昭和天皇実録 朝日

激動の87年、描く
2014年9月9日05時00分
「堪え難きを堪え忍び難きを忍び以(もっ)て万世の為(ため)に太平を開かんと欲す」
1945年8月、戦争終結の決断を国民に自らの言葉で告げ、「統治権の総攬(そうらん)者」から
平和国家の「象徴」に。「昭和天皇実録」が記す87年は激動の生涯だった。
25歳で即位。「現人神(あらひとがみ)」として戦争の時代に突入するが、日本は敗戦。
翌年、「人間宣言」した昭和天皇は、全国巡幸を始めた。国民と直接ふれ合うことで象徴としての再出発をした。
在位62年の間に沖縄以外の全都道府県を訪れた。75年の訪米後には初めてカメラを前に公式記者会見に臨み、
最もつらく、悲しかったことは「言うまでもなく第2次大戦」と答えた。地上戦が行われた沖縄への訪問を望んだが、
実現しなかった。
89年1月7日、逝去。葬儀にあたる「大喪の礼」には160以上の国から元首や大使ら関係者が参列、
沿道では約36万6千人が葬列を見守った。
私生活では、香淳皇后との間に2男5女をもうけ、生物学の研究に打ち込んだ。
digital.asahi.com/articles/DA3S11340578.html

幼少期・家族 作文「まちにまつて居た運動会」
昭和天皇は1901(明治34)年、大正天皇の長男として誕生、名前は裕仁。
母は貞明皇后で、弟に秩父宮、高松宮、三笠宮さま。
24(大正13)年に久邇宮良子(ながこ)女王(香淳皇后)と結婚し、2男5女をもうけた。
長男は現・天皇陛下、次男は常陸宮さま。幼少期には、両親や昭憲皇太后に度々手紙を書き、
作文を書くこともあった。宮内庁によると、今回初めて公になった作文もある。
【昭和天皇実録の記述】
■一九〇七(明治四十)年
〈十二月十八日〉
皇太子・同妃よりクリスマスの靴下に入った玩具を賜わる。
■一九一○(明治四十三)年
〈九月十四日〉
(秩父宮)雍仁親王・(高松宮)宣仁親王と御相談の上、階上において軍艦遊びをされる。
(略)御自らは一等水兵となられ、二等水兵の雍仁親王、三等水兵の宣仁親王と共に乗客への世話を務められる。
■一九一一(明治四十四)年
〈十月二十九日〉
午前、雍仁親王・宣仁親王と共に御出門、学習院初等学科運動会にお成りになり、
四年級のプログラムである千鳥競争・凱旋(がいせん)門・非常競争・徒歩競争・雀(すずめ)の土産には
すべて御参加になる。(略)以下のように御作文を記される。
今日はまちにまつて居た運動会の日でございます。
朝早く起きて見たら雨が降つて居ましたから運動会がないかと思つてしんぱいいたしました。(略)
おもう様とおたた様とが午後一時にいらつしやつて下さいまして私は大そううれしく思ひました。(略)
我四年級は千鳥きよう争、がいせん門、非常きよう争、徒歩きよう争、雀の土産の五つでした。
非常きよう争で三等賞のめたるを取つた時は大そううれしうございました。
■一九一二(明治四十五)年
〈四月二十七日〉
学習院の授業においてカエルを解剖される。御帰殿後、皇孫御用掛作間富生の奉仕にて
トノサマガエルを再度解剖され、諸器官を一々御観察になる。
終わってカエルを箱に収め、雍仁親王・宣仁親王と御一緒に南庭にお埋めになり、
「正一位蛙大明神」の称号を賜う。
■一九四五(昭和二十)年
〈十一月九日〉
内廷庁舎より御文庫に還御の際、生物学御研究所脇の畑に立ち寄られ、
皇后・皇太子・(常陸宮)正仁親王による芋掘りを御覧になる。
御文庫に還御後、皇后及び皇太子・正仁親王と御夕餐(ゆうさん)を御会食になる。
終わって、御一緒にトランプに興じられる。
【新事実・識者の評価】
ノンフィクション作家の保阪正康氏は、幼少期の記述について
「びっくりするくらい多くの新事実が書かれている」と話す。例えば手紙。
「今の子どもと同じような日常の心理描写が書かれている。大衆の気持ちを読む教育を受けていると感じた」
古川隆久・日本大教授は、1907(明治40)年に、皇太子時代の大正天皇夫妻から、
クリスマスの靴下に入った玩具が贈られたとの記載に注目した。
「新事実では。神道を奉じている皇室でも戦前からクリスマスの行事があったことは、
神道の祭司という天皇の位置づけを大正天皇夫妻がどう認識していたかという点で興味深い」
www.asahi.com/articles/DA3S11340632.html

