ活動をしてきたが、一個人、一企業ではなかなかうまくいかない。
ほかにも同様の活動をしている方や企業がいた。
そこで日本銀行の那覇支店長の方と話し合って、
地元経済界が中心となったボランティア組織「二千円札流通促進委員会」を05年に設立。
以来、私は委員長を務めている。

11万人超を「大使」認定
委員会では、飲食店や旅館などに二千円札利用者向けのお得なサービスを用意するよう呼びかけてきた。
また、「二千円札大使」制度を創設。
二千円札を自ら積極的に利用したり、周囲に呼びかけたりする人を「大使」と認定し、認定証を発行している。
現在、大使は11万人以上に上る。
こうしたかいあってか、沖縄では多少は出回るようになってきた。
だが今も、全国的に見ればまったく普及していないのが実情だ。
先日、東京に行った際にタクシー代を二千円札で払おうとしたら「まだあるんですね」と言われた。
私が二千円札の普及に努めている背景にあるのが戦争体験だ。祖父が、沖縄戦で亡くなった。
終戦時、私は11歳だった。私はその後、留学生扱いだったが、東京の日本大学に入学した。
戦争で消失した守礼門も再建された。平和のおかげだと思った。
この平和を絶対に守らなければいけないと思った。
だからこそ、二千円札なのである。
お札は、大したコストもかけずに海外へ「平和国家日本」をアピールする好機だ。生かさない手はない。
特に戦争を経験した世代は、二千円札を普及させられなかったら後悔するのではないかと思う。

節目の10年、勝負の年
二千円札発行を決めた小渕恵三元首相は発行前に急死された。
小渕さんは若いころ沖縄で戦争犠牲者の遺骨拾いをしたという。
私は面識はないが、小渕さんが二千円札に込めた思いはよくわかるつもりだ。
数年前、娘で衆議院議員の優子さんと会い、二千円札の意義を語らせてもらった。彼女も大使になってくれた。
二千円札も、来年で発行から10年を迎える。私の運動も10年になる。決して遊び半分でやってきたわけではない。
10年運動してダメなら、もうやめようかとも思う。政府に直訴してみようかとも考えている。
あるかないかわからないような状況のままなら、二千円札自体やめてしまった方がいい。
来年はそのくらいの覚悟で、節目の年の普及活動に取り組むつもりだ。
(こじょう・ひでとも=沖縄海邦銀行前頭取)