昭和天皇実録 読売

昭和天皇、苦悩の日々…実録1万2千ページ公表
2014年09月09日 05時00分
◆軍暴走へ抵抗、克明に◆
宮内庁は9日付で、昭和天皇(1901~89年)の生涯を記録した「昭和天皇実録」の全文
1万2000ページ超を公表した。
これまで明らかにされていない、天皇の間近で仕えた侍従らの日誌「お手元文書(皇室文書)」が引用され、
満州事変や太平洋戦争での軍部暴走への苦悩など、時々の昭和天皇の心情が判明。
原爆投下から終戦に至る重大な局面などについて正確な時系列で明らかになった。
宮内庁は、確実な史料に基づき実録を編修したと説明、昭和天皇の日々を日誌形式で示した第一級の史料となる。
宮内庁外で新たに発掘された約40件を含む3000件超の史料が用いられ、
その公開が進めば昭和史研究がさらに深まることが期待される。

◆側近日記など新史料40件◆
昭和天皇が終戦を「聖断」した前後の経緯は分刻みで記述。1945年(昭和20年)8月6日の
広島原爆投下に続き、9日、ソ連が対日参戦、天皇は同日午前9時55分、
内大臣に「速やかに戦局の収拾を研究・決定する必要がある」と表明。
その後、長崎で原爆が投下され、急きょ、終戦を検討する御前会議が開かれた。
この御前会議は従来、8月9日深夜に始まったともされていたが、
実録は開始時刻を10日午前0時3分と特定した。「聖断」をした14日は、
警戒警報発令中の午後11時25分から、自ら終戦を国民に伝える詔書を録音。
15日正午、ラジオから流れる自分の詔書朗読(玉音放送)を皇居内の地下防空施設で聞いている。
青年将校らによるクーデター未遂、2・26事件では、天皇は26日午前6時20分に起こされて
発生を知ったと記述された。翌27日午前1時45分に床に就くまでに会った人物と時間、回数も特定された。
天皇を軍事面で補佐する侍従武官長を初日から3日間で41回も呼び出して鎮圧を督促したほか、
側近の宮内大臣や侍従次長からも逐次情報を得て冷静に対処していた様子がうかがえる。
実録には、これまで知られていない天皇の歌が3首盛り込まれた。29年(昭和4年)の歌の記載の前には、
「新しい御用邸の工事を延期して、節約への一大決心を示したのに、私の理想は一つも実行されない」と
嘆く文がついている。即位後数年の時点で、自分の考えが施策などに反映されていなかった状況がうかがえる。
それでも、若き日の天皇は政治にも積極的に発言。同年には、軍部が暴走した張作霖爆殺事件の甘い処分を巡り、
首相の田中義一を叱責、辞任を迫るという異例の発言をした。
実録にはその後、「御心労のため居眠り」と記述。知られざる姿が浮かんだ。

◆12歳の夢は「博物博士」◆
新たに引用された史料に、44年(昭和19年)8月まで侍従長を務めた百武三郎の日記があり、
天皇の心情や思想に迫る手掛かりとなっている。39年(昭和14年)10月27日、
進講(講義)の方針について聞かれた天皇は、「皇室に関することは何も批評論議せず、
万事を可とするが如(ごと)き進講は、何の役にも立たず」として「不可」と述べていた。
実録は、幼少時から中等教育について記載が豊富で、教育課程や養育方針が明記された。
12歳の時、将来の夢を「博物博士」と語ったことなども分かった。
一方、全11回にわたった連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの公式の会見は
既に知られている内容が記されるにとどまった。
昭和天皇自身の回想を巡っては、戦後数回にわたり、主に戦前から終戦までの出来事を語った内容を側近が
「拝聴録」にまとめたことが裏付けられた。だが実物は見つからなかったという。
天皇の靖国神社参拝見送りとA級戦犯合祀(ごうし)との関係についても踏み込んだ記載はなかった。
実録は90年から24年5か月かけて完成、今年8月21日に天皇、皇后両陛下に奉呈(献上)された。
9日から11月30日まで、宮内庁内で閲覧できる。また、来春から5年かけて出版される。

◆20世紀の基礎史料◆
御厨貴・東大名誉教授(日本政治史)の話「これまで手が届かなかった皇室文書から引用されたことが一番大きく、
20世紀を再検証する基礎史料となるだろう。例えば2・26事件は、天皇の意思を時間軸で追うと
全体像がくっきりと見えてくる。戦前の統帥権の総攬(そうらん)者としての迷いや葛藤、
戦後は戦争を何度も思い出している姿が浮かぶ。戦前戦後を通じて政治史の観点から意味があるのはもちろん、
風俗史、社会史の視点で読むとさらに興味深い」

◆昭和天皇実録のポイント◆
【全体】
・20世紀と重なる昭和天皇の全生涯が、確実な記録を基に日誌形式で示された例のない史料。
時々の昭和天皇の心情も判明。
【新たな史料】
・侍従ら間近で仕えた人々の日誌などが引用された。
・1936~44年に侍従長を務めた百武三郎の日記の存在が判明、引用から新事実が浮かんだ。
【新事実】
・「博物博士になりたい」など幼少期の詳細な成育状況や言動、手紙、作文の内容が分かった。
・皇室について批評や議論をしない学者の講義は役に立たないと述べていた。
・2・26事件や終戦前の切迫した状況が正確な時系列で示された。
・戦後に側近が聞き取った「拝聴録」の存在が裏付けられたが、実物は見つからなかった。
・「理想は一つも実らない」と嘆く和歌など3首が初公開。

◆2・26事件=1936年(昭和11年)2月26日、陸軍の青年将校らが部隊を率いて兵を挙げ、
高橋是清蔵相、斎藤実内大臣ら重臣、軍首脳を殺傷したテロ、クーデター未遂事件。
決起部隊は、首相官邸を含む首都中心部を4日間にわたって占拠。
昭和天皇は早くから陸軍に鎮圧を指示したが、陸軍はなかなか動こうとせず、29日にようやく鎮圧され、事件は収拾した。
2014年09月09日 05時00分
www.yomiuri.co.jp/national/20140909-OYT1T50007.html?from=ycont_navr_os

生き生き、少年時代…昭和天皇実録
2014年09月09日 05時00分
◆兄弟いつも一緒…クリスマスに玩具◆
9日付で公表された昭和天皇実録では、「昭和の陛下」の幼少期の手紙や日記、創作話などが明らかになり、
100年以上前の少年時代が生き生きと浮かんだ。
年の近い弟宮2人とはいつも一緒に行動。「ライオンは威張っているから好きではない」と語るなど
言動のエピソードも多い。伝統的な慣習が色濃く残る皇室に、
クリスマスなど西洋文化が浸透し始めていたことも分かる。