太平洋戦争開戦 戦争に距離置く姿勢、強調
2014年9月9日05時00分
1941(昭和16)年12月8日(現地時間7日)、米ハワイ州オアフ島真珠湾の米海軍基地を
日本海軍が航空機で奇襲し、米英に宣戦布告した。日本は資源を求めて東南アジア攻略をめざし、
41年7月に南部仏印(現在のベトナムなど)に進駐。
米国から対日石油輸出を禁止され、対米交渉に行き詰まった日本は開戦を決めた。

【昭和天皇実録の記述】
■一九四一(昭和十六)年
〈九月五日〉
午後六時五分、御学問所において再び(近衛文麿)首相、並びに急遽(きゅうきょ)参内の
参謀総長杉山元・軍令部総長永野修身に(略)天皇は、無謀なる師(=戦争)を起こすことあれば、
皇祖皇宗(こうそこうそう)に対して誠に相済まない旨を述べられ、強い御口調にて勝算の見込みをお尋ねになる。
〈九月六日〉
(御前)会議のまさに終了せんとする時、天皇より御発言あり。
(略)天皇は、毎日拝誦(はいしょう)されている明治天皇の御製
「よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」が記された紙片を懐中より取り出し、
これを読み上げられ、両統帥部長の意向を質(ただ)される。
〈十月九日〉
(伏見宮)博恭王(ひろやすおう)と御対面になる。(略)天皇は、結局一戦は避け難いかもしれざるも、
今はその時機ではなく、なお外交交渉により尽くすべき手段がある旨を述べられ、御前会議の開催に反対される。
〈十一月二日〉
内閣総理大臣東条英機・参謀総長杉山元・軍令部総長永野修身に謁(えつ)を賜(たま)う。
(略)天皇は、開戦の大義名分に関する首相の考えを質され、
(略)ローマ法王を通じた時局収拾の検討を御提案になる。ついで軍令部総長・参謀総長に対し、
開戦に伴う陸海各軍の損害の見積(みつも)り、防空対策等につき尋ねられ、
それぞれより奉答(ほうとう)を受けられる。
〈十二月一日〉
午後四時三十分、御学問所において参謀総長杉山元・軍令部総長永野修身に(略)
天皇は開戦の決定を已(や)むを得ないこととし、陸海軍の十分な協調をお命じになる。
〈十二月八日〉
今回の開戦は全く忍び得ず、自身の意志ではない旨を詔書に盛り込むよう希望される。天皇の聖旨により、
詔書案には「豈朕(あにちん)カ志ナラムヤ」の文言が挿入される。
【新事実・識者の評価】
山田朗・明治大教授は「大本営政府連絡会議や御前会議で決定された文書の全文を記載したり、
要約だったり、まったく載せなかったりと、方針が一貫していない。天皇が戦争に傾斜していく過程が示されず、
唐突に戦争が始まった印象だ。戦争を回避し、平和を愛好したイメージに合う作りだと思う」と語る。
加藤陽子・東京大教授は「41年9月6日の御前会議の様子が詳しい。
ただ、ここが開戦に向けて引き返せないポイントだったかといえば、
その前後に日米交渉の進展状況も記され、まだ交渉に望みをつないでいた状況だったこともうかがえる」
と話している。
www.asahi.com/articles/DA3S11340634.html

