昭和天皇実録 産経

昭和天皇実録 「激動の時代」に学びたい
2014.9.9 05:00 [主張]
宮内庁が編纂(へんさん)した「昭和天皇実録」の内容が公表された。
昭和天皇の誕生から崩御まで87年余、1世紀近い事跡を記した初の公式記録である。
特に即位後、64年にわたる昭和は、先の大戦を経験し敗戦から復興を遂げた苦難の時代だった。
とりわけ終戦の決断は、昭和天皇でなければ望めなかったといわれる。
昭和天皇を中心にまとめられた史料を虚心坦懐(たんかい)に読み、国のあり方を考える契機としたい。
昭和天皇実録は61巻、1万2千ページ余りにのぼり、来春から順次公刊される。
3千点以上の資料を基に、その日の昭和天皇の動静などを客観的に記述している。
実録の全体を通して改めて浮き彫りになったのは、平和を希求し国民と苦楽を共にした昭和天皇の姿である。
注目された終戦の「ご聖断」までの経緯では、ソ連軍が満州侵攻を開始したとの報告を受けた直後に
木戸幸一内大臣を呼び、鈴木貫太郎首相と話すよう指示を出したことも書かれている。
終戦直後の退位問題にも触れている。木戸内大臣に、
自らの退位により戦争責任者を連合国に引き渡さずにすむか聞いたことや、
極東軍事裁判の判決を前に退位が取り沙汰された際には、退位せず責任を果たす意向を示したことも記述された。
昭和21年から29年にかけ、戦禍で傷ついた国民を励ます全国巡幸は約3万3千キロに及んだ。
天皇は一人一人に生活状況を聞くなど実情に気を配った様子も分かる。
国民が一体感を持ち、奇跡ともいわれる復興を遂げた当時のことを多くの人に知ってもらいたい。
幼少期の手紙や作文なども初公開された。これまであまり知られていなかった逸話もある。
昭和天皇をめぐる歴史的資料はこれまでも多く見つかり、研究が行われている。
今回、新たな側近の日記なども発見され、さらに研究が進むものと期待されている。
24年かけて編纂に当たった関係者の労を多としたい。
平成になって四半世紀余りが過ぎ、激動の時代を身をもって体験した世代も少なくなりつつある。
来年は終戦70年の節目を迎えるが、国をいかに守り繁栄させていくかなど、昭和から引き継いだ宿題もなお多い。
貴重な記録が映し出した時代から学び考えていきたい。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090905000005-n1.htm

「ご聖断」ソ連参戦で決意 報告の18分後「終戦」側近に指示 公表の「実録」時系列から判明
2014.9.9 05:10
宮内庁は9日、昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。事
実として確認された言動や、側近らの謁見日時が時系列で示され、
これまで諸説あった終戦の「ご聖断」の経緯が明らかになった。
昭和天皇が最終的にポツダム宣言受諾を決意したのはソ連軍が満州に侵攻したとの情報を得た直後で、
ソ連参戦が「ご聖断」の直接原因だったとみられる。実録には幼少期の生活ぶりなども詳細に記され、
公表により近現代史研究が大きく進むことになりそうだ。
実録では、連合国が日本に降伏を求めたポツダム宣言を入手した昭和20年7月27日から
降伏の玉音放送が流れた8月15日までの20日間を36ページにわたり詳述。
それによると、昭和天皇は広島に原爆が投下された2日後の8月8日、賜謁した東郷茂徳外相に
「なるべく速やかに戦争を終結」させたいとの希望を述べた。
翌9日午前9時37分、ソ連軍が満州侵攻を開始したとの報告を受けると、直後の9時55分、
木戸幸一内大臣を呼び、戦争終結に向けて鈴木貫太郎首相と「十分に懇談」するよう指示。
木戸内大臣から天皇の意向を聞いた鈴木首相は、午前10時30分開催の最高戦争指導会議で
ポツダム宣言への態度を決定したいと答えた。
10日午前0時3分、御前会議が開かれ、鈴木首相から「ご聖断」を求められた昭和天皇は、
ポツダム宣言受諾を決心したと述べた。
昭和天皇のポツダム宣言受諾決意の時期には、広島や長崎への原爆投下時、ソ連参戦時など諸説あったが、
実録を分析した京都大の伊藤之雄教授(近現代史)は、広島への原爆投下時では2日後に終戦の意向を
閣僚の東郷外相に伝えたのに対し、ソ連参戦時は直後に側近中の側近だった木戸内大臣に指示した点を重視。
「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」としている。
実録の記述により、連日の本土空襲や原爆投下などで終戦の意向を強めた昭和天皇が、ソ連参戦で万策尽きたと判断。
これ以上の犠牲を広げないため、即時終戦に向けた動きを主導した当時の様子が明らかになったといえる。
また実録では、幼・少年期の手紙や作文を初めて公開。初出のエピソードも多数盛り込まれた。
一方、即位後の政治的発言や側近らの謁見内容が明かされないことも多く、編纂(へんさん)方針をめぐり議論を呼びそうだ。

昭和天皇
明治34(1901)年4月29日、皇太子時代の大正天皇の第1男子として誕生。名は裕仁(ひろひと)、
幼少時の称号は迪宮(みちのみや)。大正10(1921)年に20歳で摂政に就き、
15(1926)年に25歳で第124代天皇として即位。天皇陛下をはじめ男女7人の皇子をもうけた。
即位後、日本は満州事変、日中戦争を経て先の大戦に突入。昭和20(1945)年8月10日の御前会議で
降伏を決断し、15日にラジオによる「玉音放送」を通じて終戦を国民に告げた。
64(1989)年1月7日、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)のため、87歳で崩御した。

実録
天皇・皇族の事跡を時系列にまとめた記録。「実録」ではなく「紀」と命名された実録もあるが、
本質的には変わりがない。昭和天皇実録は宮内庁が平成2年に編纂を開始。2度の計画延長を経て、
24年5カ月をかけて今年8月21日に完成。宮内庁は全61巻(1万2137ページ)を
天皇、皇后両陛下に奉呈(献上)した。分量は天皇の実録としてこれまで最長だった明治天皇紀の1・5倍。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090905100002-n1.htm

