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昭和天皇実録、両陛下に奉呈 24年5カ月かけ編纂、来年以降5年かけ公刊
2014.8.21 14:35
昭和天皇の87年を超える生涯を記録した「昭和天皇実録」が完成し、
編纂(へんさん)作業を進めてきた宮内庁は21日、天皇、皇后両陛下に奉呈(献上)した。
宮内庁は、奉呈した「正本」と同内容の「副本」は情報公開請求の対象とし、9月中旬に公表する予定。
来年以降5年かけて順次公刊する。一部を消す「黒塗り」はしない。
24年5カ月かけて編纂された実録は、戦前から戦中、戦後の激動期を歩んだ昭和天皇の初の包括的な公式記録。
昭和史研究の貴重な基礎史料となる。
両陛下への奉呈は同日午後、皇居・御所で行われ、
宮内庁の風岡典之長官が実録完成までの経緯や奉呈本の概要を説明した。
奉呈本はB5版の和製本で、付属の「目次・凡例」1冊を含め全61冊で、計約1万2千ページ。
分量は、天皇の実録(紀)としてはこれまで最長だった明治天皇紀の約1・5倍で、
初めて口語体で叙述している。
昭和天皇実録は、昭和天皇の誕生(明治34年)から崩御(昭和64年)まで87年8カ月余りの事跡を
客観的資料に基づき、時系列に記す「編年体」の形式でまとめられた。
皇室全般や政治、社会、文化、外交なども昭和天皇との関わりを中心に記述。終戦の「ご聖断」に至る経緯など、
戦前から戦後の占領期にかけての新史料の有無が注目される。
宮内庁は基となる資料として、未公開のものを含めて約3千件を収集。側近の日誌などのほか、
未公開の個人文書や元侍従ら約50人からの聞き取りも参考にした。
大正天皇実録は平成14年から23年にかけて4回に分けて公開されたが、
「個人情報」を理由に黒塗りされた部分が多く、公開の在り方が問われた。これを踏まえ、
今回の公開では黒塗りはしないが、編纂にあたっては、
昭和天皇の細かな病歴や学業成績などには触れていないという。
昭和天皇実録は2年度から16年計画で編纂を開始。神代を除き歴代天皇として最長寿、
最長在位だったうえに、新資料が見つかったこともあり、2回で計8年間、計画が延長された。
編纂に要した費用は人件費を除き約2億円。公刊本は計19冊(索引1冊を含む)にまとめられ、
来年3月にも、明治34~大正9年分の2冊が刊行される予定。
sankei.jp.msn.com/life/news/140821/imp14082114350003-n1.htm

「昭和天皇実録」を両陛下に奉呈
8月21日 14時55分
宮内庁が編さんを進めてきた昭和天皇の活動記録「昭和天皇実録」が、24年余りかけて完成し、
21日天皇皇后両陛下に奉呈されました。
内容は、来月中頃に公開される予定です。
天皇実録は、歴代の天皇の活動を後世に伝えるため、天皇の日々の動静などを客観的な資料を基に、
日誌のような形で年代順に記した記録集で、宮内庁は、平成2年から24年5か月かけて、
「昭和天皇実録」を完成させました。
21日は、午後2時に両陛下のお住まいの御所で、宮内庁の風岡長官から、合わせて61巻、
1万2000ページ余りからなる正本が両陛下に奉呈されました。
この際、天皇陛下は、実録の完成をうれしく思う気持ちと共に、
作業に携わった関係者をねぎらう気持ちを示されたということです。
「昭和天皇実録」は、宮内庁の公文書や側近の日誌など、およそ3000件に上る資料を基に編さんされ、
天皇の在位期間の長さや激動の昭和の時代を反映して、歴代の天皇実録の中で最も長編になりました。
当初、平成17年度に終わる予定だった編さん作業は、新たな資料の発見などで2度にわたって延長され、
人件費を除いても2億3000万円余りの費用がかかったということです。
また、すべての内容の公開や書籍としての出版を前提に作られた初めての天皇実録で、
一部を除いて口語体で記述されました。
「昭和天皇実録」は、来月中頃、内容が公開され、今年度末から5年をかけて順次出版される予定です。
昭和天皇の初めての公式記録集で、昭和史研究の基礎資料としての価値も高く、
戦前から戦後の占領期を中心に、新たな事実や資料が示されるかどうかが注目されます。