マッカーサー会見 食糧援助に感謝伝える
2014年9月9日05時00分
連合国軍最高司令官として占領政策を担ったダグラス・マッカーサーと、
1945(昭和20)年9月27日から51(昭和26)年4月15日まで11回、米国大使館に通って会見した。
【昭和天皇実録の記述】
■一九四五(昭和二十)年
〈九月二十七日〉(1回目会見)
御会見室内において天皇はマッカーサーの左側にお立ちになり、米軍写真師による写真撮影を受けられる。
ついで御着席になり、約三十分にわたりマッカーサーと御会話になる。(略)
「マ」 終戦ニ当(あた)ツテノ陛下ノ御決意ハ国土ト人民ヲシテ
測リ知レサル痛苦ヲ免レシメラレタ点ニ於(おい)テ誠ニ御英断デアツタ。(略)
陛下 此(こ)ノ戦争ニ付(つい)テハ、自分トシテハ極力之(これ)ヲ
避ケ度(た)イ考(かんがえ)デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ
自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス。
■一九四六(昭和二十一)年
〈五月三十一日〉(2回目会見)
天皇より食糧援助に対する感謝と更なる援助の御要請、
(略)新憲法作成への助力に対する謝意などについての御発言がある。
■一九五一(昭和二十六)年
〈四月十五日〉(11回目会見)
マッカーサー明朝帰国につき、告別の御会見のため、午前十一時五十二分御出門、米国大使館に行幸される。
(略)来日以来五年八箇月にわたる日本再建への努力と日本国民への好意に対し謝意を表される。
また朝鮮戦争の戦況などにつき、(略)御会話になる。
【新事実・識者の評価】
豊下楢彦・元関西学院大教授によると、これまで内容が明らかにされていなかった2回目会見で、
天皇がマッカーサーに「新憲法作成への助力に対する謝意」を述べていたことが新たに分かった。
「戦争放棄を含む新憲法の作成が天皇制の維持につながると考えた天皇の気持ちを示す謝意だったのだろう」
また、会見が継続中の1950(昭和25)年、対日講和を担っていた米国国務長官顧問ダレスが天皇から
講和問題の進め方に関する提言を含んだ「伝言」を送られたとする記述があった。
「天皇自らがマッカーサーや吉田茂首相の頭越しに米国に働きかけたことを実録が認めた形。
講和や安保条約の成立過程を考える上で重要だ」
宮内庁と外務省はこれまで1回目会見の公式記録を公開している。
実録でも、天皇とマッカーサーの言葉が引用されるなど比較的詳しい記載がみられたのは1回目だけだった。
www.asahi.com/articles/DA3S11340636.html

戦後・人間宣言へ:1 皇居明け渡しも検討
2014年10月7日05時00分
■空襲被害視察・皇室財産下賜
戦況が悪化していた1945(昭和20)年3月10日、東京大空襲が始まる。
実録では「午前零時十五分空襲警報発令につき、直ちに皇后と共に御文庫地下室に御動座になり、
三時十五分まで過ごされる。(略)米軍B29戦略爆撃機の攻撃により(略)帝都各地に甚大な被害が発生」と記す。
同18日、天皇は東京都内の罹災地(りさいち)を巡視する。
「侍従長藤田尚徳に対し、焦土と化した東京を嘆かれ、関東大震災後の巡視の際よりも
今回の方が遥(はる)かに無惨(むざん)であり、一段と胸が痛む旨の御感想を述べられる」
終戦後、皇室財産を政府に下賜(かし)する検討を始める。10月4日にこんな記載がある。
「米国の短波放送により、天皇が飢餓に瀕(ひん)する日本国民を尻目に、
莫大(ばくだい)な財産を所有して安楽に暮らしている旨が報道されていることに対し、
下総御料牧場の廃止を仰せられる」
豊下楢彦・元関西学院大教授は「厳しい報道であり、皇室財産を下賜する動きは
米国世論を意識したものでもあった」と話す。
連合国軍最高司令官マッカーサーとの2回目会見を控えた46(昭和21)年1月25日、天皇が会見の際に
皇室財産を下賜する意向を伝えることを示すと、幣原喜重郎首相は「かつて食糧輸入の見返り物資として、
皇室の宝石類を下付されたいとした天皇のお考えを、
マッカーサーが皇室の人気取り策と誤解した前例もあるため、熟考を」と答えた。
天皇は一時、皇居の明け渡しも考えた。同28日。「新聞投書をお読みになり、宮城(皇居)を放棄して、
世田谷区砧又は港区白金の御料地への御移居のお考えをもらされる」
11月3日、日本国憲法公布。第88条で「すべて皇室財産は、国に属する。
すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」と定められた。
(河野通高)
digital.asahi.com/articles/DA3S11389381.html