靖国参拝問題 反対運動が影響 “富田メモ”解釈に触れず
2014.9.9 07:40
昭和天皇が昭和50年を最後に靖国神社に参拝しなくなったことについて、
野党各党などの反対運動が影響したことが「昭和天皇実録」の記述から明らかになった。
宮内庁の富田朝彦(ともひこ)長官の生前のメモを基にして、
いわゆるA級戦犯の合祀(ごうし)が原因だったなどとしたマスコミ報道については、
最初に日本経済新聞が報道した事実だけを記述した。
実録では50年11月21日の靖国神社参拝について、
「終戦三十周年に当たり、同社より御参拝の希望があり、また昭和四十年十月には終戦二十周年につき
御参拝になった経緯もあったことから、私的参拝という形で行われた」と説明した。
しかしその後、(1)日本基督教協議会ほか6団体による参拝中止の要望書(2)野党各党からの反対声明
(3)日本社会党議員による国会への質問主意書-が出され議論を呼んだとし、
「靖国神社への御参拝は、この度が最後となった」と記述した。
一方、「富田メモ」については63年4月28日の記述で富田長官と面会した際、
「靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀、御参拝について述べられる。
なお、平成十八年には、富田長官のメモとされる資料について『日本経済新聞』が報道する」と記した。
宮内庁は「日経新聞の報道が、社会的に大きな反響を呼んだので報道があったという事実だけを記述した」とし、
「富田メモにはさまざまな解釈があり、実録には(いわゆるA級戦犯合祀と靖国参拝との)
因果関係については記述していない」などと説明した。
靖国神社参拝問題に詳しい麗澤大の八木秀次教授は「靖国神社問題が政治問題化し、
参拝に不可欠な静謐(せいひつ)な環境が保てなくなったことが、不参拝の主因であることが
改めて明らかになったといえる。富田メモについては、宮内庁も認めているように解釈がさまざまあり、
あえて実録に記述する必要はなかったのではないか」と話している。

■富田メモ
昭和63年4月28日、富田朝彦宮内庁長官(当時)が昭和天皇に謁見した際の内容を記したとされるメモ。
いわゆるA級戦犯の合祀に触れた上、「あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと記されていた。
日本経済新聞が平成18年7月20日付朝刊でメモについて報じ、マスコミ各社も報じたが、
解釈をめぐり議論がある。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090907400006-n1.htm

ソ連参戦 「五分」と上奏、重臣ら甘い分析 ソ連頼りの終戦構想へ
2014.9.9 07:46
昭和20年2月、昭和天皇が首相などを経験した重臣7人に戦局の意見を求めた際、重臣らはソ連について
「米英に直ちに加担して対敵行動は取らない」「外交的成功を得たり」「対日参戦は五分」などと
誤った情勢分析を上奏(じょうそう)していた。同月のヤルタ会談でソ連はドイツ降伏3カ月後の対日参戦を
密約しており、重臣らの甘い対ソ認識に影響された昭和天皇は、ソ連を最後のよりどころにソ連の仲介で
戦争終結を構想するようになったとみられる。
(編集委員 岡部伸)
同9日に拝謁した広田弘毅元首相は「ロシヤニ付キテハ特ニ注意スルコト得策ナルベシ」と
中立条約を結んでいたソ連との関係維持の重要性を説き、
「ソハ直ニ米英ニ加担シテ我(日本)ニ対敵行動ヲトルナラント云ウニハアラズ」と甘い認識を示した。
また「条約上ノ制限ヲ拓開キタキ考モアルベク」とポーツマス条約などを破棄すれば、
ソ連が仲介和平に応じる可能性を報告。「蘇聯ニ対シイクラニテモヨキ立場ヲ造ルコト最大切ナリ」と、
いかなる手段をとっても対ソ関係保持を最優先とするよう進言した。
また「新シキ大使ヲ送ルコトモ可ナリト思考ス」と佐藤尚武(なおたけ)駐ソ大使更迭を提案した上で、
「蘇ト更ニ戦争ヲ起スコトハ不可ナリ。腹背ニ敵ヲ造ルコト今日ノ独逸ノ如クナリテハ心配ニ堪ヘズ」と
対日参戦を阻止すべきだとした。
牧野伸顕元内大臣は同19日、「米国の反共根本理念には変化なし」と、米国がソ連や中国共産党とは
共闘しないと誤った認識を示した。同26日に拝謁した東条英機元首相は
「(連合国側の)蘇聯ノ抱キ込ミモ今日迄成功シ居ラズ」
「十七年度ニハ蘇聯ハタツコトアルベシトセラレシガ然ラズ。外交的ニ成功ヲ得タリ」とソ連が連合国にくみせず、
対ソ外交が成功したと上奏。昭和天皇からソ連対日参戦の有無を問われると、
「五分と思考する」と楽観的な見通しを表明した。
ソ連仲介和平工作が本格化するのは、鈴木貫太郎内閣が発足した同年4月ごろからだが、
東郷茂徳外相に昭和天皇は同30日、一撃和平から早期終戦を希望するお言葉を述べている。
ソ連が対日参戦するヤルタ密約は、小野寺信ストックホルム駐在陸軍武官が2月中旬、
参謀本部に打電していたが、中枢で抹殺され、昭和天皇だけでなく、重臣や鈴木首相にも報告されなかった。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090907460007-n1.htm

言動考察、当時の社会情勢と照らし合わせ検証を
2014.9.9 07:50
宮内庁が公表した昭和天皇実録は、未公開の側近日誌などを含め3152点もの資料を同庁職員が
収集・分析し、史実と確認された昭和天皇の事跡を後世に伝えるために編纂された。
だが、その内容や編纂方針をめぐっては、歴史研究者らの間で評価が分かれることだろう。
初出のエピソードが多数盛り込まれた幼・少年期に比べ、即位後は内面に関わる記述が少なく、
教科書の書き換えが必要なほどの新事実はほとんどみられなかった。
宮内庁は編纂にあたり、昭和天皇の言動が政治問題化しないよう、必要以上に記述を抑制したのではないか。
例えば戦前の記述からは、よほど歴史に精通した者でなければ軍部の暴走などに苦悩する内面がうかがえず、
「昭和天皇は危機の中でもデッキゴルフ(スティックを使ったボールゲーム)ばかりしていたという
誤ったイメージを与えかねない」と、京都大の伊藤之雄教授は指摘する。
一方、読み解く側にも注意が必要だ。実録には、昭和天皇が陸海軍の大元帥として個別の作戦指導に関わった場面や、
終戦後に米軍の沖縄占領継続を希望したとする報告書の存在なども記された。
こうした言動は当時の社会情勢や政治システムの中で判断すべきで、現代の価値観をもって評価してはならない。
残念ながら、実録の記述を政治問題化しかねない風潮が今の社会にあるのも事実。
慰安婦問題をみれば、宮内庁の懸念を理解できなくもない。
激動の昭和史を明らかにすることは、現代の日本を考察する上で重要だ。当時の価値観と照らし合わせながら、
実録を正しく読み解く姿勢が求められている。
(川瀬弘至)
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090907500009-n1.htm