◆やんちゃな面も◆
1901年(明治34年)7月7日、皇室の慣習により昭和天皇は生後2か月で両親のもとを離れて養育された。
1歳年下の秩父宮、3歳年下の高松宮とは一緒に暮らした。
幼少期はやんちゃな面も見せた。07年(明治40年)2月22日には、
「この頃は何にても直ちに壊すことをお好みの御様子」で、玩具の象の鼻を折り、足を切ったため、
「動物虐待の悪(あ)しきこと、玩具の動物にても壊すことはよろしからず」と諭されている。
昭和天皇の名は裕仁(ひろひと)。幼少時の称号は「迪宮(みちのみや)」。
父の大正天皇を呼ぶ時は宮中の言葉で「おもう様」、母の貞明皇后は「おたた様」。
9歳の時、両親にあてた手紙には「迪宮もじようぶで 毎朝すこしおさらひをして(略)
蟲(むし)とりにでゝうんどうをします」と近況を伝えている。
07年12月18日、昭和天皇6歳の時、父母から「クリスマスの靴下に入った玩具を賜わる」とある。
当時、西洋化が進みつつあった上流階級の暮らしぶりが皇室にも波及していたことには、専門家も驚いている。

◆ライオンは好まず◆
生き物への関心も少年時代に芽生えた。08年(明治41年)11月22日、7歳の時、
新宿御苑で拾った木の実の名を同行者から聞いたが納得せず、帰宅後に花壇で観察し、自分で調べた。
10年(明治43年)5月9日、9歳の時、学習院の遠足で蚕業講習所と農事試験場に行き、
「今まで行ったうちで一番おもしろい」と話している。
同月、ハレー彗星(すいせい)が地球に接近。当時、彗星の尾の有毒ガスで地球上の生物が死滅するという
うわさが広がっていた。「彗星に格別の興味を示され(略)彗星の尾に地球が包まれる想像図をお描きになる」。
5月29日、秩父宮と初めて彗星を見た。
2年後の12年(明治45年)4月には、学習院の授業で蛙(かえる)を解剖。帰宅後、再び蛙を解剖し、
終わった後、箱に収めて庭に埋め、「正一位蛙大明神」と最高の称号をつけて弔った
。好きな動物の順番を第一のトラに続き、ヒョウ、ワニ、ウサギと書き、「ライオンは威張っている」との理由で
20位のコバンザメより下と話した。

◆物語を自作◆
物語の世界にも親しんだ。イソップ物語を好み、10歳になると自分で物語を創作して「裕仁新イソップ」と命名。
第一作は「海魚の不平」で、ホウボウやタイが他の魚の才能を妬むのを、ウナギがたしなめる内容で
「自分よりも不幸な者の在る間は身の上の不平を言ふな」と道徳を説いている。
12年(大正元年)12月31日、皇太子となったことに伴い、弟2人と別居。
毎週土曜日に会うのが楽しみだったらしく、翌13年(大正2年)10月7日、
次の土曜日に軍隊の視察を求められた時、涙ながらに変更を求めたという。
同年12月29日には、「博物博士になりたい」と側近に夢を語った。
秩父宮は53年(昭和28年)、50歳で逝去。高松宮も87年(昭和62年)、82歳で逝去した。
高松宮の死の前年、ハレー彗星が76年ぶりに接近。天皇は天体望遠鏡で観測し、記者団にこう話した。
「前回は雍仁(やすひと)親王(秩父宮)と共に彗星を肉眼で見ることができ、すばらしく思った」。
9歳の時に弟と見た彗星が美しく思い出されていたのだろう。

◆昭和天皇 家族の歴史◆
1901年(明治34)4.29《0》大正天皇の長男として誕生
 02年(明治35)6.25《1》弟の淳宮(秩父宮)誕生
05年(明治38)1.3《3》弟の光宮(高松宮)誕生
 12年(明治45・大正元)
      7.29《11》祖父の明治天皇崩御。公式には7.30崩御として発表。皇太子に
15年(大正4)12.2《14》弟の澄宮(三笠宮さま)誕生
 24年(大正13)1.26《22》久邇宮良子女王(香淳皇后)と結婚
 25年(大正14)12.6《24》長女の照宮誕生
 26年(大正15・昭和元)
      12.25《25》父の大正天皇崩御。皇位を継承
 27年(昭和2)9.10《26》次女の久宮誕生(翌年3.8逝去)
 29年(昭和4)9.30《28》三女の孝宮誕生
 31年(昭和6)3.7《29》四女の順宮誕生
 33年(昭和8)12.23《32》長男の継宮(今の天皇陛下)誕生
 35年(昭和10)11.28《34》次男の義宮(常陸宮さま)誕生
 39年(昭和14)3.2《37》五女の清宮誕生
 47年(昭和22)10.13《46》秩父宮、高松宮、三笠宮の3直宮家を除く11宮家の皇籍離脱決定
 51年(昭和26)5.17《50》母の貞明皇后逝去
 53年(昭和28)1.4《51》秩父宮逝去
 59年(昭和34)4.10《57》皇太子(今の天皇陛下)が美智子さま(今の皇后さま)と結婚
 60年(昭和35)2.23《58》孫の浩宮(今の皇太子さま)誕生
 61年(昭和36)7.23《60》長女の東久邇成子さん(照宮)死去
 64年(昭和39)9.30《63》義宮(常陸宮さま)、華子さまと結婚
 65年(昭和40)11.30《64》孫の礼宮(秋篠宮さま)誕生
 69年(昭和44)4.18《67》孫の紀宮(黒田清子さん)誕生
 74年(昭和49)1.26《72》結婚50年(金婚式)のお祝い
 84年(昭和59)1.26《82》結婚60年(ダイヤモンド婚式)のお祝い
 87年(昭和62)2.3《85》高松宮逝去
  89年(昭和64)1.7《87》崩御
(《 》の数字は当時の昭和天皇の年齢)  

2014年09月09日 05時00分
www.yomiuri.co.jp/national/20140909-OYT1T50001.html?from=y10

昭和天皇実録、残された謎
2014年09月09日 05時00分
◆マッカーサー会見・靖国参拝見送り◆
9日付で公表された昭和天皇実録は、昭和天皇の生涯にわたる初めての公式記録だ。
宮内庁が24年をかけ進めた一大事業だけに、新事実の発見に期待が集まったが、
「昭和史を塗り替えるような新事実はない」と分析を進めている専門家は口をそろえ、
残された「謎」も少なくない。今後、編修に使用された原史料の公開が進めば新たな昭和史研究の第一歩となる。
(昭和天皇実録取材班)