戦後・人間宣言へ:2 群衆4万人、制止へ発砲
2014年10月8日05時00分
■全国巡幸
戦災の復興状況を視察するため昭和天皇は1946(昭和21)年2月の神奈川県を振り出しに、
54(昭和29)年8月の北海道まで、米国の施政権下にあった沖縄を除いて全国巡幸を行った。
国民は「人間」天皇に初めて接し、慰めや励ましの言葉をかけられた。
天皇の肉声「あっ、そう」は流行語にさえなった。
47(昭和22)年6月5日、大阪府庁の車寄せに下車。
「約四万人の市民が御身辺に押し寄せ御歩行不能の状態(略)警衛中の米軍第二十五師団のMPが
空に向けて拳銃を二度発砲」という混乱も起きた。
11月27日、鳥取駅では「集まった奉迎者が陸橋を一気にかけ降りたため、なだれ事故が発生し死傷者が出た」。
12月7日、外国人記者も注目した被爆地広島の巡幸中、車窓から原爆ドームをみて、天皇は歌を詠む。
《ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり》
だが、東京裁判で天皇の退位問題が浮上すると占領軍の意向もあり、
49(昭和24)年5月まで、巡幸は中止された。
再開にあたり内閣は、行事の簡素化など経費抑制の通達を出した。
5月30日、熊本。ハンセン病の国立療養所菊池恵楓園の入園者が沿道で歓迎するのを車の中から見た天皇は、
「見舞いたい旨を仰せになる」と急きょ、予定を変更して訪ねる。
51(昭和26)年11月12日、京都大学で学生は反戦歌で天皇を迎え、退出の際も高唱は続いた。
「警察官によって開かれた細い道筋を通られて大学正門を御退出になる」
ノンフィクション作家の保阪正康さんは「巡幸に関しては克明に記述されている。
(宮内庁は)国民と天皇の紐帯(ちゅうたい)が強まり、
この『謝罪旅行』が国民に受け入れられた証明としたいのだろう」とみている。
(上林格)
digital.asahi.com/articles/DA3S11391235.html

戦後・人間宣言へ:4 聖書進講、たびたび同席
2014年10月10日05時00分
キリスト教への接近
昭和天皇は太平洋戦争開戦直前の1941(昭和16)年11月2日、
東条英機首相に「ローマ法王を通じた時局収拾の検討」を提案した。
81(昭和56)年9月2日、宮内記者会の質問に
「世界各国と深い関係を持った平和的な機関でもある法王庁との連絡が必要」と思った、と説明している。
敗戦後の占領期はキリスト教関係者に頻繁に会った。46(昭和21)年4月27日、
訪米する日本基督教女子青年会の植村環(たまき)会長に会い、トルーマン米大統領あての
「平和希求についての御言葉」を託した。
その後も天皇は、香淳皇后が植村会長から聖書について進講を受ける際、たびたび同席して話を聞いた。
皇太子(いまの天皇陛下)の英語教師にクエーカー教徒のバイニング夫人を招くなど
米国経由のキリスト教文化に接する一方、カトリック関係者へも近づいたことについて
原武史・明治学院大教授は「米国とは別のチャンネルも確保したいとの思惑があったのではないか」と推測する。
48(昭和23)年8月24日にはオーストラリアの新聞主筆と会い、キリスト教帰依についての質問に
「外来宗教については敬意を払っているが、自分は自分自身の宗教を体していったほうが良いと思う」と答え、
改宗のうわさを打ち消した。
皇太子結婚の際、皇太子妃(いまの皇后さま)がキリスト教系の聖心女子大出身であることが話題になった。
「正仁親王(常陸宮さま)がキリスト教に興味を持ったのは
皇太子妃の影響であると聞かれた天皇が同妃に対し
皇室においてキリスト教の話はしないようにと叱責(しっせき)された、という噂」
が書かれた雑誌報道に対して天皇は、
「事実がないばかりではなく、心に思ったことさえなかった」と伝えるよう側近に命じたことが、
78(昭和53)年3月11日の実録に記されている。
(編集委員・北野隆一)
www.asahi.com/articles/DA3S11395049.html