新資料は40件 整理・収集3152件から分析
2014.9.9 07:50
宮内庁が「昭和天皇実録」の編纂のために整理・収集した約3千件の資料のうち、
庁外から集めた初出の資料は約40件に上る。
特に「百武(ひゃくたけ)三郎日記」と「百武三郎関係資料」は、
研究者にも存在が知られていなかった新資料として注目されている。
百武三郎は明治5(1872)年、佐賀藩士の家に生まれ、海軍大将となった。
予備役だった昭和11(1936)年に鈴木貫太郎の後の侍従長となり、19(1944)年まで務めた。
資料は親族が保管。侍従長在任中の当用日記9冊と、その前後を含む時期の手帳約30冊、関連書類などが提供された。
一方で、戦争に至る経緯などを側近に述懐した初出の「拝聴録」の存在がいくつか判明したが、
「原本が見つからなかった」との理由で内容が盛り込まれず、昭和史の空白を十分に埋めることはできなかった。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090907500008-n1.htm

二・二六事件「御自ら暴徒鎮定に当たる御意志」 主要記述抜粋(誕生~日米開戦)
2014.9.9 10:24
神代を除く歴代天皇で最長となる87年余りにわたる生涯をまとめた「昭和天皇実録」には、
昭和天皇の事跡や歴史の重大場面がどのように記されているのか。主な記述の原文を抜粋した。
(数字は洋数字)

誕生
明治34年4月29日 午後10時10分御降誕、御身長1尺6寸8分(約51センチ)、
御体重800匁(もんめ)(約3000グラム)。御産所御次ノ間において御産湯を受けられる。

命名
同年5月5日 (明治)天皇より御名を裕仁(ひろひと)、御称号を迪宮(みちのみや)と賜(たま)わり、
宮内大臣名をもって官報に告示される。(中略)なお、親王のお印は皇太子妃の御選定により
「若竹」と定められる。(中略)一同は万歳を唱え、これが宮中の御宴において万歳が唱えられた初例という。

明治天皇崩御
明治45年7月29日 午後10時43分、天皇崩御す。急報により、午後11時12分、
雍仁(やすひと)親王・宣仁親王と共に御出門、御参内(さんだい)になり、御尊骸に御拝礼になる。
皇后より御尊顔を御記憶になるべき旨のお言葉あり。

欧州訪問
大正10年5月9日 (ロンドンのヴィクトリア駅に到着した昭和天皇=当時は皇太子=を
英国皇帝ジョージ五世が出迎え、一緒にバッキンガム宮殿に向かう御召馬車に乗車する際)
英国皇帝より最上位の席を勧められる。これを再三御辞退されると、英国皇帝が先(ま)ず御乗車になり
第二位席を占められたため、皇太子はやむをえず、皇帝右側の第一位席に御着座になる。
(中略)諸道路には拝観のため市民が殺到し、とりわけ宮殿前広場の周囲並びにヴィクトリア女帝記念碑の周辺は、
見渡す限り拝観者が黒山をなす。

摂政就任
大正10年11月25日 午後1時30分(枢密院)会議は終了する。牧野(伸顕)宮内大臣は、
直ちに葡萄(ぶとう)ノ間において皇太子に枢密院会議の結果を言上(ごんじょう)する。
ここにおいて、皇太子裕仁親王は摂政に就任する。

関東大震災
大正12年9月1日 午前10時赤坂離宮を御出門、宮城に御出務になる。11時58分、巨大地震が発生する。
突如上下の大きな揺れが起り、震動甚だしく、皇太子は直ちに西一ノ間より前庭に避難される。
15日 午前6時、御乗馬にて赤坂離宮御出門、摂政として罹災地(りさいち)を御視察になる。
19日 今秋御予定の邦彦王第一女子良子女王との御婚儀を延期し、明春1月上旬から2月上旬の間に
挙行することが発表される。これより先、16日、皇太子は宮内大臣牧野伸顕をお召しになり、
今回の大地震を見聞するに従い傷心益々深きを覚え、今秋婚儀を行うに忍びずとして、
延期を希望する旨を述べられる。

結婚
大正13年1月26日 午前9時10分、特別鹵簿(ろぼ、行幸の列)にて赤坂離宮を御出門になる。
(中略)沿道数万の民衆による万歳の歓声の響くなか、宮城正門より綾綺殿(りょうきでん)に参入される。
(中略)皇太子は束帯黄丹袍(おうにのほう)の儀服を召され賢所へ御参進になり、
ついで皇太子妃は五衣、唐衣、裳の儀服を召され御参進になる。皇太子・同妃は相次いで内陣に着座され
御拝、皇太子は御告文を奏される。

践祚(せんそ)・改元
大正15年12月25日 午前1時25分、天皇は心臓麻痺(まひ)により遂(つい)に崩御される。
宝算(ほうさん)48歳、御在位15年に渉(わた)らせられる。(中略)天皇崩御につき、
皇太子裕仁親王は皇室典範第10条の規定により、直ちに皇位を践(ふ)ませられる。
(中略)詔書は直ちに官報号外をもって公布され、ここに元号を「昭和」と改められる。

即位の礼・大嘗祭(だいじょうさい)
昭和3年11月10日 それより天皇は北階より高御座(たかみくら)に昇御される。
(中略)天皇は内大臣より勅語(ちょくご)書を受け取られ、勅語を宣せられる。
同14日 ここに悠紀殿(ゆきでん)供饌の儀は終了する。
翌15日午前0時より主基殿(すきでん)供饌の儀につき、(中略)夜半より雨が降り始め、
この頃には強雨となる。

田中義一首相叱責〈張作霖事件〉
昭和4年6月27日 午後1時35分、御学問所において内閣総理大臣田中義一に謁を賜い、
張作霖爆殺事件に関し、犯人不明のまま責任者の行政処分のみを実施する旨の奏上をお聞きになる。
今回の田中の奏上はこれまでの説明とは大きく相違することから、天皇は強き語気にてその齟齬(そご)を詰問され、
さらに辞表提出の意を以て責任を明らかにすることを求められる。また田中が弁明に及ぼうとした際には、
その必要はなしとして、これを斥(しりぞけ)けられる。