「天皇実録」とは
「天皇実録」は、歴代の天皇の活動を後世に伝えるため、天皇の日々の動静や、
関わりのある政治や社会情勢について、客観的な資料を基に日誌のような形で年代順に記した記録集です。
「天皇紀」と呼ばれることもあり、これまでに初代の神武天皇から大正天皇までの
すべての天皇の実録が作られていました。
宮内庁の公文書をはじめ、側近が記した日誌や、皇族や歴代の総理大臣などの日記、
それに外交や防衛関連の文書など膨大な資料を集めたうえで、
関係者からも可能な限り聞き取りを行って編さんされます。
はじまりは、古代の朝廷が中国の例にならって編さんした歴史書で、
奈良時代に成立した「日本書紀」から平安時代前期の「日本三代実録」まで6つが作られました。
その後、長く途絶えましたが、明治維新を経て、天皇の生涯の記録を残すため再び編さんされるようになり、
明治時代に「孝明天皇紀」が、大正から昭和にかけて「明治天皇紀」が、
昭和の初期に「大正天皇実録」が作られ、「孝明天皇紀」と「明治天皇紀」は、後に書籍として出版されました。
また、大正から昭和初期にかけて、江戸時代に至るまでのすべての天皇をまとめた実録も作られました。

公開と出版前提に編さん
「昭和天皇実録」は、すべての内容の公開や書籍としての出版を前提に編さんされた初めての天皇実録です。
「孝明天皇紀」と「明治天皇紀」は、いずれも完成後に公開されず、戦後になって書籍として出版されました。
「大正天皇実録」も長らく公開されず、平成13年の情報公開法の施行を受けて段階的に公開されましたが、
宮内庁が個人情報の保護などを理由に、一部を黒く塗りつぶす措置を取ったことから、
研究者などから「歴史資料としての価値が損なわれた」などと批判の声が上がりました。
宮内庁は、この時の公開の在り方の反省を踏まえ、「昭和天皇実録」については、
すべての内容の公開を前提に、学業成績や病気の詳細など実録にふさわしくないと判断した部分を除いたうえで
編さんを進め、両陛下への奉呈に続き、書籍として出版する方針を明らかにしていました。

激動の時代背景に歴代再長編
87歳で生涯を終えた昭和天皇。
長寿で、在位期間も62年余りと長かったことに加え、戦前から戦後という激動の時代背景もあって、
「昭和天皇実録」は歴代の実録の中で最も長編になりました。
本文は1万2000ページ余りに及び、これまでで最も長かった「明治天皇紀」のおよそ1.5倍の分量です。
これに目次などを加えて、合わせて61巻にまとめられていて、
本を立てて並べても1.8メートルの幅を取ります。
「昭和天皇実録」の編さんに当たって、宮内庁は、公文書や側近の日誌などに加え、
全国47の都道府県や海外にも職員を派遣して、およそ3000件に上る資料を集めるとともに
当時の幹部や側近など50人近くから聞き取りを行いました。
当初は、平成17年度に終わる予定だった編さん作業は、新たな資料の発見や、
事実確認に時間がかかったこともあり、2度にわたって延長され、
編さんに要した期間も24年5か月と明治以降に作られた天皇実録では最も長くなりました。

専門家「歴史振り返る手がかりに」
近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、昭和天皇実録の意義について、
「昭和天皇の生涯が初めて日にちごとに詳細に分かる資料で、
昭和天皇の全体像や歴史的な位置づけを考えるうえでの基本的な資料の1つになると期待される」と話しました。
そして、終戦を決めた御前会議やGHQ=連合国軍総司令部のマッカーサー最高司令官との会見など、
昭和天皇の具体的な発言内容を巡って、専門家の間で意見が異なったり
確実な資料が見つかっていなかったりする事柄が、新たな資料などによってどの程度解明されるかが
注目されるとしています。
そのうえで古川教授は、「昭和天皇は、旧憲法下と新憲法下の両方の時代にまたがって在位し、
さまざまな評価を受けてきた人で、実像が今まで以上に分かるということは、
私たちの歴史を振り返るうえで、いろんな手がかりを与えてくれるのではないか」と述べました。

