昭和天皇 御巡幸

「手で陛下を見ました」戦後巡幸70年
宮内庁担当 島康彦
2016年5月26日16時00分
目の不自由な少女が、昭和天皇の左手に触れている一枚の写真があります。
1949年6月、宮崎市の宮崎県立盲学校(現・明星視覚支援学校)での場面です。

昭和天皇は1946年2月から54年8月にかけ、全国各地を回りました。
「戦後巡幸」と言われたこの地方訪問は、終戦後、「現人神(あらひとがみ)」から「象徴」になった姿が、
広く知られることになった旅だったともいえます。
その「巡幸」の始まりから今年で70年。冒頭の宮崎訪問も、この旅の一環でした。
「少女」とは、村社(むらこそ)マツ子さん。昨年7月、支援学校で、当時の様子を話してくれました。
小学2年生だった村社さんの教室に、昭和天皇が入ってきました。
「天皇陛下がおいでになりましたよ」
「いらっしゃいませ」
先生の紹介を受け、生徒みんなで元気よくあいさつしました。
「マツ子さん、あなたのすぐそばにいらっしゃますよ」。先生がそう教えてくれたので、
村社さんは立ち上がって「どこです、どこにいらっしゃいますか」と手を差し伸べるように前に出しました。
それが冒頭の写真の場面です。
振り返れば、昭和天皇が体を近づけて触れるようにしてくださったのかもしれません、と村社さんは話していました。
昭和天皇が亡くなった際、村社さんは朝日新聞の取材にコメントを寄せています(89年1月7日付夕刊)。
「あの時、手で陛下を見ました。優しそうなおじさまが、最初の印象でした。
いまは亡き両親の喜びは大変なものでした」
村社さんは闘病の末、今年5月に亡くなりました。病気などでつらいこともありましたが、昭和天皇と交流し、
「しっかり勉強して、立派な人になってください」と言われたことを励みにしてきた、と
取材に話してくれたのを思い出します。

巡幸が始まった46年2月19日。最初の訪問先は、川崎市の昭和電工川崎工場でした。
食糧増産が奨励されていた時代。戦争の空襲で被災したものの、川崎工場はこの時、早くも操業を再開し、
化学肥料を生産していました。
昭和天皇は背広にグレーのコート姿。戦争で事務所が焼けたため、仮設テントで当時の森暁社長から説明を受け、
敷地内を見て回りました。予定外に作業員に近づき、声をかける場面もありました。
工場前に作業服姿で並んでいた15人ほどに次々と話しかけました。
 「何年勤めているか」
 「なにか生活に不自由はないか」
この時のやりとりは後にNHKのラジオで全国放送され、昭和天皇が口にした「あっ、そう」はその後、
流行語になりました。
この日午後には、横浜市西区にあった稲荷台共同宿舎に足を運びました。
西前国民学校の5年生だった石川啓次郎さん(81)は同日朝、先生から昭和天皇の訪問を聞かされました。
授業は午前中で打ち切られたため、弟や友人とともに現場に見に行ったそうです。
寒さの中、一時間ほど待っていると、歩いて近づいてきた昭和天皇が石川さんの前で足を止めました。
 「家は焼けましたか」
 「学用品は焼けなかったか」
石川さんは緊張しながらも必死にこたえたそうです。手のしもやけがひどく、
母親から渡された軍手姿が目にとまったのかもしれない、と話していました。
この模様は翌日の朝日新聞などに掲載されました。石川さんはこの時の様子を児童向け新聞に寄稿しましたが、
全国の子どもから手紙が届くなど大きな反響があったそうです。
「あの時の経験から、その後の人生をしっかり生きなければと思いました」
足かけ8年、3万3千キロに及んだ旅は1954年の北海道で幕を閉じました。
「直接に国民を慰め、あるいは復興への努力を激励したいと思った」
「国民が復興に向け一生懸命働いている姿が印象に残っている」。
1980年の会見で、昭和天皇はそう語っています。
巡幸で訪れたのは46都道府県。沖縄県には足を踏み入れることができませんでした。
1988年4月25日。「健康が回復したならば、なるべく早い時期に訪問したいとの考えは
変わっていない旨を述べられる」。記者会見で、手術のために取りやめた沖縄県行幸について
問われたことについての記述です。「昭和天皇実録」からは、昭和天皇の沖縄へ寄せる思いがうかがえます。
現在の天皇陛下は2003年11月に鹿児島県を訪れ、即位後の全47都道府県訪問を達成しました。
できるだけ国民との距離を縮めようという「平成流」の表れでしょう。
沖縄県には皇太子ご夫妻時代を含めて10回訪れています。(宮内庁担当 島康彦)
http://www.asahi.com/articles/ASJ5P548CJ5PUTIL00T.html