海軍軍縮条約〈統帥権干犯〉
昭和5年5月26日 午前10時、今般帰朝につき参内のロンドン海軍軍縮会議全権委員財部彪(たけし)に
謁を賜い、軍縮会議の経過概要をお聞きになる。財部には苦労をねぎらわれ、
今後条約の批准ができるよう努力せよとの御言葉を賜う。
6月10日 午前11時5分、海軍軍令部長加藤寛治に謁を賜い、本年度海軍大演習計画に関する上奏を受けられる。
その後、軍令部長は突如としてロンドン海軍軍縮条約に対する所信を言上、辞表を奉呈の上、同17分退下する。
事態を受け、天皇は直ちに侍従長鈴木貫太郎・侍従武官長奈良武次をお召しになり、
軍令部長によるこの度の辞表奉呈について御下問になり、その処理をお命じになる。
(中略)この日の侍従日誌は「本日は殊に御心労在らせられたる御模様に拝したり」と記す。
10月2日 内閣より送付された「1930年ロンドン海軍条約御批准ノ件」を裁可され、
同条約の御批准書に御署名になる。(※この問題で昭和天皇は、協調外交と緊縮財政のため条約締結を目指す
浜口雄幸内閣の方針を一貫して支持したが、海軍軍令部などの反発は大きく、統帥権干犯だとする批判が続出。
浜口首相は11月14日に東京駅で右翼青年に狙撃される) 

満州事変
昭和6年9月19日 午前9時30分、侍従武官長奈良武次より、昨18日夜、
満洲奉天付近において発生した日支両軍衝突事件について奏上を受けられる。
22日 天皇は若槻(礼次郎総理)に対し、事態の不拡大という閣議の方針を貫徹するよう努力すべき旨を
御懇諭になる。

天皇機関説
昭和10年3月29日 侍従武官長をお召しになり、天皇機関説につき陸軍が内閣総理大臣に迫り
解決を督促するのではないかと御下問になる。
また、憲法第1章第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」につき、
すなわち機関説であるとのお考えを示される。(※昭和天皇は天皇機関説に理解を示していた)

二・二六事件
昭和11年2月26日 午前7時10分、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、事件発生につき
恐懼(きょうく)に堪えない旨の言上を受けられる。
これに対し、事件の早期終息を以て禍を転じて福となすべき旨の御言葉を述べられる。
(中略)以後、頻繁に武官長をお召しになり、事件の成り行きを御下問になり、事件鎮圧の督促を行われる。
27日 天皇は武官長に対し、自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい
行為である旨の御言葉を漏らされる。また、御自ら暴徒鎮定に当たる御意志をしばしば示される。
28日 午後、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、陸軍大臣川島義之・陸軍省軍事調査部長山下奉文(ともゆき)より、
首謀者一同は自決して罪を謝し下士以下は原隊に復させる故、自決に際して勅使を賜わりたい旨の申し出が
あったことにつき、言上を受けられる。これに対し、非常な御不満を示され御叱責になる。
29日 午前6時、戒厳司令部より、戒厳令第14条全部を適用し断固叛徒の鎮圧を期す旨、
並びに強行解決を図るに決した経緯が発表される。(中略)事態は兵火を交えることなく収束に向かう。

南京陥落
昭和12年12月13日 大本営陸軍部より、本日夕刻に南京を攻略した旨が発表される。
これより先の一昨11日、満洲国皇帝溥儀より南京方面における戦捷(せんしょう)を祝する電報が到達につき、
この日答電を御発送になる。
22日 午後5時31分、参謀総長載仁(ことひと)親王に謁を賜い、
南京攻略による英米両国の反日感情の激化に鑑(かんが)み、第5軍を台湾に待機させることにつき
上奏を受けられる。

開戦に至る経緯・宣戦の詔書
昭和16年9月6日 午前10時、(対米交渉を尽くしても10月上旬頃までに成果がなければ
開戦する方針を決める)御前会議開催につき、東一ノ間に臨御される。
(中略)会議のまさに終了せんとする時、天皇より御発言あり。
(中略)天皇は、毎日拝誦(はいしょう)されている明治天皇の御製(ぎょせい
)「よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」が記された紙片を懐中より取り出し、
これを読み上げられ、両統帥部長の意向を質される。
10月17日 午後5時4分、御座所に内大臣をお召しになり、同33分まで謁を賜う。
なお、内大臣は命を奉じて、(東条英機内閣が発足するに当たり)陸海両相に対し、左のとおり伝達する。
「(前略)国策の大本を決定せられますに就いては、(10月上旬頃までの開戦方針を決めた)
9月6日の御前会議の決定にとらはるゝ処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、
慎重なる考究を加ふることを要すとの思召であります」(いわゆる白紙還元の御諚(ごじょう))
12月1日 午後2時、御前会議開催につき、東一ノ間に出御される。(中略)首相(東条英機)は、
今や皇国は隆替(りゅうたい)の関頭(かんとう、盛衰の分かれ目)に立っており、開戦と決定すれば、
一同共に政戦一致施策を周密にし、挙国一体必勝を確信し、全力を傾倒して速やかに戦争目的を完遂し、
誓って聖慮を安んじ奉らんことを期すと述べ、会議の終了を宣言する。(中略)午後4時45分、
本件(開戦の決定)に関する陸軍及び海軍よりの上奏書類を御裁可になる。
8日 午前11時25分、内閣上奏書類「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告ノ件」を裁可され、
(中略)同45分、米国及び英国に対する宣戦の詔書が渙発(かんぱつ)される。

明治宮殿の焼失
昭和20年5月 空襲警報発令につき、25日午後10時36分より26日午前1時34分まで、
皇后と共に御文庫地下室に御動座になる。(中略)午前1時頃、警視庁方面からの飛び火により
正殿にも出火あり。(中略)5時頃、宮殿はわずかに御静養室を残して灰燼(かいじん)に帰す。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090910240011-n1.htm

「退位により戦争責任者の聯合国への引渡しを取り止めることができるや否や」 主要記述抜粋(終戦~崩御)
2014.9.9 12:10
「昭和天皇実録」の後半には、終戦の「聖断」にいたる過程や、
戦後の激動の時代での昭和天皇の動きが記されている。(数字は洋数字に変換)