昭和天皇、実録にない素顔 ご一家支え42年、元職員語る
2014年10月13日05時00分
昭和天皇の生涯を記した「昭和天皇実録」の公開を受け、天皇ご一家を支える宮内庁職員として
42年間仕えた牧野名助(もりすけ)さん(88)が、思い出を語った。
「実録の完成を待ち遠しく思っていた。陛下の過ごした日々を多くの人に知ってもらえれば」と喜ぶ一方、
実録には記されていない人間味あふれる昭和天皇の姿が今も目に焼き付いているという。
■靴の中に紙、ミスにも大笑い
牧野さんは終戦後間もない1947(昭和22)年から宮内庁に勤務。40代だった昭和40年代から、
24歳上の昭和天皇の着替えなど身支度を整える内舎人(うどねり)になり、
逝去まで計約42年間そばで働いた。
牧野さんは「緊張感の中にもふと和やかな空気が流れる日々でした」と振り返る。
あるとき、皇居・宮殿での行事を終え、住まいの吹上御所に戻る際、昭和天皇から
「(行事に出席した)総理はどうしている」と尋ねられた。「宮殿を出るところです」と答えると、
「では歩いて帰る」と迎えの車を返した。牧野さんは「自分の車と出くわせば総理は
車を降りてあいさつせねばならないだろう、と気遣ったようでした。いつも思いやりをお持ちでした」。
時間に厳しい一方で、職員の失敗には寛容だった。新調した靴を差し出したときのこと。
サイズは合っているはずなのに、昭和天皇は「足が入らないよ」。
つま先に詰まっていた厚紙を取り出すのを忘れていた。
昭和天皇は「内舎人も失敗することがあるか」と大笑いし、傍らの香淳皇后も笑ったという。
テレビはあまり見なかったが、「水戸黄門」や「大岡越前」は好きだった。
生涯かけて打ち込んだ生物学研究では、毎週皇居内の研究所に通い、地方訪問や静養先では、
目にした動植物の名前を、こまめに英語と日本語でメモに書き留めていた。
88(同63)年の終戦記念日。昭和天皇は、静養先の那須から全国戦没者追悼式出席のため、
2日前に政府専用のヘリで東京に戻った。お召し替えが終わり、昭和天皇に「お時間です」と告げても、
「うん、わかってる」と言ったきり立とうとしない。心配した侍従らが階段を駆け上がってきた。
「お体が相当つらかったようでした」。
実録にはこの日、「公式行事への御臨席はこれが最後となる」と記されている。
■「ねぇー」と声掛け、機嫌良好
昭和天皇はめったに感情を表に出すことはなかったが、気分を察することができないと内舎人は務まらない。
牧野さんは言葉の端々から推し量ろうと努めた。「ねぇー」と声を掛けてくる際は、
後の予定を尋ねたい時などで機嫌は良好とみた。「なんで」との返事は、説明に納得していない様子と捉えたという。
逝去した89(同64)年1月7日、牧野さんは当直で前の晩から御所に詰めていた。
午前4時ごろ。モニターに映し出された昭和天皇の心電図が断続的に平らになり、
医師らが処置に当たっているのを見て異変を察知した。
息を引き取ると、大喪の礼の準備や遺品の整理などに追われた。
2月24日、昭和天皇のひつぎが武蔵野陵に埋葬されるのを見届けた際、初めて涙が出た。
「思い出は尽きることがありません。陛下にお仕えできたことは、私の一生の誇りです」
 (中田絢子)
■沖縄訪問中止「くちおしきかな」 思い込めた歌、メモに
牧野さんによると、昭和天皇は日頃から歌を書き留め、推敲(すいこう)を重ねていたという。
逝去翌年に侍従職が編纂(へんさん)した歌集「おほうなばら 昭和天皇御製集」が刊行されているが、
収められた865首以外にも多くの歌を残したと言われている。
87(昭和62)年秋、昭和天皇が即位後初めて沖縄を訪問する計画が立てられた。
侍医、看護師、牧野さんらベテランが随行する万全の態勢を整えていた。
だが、昭和天皇が体調を崩し、手術を受けたため中止になった。
実録には、この時に詠んだ歌が記されている。
「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」
牧野さんは、昭和天皇が宮内庁の便箋(びんせん)に記したメモに似た歌を見つけたことがある。
最後の句は「くちおしきかな」と結ばれていた。
「沖縄への思い入れがお強かったのでしょう。訪問できれば良かった」と振り返る。
昭和天皇は戦後、47都道府県で唯一、沖縄への訪問がかなわなかった。
ある雪の日には、「2・26事件を思い出す」旨を書き留めたメモも見たことがあった。
1936(昭和11)年2月26日、陸軍青年将校らが首相官邸などを襲撃した事件。
都心に家があり、小学生だった牧野さんも覚えている。「確かに、あの日は大雪でした。
私は家に兵隊さんたちが泊まることになり、無邪気に喜んだ記憶もあります」
実録には、当時34歳の昭和天皇が事件に激高し、「速やかな鎮定」を命じ、
自ら暴徒鎮圧に乗り出す意志も示したことが記されている。
他にも、晩年、腰を痛めていた香淳皇后を、静養先の那須に残して一時帰京したことを
「さびしかりけり」と詠んだ歌なども見たことがあり、両陛下の絆の強さを感じたという。
◆キーワード
<内舎人(うどねり)> 宮内庁職員のうち、天皇のそばに控え、身支度を整えるなど私的な世話や雑用を担当し、
日常生活を支える。地方訪問にも随行。古くからの呼び名が今でも使われている。
www.asahi.com/articles/DA3S11400213.html

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朝日デジタル
昭和天皇実録「激動の87年」