昭和天皇とは
昭和天皇は、確かな記録の残る歴代の天皇では最も長寿で、在位期間も62年余りに及び、
戦前から戦後にかけての激動の時代を生きました。
昭和天皇は、明治34年4月29日、大正天皇の長男として誕生し、裕仁と命名されました。
天皇家の慣習に従って生後2か月余りで親元を離れ、厳しく育てられました。
明治天皇が亡くなると11歳で皇太子となり、学習院初等科を卒業後は新しく設けられた教育機関で、
皇位継承者としての教育を受けました。
その仕上げとして、19歳の春から半年かけてイギリスやフランスなどヨーロッパ諸国を歴訪しました。
そこで、第一次世界大戦の爪痕を目にする一方で、ゴルフやお忍びのパリ見物なども楽しんだ昭和天皇。
後に、生涯で最も印象深かったことに挙げ、「あの旅行で本当の自由と楽しさを味わった」と語りました。
帰国後、病気の父・大正天皇を支える摂政に就任し、
大正天皇が亡くなると25歳で第124代の天皇に即位しました。
日本は、昭和6年に起きた満州事変をきっかけに国際的に孤立する道をたどり、
軍国主義の色合いも強まっていきます。
日中戦争に続いて、昭和16年には太平洋戦争が始まり、昭和天皇は大元帥として陸海軍を統帥しました。
戦局が悪化するなか、軍部の責任者などからもたらされる情報は、日本の不利な戦況を十分に伝えるものではなく、
昭和天皇は長引く戦争に苦悩を深めたと言います。
アメリカ軍の本土爆撃が激しさを増すなか、沖縄での地上戦や、広島、長崎への原爆投下などを経て、
昭和天皇も出席した御前会議で日本の降伏が決まりました。
昭和天皇は、終戦の詔書をみずから音読して録音し、8月15日に、ラジオを通じた「玉音放送」で
国民に伝えました。
連合国の間から天皇の戦争責任を追及する声も挙がるなか、
昭和天皇はGHQ=連合国軍総司令部のマッカーサー最高司令官との会見に臨みました。
そして、翌年の元日には、みずから神話と伝説に基づく神であることを否定する、
いわゆる「人間宣言」を行いました。
この翌月、復興に向かう人々を励ますため、全国を回る旅を始めます。
戦後の民主化が進められるなか、新しい憲法で、絶対的な君主から、国の象徴へと転じた昭和天皇。
憲法に定められた国事行為を内閣の助言と承認に基づいて行い、
東京オリンピックや国体の開会式などにも臨みました。
ヨーロッパ諸国やアメリカも親善訪問し、アメリカからの帰国後、
テレビカメラを前にした初めての記者会見に臨みました。
この中で、在位中の最もつらく悲しかった思い出を尋ねられ、「言うまでもなく第二次大戦であると思います。
こういう悲しむべきことが今後も起こらないことを祈っています」と話しました。
昭和62年に腸の手術を受け、一時は公務に復帰しましたが、再び体調を崩し、
昭和64年1月7日、波乱に満ちた87年の生涯を終えました。
www3.nhk.or.jp/news/html/20140821/k10013970101000.html

昭和天皇実録公開 激動の時代歩んだ生涯詳細に
9月9日 5時13分
宮内庁が24年余りかけて編さんした昭和天皇の活動記録「昭和天皇実録」が9日公開されました。
新たに見つかった日記など膨大な資料に基づく初めての公式記録集で、
戦前から戦後の激動の時代を歩んだ昭和天皇の生涯が詳細に描かれています。
昭和天皇実録は昭和天皇の活動を後世に伝えるため、宮内庁が公文書や側近の日記など
3000件余りの資料を基に24年5か月かけて編さんした61巻、
1万2000ページ余りにおよぶ記録集で、9日、その内容が公開されました。
NHKが多くの専門家の協力を得て分析した結果、日本が戦争へと向かう中で外交による解決を模索した
昭和天皇の姿や、戦後の新憲法の下で象徴となってからも外交や安全保障に強い関心を示し、
政府関係者などからたびたび説明を受けていた様子が浮き彫りになりました。
また、昭和46年に実現したアメリカ大統領との初めての会見の内容が明かされ、
昭和天皇が沖縄返還などに対する感謝のことばを述べていたことが分かるなど、
これまで知られていなかった昭和天皇の発言も記されています。
さらに、終戦の前年まで8年近く侍従長を務めた百武三郎の日記など、
新たに見つかったおよそ40件の資料のほか、
昭和天皇が運動会の感想をつづった作文や陸軍の演習を初めて見た日の日記など
幼少期の未公開資料も引用されていて、ふだんの生活ぶりや素顔をかいま見ることができます。
公開にあたっては、開戦や終戦を決めた御前会議やGHQ=連合国軍総司令部のマッカーサー元帥との会見など、
昭和史の重要局面での昭和天皇の発言内容などが注目されましたが、
これまでの研究の内容が大きく見直されるような記述はありませんでした。
近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、「教科書が変わるような新事実はないが、
実録によって、これまでの研究成果が改めて裏付けられた。昭和天皇の日々の行動が詳しく分かる
年表のようなもので、今後研究を深めるうえでの手がかりとなるだろう」と話しています。
昭和天皇実録は情報公開請求に応じて近く、一般にも公開され、来年の春から5年をかけて順次、
書籍として出版される予定です。