終戦の御前会議・詔書
昭和20年8月10日 午前0時3分、御文庫附属室に開催の最高戦争指導会議に臨御される。
(中略)午前2時過ぎ、議長の首相(鈴木貫太郎)より聖断を仰ぎたき旨の奏請を受けられる。
天皇は、(中略)股肱(ここう)の軍人から武器を取り上げ、臣下を戦争責任者として引き渡すことは忍びなきも、
大局上三国干渉時の明治天皇の御決断の例に倣い、人民を破局より救い、
世界人類の幸福のために外務大臣案にてポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる。
14日 午前11時2分、侍従武官長蓮沼蕃(しげる)を従えられ、御文庫附属室に開催の御前会議に臨御される。
(中略)開会後、首相は(中略)重ねて御聖断を下されたき旨を言上する。(中略)天皇は、国内外の現状、
彼我国力・戦力から判断して自ら戦争終結を決意したものにして、変わりはないこと、
(中略)国家と国民の幸福のためには、三国干渉時の明治天皇の御決断に倣い、決心した旨を仰せられ、
各員の賛成を求められる。(中略)午後9時20分、内閣上奏書類「帝国ノ方針ニ関スル件」を御裁可になり、
詔書に署名される。

退位論
同年8月29日 午後、内大臣木戸幸一をお召しになり、(中略)自らの退位により、
戦争責任者の聯合国への引渡しを取り止めることができるや否やにつき御下問になる。
昭和21年3月6日 御文庫に木下(道雄侍従次長)をお召しになり、(中略)天皇は自らの御退位につき、
新聞報道に関連して現状ではその御意志のない旨をお伝えになる。

新日本建設に関する詔書の発布〈いわゆる「人間宣言」〉
同年1月1日 新年に当たり、詔書を発せられる。
(中略)本詔書は、天皇の国民と共に平和日本の再建を希求された叡慮(えいりょ)をお示しになったものであるが、
同時に天皇を現人神とすることを排した一文から、後年、天皇の人間宣言と通称される。

戦後巡幸
同年2月19日 火曜日 全国の戦災復興状況その他一般民情御視察の思召しにより、その最初として
神奈川県下に行幸される。この日の行幸は、以降昭和29年の北海道行幸まで行われた地方巡幸の
嚆矢(こうし)となる。(中略)宮内省では従来の慣例に固執することなく、(中略)一般民衆に対しては
民業に支障を来さざるよう特別の制限を行わず、交通上も整理程度に留め、可能な限り間近く奉拝の機会を設け、
天皇と民衆の接する機会を多からしむるように図り、御服も御平服をお召し頂くこととした。

日本国憲法の制定過程
昭和21年3月5日 午後5時43分より7時10分まで、御文庫において内閣総理大臣幣原(しではら)
喜重郎・国務大臣松本烝治(じょうじ)に謁を賜い、憲法改正草案要綱についての奏上を御聴取になる。
昨日午前、聯合国最高司令部に提出された日本国憲法草案は、同司令部において(中略)夜を徹しての
改正作業が進められ、この日午後4時頃、司令部での作業が終了する。一方、首相官邸においては、この日、
朝より閣議が開かれ、同司令部から順次送付された改正案について対応策が協議される。閣議においては、
改正案を日本側の自主的な案として速やかに発表するよう同司令部から求められたことを踏まえ、
(中略)勅語を仰いで同案を天皇の御意志による改正案とすることを決定する。

天皇の沖縄メッセージ〈シーボルト文書〉
昭和22年9月19日 午前、内廷庁舎御政務室において宮内府御用掛寺崎英成の拝謁をお受けになる。
なお、この日午後、寺崎は対日理事会議長兼連合国最高司令部外交局長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを
訪問する。シーボルトは、この時寺崎から聞いた内容を連合国最高司令官及び米国国務長官に報告する。
この報告には、天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、(中略)
米国による沖縄等の軍事占領は、日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべきであると感じておられる旨、
この占領方式であれば、米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、また他の諸国、
とりわけソ連と中国が類似の権利を要求し得ないことを日本国民に確信させるであろうとのお考えに
基づくものである旨などが記される。

対日平和条約・日米安全保障条約
昭和26年9月9日 米国カリフォルニア州サンフランシスコ市において「日本国との平和条約」の調印式が行われ、
日本時間の午前3時34分、首席全権内閣総理大臣吉田茂以下講和全権委員が条約書に署名する。
天皇は午前7時よりラジオ放送にて、講和条約調印式の録音を中心とした特別番組をお聞きになる。
同年11月19日 午後5時、(行幸中の奈良県知事公舎で)「日本国との平和条約」及び
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」の批准書に御署名になる。
昭和27年4月28日 天皇は午後10時30分よりラジオにて条約発効の実況中継を皇后と共にお聞きになる。

戦没者追悼〈靖国神社参拝〉
昭和21年4月30日 靖国神社例祭につき、幣帛料(へいはくりょう)・神饌料(しんせんりょう)を
御奉納になる。また、勅使として掌典川出清彦に参向を仰せ付けられるも、
同社より聯合国総司令部に手続きを問い合わせたところ、不適当との意向により、
急遽、勅使の御差遣をお取り止めになる。以後、昭和28年秋季例祭にて再開されるまで、勅使参向は行われず。
昭和27年10月16日 靖国神社御参拝のため、午前9時3分皇后と共に御出門、同社に行幸される。
御着後、宮司筑波藤麿の先導により本殿の御拝座に進まれ、御拝礼になる。皇后も同様に拝礼される。
(中略)天皇の靖国神社御参拝は昭和20年11月20日以来、皇后は同年5月5日以来のほぼ7年ぶりとなる。
昭和50年11月21日、靖国神社及び千鳥ヶ淵戦没者墓苑に御参拝のため、午前10時32分皇后と共に
御出門になり、両所に行幸される。最初に靖国神社に御到着、本殿御拝座にて御拝礼になる。
(中略)この御参拝に対して、日本基督教協議会ほか6団体から宮内庁長官に参拝中止の要望書が提出され、
また野党各党からは反対声明が出された。さらには衆議院議員吉田法晴(日本社会党)から
天皇の靖国神社参拝に関する質問主意書が国会に提出されるなど論議を呼んだ。なお靖国神社への御参拝は、
この度が最後となった。
昭和63年4月28日 午前、吹上御所において、宮内庁長官富田朝彦(ともひこ)の拝謁をお受けになる。
(中略)靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀(ごうし)、御参拝について述べられる。
なお、平成18年には、富田長官のメモとされる資料について『日本経済新聞』が報道する。

