沖縄の海で散華していく若者たち

沖縄の海で散華していく若者たち 米軍を畏怖させた特攻隊
2014.7.13 16:59
鹿児島の薩摩半島南端にある開聞岳は標高900メートルあまりだが、
東シナ海から直接突き上がったような山容には思わず息をのむ。
昭和20(1945)年4月から6月、20キロほど北北西、
知覧(現南九州市)の陸軍基地を飛び立った特別攻撃(特攻)機はまず、
この美しい山を目指した。翼を振って別れを告げると、ほぼまっすぐに南下する。
500キロ余り飛べば米軍の攻撃にさらされている沖縄の海だ。
決して帰還することのない自爆攻撃への旅である。
爆弾を抱えたまま敵の艦船や基地に体当たりする特攻が日本軍に登場したのは
前年、昭和19年10月の比島沖海戦だった。
海軍第一航空艦隊司令長官に就任した大西瀧治郎中将は10月19日、
フィリピン・マニラの北、マバラカットの第二〇一航空隊の本部を訪ね、
幕僚たちを前にひとつの提案を行った。
マッカーサー大将の米軍がレイテ沖に姿を現し翌日上陸を始める。
これに対し日本軍は栗田健男中将率いる「栗田艦隊」がレイテ湾に突入、決戦を挑もうという時期である。
大西は突入を成功させるためには、近海に展開している米機動部隊の空母の甲板を、
1週間ぐらいは使えなくするまでに攻撃する必要があると力説した。
だが二〇一航空隊でもはや30機しかない状況で、
250キロの爆弾を積んだ零戦(零式艦上戦闘機)を体当たりさせるしかないというのだった。
幕僚らは賛同、隊内から志願した24人により20日、「神風(しんぷう)特別攻撃隊」が組織され、
21日から25日にかけレイテ湾などの敵艦を攻撃、散華(さんげ)していった。
第一航空艦隊参謀だった猪口力平大佐らが戦後すぐに書き残した神風特攻誕生の事情である。
ただそれは大西の一存ではなく「トップとの黙契の下で行われたとみる方が自然」
(産経新聞社編『あの戦争』)との見方も強い。
フィリピンに出発前、大西から特攻の必要性を力説された及川古志郎海軍軍令部総長が
「決して命令して下さるな」と非強制の念を押したとの記録があるからだ。
そしてこの「異常なる攻撃法」は「航空戦術の一つの型として定石化」
(伊藤正徳『連合艦隊の最後』)していく。
最も「威力」を発揮したのは20年4月に本格化した沖縄戦だった。
沖縄を日本本土爆撃の基地にしたい米軍は4月1日、
沖縄本島中部の嘉手納・北谷海岸に艦砲射撃を行って上陸を開始した。
これに対し防衛にあたる陸軍第三十二軍(牛島満中将)は少しでも米軍を引きつけようと、
上陸は許しながらも島民とともに持久戦に持ち込み、3カ月近くも攻撃に耐えた。
この戦いを空から支援したのが特攻だった。
知覧をはじめ鹿屋、加世田など南九州各地の基地を飛び立つ特攻機は、
沖縄付近で次々と米艦に体当たり攻撃しては散華していった。
『連合艦隊の最後』によればレイテ以来、神風特攻による戦死者は2198人、航空機は1192機に上るという。
その「戦果」は、特攻隊員からの報告は届かないのだから日本側は正確な数はつかめない。
ただ米側の報告によれば、沖縄戦だけで空母から上陸用舟艇まで各艦250隻が大部分特攻攻撃により損害を受け、
駆逐艦以下の34隻が沈没した。
だが「戦果」は他にもあった。『連合艦隊の最後』が書くように「米軍に恐怖の念を与えた痛撃」だった。
戦後、米国の航空隊司令が横須賀に駐屯する米軍搭乗員たちに神風特攻機をどう考えるか聞いたところ
10人中7人までが「敬意を払う」と答えたという。
国が滅びようとする瀬戸際に一身を投げ出して最後まで戦うという日本人の勇気に、
米国人は心から畏怖の念を抱いた。
このことは戦後日本に対し必要以上の苛酷な占領政策を避けたことと無縁ではない。
日本人への畏れが日本を守る「抑止力」の役目を担ったことも事実だろう。
その意味で、特攻隊員たちの散華は決して無駄な戦いでも死でもなかったとして、
語り継いでいかねばならない。(皿木喜久)


【用語解説】戦艦「大和」の「特攻」
米軍が沖縄上陸を開始したばかりの昭和20年4月7日午後、
鹿児島県の薩摩半島・坊ノ岬西南西約200キロの海上で、日本海軍が誇る戦艦「大和」が沈没した。
「大和」は沖縄決戦を叫ぶ海軍の要望を担い、一大決戦を行うため沖縄に「特攻」に向かう途中だった。
前日の6日、護衛の駆逐艦などを率いて山口県・徳山港を出撃、米軍機に気付かれないよう、
大隅半島の佐多岬沖で西へ転進、蛇行して沖縄を目指したが発見され、
猛烈な空爆により、撃沈されたのだ。国民に大きな衝撃を与えたことは言うまでもない。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140713/art14071316590004-n1.htm