◆両論併記◆
宮内庁は、実録の編修にあたり、確実な史料に基づき「ありのまま叙述」することを基本方針とした。
史料により内容が異なる場合は、「可能な限り検討した上で」(同庁書陵部)
簡単な記述にとどめたケースや、両論併記の部分がある。
1945年(昭和20年)9月27日の連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの
第1回会見が、その代表例だ。
「戦争の全責任を負う者として、私自身を委ねるためお訪ねした」という
昭和天皇の有名な発言がマッカーサーの回想記にある。
だが外務省と宮内庁が2002年に公開した公式記録にはこの発言は含まれていなかった。
実録は、戦争責任への言及がない公式記録の全文を載せる一方で、マッカーサーの回想記の一文も引用し、
両論併記の形となった。マッカーサーとの会見は全11回のうち10回分の公式記録は確認されていない。
宮内庁は米国にも職員を派遣して調査したが、新史料は発見できなかったという。

◆「拝聴録」の行方◆
もう一つ、天皇の「本音」を知る重要な手掛かりになるのが「拝聴録」だ。
戦前や戦中の出来事を戦後になってから天皇が側近に語り、まとめられたもの。
複数回作成されたことはこれまで知られており、元宮内省御用掛の遺品の中から見つかり、
90年に月刊誌で発表された「昭和天皇独白録」は、その一つとされる。
編修にあたり、宮内庁は拝聴録の原文を探したが、所在は確認できなかった。
ただ、占領期の「退位問題」について、天皇が68年(昭和43年)に回顧していたことは、
聞き取りに関わっていた側近の関係史料などから特定された。
靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)と昭和天皇の参拝見送りとの関係についても、実録は判断していない。
06年に見つかった富田朝彦・元宮内庁長官の手帳メモには、天皇がA級戦犯合祀に不快感を示し、
それ以降参拝しなかったとする内容が書かれていた。
しかし実録では、88年(昭和63年)4月28日に天皇が富田長官に
「靖国神社のA級戦犯合祀、御参拝について述べられる」とだけ記した。
宮内庁は「富田メモは断片的でいくつも解釈ができるため、正確な気持ちがわからなかった」と説明する。
47年(昭和22年)9月に天皇が宮内府御用掛を通じて、米国に沖縄を長期間にわたって
軍事占領することを希望したとされる「沖縄メッセージ」についても、天皇が御用掛に会ったことや、後年、
米国から文書が見つかったことは記されたが、天皇が御用掛にこうした発言をしたかどうかには触れなかった。
こうした言動が盛りこまれなかったことについて、
宮内庁は「確実な史料が少なく、また信ぴょう性が乏しかった」と説明する。

◆事実を「確定」◆
一方、実録が事実を“確定”したケースもある。29年(昭和4年)6月27日、
張作霖爆殺事件の処分を巡り、天皇が当時の田中義一首相を厳しく叱責する場面。
天皇は「独白録」で「辞表を出してはどうかと強い語気で云つた」と振り返っているが、
当時の重臣の日記などから「辞表までは求めなかった」との学説もあった。
実録は、「辞表提出の意をもって責任を明らかにする」よう求めたと明記し、「独白録」説をとった。
宮内庁は「侍従日誌なども検討して掲載を判断した」と説明している。

◆発掘史料の開示に期待◆
宮内庁は、実録の編修作業の過程で「取材」を行い、元侍従長の百武三郎の日記など、
存在が知られていなかった約40件の外部史料を発掘した。
これまで未公開だった「お手元文書(皇室文書)」も引用した。
これを生かした実録は、2・26事件をはじめ、重大時の時々刻々、そして天皇の衣食住のありようから、
生物学者としての研究ぶり、見た映画の題名まで明らかにしている。天皇の「心労」「落涙」など
身近な人たちしか分からない心の内も、要所要所で書き、戦争と平和の時代を生きた天皇の複雑な思いも伝えている。
ただ史料収集には限界があった。同庁では、昭和天皇と接点のあった関係者の遺族らに
日記類などの提供を要請したが協力を得られない場合も多く、
「存在自体を公にしない」との条件で引用したケースもあった。
同庁は「所有者の要望もあり、すぐには公開できないが、
将来、条件が変われば史料名も開示することができる」と説明している。
「お手元文書」原本は情報公開の対象外とされているが、実録執筆に使った「写し」は行政文書で
情報公開請求の対象になる。古川隆久・日本大教授(日本近現代史)は「記載を検証するためにも、
職員が書いた日誌はすべて公開するのが当然だ」と話す。宮内庁は9日から、
同庁書陵部で全文を誰でも閲覧できる措置をとり、情報開示に積極的な姿勢を見せた。
戦前、戦中、戦後と激動期にあった昭和時代の検証を進めるためにも、原史料を極力開示していくことが求められる。

◆腰引けた記述も◆
伊藤之雄・京都大教授(日本近現代史)の話「実録を分析することで、これまでの仮説が裏付けられたり、
事件の評価が変わったりしていくだろう。そこは評価したい。
ただ、昭和天皇の人物評価や皇族とのあつれきなどは、意図的と思うが書かれていない。
マッカーサー会見の記述も論争を避けようと腰が引けている。事実を挙げるだけでなく、
合理的に解釈していかないと歴史の流れは見えてこない」

◆昭和天皇を巡る残された謎◆
 (→は実録の内容)
◇マッカーサーとの会見で、「戦争の全責任を負う者として私自身を委ねる」と語ったか
 →「語った」とするマッカーサーの回想記と、その発言が不記載の公式記録の両論を併記
◇複数作成された「拝聴録」の行方は
 →宮内庁は2回調査したが、原本は見つからず
◇靖国神社の参拝見送りはA級戦犯合祀が原因か
 →史料の解釈が分かれるとして断定せず
◇米国に沖縄の長期軍事占領を希望したか
 →天皇の意向かどうかは特定せず

  ◇

◆百武三郎=1872年(明治5年)、佐賀県生まれ。日清、日露戦争に従軍し、1928年に海軍大将となる。
36年11月、2・26事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後をうけて侍従長に就任し、44年8月まで務めた。
戦後は、結婚前の昭和天皇の三女、孝宮(たかのみや、後の故・鷹司和子さん)を百武家で預かり、
家事見習いを教えたこともある。63年10月に死去。
2014年09月09日 05時00分
www.yomiuri.co.jp/national/20140909-OYT1T50017.html?from=ytop_main4