「百武三郎日記」とは
今回の実録の編さんにあたっては昭和史を知るうえで重要な資料も見つかりました。
研究者の間で特に注目されたのは「百武三郎日記」です。
百武三郎は元海軍大将で、日中戦争開戦の前年昭和11年の秋から終戦の前年昭和19年の夏まで
8年近くにわたって侍従長を務めました。
関係者によりますと、この間1日1ページ年間1冊のペースでつけていた日記に加え、
日々の行動を書き留めていた手帳やメモなどが残されていて、
遺族の申し出によってこうした資料の存在が分かったということです。
当時、宮内庁職員としてこの日記の調査に当たった岩壁義光さんは「ほかの資料では分からない事実や、
側近として耳にした昭和天皇の肉声と思われることばが書かれていて、
大変貴重な資料だということが見た瞬間に分かった」と話しています。
昭和天皇実録では、この日記や手帳は百武侍従長の在任期間のおよそ80%に当たる2233日にわたって
出典として挙げられています。
このうち、満州事変のあと軍部が中国への進出を強め緊張が高まっていた昭和12年1月25日、
内閣の総辞職を受けて陸軍大将の宇垣一成に組閣を命じた際の記述には、昭和天皇が宇垣に対して
「侵略的行動との誤解を生じないようにして東洋平和に努力するように」などと述べたと書かれています。
また、昭和14年には、昭和天皇が「歴史研究者の皇室に関して何も批評しない講義は
聴講しても何の役にも立たない」などと当時の社会風潮を反映した学問について批判的な意見を
率直に述べる様子が記されています。
こうした発言は今回、初めて明らかになったもので百武侍従長の日記などが元になっているとみられます。
戦前から戦中の宮中と政治の関係に詳しい明治大学の茶谷誠一兼任講師は
「この時期は天皇や側近の動きを知るうえで核となる人物の日記などがほとんど残されていない
資料の空白期なので、百武の日記が残っていたこと自体が大きなニュースだ。
内容が公開されれば宮中の動きだけでなく日中戦争期の政治外交史の新事実が出てくる可能性が高い」
と話しています。

重要局面 注目の記述は
昭和天皇実録の公開にあたっては、先の大戦の重要局面での昭和天皇の発言内容や
戦争責任の認識などについての記述が注目されていました。
このうち太平洋戦争を巡っては、開戦の方針が事実上決まった昭和16年9月6日の御前会議の前日、
昭和天皇が戦争準備よりも外交による解決を優先すべきだとして閣議決定の修正を求めたことが記されています。
そして、翌日の御前会議でも、昭和天皇が明治天皇が平和を祈って詠んだ和歌を読み上げ、
陸海軍の作戦責任者に考えを問いただしたことが描かれていますが、
これまで知られていないような発言は記されませんでした。
終戦の直後から昭和26年まで11回にわたって行われたGHQ=連合国軍総司令部のマッカーサー元帥との
会見については、すでに公開されている1回目の会見の記録の会話部分が全文引用され、
昭和天皇の「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考えでありましたが、
戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とする所であります」という発言などが記されています。
戦争の責任を認めたとされる「すべての決定と行動に対する全責任を負う者として、
私自身を連合国の裁決に委ねる」という発言も、マッカーサーの回顧録などに記載されていることを
紹介するというかたちで記されました。
一方、2回目以降については会見が行われたことや会話の要旨などがこれまで明らかになっている範囲で
書かれるにとどまりました。
また、昭和天皇が先の大戦に関する出来事を回想し、側近が書き取ったいわゆる「拝聴録」については、
どのように記載されるかが注目されていました。
宮内庁によりますと拝聴録そのものは見つからなかったということですが、
終戦直後の昭和21年から晩年の昭和60年まで断続的に拝聴が行われていたことが記されました。
これにより、拝聴の時期やそのときのテーマなど全体像が初めて明らかになりました。

2・26事件当日の動静も明らかに
昭和天皇実録は侍従日誌など未公開の内部文書を数多く使い、
いつ、どこで、何をしたのかという昭和天皇の日々の動静を時系列に沿って詳細に記しているのが特徴です。
このうち、昭和11年に陸軍の青年将校らが総理大臣官邸などを襲撃し政府の要人を殺害した2・26事件では、
昭和天皇は事件発生の報告を受けたあと陸軍大臣に反乱軍の鎮圧を命じましたが、
この時間はこれまで当時の側近の日記などから午前9時ごろだとされていました。
しかし、昭和天皇実録では陸軍大臣と会ったのは午前11時13分と時間を特定し、
およそ2時間遅かったことが明らかにされました。
先の大戦についても、昭和20年8月9日の深夜に始まったとされていたポツダム宣言の受諾を巡る
御前会議が午前0時を回って10日になってから始まっていたことなど、
終戦に至るまでの経過が詳しく記されていて、今後昭和史の研究を深めていくうえでの
手がかりになると期待されています。
www3.nhk.or.jp/news/html/20140909/t10014451991000.html