訪米
 昭和50年10月8日 (米カリフォルニア州のディズニーランドで観覧した建国200年祭記念パレードで)
天皇は、次々と御座所の前を(山車などが)通過するのを御覧になり、拍手を送られる。
これに寄せて詠まれた歌は次のとおり。
二百年のすぎゆきを示すアメリカのパレードを見つ少年らとともに
なおこの日 園内には約1万6千名の一般入場者がおり、各所で拍手などによる歓迎があった。
また同園より非公式にミッキー・マウスの腕時計が贈られ、以後数年間御愛用になる。

病気・崩御
昭和63年9月19日 御夕餐後、御床にてお休みのところ、午後10時前、大量の吐血をされる。(中略)
最高血圧は一時90台に下がる。
昭和64年1月7日 午前6時33分、吹上御所において、皇太子・同妃・徳仁親王・文仁親王・清子内親王・
正仁親王・同妃・故雍仁(やすひと)親王妃・故宣仁親王妃・崇仁親王・同妃・寛仁(ともひと)親王・
同妃・憲仁親王・同妃、並びに池田隆政・同厚子、島津久永・同貴子・同禎久(よしひさ)、
近衛忠●(=火へんに軍)・同●(=ウかんむりの下に心、その下に用)子(やすこ)、
千政之・同容子(まさこ)、東久邇(ひがしくに)信彦・同吉子、壬生(みぶ)基博・同幸子、
東久邇真彦・同賀鶴子、元皇族総代竹田恒徳・同光子に見守られる中、遂に崩御される。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090912100017-n1.htm

全国巡幸3万3千キロの8年半 戦後復興、国民とともに 「四万人御身辺に押し寄せ」
2014.9.9 14:18
9日に公表された昭和天皇実録。戦後の記述で特筆すべきものの一つが、
終戦半年後の昭和21年2月から約8年半かけて、戦禍で傷ついた国民を励ました「全国巡幸」だ。
特に盛んだった21~25年は、1年分ごとに1巻が割かれた。詳細な描写は少ないが、
淡々と記された記録を追うだけで、遺族や孤児、傷痍(しょうい)軍人、
外地からの引き揚げ者らと連日向き合い、その傷痕と復興への努力に触れた約3万3千キロの軌跡が浮かぶ。
巡幸は21年2月19日、神奈川県から始まった。工場や戦災者宿舎、大空襲から再建した商店街を回り、
一人一人に「生活状況について御下問」もし、終戦まもない国民と国内の実情に気を配った。
本格化すると、長い時は1カ月近く皇居を離れ、朝から夜までほぼ連日10カ所近くを回った。
戦争に敗れた直後で世情が不安定な中、宮内省(現・宮内庁)は国民ができるだけ近くで
昭和天皇と接することができるようにするため、警備を簡素化した。
22年6月5~7日の大阪府訪問の記述からは、その近さと当時の熱気が伝わる。
「約四万人の市民が御身辺に押し寄せ御歩行不能の状態に」「府庁前に参集の約千五百名からなる
学童合唱団による奉迎歌の奉唱が聞こえてきたため、食事を中断され、再びバルコニーにお出ましの
思召しを示されるも、再度の混乱を憂慮した侍従の願いを容(い)れられ、お取り止めになる」
被爆地も訪ねた。22年12月に広島、24年5月に長崎へ。
広島では「自動車にて原子爆弾の被災中心地に向かわれ」
「車窓より平和の塔越しに元広島産業奨励館(原爆ドーム)を臨まれる」。
当時はまだ原爆投下から2年ほど。被爆した人や戦災孤児らも慰問した。
「戦災者の簡易住宅に眼をとめられ、戦災者の耐乏生活等につき御下問」したり、
時には「雨後泥濘(でいねい)の畦道」を歩いたりと、国民に寄り添った。
収録された御製(ぎょせい、和歌)には、国民への深い思いがにじむ。
 わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ(21年)
 国民(くにたみ)とともにこころをいためつつ帰りこぬ人をただ待ちに待つ(24年)
20年11月29日、謁見した弟宮らに対し、伊勢神宮への終戦報告のため三重、奈良、京都を訪問
(同月12~15日)したことで「国民との近接を図り得たと感じる」との趣旨を述べている。
巡幸はこの体験が原点となったものとみられる。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090914180018-n1.htm

果たせなかった沖縄訪問…平成に受け継がれた思い
2014.9.9 14:20
昭和天皇実録では、全国巡幸中は米国施政下のため47都道府県で唯一訪問できず、
その後もついに訪れることができなかった沖縄への強い思いもうかがえる。
「訪米前に自分が沖縄に行くことができないかとお尋ねになった旨が伝えられる」。
昭和50年4月16日、上京した沖縄県知事に、宮内庁長官から昭和天皇の思いが伝達されたことが記されている。
実録は、GHQ(連合国軍総司令部)側に22年、天皇が沖縄の長期占領を望んでいることが伝えられた-
と記載されたいわゆる「シーボルト文書」の存在に触れたが、
天皇が沖縄への訪問希望を何度も述べた事実の記述もある。
62年に予定された念願の訪問は開腹手術で断念となったが、名代の皇太子時代の天皇陛下に託し、
「健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したい」と決意を記したお言葉全文も、実録に掲載された。
その思いは、天皇陛下が引き継がれている。50年の訪問時には火炎ビンを投げつけられたが、
即位前を含め10回ご訪問。「戦争で沖縄の人々の被った災難というものは、
日本人全体で分かち合うということが大切ではないかと思っています」。
平成24年の誕生日会見で、こう語られている。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090914200019-n1.htm

自作の物語に「裕仁新イソップ」 解剖したカエルに「正一位蛙大明神」 幼少期の新逸話
2014.9.9 15:53
「昭和天皇実録」では、昭和天皇をめぐって、さまざまなエピソードや話題が明らかにされている。

クリスマスで靴下におもちゃ
6歳の時、父の皇太子(大正天皇)と皇太子妃(貞明皇后)から靴下に入った
おもちゃのクリスマスプレゼントをもらった。
皇室が異文化や他宗教に寛容だった様子がうかがえる。(明治40年12月18日)

裕仁新イソップ
貞明皇后などから「イソップ物語」を聞かされていたことから、11歳の時、物語を自作し、
「裕仁新イソップ」と命名。「海魚の不平」と題した作品は、ほかの魚の才能をうらやむタイたちを、
目の見えないウナギがたしなめる内容で「自分よりも不幸な者の在る間は身の上の不平を言ふな」との
教訓を付記している。(明治45年3月16日)

カエルの解剖
学習院初等学科の5年生になったばかりのころ、授業でカエルの解剖を行った。よほど興味を覚えたのか、
帰宅してから再びカエルを解剖。観察後はカエルの死骸を庭に埋め、「正一位蛙大明神」の称号を与えた。
(同年4月27日)