「いつもやさしい祖父でした」…昭和天皇の孫・壬生基博さん
2014年09月09日 07時05分
母の誕生日 自宅を訪れる
昭和天皇の孫で、実録に登場する壬生(みぶ)基博さん(65)が、読売新聞のインタビューに応じ、
「結婚後も、母が頻繁に昭和天皇と香淳皇后に会っていたことが確認できた。
自分が何度も皇居や御用邸に招かれたことを思い出します」と語った。
壬生さんは昭和天皇の長女、成子(しげこ)さんと東久邇盛厚(もりひろ)氏の次男。
成子さんは5人の子に恵まれたが、1961年7月23日に35歳で死去した。
実録に記載はないが、成子さんの誕生日には、両陛下が自宅を訪れ、成子さんが手料理を振る舞ったという。
壬生さんは「当時は警備も厳しくなかったのだろう。私たちもよく母を手伝った」と振り返る。
成子さんが亡くなる3か月前に宮内庁病院に入院してから、昭和天皇は公務の傍ら、
連日のように見舞っている。実録によれば、27回に及んだ。
壬生さんは「病室には陛下が差し入れたサンドイッチや皇后が庭で摘んだ花が飾ってあった」と話す。
成子さんが死去した日に、昭和天皇が誰に対してなのかはわからないが、
「どうもありがとう」とつぶやいたのが印象に残っているという。
7月26日に行われた告別式について、実録には、
<天皇は皇族・御親族の葬儀には御参列にならない慣例であるが、
この度は従来の例に依らず特に御参列になる>とある。
慣習を重んじる皇室で、昭和天皇が成子さんの死を深く悼んだ様子がうかがえる。
成子さんの死後、壬生さんの兄弟は頻繁に皇居へ招かれた。昭和天皇と食事をしたり、映画を見たりした。
夏には栃木県の那須御用邸に行った。「記憶力が抜群で、山歩きではルーペを手に、草花を説明してくれた。
いつもやさしい祖父だった」と語る。
壬生さんは就職後一時、ロンドンに赴任した。
帰国した時に、昭和天皇から「日英親善のために尽くしているか」と質問され、答えに困ったという。
壬生さんは「昭和天皇は節々に国民のことを思う、無私の精神があった。
その考えは今の天皇陛下にも引き継がれていると思う」と話した。
2014年09月09日 07時05分
www.yomiuri.co.jp/feature/showa/20140909-OYT8T50081.html

5歳から「帝王学」
2014年09月10日 10時20分
動乱の20世紀が幕を開けた1901年(明治34年)4月29日午後10時10分、昭和天皇は生まれた。
身長約51センチ、体重約3000グラム。
当時皇太子だった大正天皇の長男に、裕仁という名と、幼少時の称号、迪宮(みちのみや)が授けられた5月5日、
祖父の明治天皇は宮城(きゅうじょう)(皇居)で皇族や側近に酒を振る舞った。
その時の様子を、宮内庁が9日公表した昭和天皇実録はこう記している。
「一同は万歳を唱え、これが宮中の御宴において万歳が唱えられた初例という」
将来、君主となることを運命付けられた昭和天皇は、この後をどう過ごし、成長していったのか。
実録は、あまり知られていなかった幼児期、初等中等教育の実態と本人の言動を、
初めて明らかにされた身辺の人々の記録からつぶさに描いている。
「学友が使う『こやつ』『ヤイ』『ウン』などの言葉を使われているので、
御養育掛長(かかりちょう)の丸尾錦作より、使用を慎むべきよう、言上を受けられる」
1906年(明治39年)6月14日、昭和天皇5歳。
幼少教育の責任者だった丸尾錦作が昭和天皇を諭す最初の記述だ。丸尾は学習院教授出身で、
昭和天皇の父、大正天皇の幼少時の教育にもあたった経歴を持つ。
丸尾からは、年長者の言うことには従順でなければならない、などとも教えられた。
こうして始まった、知られざる「帝王学」の現実を実録の記載から追った。
www.yomiuri.co.jp/feature/showa/20140910-OYT8T50199.html

君主の心得 歴史に学ぶ
2014年09月10日 10時15分
幼少時の昭和天皇(迪宮(みちのみや))は、誕生から70日目、
養育を託された枢密顧問官で伯爵の川村純義邸に移る。
川村は、第一に心身ともに健全な発育を目ざす、人を尊び難事に耐える習慣を育てる、
幼少から外国語の練習をする、といった養育方針を掲げた。

関ヶ原「裏切り」嫌う
同級生と「同等」
5歳の迪宮を諭した丸尾錦作は、明治半ばから大正天皇の養育係を務め、その信頼も厚かった。
迪宮が幼稚園教育を受けるにあたって“再登板”し、注意深く、温かく迪宮を見守った。
迪宮は、1906年(明治39年)5月から、東京・青山の皇孫仮御殿に特設された幼稚園で、
「御相手」と呼ばれる同じ年頃の子供たちと積み木や輪投げで遊び始めた。当
時の上流階級の子弟とあまり変わらない環境の中、弟宮と一緒に住み、比較的自由に過ごした。
将来の天皇となるための「帝王学」のスタートは、言葉遣いや礼儀作法など、そう特殊ではない、
基本的なしつけからだった。
2年間の幼稚園生活を終えた迪宮は、08年(明治41年)4月11日、学習院初等学科に入学する。
院長を務めた乃木希典らが決めた基本方針の一つは、同級生と同等に扱うことだった。
1年生は東西2組に分かれ、迪宮は西組に入った。同級生は12人。朝はまず呼吸体操を行い、
8時から1時限目が始まる。平日は4、5時限、土曜日は3時限の授業を受けた。
3年生の頃には歴史への興味を深め、10年(明治43年)7月6日には、
〈この日は関ヶ原の戦いに関する戦史の地図を御覧になり、
裏切りをする二心を持った者を嫌う旨を仰せになる〉と記録されている。
実録には、成績表の中身についての記載はないが、科目の好き嫌いはあったようだ。
〈第二時限の算術は重要ではないとの理由で、第四時限の理科と算数の時間の入れ替えの御希望を洩らされる〉。
算術も重要で、学校の規則は生徒の申し出に左右されるべきではない、と側近が強く注意すると、
11歳の迪宮はこれを聞き入れたという。

