天皇ヒロヒト

レナード・モズレー (イギリス・伝記小説家)
天皇ヒロヒト 高田市太郎訳 毎日新聞社 1966

天皇裕仁にとって1936年の2.26事件は一つだけ良い結果をもたらした。
それは皇弟・秩父宮との和解であった。
二人の間には幼少期から一種の緊張があった。
というのは、皮肉にも皇弟のほうが人格形成期に有利な条件下で育てられたからである。
天皇裕仁は皇位継承者として、短い欧州旅行を除いては、生涯ずっとしきたりのワクにはめられてきた。
しかし秩父宮は海外留学を許され、自ら妃を選ぶことを許され、
時代の発展について心に思ったことを語ることを許されていたから、
天皇裕仁が時にこうした皇弟をうらやむだけでなく、反感さえ抱かれたことを否定してもムダである。
秩父宮も妃殿下や少数の側近に対してだけではあったが、天皇のことを“鈍行馬車”などといったりした。
1930年代初期のクーデターのうち少なくとも2度は、天皇裕仁と秩父宮とを入れ替えようとするものであった。
秩父宮は事件と何ら関係はなかったが、それでも秩父宮が天皇の競争者の役をになわされた事になり、
天皇ご自身にとっても、そうではないとは思えなかった。
とにかく天皇も秩父宮について宮内省のある筋に次のようにもらされたことがある。
「秩父宮は私にない帝王の性質をいろいろそなえておる。あれは生まれながらの指導者だ。
自分の感じたことをためらわずに表す。帝王の仕事はあれには易しいことだ。
自分が大臣や国民に何を求めているか、あれは疑問に思うことがない」
この競争関係を感じ取った青年将校は秩父宮を戴くことを決めていた。権力を握り、
計画通り過激なファシスト政権を樹立した暁には秩父宮を表に立てて陰から操ろうというわけで、
秩父宮の同調は疑いなしと勝手に決め込んでいた。
ところが2.26事件で秩父宮が宮城にかけつけ、まごうことなき忠誠を示されたため彼らは面食らったに違いない。
そのさい秩父宮は妃殿下をも皇后のもとへおもむかしめられた。
事件後、秩父宮は自分が天皇支持者であることを天皇と国民に示すことを心がけられた。


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リチャード・ニクソン「指導者とは」
「もっと大きい打撃は日本人を内から支えてきた神州不滅の信念の崩壊だった。
彼らが崇敬する天皇裕仁は、日本の開国以来はじめて武人たちに銃を捨てて敗者の屈辱の中に生きよ、と命じた。
それのみか、自分は一個の人間であると宣言し、何世紀にもわたって日本人の価値観を
支えてきた基盤を、みずから放棄した。
軍事的敗北が一国の民をかほど精神的な空白に追い込んだ例は、史上かつてなかった。
マッカーサーは日本人に民主主義を実感させ、そのために民主主義を愛させた英雄だった。
吉田茂と協力しながら彼は日本人に自由を愛させ、それゆえに自由を守る気持ちをおこさせた」