昭和天皇実録、陛下指摘で訂正…和歌巡る記述
2014年10月24日 09時19分
宮内庁の風岡典之長官は23日の定例記者会見で、
同庁が今年9月9日付で公表した「昭和天皇実録」の本文中、
昭和天皇が詠んだ和歌に関する時期や背景に誤りがあったとして訂正し、謝罪した。
天皇陛下の指摘を受け判明したという。
風岡長官によると、この和歌は、皇太子妃(今の皇后さま)が
浩宮(今の皇太子さま)を乳母車に乗せて歩かれる情景を詠んだ
「山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく」。
実録では、昭和天皇が1960年7月1日に東宮御所を訪問した際の情景を詠んだと記述していた。
この和歌と背景について、読売新聞が9月12日朝刊の実録に関する連載記事「天皇の昭和」で紹介したところ、
記事を読まれた天皇陛下から同庁に「山百合であれば那須御用邸での情景ではないか」と指摘があり、誤りが判明。
同庁が皇后さまにも聞くなどして確認したところ、
60年8月6日の那須御用邸(栃木県)での情景を詠んだ歌と分かった。
風岡長官は会見で「思い込みで資料の十分な検討も行わなかった。
両陛下におわび申し上げた。読者の方々にもご迷惑をおかけした」と述べた。
www.yomiuri.co.jp/national/20141023-OYT1T50086.html


昭和天皇実録、5千カ所に誤り 宮内庁が正誤表公表へ
2019/3/14 18:20
昭和天皇の生涯の動静記録「昭和天皇実録」について、宮内庁が天皇、皇后両陛下に献上した奉呈本や
報道機関など向けに提供した内容に約5千カ所の誤りがあったことが14日、分かった。
同庁の山本信一郎長官が定例記者会見で明らかにした。今後、正誤表を作成し、公表するという。
実録は2014年に完成し、両陛下に奉呈後、15年3月から一般向けに公刊が始まった。
3月には最終巻となる19冊目が出版される。山本長官によると、出版に向け資料を調べ直した際に多数の誤りが見つかり、
大部分はその時点で修正したが、出版後も数十カ所の誤りが残っていたという。
主な誤りは誤字や脱字、人名の誤りなどで、
山本長官は「(ミスの影響が)史実の基本的なことに及ぶことはない」と説明。
ただ修正前の実録はすでに多くの歴史研究や書籍などに引用されており、「誠に申し訳なく思っている」と陳謝した。
正誤表の公表が遅れた理由を「正誤表を1巻出すたびに付ける検討をしたが、作業が追いつかなかった」と釈明した。
実録は、昭和天皇の87年の生涯を編年体で網羅した唯一の記録集。
宮内庁書陵部が24年かけて編さんし、分量は約1万2千ページ。
昭和史や昭和天皇の実像を知るうえでも重要な資料とされる。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42465230U9A310C1CR8000/


「昭和天皇実録」原本に5000カ所の誤り 正誤表を公表へ
2019.3.14 18:45
宮内庁の山本信一郎長官は14日の定例会見で、昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」に関し、
天皇、皇后両陛下に献上した原本や報道機関などに提供した内容に
約5千カ所の誤りが見つかったと明らかにした。人名や日時などの誤字脱字、資料の誤用もあった。
正誤表を作成して両陛下に報告し、公表する。
昭和天皇実録は公文書や側近の日誌など約3千点の資料をもとに、日々の言動を時系列でまとめた。
編纂(へんさん)作業は崩御翌年の平成2年から始まり、2度の計画延長を経て26年8月に完成。
両陛下に原本が、皇太子さまをはじめ皇族方にも同内容のものが届けられた。
報道機関には電子データで提供され、特集記事などを掲載。
研究者らも情報公開請求で入手し、書籍や論文などに引用している。
誤りの大半は27年3月以降、東京書籍から一般向けの公刊本として出版されるのを前に、
宮内庁が行った確認作業で発覚し、訂正。ただ、1巻ごとに正誤表は付けなかった。
公刊本が出た後にも数十カ所の誤りが見つかったという。
山本長官は「誤りの公表が遅れたことは申し訳ない。正誤表の作成に全精力を費やす」と謝罪した。
https://www.sankei.com/life/news/190314/lif1903140033-n1.html