11歳で陸海軍少尉
「軍事学」始まる
少尉に任官し、大勲位菊花大綬章をつけた昭和天皇(1912年)
明治天皇崩御によって皇太子となった後の14年(大正3年)5月4日、特設された東宮御学問所に入り、
ここで7年間、本格的な学びの時が始まった。
歴史を担当した東京帝国大学文科大学教授・白鳥庫吉(くらきち)、
倫理担当の日本中学校校長・杉浦重剛らが教授陣として顔をそろえ、
華族の子弟から選ばれた5人が同窓生として机を並べた。
時間割には国語や算術のほか、倫理、習字、博物が組み入れられた。4年生からは、軍事学の授業もあった。
当時、男子皇族は原則軍人になる決まりで、将来、軍を統べる「大元帥」となる皇太子は
12年(大正元年)9月、11歳でいきなり陸海軍少尉になっていた。
放課後の自習や日記をつけることも日課だった。
人前に出た時の姿勢の正しさにも注意が払われるようになる。16年(大正5年)2月7日の週から、
〈将来の勅語等御朗読を顧慮し、朗読及びその際の書籍保持の御態度についても指導を受けられる〉。
姿勢が良くなるように、机や椅子まで改良が加えられた。
この頃から近視が進み、必要に応じて眼鏡をかけるようになった。
御学問所の教授陣による進講は、21年(大正10年)2月18日に御学問所の修学を終えてからも続いた。
11月25日の摂政就任後も、皇太子は公務の合間をぬって勉強している。

被災者に思い寄せる
ニュースに触れる
先祖にも学んだ。東宮御学問所時代、歴代天皇の陵(お墓)を巡る旅に出ている。
17年(大正6年)5月には、奈良・大阪方面に旅行し神武天皇陵、天武天皇・持統天皇陵などを参拝。
翌年4月には京都方面で祖父の明治天皇陵などを参拝した。
25年(大正14年)5月20日、歴代天皇の文書などを所蔵する京都の東山御文庫を見学した際には、
〈後櫻町天皇御日記、光格天皇より後櫻町上皇に贈られし宸翰(しんかん)及び
内裏炎上の際の孝明天皇御製(ぎょせい)宸翰は、
日々の修養のため写真にても座右に留め置きたき御希望〉を述べた。
宸翰は天皇直筆の文書のことだ。手元に置きたいとしたこれら宸翰は
「仁」や「徳」など君主の心得に触れたものという。
皇太子時代の欧州訪問で見聞を広め、先祖の教えを学び、心身を鍛える。
こうした実学に、様々なニュースに触れることも加わる。
18年(大正7年)1月21日、「ぬき穂」と呼ばれる冊子の第1号が皇太子の手元に届けられた。
各種雑誌から有益な論文・記事を抜き出し、まとめて印刷したもので、毎月1冊作られた。
21年(大正10年)になると、あらかじめ切り抜かれた新聞ではなく、
「時事新報」と「東京朝日新聞」が届けられるようになる。
世間の話題に触れ、人々の置かれた境遇を思う。
23年(大正12年)9月1日に関東大震災が起きた後の実録は、次のように記す。
大震災から約3週間後の同月24日。この日は、台風が接近し、日課にしていた乗馬が取りやめになった。
夜に入り、風雨はさらに強くなる。
〈皇太子は、バラックに仮住いする罹災者の状況を気遣う御言葉をしばしば側近に漏らされる〉
摂政就任から2年。将来の天皇として、人民を思う君主でなければならないという自覚がにじむ。
父が崩御し、皇位を継承するのは、この3年後だ。戦乱の時代が待ちかまえていた。
www.yomiuri.co.jp/feature/showa/20140910-OYT8T50187.html

乃木希典から「質実剛健」
2014年09月10日 10時05分
日露戦争を陸軍大将として戦い、学習院院長だった乃木希典(まれすけ)から昭和天皇が学んだことは
「質実剛健」だった。
天皇は、戦後の記者会見で、何度も乃木のエピソードを語っている。通学の方法を乃木から聞かれた時のこと。
「私は漫然と『晴天の日は歩き、雨の日は馬車を使います』と答えた。
すると大将は『雨の日も外套(がいとう)を着て歩いて通うように』といわれ、
私はその時ぜいたくはいけない(中略)質実剛健ということを学びました」
(1971年=昭和46年=4月20日の会見)
実録にも、07年(明治40年)4月4日、5歳の時、〈乃木より、今日の様に寒い時や雪などが降って
手のこごえる時などでも、運動をすればあたたかくなりますが、殿下はいかがでございますかと尋ねられ、
ええ運動しますとお答えになる〉という場面が出てくる。
天皇は満州事変後の34年(昭和9年)、軍備増強する陸軍大臣らに
〈予算は通過したとはいえ、すべて国民の負担であり、針一本すらも無駄にしないよう御注意になる〉。
乃木の教えは、生涯の指針となった。乃木は明治天皇崩御の後、夫人と殉死した。
これを聞き天皇は〈御落涙になる〉。

西洋史大家の著作を愛読
東宮御学問所時代には、西洋史の教科書となった箕作元八(みつくりげんぱち)の著作を読み、
「一番よく読んだのは、ヨーロッパの中世時代にわたる英仏戦争の興亡史」
(76年=昭和51年=11月6日の会見)だったという。
本を読み、「歴史の流れを知ると同時に、なかなか平和を保つということが困難であることを知りました」
(82年=昭和57年=9月7日の会見)とも回想している。

王者は私心挟まず 倫理担当民間校長
皇孫(明治天皇の孫)時代の11年(明治44年)に始まる中国の辛亥革命で清朝皇帝溥儀(ふぎ)が退位、
皇太子になってからの17年(大正6年)のロシア革命では皇帝が退位した。
東宮御学問所が開所した年に始まった第1次世界大戦(14~18年)でも欧州の王、皇帝の地位は揺さぶられた。
「王室瓦解」の空気の中、御学問所での7年間を通して歴史を担当した東京帝国大教授、
白鳥庫吉(くらきち)から「国史」を学び、歴代天皇の「聖徳」について教えられた。
同時代の情勢もよく学んだ。実録には20年(大正9年)7月7日の読売新聞の記事が引用されている。
〈近頃白鳥博士が露国の事に就いて御質し申し上げた所、殿下は言下に露国の社会状態、
同国の帝室の亡びたのは人民との関係が親密でなかつた事〉などを詳細に答え、
〈流石(さすが)の博士も舌を巻いて感嘆した〉。
「倫理」担当は民間の私立中学校校長から抜てきされた杉浦重剛だった。進講(授業)草案などによると、
第4学年1学期の講義は「日月無私照」であった。
王者の心得とは「公明正大にして些(いささか)の私を挟むべからざること」、
つまり王者はいささかも私心を挟んではならない、という帝王学を皇太子に説いた。
杉浦は、道徳は念仏ではなく実践、という人で、香淳皇后との結婚に反対する元老の山県有朋に対し、
〈人道上、取るに足らぬ些少の欠点をもって御内定を取り消すことは、満天下に悪模範を示す〉と反発、
御学問所を欠勤してしまう。その後、結婚は成就する。
天皇は摂政時代、女官制度改革に取り組み、即位後の29年(昭和4年)10月11日には、
理化学研究所製の人造清酒を飲み、清酒との違いのなさに気づいたことから、ある倹約策を提案する。
宮中の饗宴(きょうえん)では〈従来の清酒に代えて理化学研究所の人造清酒を用いたき思召しを示される〉。
輸入米とほぼ同量の米が酒造に使われていることを心に留めて、決断したことだった。

