昭和22年皇籍離脱

昭和22年10月14日
天皇家と秩父・高松・三笠の直宮家を除く傍系11宮家がGHQの方針によって皇籍を離脱。

伊藤哲夫氏(皇室典範改悪阻止!「草莽崛起国民大会」平成17.11.18のスピーチ)
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そこで残念ながら十一宮家の方々が相談されて、まさにこれは占領軍の意図だったわけですが、
自ら皇籍離脱を希望するという形で皇籍を離れていかれました。
その時に、最後の最後まで抵抗されたのが昭和天皇でございました。
最後のお別れ会で昭和天皇は、
「残念ながら事ここに及んでしまった。しかし私の気持ちは変わらない。昔のままの付き合いをしていきましょう」
とおっしゃられたのであります。
そしてその時、加藤進(かとうすすむ)さんという立派な宮内庁次官の方がおられて、
恐らくこれは昭和天皇のご意向を受けての言葉だと思うのですが、
皇籍離脱される十一宮家の方々に対して、加藤さんはこうおっしゃった。
「このような形になったけれども、しかし万が一あなた方に皇位継承という話が出ないということはないんだ。
出る可能性は万が一のケースとして有り得るんだ。
だから、くれぐれも身をお慎みになってこれからの生活をしていって頂きたい」
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文春オンライン
2017年10月13日
ご存知ですか? 10月13日は初の皇室会議が開かれ、11宮家51人の皇籍離脱が決まった日です
旧皇族たちのその後

いまから70年前のきょう、1947(昭和22)年10月13日、新憲法下の皇室典範第5章に従い、
初の皇室会議(議長は片山哲首相=当時)が開かれた。
この会議で、皇族のうち、天皇と直接の血縁関係にある直宮(じきみや)を除く11宮家51人の皇籍離脱が決定。
翌日には51人の皇族が一般市民となった。
皇籍を離脱した11宮家は、伏見宮・東伏見宮・山階宮・久邇宮・北白川宮・閑院宮・賀陽宮・
東久邇宮・梨本宮・朝香宮・竹田宮家。
このころ占領政策を推し進めていた連合国総司令部(GHQ)は、すでに敗戦直後より皇室財産への課税を命じていた。
各宮家では財産総額の大半が課税対象とされたため、不動産などの多くを手放さざるをえなかった。
梨本宮家は伊豆山の別邸を、「乗っ取り屋」と呼ばれた実業家の横井英樹に売却、
これについて梨本宮守正王妃の伊都子は、「あんな三四歳の青二才、しかしこっちも税金がたすかるから……」と
1946年11月25日付の日記につづっている(『昭和 二万日の全記録 第8巻』講談社)。
戦後まもなく憲政史上唯一の皇族首相となった東久邇宮稔彦王も、皇籍離脱後は自活する必要から、
新宿のマーケットに乾物店と美術骨董店を出し、米菓子の製造機販売にも手を出したが、いずれもうまくいかなかった。
このほか、皇籍離脱にあたり各人に支給された一時金を狙う者もおり、
事業を持ちかけられ、食い荒らされる旧皇族も少なくなかったという(本田靖春『現代家系論』文春学藝ライブラリー)。
このように旧皇族の多くが社会に適応するべく四苦八苦するなか、
スポーツ振興に取り組んだ竹田恒徳(つねよし)は出色の存在であった。
竹田は、日本体育協会会長代理、日本オリンピック委員会(JOC)委員長として
東京オリンピック(1964年)の招致に尽力し、
また札幌冬季オリンピック(1972年)でも組織委員会副会長として、その成功に大きく貢献。
このほかにも、日本馬術連盟会長、日本スケート連盟会長、
国際オリンピック委員会(IOC)委員など数々の要職を歴任した。
現在のJOC会長・竹田恆和は恒徳の三男で、宮家の皇籍離脱の翌月に生まれている。

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