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昭和天皇実録

全国巡幸3万3千キロの8年半 戦後復興、国民とともに 「四万人御身辺に押し寄せ」
2014.9.9 14:18
9日に公表された昭和天皇実録。戦後の記述で特筆すべきものの一つが、
終戦半年後の昭和21年2月から約8年半かけて、戦禍で傷ついた国民を励ました「全国巡幸」だ。
特に盛んだった21~25年は、1年分ごとに1巻が割かれた。詳細な描写は少ないが、
淡々と記された記録を追うだけで、遺族や孤児、傷痍(しょうい)軍人、
外地からの引き揚げ者らと連日向き合い、その傷痕と復興への努力に触れた約3万3千キロの軌跡が浮かぶ。
巡幸は21年2月19日、神奈川県から始まった。工場や戦災者宿舎、大空襲から再建した商店街を回り、
一人一人に「生活状況について御下問」もし、終戦まもない国民と国内の実情に気を配った。
本格化すると、長い時は1カ月近く皇居を離れ、朝から夜までほぼ連日10カ所近くを回った。
戦争に敗れた直後で世情が不安定な中、宮内省(現・宮内庁)は国民ができるだけ近くで
昭和天皇と接することができるようにするため、警備を簡素化した。
22年6月5~7日の大阪府訪問の記述からは、その近さと当時の熱気が伝わる。
「約四万人の市民が御身辺に押し寄せ御歩行不能の状態に」「府庁前に参集の約千五百名からなる
学童合唱団による奉迎歌の奉唱が聞こえてきたため、食事を中断され、再びバルコニーにお出ましの
思召しを示されるも、再度の混乱を憂慮した侍従の願いを容(い)れられ、お取り止めになる」
被爆地も訪ねた。22年12月に広島、24年5月に長崎へ。
広島では「自動車にて原子爆弾の被災中心地に向かわれ」
「車窓より平和の塔越しに元広島産業奨励館(原爆ドーム)を臨まれる」。
当時はまだ原爆投下から2年ほど。被爆した人や戦災孤児らも慰問した。
「戦災者の簡易住宅に眼をとめられ、戦災者の耐乏生活等につき御下問」したり、
時には「雨後泥濘(でいねい)の畦道」を歩いたりと、国民に寄り添った。
収録された御製(ぎょせい、和歌)には、国民への深い思いがにじむ。
 わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ(21年)
 国民(くにたみ)とともにこころをいためつつ帰りこぬ人をただ待ちに待つ(24年)
20年11月29日、謁見した弟宮らに対し、伊勢神宮への終戦報告のため三重、奈良、京都を訪問
(同月12~15日)したことで「国民との近接を図り得たと感じる」との趣旨を述べている。
巡幸はこの体験が原点となったものとみられる。
http://www.sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090914180018-n1.htm

戦後・人間宣言へ:2 群衆4万人、制止へ発砲
2014年10月8日05時00分
全国巡幸
戦災の復興状況を視察するため昭和天皇は1946(昭和21)年2月の神奈川県を振り出しに、
54(昭和29)年8月の北海道まで、米国の施政権下にあった沖縄を除いて全国巡幸を行った。
国民は「人間」天皇に初めて接し、慰めや励ましの言葉をかけられた。
天皇の肉声「あっ、そう」は流行語にさえなった。
47(昭和22)年6月5日、大阪府庁の車寄せに下車。
「約四万人の市民が御身辺に押し寄せ御歩行不能の状態(略)警衛中の米軍第二十五師団のMPが
空に向けて拳銃を二度発砲」という混乱も起きた。
11月27日、鳥取駅では「集まった奉迎者が陸橋を一気にかけ降りたため、なだれ事故が発生し死傷者が出た」。
12月7日、外国人記者も注目した被爆地広島の巡幸中、車窓から原爆ドームをみて、天皇は歌を詠む。
《ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり》
だが、東京裁判で天皇の退位問題が浮上すると占領軍の意向もあり、
49(昭和24)年5月まで、巡幸は中止された。
再開にあたり内閣は、行事の簡素化など経費抑制の通達を出した。
5月30日、熊本。ハンセン病の国立療養所菊池恵楓園の入園者が沿道で歓迎するのを車の中から見た天皇は、
「見舞いたい旨を仰せになる」と急きょ、予定を変更して訪ねる。
51(昭和26)年11月12日、京都大学で学生は反戦歌で天皇を迎え、退出の際も高唱は続いた。
「警察官によって開かれた細い道筋を通られて大学正門を御退出になる」
ノンフィクション作家の保阪正康さんは「巡幸に関しては克明に記述されている。
(宮内庁は)国民と天皇の紐帯(ちゅうたい)が強まり、
この『謝罪旅行』が国民に受け入れられた証明としたいのだろう」とみている。
(上林格)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S11391235.html

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出典不明

引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。
一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。
天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。
人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。
この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。
「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」
シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、
いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、
それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。
天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。