弟たちと毎夕電話
幼少期の天皇は、1歳の時に誕生した弟の淳宮(あつのみや)雍仁(やすひと)(のちの秩父宮)、3
歳の時に生まれた光宮宣仁(てるのみやのぶひと)(のちの高松宮)とともに東京・青山の皇孫仮御殿で育てられた。
だが、明治天皇崩御によって皇太子となって以降は高輪の東宮仮御所に移り、弟たちと離ればなれになった。
1913年(大正2年)5月1日、〈雍仁親王・宣仁親王との御通話のため、
東宮仮御所と皇子仮御殿とを結ぶ卓上電話が設置される。この日、初めて両親王と電話にてお話しになる〉。
この時、天皇は12歳。毎夕10分ほど電話で互いの声を聞くのが日課になった。
15年(大正4年)12月2日に澄宮(すみのみや)崇仁(たかひと)親王(三笠宮さま)が誕生した。
実録本文の大正5年4月10日は、翌日に東宮御学問所の始業式を控え、
澄宮御殿にいた幼い弟の顔を見に行ったことが記されている。
www.yomiuri.co.jp/feature/showa/20140910-OYT8T50165.html?from=yartcl_blist

スーツ姿で巡幸 大歓迎
2014年09月12日 10時05分
戦争に向かう中、次第に神格化され、国民から見えなくなっていった昭和天皇は、
終戦とともに「人間天皇」として歩み出す。その様子は、「衣・食・住」の変化からもうかがえる。


皇太子時代の1921年(大正10年)に行われた欧州訪問では、連日のように日本で動向が報じられた。
皇太子の写真はそれまで軍服姿だったが、スーツ姿の写真が登場。青年皇太子の旅先での振る舞いが庶民に受け、
人気が高まった。帰国後、東京では〈約六千名による大提灯行列が行われ、(略)万歳を三唱する。
(略)各戸は皇太子の御帰朝奉祝として国旗を掲揚し、各所で旗行列が行われる〉という熱狂ぶりだった。
だがその後、自らの意思に反し、天皇の神格化が進む。35年(昭和10年)には、
君主は国家の機関であるとする天皇機関説を、不敬の学説だと攻撃する「天皇機関説事件」が起きた。
実録では、〈天皇機関説排撃のために自分が動きのとれないものにされることは迷惑である〉と、
側近に不満を漏らした場面があるが、神格化の流れを止めることはできなかった。
翌年には、高橋是清蔵相らが暗殺された2・26事件が発生。1か月後の3月19日、
天皇は〈事件以来、御起床より御格子まで終日陸軍軍装にてお過ごしのところ、この日午後六時、
初めて背広にお召し替えになる〉。「軍服を着た現人神」のイメージが一般社会にも定着していった。
終戦後、天皇は軍服を脱ぎ捨てる。45年(昭和20年)10月には、〈今般御軍服の廃止に伴い、(略)
モーニング・コートをお召しになり、表拝謁ノ間において御写真の撮影に臨まれる〉。
翌年元日の「人間宣言」から約1か月半後に始まった地方巡幸(訪問)では、
〈天皇と民衆の接する機会を多からしむるように図り、御服も御平服をお召し頂くこととした〉。
スーツ姿となった「人間天皇」は、各地で熱狂的な歓迎を受け、周囲には人だかりができた。

宮殿跡の畑で甘藷掘り


食生活はどうだったか。終戦直後は、国民生活に合わせて質素だった。
実録では46年(昭和21年)10月、香淳皇后や皇太子(今の天皇陛下)らと皇居を散策し、
空襲で焼失した〈宮殿跡の畑において甘藷(かんしょ)掘り〉をした場面が描かれている。天皇は終戦直後、
いもや、すいとんといった代用品のほかに、タデやスベリヒユなどの野草も食べていた。
その後食生活は改善し、48年(昭和23年)5月に側近が開いた食事会では、
〈すき焼きを御会食になり、また米国製の缶ビールを召し上がる〉という記載も。
54年(昭和29年)8月、沖縄を除く46都道府県への地方巡幸を終える直前には、
記者に対して〈当初は国民の茫然自失のありさまに胸を痛めるものがあったが、その後国民の努力により
食料事情も好転しており喜ばしい〉と話し、復興を実感していた。

「防空施設」生活戦後も


天皇が、日米開戦から1年余の43年(昭和18年)から生活していたのが皇居内の防空施設
「御文庫(おぶんこ)」。空襲警報の際は、同建物の地下室に避難していた。
しかし、45年(昭和20年)6月には、〈昨月の空襲被害により、御誕生以来の御住居が御文庫を除いて
皆無となりしことを悼まれる〉事態に天皇は直面。終戦後も、御文庫での生活を余儀なくされた。
47年(昭和22年)6月、記者から御文庫についての質問を受けた天皇は、
〈公の仕事をするには少し狭いが、私生活には不自由はなく、引揚者・戦災者の状況を考えてみると
家を作る時ではないと思う旨〉を説明した。だが、53年(昭和28年)には、
〈御文庫食堂天井の漆喰(しっくい)の約七割が剥離し落下する〉事故が発生。
天皇、皇后ともに外出中だったため、難を逃れた。
その後周囲の勧めもあって、新たな住居「吹上御所」の建設が決定。完成したのは、終戦から16年後、
東京五輪が開かれる3年前の61年(昭和36年)だった。
その半年後、記者から吹上御所の住み心地を聞かれた天皇は、皇后と顔を合わせ、にっこり笑うと、こう答えた。
〈国民のおかげで住み心地もよく、明るい気持ちのいい家ができたので喜んでいる〉
www.yomiuri.co.jp/feature/showa/20140912-OYT8T50039.html