明治天皇の命日
明治天皇が亡くなった日時については、官報の「7月30日午前0時43分」より2時間早い
「7月29日午後10時43分」とした。
宮内庁は既に大正天皇実録などにも同様に記していたが、今回の編纂(へんさん)では
昭和天皇の側近の日誌などを根拠にしたという。
当時は一般の人でも叙位、叙勲を受ける関係などで死亡時刻をずらすことがあったという。(同年7月29日)

ゴルフは16歳から
昭和天皇は即位に伴って赤坂離宮から皇居に移る際、吹上御苑にゴルフコースを建設させるなど、
戦前はゴルフに熱中していたことで知られるが、初めてゴルフをしたのは16歳。
弟の雍仁(やすひと)親王(秩父宮)、宣仁親王(高松宮)が暮らしていた「皇子御殿」で、
2人と一緒にプレーしたという。(大正6年5月27日)

戦艦大和の命名
海軍が建造中だった世界最大の戦艦を「大和」と命名した。当時、戦艦名には旧国名を用いており、
海軍が「大和」と「信濃」の候補を挙げ、昭和天皇は「大和」を選んだ。
同時期に戦艦「武蔵」、航空母艦「翔鶴(しょうかく)」「瑞鶴(ずいかく)」も命名している。
(昭和15年7月25日)

ヒトラー批判「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲ…」
ナチス・ドイツのヒトラーは、降伏したフランスとの休戦協定の調印を、
第一次世界大戦に敗れたドイツの調印地と同じ仏コンピエーニュの森で行った。
敗戦国に屈辱を与える手法について、「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、
勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、
アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」と批判した。(昭和15年7月31日)

終戦の御前会議
ポツダム宣言受諾の「ご聖断」を下した昭和20年8月の最後の御前会議の正確な開始時刻が
「10日午前0時3分」だったことが実録の記述で明らかになった。
これまで「9日午後11時」「9日午後11時50分」「10日未明」の各説があったが、
時刻が確定したといえる。(昭和20年8月10日)

特例の陪食
昭和天皇は昭和19年以降、外国人の陪食を中止していたが、知日派のロバート・アイケルバーガー
米第8軍司令官が帰国する際には、特例として食卓を囲んでいた。アイケルバーガーは、
外交官で終戦連絡横浜事務局長を務めた鈴木九萬(ただかつ)との往復書簡が明らかになったばかり。
この日の陪食には、鈴木も同席していた。(昭和23年7月19日)
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090915530020-n1.htm

「しんじゆくや、どう物園などへまゐりました」幼少期の手紙や作文を初公開
2014.9.9 16:30
昭和天皇実録は、初めて公開される幼少時の手紙や作文も収録している。
明治44年4月に祖母(昭憲皇太后)に宛てた手紙では「御ばば様」と呼びかけて健康を気づかい、
春休み中の出来事や学校生活開始の報告をしている。「しんじゆくや、どう物園などへまゐりました。」と
漢字と平仮名が入り交じるところからは、9歳の子供らしさも垣間見える。
同年10月の運動会に関する作文では、準備の様子から他学年の競技まで詳細に記し、
メダルが取れたこと、両親が参観に来たことの喜びを書き残している。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090916300021-n1.htm
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大正天皇と鬼ごっこ、家族の愛情に包まれ固い絆 終戦前に皇族一丸
2014.9.9 17:00
宮内庁が9日公表した「昭和天皇実録」では、幼少期の両親や実祖母との交流や、
弟宮たちとの絆に支えられ激動の時代を乗り切る様子などこれまで知られていなかったエピソードが記述され、
昭和天皇の87年にわたる生涯が家族の愛情や皇族の協力に支えられたものだったことが分かる。
昭和天皇は生後間もなく両親の大正天皇と貞明皇后から離され、養育掛に育てられた。
だが、6歳だった明治41年の学習院初等学科入学まで、両親に少なくとも252回、
明治天皇の側室で昭和天皇の実祖母である柳原愛子(やなぎわら・なるこ)に30回も会っていた。
大正天皇と鬼ごっこや映画鑑賞を楽しんだり、貞明皇后に童話を読み聞かせてもらうなど、
家族水入らずの時間も過ごしている。昭和天皇が皇室の伝統にとらわれない
家庭的な雰囲気の中で育ったことが分かる。
一方、昭和天皇は皇族たちとの親睦にも熱心で、生涯を通じ皇族たちと食事会などを頻繁に催している。
とりわけ、1歳下の雍仁(やすひと)親王(秩父宮)、4歳下の宣仁親王(高松宮)、
14歳離れた崇仁親王(三笠宮さま)の3人の弟宮との関係は深く、
弟たちと、ときには衝突しながらも固い兄弟の絆で結ばれていた。
陸軍軍人の雍仁親王とは、昭和15年の日独伊三国同盟などへの意見の違いから、ときに衝突を繰り返した。
だが、雍仁親王の薨去(こうきょ)直前の27、28年には、雍仁親王に手紙を送ったり、
容体を侍医に繰り返し尋ねたりするなど、心配を募らせている様子がよく分かる。
海軍軍人だった宣仁親王は、16年の日米開戦の直前に「統帥部は戦争の結果は無勝負又は辛勝と予想している」と、
弟だからこその率直な意見を伝えた。昭和天皇は弟の言葉をきっかけに「敗戦の恐れありとの認識」を示している。
終戦3日前の8月12日、昭和天皇は皇族たちを呼び、終戦の決意を表明。皇族は一様に賛同し協力を伝えた。
16日以降、皇族たちは一斉に内外に散り、昭和天皇の代理として終戦の伝達役を担うなど危機に直面した
皇室が一丸となったことも改めて確認された。
sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090917000022-n1.htm

