誰もわかっていない文民統制

WiLL2009年2月号
誰もわかっていない文民統制 (一部抜粋)
櫻井よしこ

福田康夫前首相は、首相就任後間もない07年11月、
自衛隊高級幹部会同に出席しながら、自衛隊の栄誉礼・儀仗を辞退した。
ちなみに、同会同は、全国の幹部自衛官が最高指揮官の訓示を聞き、それを各部隊に伝えるための恒例行事だ。
首相辞任を発表した直後の(今年)9月3日には、同会同に、代理も立てずに欠席した。
繰り返すが、会同には、全国の自衛隊幹部が集まる。
最高指揮官としての首相の訓示を聞き、日本の領土領海、国民の生命を守るための心得を再確認する場である。
究極の状況では、自衛官は死をも覚悟して任務を遂行する。
そのような隊員を代表する幹部の会同に、国軍の最高指揮官が故なく欠席することは許されないのだ。
にも拘らず代理も立てずに欠席したのは常軌を逸しており、首相自ら文民統制を放棄していると言わざるを得ない。
自衛隊に好き勝手して下さいと言うに等しい。
これこそが暴挙だと、あの時、政治家やメディアはどれだけの熱意で警告しただろうか。
福田前首相の責任放棄を批判することなく、田母神論文に関して文民統制を錦の御旗として批判するしたら、
その判断基準は明らかに二重構造だ。田母神氏が、個人の歴史観を発表したことと、
文民統制は、本来、何の関係もないのである。
田母神氏への非難は、判断基準の二重構造に加えて、事実誤認によっても行われていた。
一例が11月8日の『朝日』の天声人語である。
天声人語子は、「軍隊を文民政治家の指揮下に置く仕組みは、民主国家の原則」として、文民統制の重要性を指摘。
東京裁判で文官としてただひとり、極刑に処せられた元首相の広田弘毅について、「軍に抗しきれなかったとされる
宰相の悲運は、文民統制なき時代の暗部を伝えてもいる」と書いた。
『朝日』は田母神論文を「実証的データの乏しい」ひどい内容だと非難したが、自らの実証的データの乏しさ、
というより、明確な誤りは気にしないのだろうか。「軍に抗しきれなかったとされる宰相」広田の悲運というが、
支那事変当時、外相広田は、中国に高圧的姿勢をとり、陸軍大臣と歩調を合わせて事変拡大に積極的だった。
「軍に抗しきれなかった」と言えるわけではないだろう。
このような、文民統制という言葉の間違った使い方とその乱用こそが、日本の進路を誤る原因となる。


1920~30年代の中国研究における米国の第一人者の一人で、駐北京公使を務めたジョン・マクマリーのメモランダム、
『平和はいかに失われたか』(北岡伸一監訳、原書房)が一例だ。
同メモランダムは日米開戦時のグルー駐日大使や、戦略論の大家であるジョージ・ケナンら、
米国のアジア問題専門家らに影響を及ぼし続けてきた。
同メモランダムでは20~30年代の日中関係はどのように分析されていたか。
21年のワシントン会議では、太平洋地域の緊張緩和のための枠組みが作られた。このワシントン体制は、
中国の主権保全のために、各国はこれ以上の特権や地位を要求せず、当面は互いに協調し、いずれ中国が
健全な国家機能を回復する段階になるまでは現状を維持するという趣旨で、
中国にとっては非常にメリットの多い取り決めだった。
だからこそ、中国も条約遵守義務を果たしたうえで、
不平等条約体制撤廃に向けた努力をしていくことが求められていた。
ところが、中国は義務を一方的に破棄し、関税実施を強行した。
その措置は諸国の中でもとりわけ日本に深刻な打撃をもたらした。
マクマリーは、「日本陸軍の現役兵士官達と『浪人』といわれる愛国主義の
権化のようなあの無責任な連中」の存在を批判する一方で、
日本政府が31年の満州事変までは、ワシントン体制の
「協約文書ならびにその精神を守ることに極めて忠実であった」、
「中国問題に最も深く関わっていた人々は、
日本政府は申し分なく誠実に約束を守っていると考えた」ことを強調している。
満州事変を起こした日本を「不快」と断じながらも、マクマリーは、
「日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、
その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、(満州事変は)事実上中国が『自ら求めた』災いだと、
我々は解釈しなければならない」と分析したのである。
日本の戦争が侵略戦争だったと主張し、その事実“事実”を疑ったり、
否定したりすること自体が許されないと主張する人々は、
当時の国際社会の視点を、当時の資料に立ち戻って、複眼的に見る必要がある。
侵略として非難される満州事変についても同様である。国際連盟が派遣したリットン調査団は次のように報告した。
「問題は極度に複雑だから、いっさいの事実とその歴史的背景について
十分な知識をもったものだけがこの問題に関して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ。
この紛争は、一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽さずに、
他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。
また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない。
なぜなら、満州においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ」
日本の侵略と簡単に断ずることは出来ないと、リットン報告書は言っているのである。

そして村山談話である。果たして、村山談話は、それに反したからといって更迭されるほどのものなのか。
村山富市氏は1994年6月に自社さ連立政権で首相となった。翌95年は戦後50年目の年だ。
社会党委員長を首相として迎え入れる世紀の妥協をした自民党は、
政権政党であり続けるために、社会党的価値観の受容に走った。
そのひとつが戦後50年の節目に出された“国会における謝罪決議”だった。
この件については『諸君!』2005年7月号に西村眞悟氏が次のように書いた。
自社さ政権の下で国会における謝罪決議が構想され始めたが、反対の声は超党派で強まり、
決議案が上程されても否決されることが明白になった。
すると6月9日の金曜日、「本日は本会議なし、各議員は選挙区に帰られたし」
との通知が衆議院内にまわされ、反対派の議員らは選挙区に戻った。
その隙を狙ったかのように、土井たか子衆議院議長が
金曜日の午後8時近くの遅い時間に本会議開会のベルを押した。
結果、265人の議員が欠席、議員総数509人の半数以下の230人の賛成で決議案は可決。
だが、参議院は採決を見送った。
これでは折角の決議の権威もない。評価もされない。
そこで首相らは次に総理大臣としての談話を出す道を選んだ。
1995年8月15日、村山氏は学者や谷野作太郎内閣外政審議室長ら
少数の官邸スタッフらと練り上げた談話を閣議に持ち込み、
古川貞二郎官房副長官が読み上げた。
この間の経緯は、「閣議室は水を打ったように静まり返った」と報じられた。
事前説明なしで突然出された談話に、閣僚は誰ひとり反論出来ていない。
自民党にとってこのことこそが痛恨の一事であろう。
談話を出すに当って首相は記者会見に臨んだ。そして、「談話で日本が過去に国策を誤ったとして謝罪したが、
具体的にどの政策をどのように誤ったと認識しているのか」と問われ、村山首相は絶句した。
国会決議の卑劣な出自。自らの談話も具体的に説明できない虚ろな首相。
村山氏の政治家としての、否、それ以前に、人間としての資質は興醒めである。
社会党時代、長きにわたって氏は自衛隊を憲法違反だと非難した。
首相になった途端に合憲だと主張を変え、
自衛隊員に国家防衛の崇高な任務に励めと訓話した。
しかし、首相を辞して社民党に戻ったら、またもや自衛隊違憲論に戻ったのだ。
国家の重要事に関して二転三転した節操なき人物の談話を、私たちはいつまで金科玉条として掲げ続けるのか。
問うべきは内容の曖昧なまま横行する文民統制と、村山談話のいかがわしさである。