地方訪問 国民の中へ
2014年09月12日 10時15分
1946年(昭和21年)元日の「人間宣言」は、昭和天皇44歳の時。
その後は進んで地方巡幸(訪問)に赴いて人々と触れあい、「国民と共に歩む」新たな皇室像へ一歩を刻んだ。
その姿は各地で大歓迎を受ける。香淳皇后ら家族と過ごす時間も増えた。
昭和天皇実録は「人間天皇」への道を切りひらいてゆく姿を記した。

広島 災禍に「同情」
■最初は神奈川
宮城県の「みくに奉仕団」63人が皇居に入り、空襲で延焼した宮殿の焼け跡を整理する作業を行うのを見て、
天皇は団長に慰労の言葉をかけた。1945年(昭和20年)12月8日の実録に記述がある。
そのことを詠んだ。
<戦にやぶれしあとのいまもなほ民のよりきてここに草とる>
<をちこちの民のまゐきてうれしくぞ宮居のうちにけふもまたあふ>
天皇は奉仕団が献上した紅白餅を食したという。戦後の天皇と国民の交流の始まりを象徴する場面だ。
地方巡幸の最初の訪問先は神奈川県で、46年(昭和21年)2月19日、昭和電工川崎工場を視察後、
県庁でサンドイッチなどの昼食をとり、屋上で市街地や港湾の被災状況を視察した。戦災者共同宿舎を訪れ、
いたわりの言葉もかけた。
宮内省(当時)は、訪問先の国民が可能な限り天皇の間近に来られるようにする方針を打ち出した。
47年(昭和22年)12月7日、広島県で、原爆の被災地に向かった。広場での奉迎式典では
<広島市の受けた災禍に対しては同情に堪えない、またこの犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して
世界平和に貢献しなければならない>と話した。
長崎県では、49年(昭和24年)5月27日、自身も被爆しつつ被災者を助けたことで知られる
長崎医科大の永井隆教授を見舞った。
天皇は広島や長崎に原爆が投下された日や、終戦記念日には折に触れて、
<お慎みのためお出ましをお控えになる>ことがあった。55年(昭和30年)8月15日の実録には、
<夢さめて旅寝の床に十とせてふむかし思へばむねせまりくる>という歌がある。
終戦10年を経て、敗戦前後の日々を振り返り、胸にせまる思いが伝わってくる。

卓球で一家だんらん
■家族のきずな
45年(昭和20年)11月、日光に疎開していた皇太子が帰京、8日、約1年4か月ぶりに父子が再会した。
天皇は翌日、香淳皇后や皇太子が芋掘りをする様子を見て、夕食後は<御一緒にトランプに興じられる>。
その後、皇太子の住まいは東京・小金井町の東宮御仮寓所(かぐうしょ)になった。学習院中等科に進み、
家庭教師に米国人エリザベス・バイニング夫人が採用された。
天皇は何度か仮寓所を訪ねた。48年(昭和23年)7月4日には仮寓所で皇太子愛用のスクーターに試乗。
昼食後は皇太子の案内で周辺の雑木林も散策した。
皇后と過ごす時間も増えた。葉山御用邸に滞在中の8月14日、アカウミガメが産卵のため、
浜辺に上陸したことを聞いた天皇は皇后とともにウミガメを眺めた。
皇居に家族が集まると、食事後にディズニー映画を見たり、卓球やトランプ、侍従による手品を楽しんだりした。
天皇の孫の一人、壬生(みぶ)基博さん(65)は「昭和天皇は将棋が強かった」と振り返る。
「母の日」の場面が登場するのは51年(昭和26年)5月13日で、四女の順宮厚子(池田厚子さん)と
五女の清宮貴子(島津貴子さん)の手料理を皇后らとともに楽しんでいる。

皇太子妃に気遣い
■手料理
55年(昭和30年)7月25日から4日間は、軽井沢のホテルで、学生生活最後の夏を迎えた皇太子と過ごした。
御用邸を離れて一緒に過ごしたのは初めてで、<ゆふすげの花ながめつつ楽しくも親子語らふ高原の宿>と詠んだ。
皇太子と正田美智子(今の皇后さま)の結婚式が行われた翌々日の59年(昭和34年)4月12日、
元皇族や家族40人あまりと内輪の宴を開いた天皇は、民間から皇室入りした皇太子妃を気づかったのか、
<今後も皇太子・同妃に対し格別の支援が寄せられることを希望する旨を仰せられる>
皇太子夫妻は、60年(昭和35年)2月23日に誕生した浩宮(今の皇太子さま)を手元で育てることになり、
6月17日には、新居の東宮御所に親子3人で移った。
7月1日、天皇、皇后は東宮御所を訪ねた。皇太子、美智子妃、浩宮と庭や邸内を見て回り、
常陸宮さまも加わって<テラスにおいて皇太子妃手作りの料理を御会食になる。
なお皇太子妃・徳仁親王(浩宮)をお詠みになった次の御製(ぎょせい)(和歌)あり>
<山百合の花咲く庭にいとし子を車にのせてその母はゆく>
結婚50周年を控えた74年(昭和49年)1月23日、天皇は、皇后と共に会見し、
婚約時代の思い出について、<結婚前は親しく二人だけで話すことができなかった>などと振り返った。
www.yomiuri.co.jp/feature/showa/20140912-OYT8T50097.html

バチカン親善 自ら熱意…キリスト教
2014年09月13日 10時10分
日米開戦の約2か月前の1941年(昭和16年)10月13日、昭和天皇は木戸幸一内大臣に対し、
戦争終結の手段を最初から十分に考究しておくべきで、
そのためにローマ法王庁と親善関係を樹立する必要があると述べた。
翌42年(昭和17年)に日本はバチカンと外交関係を結び、その関係は終戦まで継続した。
この20年前、1921年(大正10年)に皇太子として訪欧した際、天皇は、
ローマ法王ベネディクトゥス15世と7月15日に面会している。
法王は、日本統治下の朝鮮で起きた独立運動にカトリック教徒が関係しなかったことを話題にした。
さらに、カトリック教会は〈各般の過激思想に対し奮闘しつつある最大の有力団体〉だとし、
日本とカトリック教会の将来の提携に前向きの姿勢を見せていた。
英米との関係が破綻寸前だった41年秋、欧米の精神世界に絶大な影響力を持つバチカンとの親善は、
時局収拾のために極めて重要な意味を持つと昭和天皇は考えたのだった。
戦後、昭和天皇は様々な宗派のキリスト教関係者と親密かつ頻繁に接触するようになる。
48年(昭和23年)7月7日には、日本基督教女子青年会会長・植村環による皇后への定例進講の場に、
天皇が〈お出ましになり、皇后と共に約一時間二十分にわたり新約聖書についての進講をお聴き〉になっている。
同様の進講は、その後も繰り返される。
植村は米国長老教会の招きで46年(昭和21年)春から1年間渡米、トルーマン大統領に、
日本が切に平和を願っている旨の天皇の言葉を伝えており、天皇の厚い信頼を得ていた。
昭和天皇は、在本邦ローマ法王使節パウロ・マレラはじめ多くのカトリック関係者とも度々面会した。
49年(昭和24年)6月8日、地方巡幸で大分県別府市のカトリック系孤児施設を訪問した際には
〈予定外に聖堂の奥まで案内を受けられ〉た。
48年(昭和23年)前後、天皇がキリスト教に改宗するのではとの説も流れた。
同年8月24日、オーストラリアの新聞の主筆が、キリスト教帰依について昭和天皇に質問している。これには
〈外来宗教については敬意を払っているが、自分は自分自身の宗教を体していった方が良いと思う旨をお答え〉
になったという。
戦後の一時期、昭和天皇はキリスト教をどのように見ていたのか。依然、謎として残されている。
www.yomiuri.co.jp/feature/showa/20140913-OYT8T50028.html