幼・少年期 威張るライオンは嫌い?
2014.9.14 09:51
《この日、お好きな動物を鉛筆にて順番にお記しになる。第一はトラにて、第二ヒョウ、第三ワニ、
第四ウサギ、第五イヌ…(中略)また、ライオンは威張っているとの理由にて
(20位の)コバンザメよりも後と仰せになる》
「昭和天皇実録」の3巻に書かれた、明治43(1910)年7月17日の記述だ。
当時、昭和天皇は学習院初等学科3年の9歳。動物園に行ったり虫捕りしたりするのが何より好きな少年だった。
■“科学者”の素地
同年7月3日《この頃、動物園遊びを頻繁にされる。(中略)別室を参考室と称され、
動物に関する絵本等をお並べになり、動物の種類及び産地等を紙に記されてお示しになる》
8月1日《(葉山御用邸に滞在中)海岸ではしばしば魚介類や藻類を御採集になり、
また御用邸近傍の地においては捕虫網にて蝶などの虫捕りを行われること多く、
捕獲された昆虫類は標本箱にて御整理になる》
8月28日《西洋罫紙(けいし)に「てふとがとせゝり」(蝶と蛾とセセリチョウ)を題に、
鉛筆にて「本州に居るもの」とお書きになり、(中略)「蝶蛾鱗粉(りんぷん)転写標本」により
五十種ほどの名称を抜粋し、分類してお書き取りになる》
のちに生物学研究で10冊以上の専門書を著す“科学者天皇”の素地は、この頃から備わっていたようだ。
一方でこんな場面も。
40年2月22日《皇后より御頂戴の大根細工の象の鼻を折り、四肢を切断されたため、
側近の侍女より、動物虐待の悪しきこと、玩具の動物にても醜く壊すことはよろしからずとの申入れを受けられ、
以後はなさざる旨を述べられる》
■素直に反省
当時はまだ5歳。わんぱく盛りでありながら、年長者の言葉には素直に耳を傾ける様子がうかがえる。
同じ頃には、こんなエピソードも記されている。
2月のある日、昭和天皇は巣箱をつくって白鳩を飼ったが、猫にとられてしまった。
すると「鳩の敵を取る」といって、2日間にわたって犯人の猫探しをしたというのだ。
威張るライオンを嫌い、鳩を襲った猫を憎む-。昭和天皇は成人した後も、
暴力で圧するような行為を何よりも嫌った。
sankei.jp.msn.com/life/news/140914/imp14091409510002-n1.htm

本土空襲 焦土と化す日本 深まる苦悩
2014.9.23 14:00
昭和天皇にとって昭和20年3月10日は特別な日となった。
長女の盛厚(もりひろ)王妃成子(しげこ)内親王が男児を出産したのだ。
初孫だった。だが、この日の昭和天皇実録には、その喜びを覆い隠す大きな不幸も記述されている。
《米軍B29戦略爆撃機の攻撃により、下谷区・浅草区・本所区・城東区を始めとして
帝都各地に甚大な被害が発生する》

一夜で10万人以上
東京大空襲。約300機のB29による無差別爆撃により一夜にして10万人以上が犠牲となった。
実録には、成子内親王を診察するため盛厚王の実家の東久邇宮(ひがしくにのみや)邸を訪れていた
天皇の侍医も自宅に残した妻と子供3人を失ったことが記載されている。希望と絶望が、隣り合わせた一日だった。
翌11日、昭和天皇は、無条件での降伏と戦争責任者の処罰以外、全てを戦争終結の条件として考えるようになる。
昭和天皇が空襲によって終戦の意向を固めていったことがうかがえる。
昭和天皇は焦土と化した日本をどう見たのか。空襲から8日後に市街地を視察する場面が記されている。
《御視察の間、沿道の片付けをする軍隊、焼け崩れた工場や家屋の整理に当たる罹災(りさい)民に
御眼を留められ(中略)焦土と化した東京を嘆かれ、関東大震災後の巡視の際よりも今回の方が
遥(はる)かに無残であり、一段と胸が痛む旨の御感想を述べられる》(同年3月18日)

今度は名古屋が
翌19日には、名古屋大空襲の被害状況が昭和天皇の耳に届く。昭和天皇は苦悩を深める。
《(被災地を自身が視察した結果)東京都の被害の大きいことが敵に知れ渡り、
本日未明の名古屋への空襲を招来したにあらずやとの御下問あり》
3月には硫黄島で敗北、沖縄戦が始まっている。米国に奪取された南方の島々から飛び立った米軍機は、
昼夜を問わず日本全土に爆撃を続けた。終戦までに、空襲を受けなかった都道府県はない。
東京大空襲の被災地を巡察した昭和天皇は、次の御製(ぎょせい)を詠んだ。
《戦のわざはひうけし国民(くにたみ)をおもふこころにいでたちてきぬ》(同年3月18日)
sankei.jp.msn.com/life/news/140923/imp14092314000002-n1.htm

議論に影響された靖国参拝
2014.10.11 21:23
昭和50年11月21日、昭和天皇は靖国神社に参拝した。当時の状況を、昭和天皇実録はこう記述する。
《御参拝に対して、日本基督教協議会ほか六団体から宮内庁長官に参拝中止の要望書が提出され、
また野党各党からは反対声明が出された。さらには衆議院議員吉田法晴から
天皇の靖国神社参拝に関する質問主意書が国会に提出されるなど論議を呼んだ。
なお靖国神社への御参拝は、この度が最後となった》
昭和天皇が戦後初めて靖国神社に参拝したのは、終戦から約3カ月後の20年11月20日だ。
しかし、翌年4月の例祭に勅使を派遣しようとしたところ、連合国軍総司令部(GHQ)から
「不適当との意向」が示され、占領期間中は自身の参拝はもちろん勅使の派遣もできなかった。
参拝が復活したのは、独立回復後の27年10月16日から。
だが、今度は国内で政教分離などの議論が起こる。
50年11月の最後の参拝で昭和天皇は「私的参拝」の形をとるが、それでも議論はやまなかった。
昭和天皇はなぜ、靖国神社に参拝しなくなったのか。実録には、いわゆる「富田メモ」についても記された。
《宮内庁長官富田朝彦の拝謁をお受けになる。(中略)靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀(ごうし)、
御参拝について述べられる。なお、平成十八年には、富田長官のメモとされる資料につい
て『日本経済新聞』が報道する》(63年4月28日)
メモには、戦前に日独伊三国同盟を主導し、「A級戦犯」となった松岡洋右外相と白鳥敏夫駐伊大使が
合祀されたことへの不快感が走り書きされていた。しかし、その解釈はさまざまであり、
麗澤大の八木秀次教授は「昭和天皇がこの2人のために246万人もの戦死者を祀(まつ)る靖国神社に
参拝されないということはあり得ない」と指摘する。
確実に言えるのは、昭和天皇が戦没者追悼を何より重んじていたことだ。
吐血して倒れる約1カ月前の63年8月15日、昭和天皇は政府主催の戦没者追悼式に出席。
《公式行事への御臨席はこれが最後》となった。
www.sankei.com/life/news/141011/lif1410110065-n1.html


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産経新聞
昭和天皇の87年