戦後の再生 豊穣を祈る
2014年09月14日 09時55分
昭和天皇が生きた20世紀は、戦争の世紀であるとともに大きな自然災害も多く、国土は荒れた。
戦後の高度成長の影では公害が人々を苦しめた。昭和天皇実録は、戦後、「国民統合の象徴」となった天皇が、
国土の再生や調和ある発展、減災を祈り、様々な「種」をまいたことを記す。
その思いは、平成の皇室に引き継がれた。

国土緑化へ植樹祭
■荒廃する森林
戦争で傷ついた国民を励ますため、1946年(昭和21年)から戦後地方巡幸(訪問)を続け、
その後も全国を訪ね続けた昭和天皇。その目には荒廃する森林の姿も映ったはずだ。
戦中戦後の木材需要の激増で森林は乱伐された。山の荒廃は、林業者の生活を困窮させ、時に水害も引き起こした。
こうした状況を受け、50年(昭和25年)4月、甲府市で国土緑化推進委員会など主催の植樹行事が行われた。
天皇は皇后とともに出席、ヒノキの苗を植え、〈ヒノキ・スギの種を(略)御播種になる〉。
行事は後に全国植樹祭と呼ばれるようになり、天皇の出席も恒例となった。
53年(昭和28年)4月4日に植樹行事が行われた千葉県富津町(現富津市)の会場は
〈東京湾の潮風を受ける砂地であり、防潮林での植樹行事は初の試み〉だった。天皇は、
〈クロマツの苗三本を「森」の字に型どり、お手植えになる〉。この時、詠んだ和歌に願いを込めた。
〈うつくしく森をたもちてわざはひの民におよぶをさけよとぞおもふ〉

被災地の惨状思う
■大震災の記憶
自然災害の猛威、それを少しでも減らす努力の大切さは、摂政時代に痛感していた。
23年(大正12年)9月1日、東京を中心に未曽有の被害を与えた関東大震災が発生。
同12日夜、22歳の若き摂政は〈物見台にお登りになり、震災後の帝都の夜景を御覧になる〉。
その時の様子を侍従は〈深ク御心ニ愁ヒサセラル〉と記した。
同15日と18日には、馬に乗って甚大な被害を受けた上野周辺を視察している。
1回目の視察の後、摂政は宮内大臣を呼んで言った。〈今回の大地震を見聞するに従い傷心益々深きを覚え、
今秋婚儀を行うに忍びず〉。同月19日、その秋に予定されていた久邇宮良子(ながこ)(香淳皇后)との
結婚の延期が発表された。
死者・行方不明者10万人以上という大震災の被害を拡大したのは、震災に伴って発生した火災だった。
道路が狭い過密都市東京では逃げ場を失った国民の多くが命を落とした。この年の11月28日、
摂政は〈帝都復興計画に関し、その規模があまりに小さい〉と側近に対し、減災対策の必要性を訴えている。
名代として皇太子(今の天皇陛下)を現地に遣わした59年(昭和34年)の伊勢湾台風に関しても、
天皇は水害を拡大する原因となった地盤沈下に、科学者らしく目を留めたようだ。
20年後の79年(昭和54年)には、天皇は同台風で大きな被害を受けた愛知県蟹江町を視察している。
この際、県副知事から〈地盤沈下による内水被害から地域住民の生命財産を守るため昨年九月に完成した
排水機場の概要をお聞きになる〉。
その後、操作室とポンプ室を見学し、歌を詠んだ。
〈台風のまがなきことをいのりつつ排水機場をわれは見たりき〉

自然との調和望む
■公害問題に言及
高度成長期を迎えて国民生活が豊かになる一方、乱開発による自然破壊が進み、
企業が汚染物質を長期間垂れ流して病に苦しむ人々が増える公害も社会問題化した。
61年(昭和36年)4月21日、天皇は佐賀県の国営有明干拓地を視察、特設展望台から干拓地を見渡した。
〈干拓事業の概要を御聴取になり、災害対策や干拓後の収穫見込量等につき御質問になる〉
ただ、心中は複雑だったようだ。この時の様子を詠んだ歌〈めづらしき海蝸牛(うみまひまひ)も
海茸(うみたけ)もほろびゆく日のなかれといのる〉のことば書き(説明文)は
「有明海の干拓を憂へて」となっている。
70年(昭和45年)9月16日、記者との懇談の場で天皇は公害問題について語っている。
〈経済が発展して日本国民が幸福になること、国民の富が増えることは喜ばしいことであるが、
公害の発生、自然の破壊にならぬよう望む〉
この時、同年大阪で開催された日本万国博に触れ
「万国博のテーマでもある『進歩と調和』の言葉通り実行してほしいと思います」とも語っている。
71年(昭和46年)には環境庁が発足した。
天皇が生物学研究の拠点とした皇居内の生物学御研究所の近くには水田がある。天皇は毎年、田植えをし、
自ら収穫している。崩御の7か月前、88年(昭和63年)6月2日、天皇はこの水田で田植えをした。
〈この度は御負担軽減のため、お手植えの株数をこれまでの十株から六株に減らされる〉。
これが最後の田植えだった。
水田では現在、今の天皇陛下が種もみまきから田植え、収穫までを自ら行われる。収穫された米は毎年、
五穀豊穣(ほうじょう)を感謝する新嘗祭(にいなめさい)で供えられている。
2014年09月14日 09時55分
www.yomiuri.co.jp/feature/showa/20140914-OYT8T50033.html

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

読売プレミアム
昭和天皇実録